| 2016年10月23日(日) |
遍路三日目:伊予北条まで |
朝7時からの朝食を済ませて松山ユースホステルを出発すると、遍路道は有名な道後温泉本館をぐるっと迂回して西に向かって松山市内に入っていきます。道後温泉は随分昔倉敷勤務時代に一回来たことがありお風呂にも入りました。今回は全くの素通りです。道後温泉本館は朝6時から入浴可能で、この朝風呂に入るために便利な本館近くの宿が人気があるようです。朝一番のお風呂はさぞ気持ちの良いものでしょう。朝風呂帰りの浴衣を着た数人の観光客とすれ違いました。
道後温泉本館は平成27年松山国体終了後に改修工事に入るとのことです。温泉施設営業は工事中も継続することになったようですが、観光客に人気のある有名な本館の外観は全てフェンスで覆われてしまうようです。それに備えて現在近代的な「椿の湯」の別棟として昔の建物様式を再現した「湯屋」という施設を建設中です。松山にとって道後温泉は観光の目玉なのです。
遍路道は松山市中心部には入らずに右折して国道196号線に入って今治方面に北上していきます。幹線道路を通過していくので、沿線にホームセンタがあったら破れたカッパの代わりを購入しようとホームセンタを探しながら歩きました。そしてホームセンタを見つけ、代わりのポンチョを買うことができたのですが、曲がるべき交差点を随分通り越して直進して進んでいたことが分かりました。通り掛かりの住民の方に大まかな方向を聞いて田園を突っ切って本来の遍路道に出ることができました。その近辺には大きな建物が無く遠くからでも目立つ「松山北中学」をめざして歩けというアドバイスは的確なものでした。
背の低い小山をぐるっと迂回すると第52番札所の太山寺の一ノ門が見えてきました。時刻は11時30分で道後温泉からは約10Km歩いたことになります。一ノ門から太山寺本堂まではまだ随分距離があります。一ノ門から山門まで随分距離がある参道が続いています。太山寺本堂は国宝に指定されていて屋根瓦が見事な建物でした。この太山寺に比べて次の53番札所の円明寺は随分庶民的な印象の寺院でした。円明寺では「愛知の佐藤さん」と再会しました。愛知の佐藤さんは円明寺の直ぐ近くに「JR伊予わけ駅」があるので、次の札所付近までJRで移動すると言っていました。
円明寺を過ぎると遍路道は海岸線近くを通って行きます。久万高原以来山道が多かったので海岸を通る遍路道は最初はとても新鮮な感じがしました。しかしずっと続く海の風景は非常に単調なものです。「愛知の佐藤」さんが言っていましたが、距離のある単調な道は一回歩けば十分で二回目は公共交通機関で移動すると日数もお金も節約して回ることができるようです。
この海岸沿いには山側を国道196号線がそしてJR予讃線が走り、一番海側を旧街道の県道347号線が走っています。伊予北条の少し手前の「西の下」という地区に「高浜虚子」の胸像と小さな太子堂がありました。虚子は幼少の頃の数年間をこの「西の下」で過ごしていて、松山に戻ったときには必ずと言っていいほど「西の下」を訪れたのだそうです。其の太子堂には「遍路の墓」があり、幼少の虚子には「歩き遍路」のことや「歩き遍路」が途中で命を落とす話が印象に残ったようです。
この太子堂の近くに「虚子生家の碑」が建っています。その隣の家の人が偶々道に出ていらっしゃたので「虚子がお隣で生まれたのですね」と尋ねてみると、「そうではなくて虚子が帰省中にこの辺りに来た時に偶々用足しに寄っただけの場所だよ」という回答が返ってきました。
伊予北条の宿(シーパまこと)に着いたのが3時過ぎだったので、荷物を預かってもらって「先取り」して歩くことにしました。この北条から遍路道は海から離れて山越えし、JRは海岸を走って行きます。そして「JR伊予浅海駅」で再び遍路道はJR駅にぶつかります。約4Km程の山道の遍路道を歩き帰りはJRで戻って来ることにしました。
