再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 青年劇場『島』大千穐楽。。

「島」大千穐楽。
浜北文化センター。
静岡初日近辺に観て、最後をやっと。
オープニングから観たかったけれど、前件があって、二幕途中から駆け込む。
自分の仕事のターニングポイントだった作品。
演出とゆう意味が自分の中で大きく動いた作品。
8年かけて(とはいえ初演は3・11より前で、四年たっての旅立ちだったわけだけど)現場で積み上げた集大成、また20数ステージの客席と出会って、どうなったのか、感慨のようなものがドッとやってくるのか…
とも思っていたのだけれど、実際は
終わり。とゆうよりは、
終わらなかった、やっぱり。
だった。

全体が作品の質を識り、
最後だからもあって、余計なこと抜きに同じ方向を見て積み上げる折り重なる確信、太さ。

それでも観ながら思うのは、ダメ書きをしないだけで、ここはこう、あそこはこう、そしたらもっとこう。次のステージの事に頭がいく。
もっと面白くなる。

結局「島」は初演で到達させることのできなかった地点、その「もっと先」の地点に8年経って漸く来て、そこまで来たら、やっぱり「もっと先」があるのだと知った。
不条理劇みたい。
でもきっとこれをモノづくりと呼ぶのですね。

もういいよとなって終わるのか、
惜しまれながら終わるのか、
そりゃあ後者の方がいいとは思いながら、
この確信の中でどうして終わるのかなぁ。。
まあでも、
9年前の初動から関わってくださった全ての方々に感謝します。
今でも忘れない初演初日の静謐につつまれたサザンシアターから数えて136ステージ。
もっと密度が濃く、それ以上の回数やっている印象がありますが、ステージを観てくださった皆さま、ありがとうございました。

堀田清美様
「島」は皆様の手によって生まれ
皆様の手によって育まれ
やっとここまで来ました
ここまで来ても
世の中はどうも学が描いた方向とは違う方へ方へと流れていきます
まだまだこの作品の力が
堀田さんの強い思いが必要な時代です
また近いうちに

感謝


2018年11月28日(水)



 『島』2018年版チラシ掲載文。

『島と現在』から『現在の島』へ  
藤井ごう

 「わしらが白髪の爺さんになる頃には、この地球上も大分様子が変わっとるよの。それ迄一粒一粒、種を大事に蒔いて生きるんよの。―その時は、人類に貢献した言うんで」

被爆者である栗原学の劇中(1951年)の台詞ー
青年劇場での初演時(2010年)、
楽観できる事など実は何もなかった訳だが、それでもあの時はまだ3.11も起こっておらず、まだ一応神話は神話の体をギリギリ保っていて、世の風潮もここまでセンソウがカクジツに迫っている況ではなかった。
初演から『島』は8年目の旅へと出る。
元米大統領のレキシ的訪問を経ても、核なき世界への流れは新大統領の下で追求されることはなく、唯一のセンソウ被爆国はカクゴをするどころか、とうの昔からその事にイロンを唱えていたとゆう体たらくー
僕ら舞台の作り手は、非力であることを思い知らされる日常が続いている。
学、そして作者堀田氏の思いとも確実に異なる『現在』がある。
その事をどう考えようかー

2010年にこの作品が産声を上げた時とは違う意味が生まれ、受け取られ方も大きく変わり多くの出逢いの場を得てきた。それは喜ぶべきことなのだが、この作品が求められる世になってしまったとも言えるのだ。

でもだからこそ、わかりやすい言葉、わかりやすい敵、大きい声、外国ではこうである的な常識に囚われることなく、こうやって生きてきた人物たちの思いを苦しみを喜びを、現在の都合で 「なかったこと」になどしないように、何度でもコトバに耳をすませ、ココロに寄り添う。

想像力が経験を栄養とするならば、学らの経験と選択は、今正に必要とされる想像力の基礎となるはずである。

舞台上にいつも通り人物たちを現出させようー
人間の未来の為に あなた自身の為に

作者の願いと共に、『生』という事の意味が大きく僕らに迫っている。

2018年11月27日(火)
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