ジンジャーエール湖畔・於
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| 2002年06月18日(火) |
ペイパードライヴァ−ズミュージック |
ドライブの・ようなものをする。 世の中の女子たちがドライブを好むわけがやっと私にもわかった。 私は、他の人が当たり前にやっていること、普通に感じることを、 見過ごしてしまう傾向がある。 だいぶ間が経ってから、やっと合点がいく人間だ。 それはドライブしかり。 ドライブなんて小さい頃から何度となくしたことがあるし、 男の子の運転する助手席にだって経験はある。 首都高速からみる東京タワーの美しさや浅草のアサヒビールのビルの 巨大うんちっぽさも知っていたはずだ。 なのに何故、今になってやっと自分がその感覚を好むことが わかったのだろう。 (隣にいる男の人にドキドキしてるからじゃないと思う) そういう自分の愚鈍さが不思議でならない。
カーステレオで聴くのは専らキリンジ。
以前に、ナンシー関は「ナンシーせき」ではなく 「ナンシーぜき」なのでは。と書いたがどうも深読みにすぎなかったようだ。 ナンシー関の急死の記事でそのことがわかった。 やはり普通に本名の”関直美”からとっただけのことだった。 最近、意外な人の訃報が続く。 ナンシーのコラムをもう読めないのはとっても寂しい。 噂の真相を立ち読みする時の楽しみだった。 渡部篤郎を好きだと公言する女が、一方で加藤晴彦も好んでる、 という指摘にはポンと膝をたたいて大納得。 なぜなら、本当にそういう人が周りにいたから。 ナンシーの恐ろしい観察眼を改めて実感した。
ちなみにまだまだ大丈夫だとは思うが、私はタモリを毎日見れるこの 時代にいることをとてもラッキーだと思ってる。 テレビでは初期の頃のような毒気がないといわれているが、 それでもテレビのタモリが好きだ。(それしか知らないし) タモリのCDももってるんだぜ。 なのに、 「最近、もうアレ(揚げパン)一個喰えない・・・」と呟くタモをみると 心配になる。御飯も一膳食べれないのだそうな。 おじいさん、なんよ。 タモリが日本のお昼からいなくなってしまったらどんなにか空虚感が あることだろう。 みんな!もっとタモリを有り難がろう。 いくら「いいとも!」がつまんなくてもこれでいいんです。
| 2002年06月11日(火) |
いでよ、ジーグムント。響け、電気釜。 |
朝、未だかつてないくらい怖い夢で目が醒めた。 父親が、私の宝物みたいに大事にしている猫を殺してしまうのだ。 頭をパックリと割られてグタッと横たわっている猫。 泣き叫び父を責める私達を、いかにも大儀そうに対処するマーダ−父。 ヤイノヤイノ言う母を刺して黙らせてしまう。 次には、錯乱して暴れる私をフォークで仕留めようと狙うそぶり。 小さな部屋でドタバタ追いかけっこ。 なぜかちょっと楽しそうな父。 ジャック・ニコルソンよろしくレッドラム状態。 ただし予算の関係で、島崎俊郎(に似ているの父)主演の「シャイニング」という感じ。 しかし結局私によって果物ナイフで返り討ち。 猫と母を失った悲しみと怒りで父を何度も何度もグサグサに。
と、そこで目が醒めた。 時計をみるとあと15分で家をでる時間だった。寝過ごした。 慌てて飛びおき自室をでると すわって新聞を読んでいる父がいた。 私はなんだか、夢のつづきみたいで恐ろしくて声も出せなかった。
しかし、こんなに簡潔な夢みっちゃっても、という感じ。 心理学とか無意識領域がどうたらとかそういう理論に解釈を求めるならば、 あまりに象徴的な、というか直接的な夢すぎて逆に解釈が 難しくなりはしないのかしら。 でも本当にこんなベタな父親殺しの夢を今更みてしまったのだから 仕方がない。 それでも、この年までたいした反抗期とか父親への嫌悪などなく きていたので(他の家庭よりひどい父娘関係なのに、ううん、違う。 「ひどい父娘関係」というか最初っから関係すら築かれてはいないんだけど。)こういう思春期の自我に苦しむ若者、みたいな夢みれて ちょっと口の端、にやり。
| 2002年06月08日(土) |
無印のバナナチップ喰わえてはしりゃボクサー腰砕け |