山間部の旧遍路道はやはり趣があります。夕方陽が傾いた時分に殆ど人通りのない田舎の遍路道を歩くときの気持ちはとても複雑です。午前7時頃から歩いているのですから身体は相当疲れています。一方で「良く歩いた」という充実感はあります。一方で何故自分がこの夕方にこんな寂しい山道を独りで歩いているのだろうかという自問が絶えず去来します。更に宿に着いてからの入浴・晩御飯への期待がどんどん膨らんでいくのです。
今日の宿は伊予北条にある「シーパまこと」。大規模温泉施設に宿泊施設を同居させたような宿です。更に各部屋のは温泉を引いた内風呂が付いています。ウィークデアイでは「歩き遍路特別価格(5940円)」が設定されています。この日は日曜日だったのですが、部屋が空いていたので「歩き遍路特別価格」を利用させていただきました。温泉施設に入り放題で2食付きですから遍路には非常に有難い宿です。フロント脇に洗濯機・乾燥機が設置されたので更に利便になりました。
「温泉施設」は大賑わいでした。ジェットバスに長時間浸かって疲れた足のマッサージをたっぷり行いました。温泉施設の露天風呂からの瀬戸内海の眺めは素晴らしいものでした。さすがに夕食は「豪華」という訳にはいきませんでしたが、疲れを癒すには十分すぎる程の設備でした。
○道後温泉出発(0630)→第52番太山寺12km(1030) ○第53番円明寺2.5km(1130) ○第53番円明寺(1230) ○伊予北条駅「シーバマコト」(1500) ○伊予浅海駅(1615)→伊予北条へ戻り 宿:シーパマコト 歩数:53,129歩
| 2016年10月22日(土) |
遍路二日目:松山市内・道後温泉へ |
今日は朝から雨模様です。歩き遍路」しか泊めないというだけあって桃李庵の朝食は6時からです。ご主人は朝何時でも朝食を準備しますと言っていました。朝食の時に天気予報をしっかり見ようとテレビのボリュームを上げても良いかと聞くと、ご主人からの回答は「NO」でした。これは桃李庵さんの方針なのです。「歩き遍路」に対して一家言を持っているご主人でした。「愛知の佐藤」さんと朝食を一緒に済ませたのですが「愛知の佐藤」さんは6時30分に出発していきました。朝食前に出発の準備をすべて整えていたようです。
佐藤さんは今回が4回目の遍路だということで、札所間が長距離の場合には公共交通機関を使って効率的に回る遍路しています。私は6時45分頃小雨の降る中を出発しました。途中で雨具を付けることにして、出発の時にはポンチョは着けませんでした。桃李庵ご主人夫婦が玄関で見送ってくれました。雨の日の坂道下りは大変危険ですし、札所で納経帖に御朱印を頂く際にも納経帖が濡れないように気を遣わなければなりません。少し憂鬱ですが「雨」も試練だということで前向きに捉えなければなりません。
国道33号線の遍路道は桃李庵の近くから約2Km登りが続きます。そして三坂峠直前で細い遍路道が国道から右側に離れていきます。そこから「三坂峠」の下りが始まります。この遍路道は嘗ては松山から高知に向かう主要街道だったもので「久万街道」と呼ばれていました。峠の松山側は「鍋割坂」といわれ行商の金物屋が商売用の鍋落として割ったというほどの急坂です。遍路開始二日目から転んで怪我をしては大変なのでこの坂道は慎重に降りました。この遍路道は回りの大木が日光を遮っていることに加え雨模様で日光も差さないので「昼なお暗い」山道となっていました。
急な坂道を注意しながら降りていくと坂道登り口のところに旧遍路宿の「坂本屋」があります。まだプロパンガスが付いていて何時でも泊まれそうな雰囲気です。この場所に遍路宿があれば歩き遍路の選択肢が大分増えるのです。ここから歩き始めれば松山市内6札所を回ってゆったりと道後温泉で休むことができるのです。土曜・日曜は付近の方々がここで歩き遍路を「お接待」するのだそうですが、私はここを8時に通過したので残念ながら「接待」には与れませんでした。坂本屋で先発した「愛知の佐藤」さんに追い抜きました。
