再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 『演劇と教育』2020 5+6月号寄稿文。

『ドラマの眼』

「劇づくり」

 劇をつくるって何だろうか。まず戯曲を選ぶ(台本を書く)、そしてキャストを集め、スタッフを決め、その二次元の世界を具現化し、客席の想像力と共犯関係という契約を結び、繋がる。世界を創り出し、観客にとっての「普通の一日」を「特別な一日」に変えるー
 演劇作品の面白さは、本を読んだ演出の発想に従うのではなく、客席に繋ぐ演出の想像力と俳優の存在感のぶつかりによって決定的になる。そして舞台上に生きる人物が観客の心に痕跡を残す。舞台上で見えているのは、あくまで俳優の身体・行為・言葉の「今」。だから俳優は書かれたことを埋める存在ではなく、心と身体を目一杯費やしてその場を「生む」存在でなければならない。
 その為に創り手はその「見えている」モノの「奥にある」モノに「わからない」モノにチーム全体でとことん向き合う必要がある。稽古場は「自由」にトライできる状態をつくり「可能性」に対して開いておく。正解を求めがちだが、正答なんてクイズにしかないし、客席も時勢の在り方で同じものを繋いだとしても変容するのだから。考え、トライし、エラーを繰り返し乍ら、人物たちの輪郭をつかみ、理解を深め、作品の奥行きを広げていく。簡単ではない、でもそのトライが最後の参加者である観客と繋がる時に豊かな幅をつくる。
 他者との共同作業の中で、役との違い、相手との違い、価値観の違い、文化の違い、互いの理解の違いを埋め、互いを受け容れる努力が求められる。違いに自覚的になり、わからないを楽しみ、無駄かもわからない遠回りを繰り返し、世界を創りあげる。
それが劇づくりだ。
 分断化と対話不全が蔓延る社会において演劇を創るという行為自体が「違いを認め、互いを尊重し、目標に向かう」という今の世界に求められているモノの集合体なのではないか―
と大それたことを思いながら、演劇くらい大それたことを思い切ってやってみよう。〜Play is Play〜その一歩から世界は変えられると信じたい。


2020年05月28日(木)



 その場もしのげない男。。

その場しのぎの男、
この強気の台詞の裏にあるのはなんだろう

確かにここまでの流れを考えれば、
こんな言葉すら指標にしたがる人がいるのかもしれないが、そこまでじゃないだろうと思う時、
これは、未来から照らして現在を見た場合、ということになろうか。
文字だけ追えば、
もちろん、責任は私にあって、批判は真摯に受け止めながら、どうやら50回以上責任を回避している天上人は、その記録も握りつぶさなければ残る筈だけれども、
専門家会議に至っては、
会議のメンバーが某ラジオに出演時には
「今後のために」記録されることも仕方ないと言っていたけれど、記録を残さない。
残されるのは

「素晴らしい日本モデル」の成功
→実際には経済偏重の、実数把握もせず、スピード感という動かない手数、真面目な国民性だけに依拠した後手後手の無策

「我々の」努力
→実際には天上人は、ソファで犬と音楽と戯れていただけ

「世界最大級」の対策
→実際には「ムダノマスク」すら全戸に届いていないという体たらくに加え渋る「民への施し」はもとは「税金」(あるいは未来の)であることを忘れ…

「空前絶後」
…なんの冗談だ
今は現状と照らして、ツッコミの嵐かもしれないが、

安全で出来る!
と言い張った直ぐあとに、中止!×延期◯
科学的根拠はどこにもなく、天上人の精神論で次年度に決定
中止した途端に未曾有の危機がそこに、

すると

北海道知事の英断!ともてはやされた手法の、気分で発令「自粛」「学校休校」

に始まる

2週間毎に「今が山場」がやってきて

首長とは責任のなすりつけ合い

人気が凋落して国民の顔色見た、政策の転換転換転換…

「スピード感を持って」という現場丸投げ

その専門家会議を形骸化させ、後追いで「お墨付」を与えさせるだけにした、専門外の天上人が勝手に決める緩和…

余人に代わるモノなかった人は、あっという間の交代、幕引きが計られる。

もはや、その場すらしのげていない…


…強く大きい言葉だけを残してはダメだ。
未来から見た今を書き換えさせてはいけない。(たとえそれが未来の人たちにとって、この時この人たちは、この事態に何にもしなかったの?とか嘲笑れそうでもあるけど)
僕らが思ったことすら、無かったことにされる。
そんなことなかろと思いたいけど、いやいや、ことはもっと深刻だ。
実際に過去を都合で塗り替えようとしてきた人たちだ、
未来に照らして、都合の悪い部分を今のうちから「無かったこと」にするなど造作ない。
それでも、お疲れ様!といおう!なんて言葉も蔓延る。こんな状況になって日本人の如何に自警的な正義感が蔓延するかは戦前戦中の如きだし、
挙句コロナとの戦争とまで言って「敵」を作り出す人もいる。
そんな世の中の方が、コロナより実はずっと恐ろしいのだ。

こんな時に僕らはなにができる。

集えず
唾を飛ばせず
接触できず

両の手足をもがれたような状況で、
世に問う作品を生み出すこともできないでいる。(もちろん、ZOOMやらを使ってオンラインで新しい表現を模索したりはするが)生活と活動を補償しろと叫ぶのはいい。でも、それだけではダメだ。
だからこそ「今」何を考えているかが、何をするかが、その本分と共に試されている。


無策からの経済復帰、日常(しかも新しい様式らしい)の復活、
僕らの作品づくりも始まることにるだろう。
はて、どんなことになることやら…


2020年05月25日(月)
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