運動不足が原因の一端である肩こりの解消をねらってボクシングへ。 しかし、基本のステップで大いにつまづく。 そういえば、私は昔からダンスとか振りとか自分の身体を細かく コントロールするのが下手だった。 球技とかはそんなに駄目でもないんだけど、とにかく振りが駄目。 創作ダンスでは級友に「違う!この足っ(バシッ)」と怒られていた。 ボクシングも駄目かも。 基本の姿勢を上手く作れないのだ。ファイティングポーズ。 少しして自分では上達したつもりで、鏡のまえで一発ジャブかましてみた。 ・・・全ッ然、ダメ。なに、これ。ブザマ。 それからは、なるべく鏡を見ないようにして練習した。 初心者コースの他のみんなは、パッと見にはボクサーっぽく振る舞えてるというのに。 気づけば、女、私一人。 なんだか場違い感がプンプンしてることにようやく気づく。 自分では汗臭い男の世界の住人に同化していたつもりだったのだけれど。 それ故に余計に痛々しいものがある。 男ぶるも所詮の女。ガールファイトにすらなれない。 (オチ無し。)
夜テレビでなぜかMr.ビーンやっていた。 なにげなくチラと観たら、涙を流して笑ってしまった。 数年前、ビーンが日本で人気が出はじめた時、しきりに 「ビーンを以前から面白いと言っていたのは自分だ!」 と先見の明をアピールしていたのは、田代まさしだ。 しかし、私はビーンを正々堂々と面白い!と言える人間になりたい。 番組が終わる十時半近くなると気もそぞろになった。 モア ビーン!あい ウォント ビーン! このままずっと、永遠に終わらないで、ビーン。 このまま永遠にMr.ビーンを観つづけ笑いながらそのまま死にたい とすら思った。
| 2002年06月05日(水) |
シャボンまみれの猫が逃げだす午下がり永遠なんてどこにもないさ |
久方ぶりにマイ・スウィ−ト・エンジェル『ぷーチャン』をお風呂で ジャブジャブ。猫は濡れると、普段の三分のニの小ささになってしまう。 フロ嫌いの猫を洗いながらも、いつもより小さくなっちゃった彼の 可憐さにしばし呆気にとられる。毎度のこと。 私の仕事はいつでも乱暴だ。しかし、猫のお風呂に限って我が家では 完全に私の仕事になっている。 フロ嫌いの猫は、洗ってる最中も散々暴れまくり、聞いたこともないような 凄まじい声をあげる。 母では、そんな様子をみかねて早々に切り上げてしまい、結局ちっとも 洗えてないからだ。猫にとっては同じ厭な思いをするなら多少乱暴でも 確実にきれいにしてくれる私に洗ってもらった方がいいだろうという母の 考えである。 母とちがって私ときたら、猫がどんなに暴れようと喚こうと、まったく気にせず、猫の美しさにうっとりしながら目的を遂行する度胸がある。 (度胸というか、ただ意地悪なだけなんだけど。) どうにか逃れようと暴れる猫を執拗に洗いだす私。 まるで、いやがる美女を無理矢理実験台にのせて微笑むマッドサイエンティストのごとく。 洗った後の猫はいつもぐったり。半日は起きない。 散々暴れ叫び毛づくろいもせいせいして疲れて眠ってしまうのである。
| 2002年06月03日(月) |
オンマキャロニキャソワカ |
友人が手伝ってる劇団・水族館劇場をみにいく。 駒込大観音がある光源寺の境内を借りたテントでの野外劇。 オープニングに境内での大道芸あり。 芝居の内容は、わけわかんなかった。 途中からは筋を追う努力すらしませんでした。 昔みたいなアングラっぽいのがやりたいのねーっと思いました。 舞台美術や装置がとにかく凄かった。 水がいたるところに使われていて、一回の公演でプール一杯分だという。 もち客席にもかかってきてて、それでも最前列のお客さんは嬉々としてビニールをかぶっていた。それが可笑しかった。 役者もびしょびしょになって演技している。 水の中に突き落とされてたっけ。 あーあ、いいなぁ。酔生夢死で。
| 2002年06月02日(日) |
Le enfer aux petit fille(フランス少女地獄) |
「フェリックスとローラ」(監督パトリス・ルコント)を観た。 映画史を彩る数々のローラという名の女性の典型であるファムファタール に系譜をもつシャルロット・ゲンズブール演じるローラであった。 しかし何をまた今更といった感じもあり、新鮮味に欠け、退屈だなあ・・・ と思って観ていた。その宿命の女っぷりは手垢がつきすぎていた。 例えばこんな具合に。(以下、ネタバレ) 皆で談笑してたところを突然血相をかえて席を立ってしまうローラ。 心配になって追い掛けてきたフェリックスに 「私、逃げるわ」と訳のわからぬことをいう。 何処へ?問うと「わからない」と更に謎の発言。 そしてフェリックスに突然のキス!そして逃亡。ひとり残され呆然と佇むフェリックス。 それ以来プッツリ姿を消してしまった彼女へ思いを募らせる。 こんな調子でみすてりあすな女ローラの虜となる。 