三坂峠を降りてからは松山市内の46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第48番西林寺、第49番浄土寺、第50番繁多寺、第51番石手寺と6つの札所を回ります。第一回の遍路の時に高知市内の札所(国分寺・竹林寺・禅師峰寺)を台風の最中に回りました。今日の天気はその時ほど悪くないのですが、雨のために雨具(ポンチョ」を着て歩き、納経帖は濡れないようにビニール袋に詰めてリュックにしまい、各札所でリュックから出すという面倒な作業が増えます。各お寺のお参りが忙しくなってしまいますし、歩いている間の注意力が散漫になるので道を間違えます。早くからポンチョを身に付けてできるだけ平常心で歩くよう努めました。
リュックから荷物を取り出すために急いで脱ごうとしたときにポンチョを破ってしまいました。最初の札所の浄瑠璃寺の納経所でホッチキスを借りて簡易に修理して歩き続けました。浄瑠璃寺は小奇麗な寺で本堂には「弘法大師の誕生仏」が置かれていて抱けるようになっています。また山門脇には正岡子規の句碑「永き日や衛門三郎浄るり寺」があります。「衛門三郎」は遍路の創始者とされています。衛門三郎の生家は八坂寺から1Km北上した「文殊院」の場所であり文殊院は別格霊場9番となっています。
松山の平野部の広い県道40号線脇に建てられている第48番西林寺は非常に立派な寺でした。西林寺の後遍路道は松山郊外を通り伊予鉄の踏切を渡って再び山里に入っていきます。伊予鉄踏切から直ぐの山間に第49番浄土寺があります。浄土寺には口元から吐き出すように小さな6体の阿弥陀仏が取り付けられている「空也上人立像」があるとのことです。諸国遍歴していた空也上人は3年ほどのこの浄土寺に滞在された時に作られたのだそうです。
繁多寺は松山市南東の高台にあり境内から松山市が望めます。晴れていれば素晴らしい眺めを楽しめるはずです。繁多寺には2時30分頃に到着しましたが雨足が大分弱くなってきました。それでも空は厚い雲に覆われていてすっきりしません。遍路道は松山の道後温泉を目指していますが、その手前に第51番石手寺があります。
石手寺は独特の雰囲気を持つ「現役のお寺」という感じがしました。石手寺では山門を入ってっからアーケードのような作りの参道の両側に参拝用品店がずらっと並んでいます。「石手寺」の名前の由来は以下の通りです。
この地方の富裕な百姓「衛門三郎」の家の前に一人の旅の薄汚れたお坊さんがやってきて托鉢の鈴を鳴らしました。昼寝をしていた衛門三郎はお坊さんを追い返そうとしたのですがお坊さんは立ち去りません。腹を立てた衛門三郎は竹ほうきでお坊さんの椀をたたき落とし、椀は8つに割れて飛び散ってしまいました。その翌日から衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。衛門三郎が悲しみにくれていると、ある夜旅のお坊さんが現れて衛門三郎の夢枕に現れて「自分の非を悔いて情け深い人になりなさい」と告げます。 夢から覚めた衛門三郎は自分が強欲であったことを悔いてその旅僧は弘法大師だと気が付いたのでした。
衛門三郎は弘法大師に許してもらおうと、弘法大師を追って四国の道を東から回ったり、西か回ったり歩きますが大師に出会うことができません。そして四国を二十数回まわったところで阿波の第12番札所焼山寺で倒れてしまいました。その時に衛門三郎の前に弘法大師が現れ「ここでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と声をかけました。 衛門三郎は「伊道後の河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。人々のために尽くしたいのです」と答えました。すると弘法大師は「衛門三郎再来」と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。
