再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 スターダス・21俳優クラス『人形の家』パンフ掲載文

演出の戯言

140年前に書かれたこのホン。
モチロン社会状況もあるので、全てにおいて、とゆうわけではないのだが、何と『今』とゆう時代に突き刺さるのだろう、上質なフィクションは真実を捉える。稽古場は発見を繰り返しながら、しかし、その普遍性だけに演じる大変さ、難しさ、そして、……楽しさ。

人が人であることの一つ、
考えることができること。

表現主でありたいならば、
今の自分が、今日の自分が何をするかが、
未来の自分を確実に造っている。
サボリがちな自分に「考える」こと、「行動に起こす」能力が試されている。(演技とは役の行動でもあるのだから)
現在とゆう時間で共有される客席との出逢いがある限り、表現するに終わりはない。
昨日上手く手を結びあえたら、もっといい結び方があるのではないかと模索するし、
今日役の何かを掴んだら、もっと深まる人物であることと同義でまた模索するし、
明日、いい芝居ができたら、明後日は明日のいい芝居では満足がいかなくなる。考える。正に終わりがない(笑)

そして役においても、普段においても
変化をくれるのは、他人(相手)である。
だから他人を受け容れる準備、寛容さもなくてはいけないし、でも他人との関わりは面倒でもある。
いつでも忘れていけないのは、自分も相手にとって変化を与えられる他人(相手)である、とゆうことだ。セリフだって感情や役を説明する為にあるんじゃない、相手の、観ている人の「心を動かす」ためにあるのだ。

出たり出なかったり、くさったりよみがえったり、文句言ったり言われたり、塞いだり開いたり、傷ついたり傷つけたり、ヒトを頼ったり頼られたり、万能感でいっぱいになったり無力感に苛まれたり、やらない言い訳が上手になったり言い訳無用と片付けられたり、泣いたり笑ったり、
『人形の家』なんて名作と対峙し続けた4ヶ月の時間に嘘はない。人間の業と出逢って七転八倒したこの1年近くの時間。

役と出逢い、他人と出逢い、考え、ぶつかり、自分の中で培われたものたちが上手く芽吹き、カクシンを持って相手との交流の中でいい化学反応を起こせますように。

本日は足下の悪い中、ご来場ありがとうございます。
少し長い旅ですが、
どうか最後までお付き合いください。
そして終わった後に見える風景が少し違っていたら、嬉しく思います。

藤井ごう

2019年02月11日(月)



 『おい乱』当日パンフレット掲載文。。。

演出の戯言

足利との縁は、気づくと13年と少しの付き合いになった。
演劇大学1年目にアングラ『胸騒ぎの放課後』(2006)で老若男女問わずミーんな小学生に。
6年経ってプラザの30周年企画で、国の横暴と闘わざるを得なくなる女たちを中心に人間の尊厳を描いた『谷間の女たち』(2012)を演りきり、
そして今回、アマプロ混じって、遂に、書き下ろし。
書いては書き直しの、繰り返し。
言ってはみたものの、世界を描く、人間を描くって、そんなに生易しいものじゃない。
途中途中、折れそうな心を見せながら、
でも、ここまで来た。
『戯曲で遊ぼう』WS(2010)をして、本を描いてみた頃から思えば、遠くへ来たものだ。

全員に見せ場を設けて、そこで全力で生きてもらいたいと願う。これは作家の愛だ。
演者は、でもその足りない部分を補完して有り余る人物に育てる。これも愛。
そしてこちらも、アマチュアさんは、仕事を持っているため、どうしても集まりが悪くなる。もちろんプロもそう来足利は叶わない。その事を分かった上で、参加する意思を持った全員が参画しないと出来ない舞台にする事にした。
これはムチ。もっと大きなものを創れる。可能性に蓋をせず、まだ見たことのない景色を望む。
その選択が大きな流れを生むと信じている。

あとは最後に出かけてきて観てくださるお客様の参加。想像力をお借りして、共犯関係を結び、お祭はこの日この時この場所にしか見られない大輪の花を咲かせる。

土地と人の繋がりが、
また新たに人を呼んでくる。
中心に皆の顔がある。
これを、豊か、と呼ぶんじゃないかと思う。
様々な現場のわがままに対応してくださった足利市民プラザ始め関わった全ての方々に感謝します。

本日はご来場ありがとうございます、
最後までごゆっくりお楽しみください。

藤井ごう

2019年01月14日(月)
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