しかし、彼が彼女の為に殺人を犯そうとした時、彼女は衝撃の告白をする。 私はずっと嘘をついていた、と。 自分が話した不幸な生い立ちや、子供がいるだとか、前の夫がどうだとか、 すべて嘘。作り話だった。 全然普通の家庭に育ち、子供も夫もいない。 劇的なことがなんにもない自分に自信がなく、わざと訳ありな風を装って 貴方の気を惹きたかった。 そうして私は自分を演出していただけなのだ。 (まるで夢野久作の「少女地獄」の姫草ユリ子のように!)と告白する。 ファムファタールの敗北。ともいえる急展開。 実はこの映画、凡百なファムファタール映画をメタ化させたものであったのだ。ファムファタールもポストモダンするのかー。 そうすると前半のベタなファムファタも合点がゆく。 舞台となっている移動遊園地に象徴されるように幻想的だった二人の恋。 それが、彼女の告白で、現実的なリアルなものへと変換される。 謎の女ローラはついにフェリックスの前に正体を晒す。 がしかし、そこにはなんにもなかった。 イミシンな彼女の言動の裏にはなにも意味などなかったのだ。 そんな彼女をフェリックスは怒りもせず、がっかりしたりもせず、 「ずっと歩き続ければいいさ」と全肯定する。 それによってローラはやっと孤独という病から解放されるのだ。 Fin
このことは何もフェリックスとローラに限らず、多くの恋人たちにも言えることなのではないか。相手にもっていた理想や幻想が解けた時、 はじめて二人はまともに向き合えるのだと思う。 最後はハッピイエンドなわけだが、私はいつもこういう恋人達が 手に手をとりあって歩いていくイメージのラストに弱い。 「ハッピーエンドの恋人達」よりも「別れる恋人達」の方ドラマティックで 悲劇的かもしれない。 けれど「別れる恋人達」のそういったせつなさは一瞬のもの。 別れた時点で二人の未来はなく、終わってしまう。 それがせつなさの理由だろう。 逆に「ハッピーエンドの恋人達」は、映画が終わった後も観客の中では 二人の関係は続いている。 映画のなかの恋人達とはいえ永遠なんてものはないんだから映画の後で 二人はきっといつか別れてしまうのだろうと思う。 (なんて勝手で深読みでネガティブな映画の見方) 「ハッピーエンドの恋人達」が内包している別れにグッとくるのです。 例えば、「洲崎パラダイス赤信号」(川島雄三)「小さな恋の物語」「橋の上の娘」とか、ハッピーエンドの二人エトセトラ。 あと、誰も知らないとは思うんだけど、おフランスホラーの監督、ジャン・ローランの「猟奇殺人の夜」(こんなタイトルなのになんにもちっとも猟奇的なことなんてないのよん)という作品。 廃人になった彼女と彼女を救おうとして銃に撃たれ今にも倒れそうな男、その二人が手をつないで彼方へとユラユラ歩いてゆくシーンは、”手に手をとる恋人たち”に私がみるせつなさ、みたいなものをもっともよく体現している気がする。映画自体はやたらめったら耽美だし説得力もないんだけど、このシーンが素敵すぎてちょっと捨てておけない作品で。てゆーか、大好きです! ジャン・ローラン監督の映画は他にも「リビング・デッド・ガール」という ゾンビ物みたけどこれも過剰な耽美主義と遠慮ない鮮血に溢れてました。
| 2002年05月16日(木) |
空飛ぶ円盤に弟が乗ったらば あとにゃススキが揺れるだけ |
先の信号が青だった。 自転車立ちこぎで思いっきりとばす。 あ!点滅してる。あ!赤になっちゃった。 でも、スピードは頑として緩めるつもりはない。 どうしても私は今!ナウ!渡りたひ! 信号待ちなんて糞食らえ!(んま、お下品なッ) 車の方の信号が赤から青に変わるまでのあいだに渡るのだ。 しかし、その微妙な時間差を読みちがえ、車側の信号が青になった時 私とTALTAT(自転車)は既に飛び出していた。 ギリギリのところで車が止まる。 私はあやうく轢かれそうだった。 死の恐怖でしばし呆然。 でもでもなんとか生きております。僕の血潮を透かしてみる。 しかし、思い出すのは小学校の時に流行った心霊写真の本。 妖しげな霊能者がいちいちコメントを寄せている。 遊園地かなんかで無邪気にはしゃぐ子供たちのうしろの不気味な影を指して、 「これは、彼らがあまりにも楽しそうだったから霊の方も つられて寄ってきてしまったのね、 幸せそうな彼らに嫉妬してるんですねー」 などともっともらしく解説しているよくある、あの本。 「この霊は浮遊霊といって低級の霊です。自分がもう死んでいるという ことに気づかないでこうしていつまでも世界を彷徨っているのです。 誰かに自分に気づいて欲しいのです。」 というコメントにゾォオオ〜ッとし、心底震えあがった。 ”誰にも気づかれずいつまでも彷徨ってる!” というのが世にも恐ろしいことだと思った。