それから数年後、伊予の国道後湯の領主「河野家」に男の子が生まれました。ところがその子は幾日経っても左手を握ったままで開きません。道後の安養寺の住職に祈願してもらいうと「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げがあり、そのお告げのとおりにすると男の手が開いて中から“衛門三郎再来” と書かれた小石がころがり落ちました。男の子は衛門三郎の生まれ変わりだったのです。この小石は安養寺に納められ安養寺は「石手寺」に名前を改めたのだいうことです。
石手寺は「衛門三郎」の生まれ変わり伝説の「石」を本尊としています。徳島の焼山寺下り遍路道に「衛門三郎」が倒れたという場所があり、そこに衛門三郎と弘法大師の像がありました。その時以来「衛門三郎」の名前は忘れていましたが、松山市手前の「衛門三郎」生地とか生まれ変わりの石手寺では再び「衛門三郎」の話が多くなります。今うるう年ですが、閏年に「逆打ち」すると「順内3回分のご利益がある」という話も衛門三郎の謂れから来ているようです。
今日の宿は道後温泉ユースホステルに取りました。土曜日の道後は宿泊施設が混雑するという話は本当で、遍路地図に乗っている宿泊施設数カ所に電話してようやく確保できた宿です。こういう状況だと条件の良くない宿が残っているものですが、歩き遍路にとって「道後温泉ユースホステル」は大変好ましい宿だと思いました。まず支配人さんが遍路に理解があることは有難いことでした。
雨で濡れた衣類・靴・靴下を乾かすには部屋のクーラーと扇風機が大活躍しました。ポンチョの乾かしてホッチキスを借りて修理し直しました。多くの滞在客は道後温泉に行くので宿にある小さな浴室は全くと言っていいほど客のりようはありません。ゆっくり歩きの疲れを癒すことができました。三坂峠下りの坂道下りで足の指先に血豆ができてしまいました。明日以降の歩行の障害にならないようにテーピングで保護しました。結局道後温泉に来たものの宿からは一歩も出ずに部屋でゆっくり過ごしました。
○民宿「桃李庵」出発(06:30) ○第46番浄瑠璃寺 14.5Km ○第47番八坂寺 0.9Km ○第48番西林寺 4.5Km ○第49番浄土寺 3.2Km ○第50番繁多寺 1.7Km ○第51番石手寺 2.8Km 総行程27.4Km 歩数:42295歩
| 2016年10月21日(金) |
遍路一日目:第45番岩屋寺往復 |
フェリーは朝5時に松山観光港に到着しました。小倉→松山はそれほど遠くはないのですし、航路としても遠回りではありません。朝5時到着は他の交通機関の始発までまだ時間があるので岸壁到着後でも船内で暫く過ごせるようになっています。一方このフェリー到着に合わせて松山市内に向かうリムジンバスも走っています。歩き遍路としては到着後直ぐにJR松山駅に移動しました。
一年前の前回遍路では「第44番大宝寺」まで参拝を済ませましたので、今回の遍路は「第45番岩屋寺」からの遍路再開となります。とにかく四国88カ所の半分の44番まで歩いておこうと考えた前回遍路の締めくくりは単純過ぎた考えでした。今回再出発点の久万高原に辿りつくことに苦労しました。遍路を区切る時には次にそこまで辿りつく旅程を十分考えなくてはならないことを十分過ぎるほど実感しました。
前回遍路で久万高原から松山駅までバスで移動したのですが、今回も再出発点の久万高原の久万中学前までは同じ路線バスで移動しました。JR松山駅から久万高原へ向かうバスの乗客は遍路客が殆どでした。バスが松山市の山間部に入っていくに従って中学生通学らし乗客が増えてきました。「久万中学校」の通学エリアは随分広いようです。
久万中学前でバスを降りて伊予鉄久万営業所前から今日の歩き遍路が始まりました。まずは県道12号線の舗装道路で山の中に入っていきます。県道12号線の途中から本格的な山の遍路道に分け入りました。前回の遍路から1年経過しているので長距離歩きの体力が持つかどうか心配でしたが大丈夫なようなので安心しました。