夜、蒲団の中でその心霊写真のことを思い出しその浮遊霊の寂しさに怯えた。 虚空である天井にむかって 「あなたは既に死んでいます。どうか成仏してください。」 つぶやき浮遊霊との交信を行なった(つもり)。 自分にはみえないけれど、気づかないだけでそこらへんに 霊がいるんだろうと信じたからだ。
話は戻って。さっきみたく危機一髪なことがあると、 助かったとしても、そういった幼少時からの刷り込みがあるから なんとなく心中に不安を残してしまう。
”もしかして、ワタシ死んでるんじゃないかなぁ・・・”
心霊写真の浮遊霊たちが、自分たちを生きていると思っているように。 今、ここで、はっきりさせとかないと浮遊霊! そうしないと永遠に彷徨うんだ!永久の孤独!! 気づかなきゃ、私は幽霊なのか、だったら、気づかなきゃ。 成仏しなきゃ。 丁度あたりはたそがれ(誰ソ彼)時。我と彼ともわからぬ時刻。 夕暮れが照らす「何者か」と問う私と歪んだ自転車。 電柱には”赤面症・どもり等でお悩みの方”という張り紙。 そんな文字に思いを託してみようと逡巡してしばしウロウロ。 ねえ、誰か教えて。 わたし、生きてる?
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「ねぇねぇ、よっちゃん知ってる?」 「んー?」 「さっき2組の増ピーから聞いたんだけどね、」 「なァに?」 「3丁目の郵便局の前の信号、『デル』らしいよ、」 「『デル』って?」 「女の幽霊が」 「まーじぃー?あたしあそこ帰り道なんだけど!」 「会うと必ず『教えて。わたし、生きてる?』って聞いてくるんだって!」
| 2002年05月12日(日) |
謎が謎よぶ恋の薔薇薔薇殺人事件 |
デパ地下のケーキ屋のショウケースに不気味な、いかんともしがたい グロテステスクなケーキを発見。 平和な日曜日に。それもよりによって母の日に。 まさに各家庭で感動的な思い出が生み出されるであろうそんなよき日に、 家族や恋人たちでごった返しているデパートの地下、 人を幸せな気分にさせる属性をもつ甘い物が色とりどりに個性を競い合う 洋菓子売り場、それはひっそりと佇んでいた。 テラテラと光る赤い液体をしたたらせ、 タルトの上にちょこんとご鎮座ましましている。 あの皺の寄り具合、ふっくらとした白子のような質感、 上にかけられた鮮血のような真っ赤な液体。 まるで・・・ まるで脳味噌ではないか!
脳味噌ケーキ。いや、脳味噌タルト。 おい、そこのなめらかプリンを買い占めているお嬢さんよ。 君は脳味噌がタルトの上にのせられて洋菓子として売られている というこの恐るべき事実に気づいているのか?・・・いないのか? ちょっと、そこの奥さん。 RF−1でサーモンとカマンベールチーズのマリネなんて買っている場合 ではないぞ!おいっ、聞いているのかね、キミ、ちょっと!! これは一体・・・ 人々は皆、こんなケーキの存在に無頓着だ。 で、一体だれの脳味噌なのだね?板さん。 問うたところ板さんビックリ仰天。 「あっしは無罪でごぜえます。ただのパテシエでごぜぇますよ、旦那」 ふむ。パテシエというのは随分聞き慣れない言葉である。 そんな言葉を持ち出してとぼけてみせている。 完全に私を愚弄しているのだな。 しかし、私にはわかっている。江戸川乱歩を愛読していたお陰だ。 乱歩の小説ではしばしば、白昼堂々大衆の目前で凶行が行なわれる。 それは人体切断ショーの見世物小屋であったり、累々とつらなった 死体や殺人現場を模した悪趣味な鑞人形館だったり。 そういった残酷を売り物とした虚構が演出された場面では、 どんなにむごたらしい事が起ころうとも、人はそれを現実世界の出来事と 考えづらい。 人体切断ショーで本当に人間が胴体を切断されようとも、 鑞人形館に苦痛に顔をゆがめた死体の人形のなかに本物の死体が紛れていようとも、残酷を演出された虚構の世界ではそこによもや現実世界のものが 闖入していようとは考えまい。
今回の脳味噌ケーキもそれと同じ手法であるに違いない。 脳味噌がデコレートされたお菓子なんてあるわけがない。 そういう人々の盲点をついた犯行なのだ。
『名探偵は二度死ぬ』
かくして暴かれた脳味噌ケーキの犯罪。 しかし、弘法も筆の誤り。 それゆえ、河童の川流れ。 されど、猿も木から落ちる。 しかるに、豚もおだてりゃ木に登る。 (仲間はずれを探せ!)
彼が信じた脳味噌ケーキの謎、意を決した小林少女の試食により ただのムースであったことが発覚。 板さん曰く、 「これは、あっしが考えました母の日にちなんで カーネーションをかたちどったものでござんす。 えっへへ、すこーし不格好になってしめぇましたがね。」 これには、さすがの名探偵もカックン。 広げた大風呂敷畳むに恥ずかしいやらなにやら。 今までの数々の功績を生み出してきた名探偵も今回ばかりは勇み足。 完全なる敗北であります。 「いかん、怪人二十一面相との約束が・・・」 とそしらぬ顔で小林少女を引き連れて足早に去ってゆきましたとさ。 その後の名探偵はといえば、 神楽坂の自宅からバスに乗って飯田橋のハローワークへ 通う日々だとかなんとか。 いずれにしても、小説は事実よりもベージュ(生成=奇なり)であります。
=================================== 本当にあたしゃ見たんだよ、あんた。 こんなへんなグロテスクケーキを。 それでこんな空想。 まったく陳腐な発想で相済みません。 私の脳味噌こそ、カーネーションなんじゃないだろか。 プンプン!!
| 2002年05月04日(土) |
故郷の訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し |
寺山修司の命日。 毎年恒例となっていた昭和精吾さんの「われに五月を」を観に 初台ドアーズ(奈良美智の絵がいたるところに・・・???)へ。 ゲストは三上寛。豪華な夕べ!
一緒に行った友人が寺山ファン美人説をポツリ。 私の経験からはどーしても首をかしげざるを得ないんだけどな。 ふと、昔にスタジオヴォイスかなんかでみた 「澁澤系少女のルックスの悪さ」についてのコラムを思い出した。 それは”ブス→男から愛されない→性体験不可能の受け皿=知的ポルノグラフィーとしての澁澤龍彦愛好”という図式によって説明されるている。 しかしそれも以前のことで、今の澁澤愛好者は逆にルックスがよいそう。 というのは今はブスでも性的充足が得られる時代(テレクラ、出会い系サイト)になったからだという。シブサワが担っていたものの負担はレディコミや女性向けポルノの出現によって肩代わりできるものとなった。 それに加えて、そうした性や変態性への興味を誰もがオープンになったでシブサワ的なものが多くの人々に拡大し「一億総澁澤化」している。 一方で、ブスとは反対にシブサワ的世界のような美形(金子國義の絵とかベルメールの人形だとか)がシブサワ的なモノに触れ、自らの身体をアートとして扱うことに目覚めたことで、シブサワ支持者のルックス向上という 逆転がおこったのだそう。 テラヤマ系とシブサワ系を結びつけるのはけっこう強引な気もだけど、 ジャンルとしては一緒だと思うので。 てゆーかわたし自身は寺山ファン美人説ぜんぜんフに落ちないんだけどさ。 寺山ファン自体わりと多いもんだから必然的に美人の割合も増えた だけでは? 寺山修司が好きってことはわりと前衛的なものが好きってことにもなるから (当時は前衛だったのかもしれないけど、今では多くの寺山チルドレンの 功績によりそんなに奇抜ってかんじでもないかも。現代って”なんでもあり”でしょ?)だから、奇抜な美人っていうのは普通の美人より目を惹くから、 美人が多い!みたく思うのかも。 その場合ブスが目に入って無いというか。 いろいろ考えると面白い。 とかいってかやの外みたくいいたい放題のわたしは ブスとか人様のこといえたもんじゃないです。はい。
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