山道の遍路道に入ってから私の前方50mくらいの所に急に女性遍路が現れました。私は県道を歩いてきたのですが、彼女は地図には載っていない古い遍路道を歩いてきたようです。この女性遍路のペースが速いこと。荷物を宿に置いてきているようで軽装ではありますが私はとても追いつけないような速さでした。(この「健脚遍路女子」とはこの後何回か出合うことになりました。)
この山道の遍路道は途中の分岐点から分かれて「八丁坂」を経由する「農祖峠遍路道」に合流する事ができるように地図に示されています。前を行く女性遍路は何の躊躇いもなく淡々と能祖峠方面に進んでいったので、私も行ってみることにしました。ところがこの「八丁坂」までの急勾配の遍路道は大変に厳しいものでした。あっという間に彼女の姿は視界から消えました。老体に鞭打って数歩登っては休憩するテンポではとても彼女について行けないのです。この「八丁坂登り」が今回の最初の試練となりました。
しかしこの「農祖峠遍路道」は45番の岩屋寺の裏側に直接通ずる最短距離となっていて結果的には大分時間を稼ぐことができました。岩屋寺には山門が二つあり、一つは下から登ってくる道の山門、もう一つは農祖峠遍路道から下ってくる道の山門です。裏側の農祖峠遍路道を通ってくると修験者の行場である「逼割禅定」を見ることができます。危険なので行場には鍵が掛けられていましたが、逼割禅定に入る「鍵」は岩屋寺で簡単に貸してくれるのだということを後で知りました。
岩屋寺からの帰り道は県道12号線を歩くことにしました。「八丁坂」経由の遍路道をもう一度歩くことは選択肢にはありませんでした。この県道の遍路道は非常に単調なものでした。しかし下り坂は緩やかな車道を歩くのが「足」には良いと思いました。急な下り坂を歩くと足の爪先への負担が大きいのです。久万の街に戻り「お久万大師」でお参りをして今日の宿「桃李庵」に向かいました。
途中の久万高原物産館で中年男性遍路と出会いました。そこでは一礼して別れたのですが、更に進んだホームセンタコーナンの入り口からこの中年遍路が電話をしているところに遭遇しました。実は今晩の宿の桃李庵のご主人から「コーナンから電話せよ」と言われていたのです。中年遍路に「ひょっとして桃李庵にお泊りですか」と尋ねるとその通りという答えが返ってきました。私も言われた通りに桃李庵に連絡したところ、今日の客は佐藤が2名だとの回答が返ってきました。「九州の佐藤(私)」と「愛知の佐藤(中年遍路)」の二人の佐藤がこの日の桃李庵の宿泊客でした。
「愛知の佐藤」さんは以前にも桃李庵を利用したことがあるということでした。その時膝を痛めて歩けなくなり桃李庵のご主人に松山空港まで車で送ってもらったのだそうです。今回はその時のお礼も兼ねている投宿のようでした。桃李庵のご主人も「愛知の佐藤」さんを朧気ながら覚えているようでした。
「桃李庵」は久万高原から遍路道を5Km程歩いた山間部にあります。ご主人は自分が遍路した経験を基にして、朝出発してその日の夕方に道後温泉に着くことができる場所に宿泊施設を確保したということでした。第45番岩屋寺から第46番浄瑠璃寺までは「29.5Km」あります。そしてその遍路道は岩屋寺下山と三坂峠越えの難所を通過するものなので、一気に46番まで行きつくには相当の脚力が必要です。その間にある桃李庵は歩き遍路にとっては大変貴重な存在なのです。
桃李庵は部屋にテレビは無いし、食事中はテレビを消すか音量を小さく絞り、遍路同士・ご主人と遍路客のコミを深めるという方針だということでした。「愛知の佐藤」さんは退屈だといってボヤいていました。私は初日の疲れが酷く夕食を食べた後は直ぐに寝てしまいました。天気予報では明日は「雨」だと予報しています。
「桃李庵」では道後温泉の次の宿として伊予北条の「シーパマコト」を紹介してもらいました。遍路特別料金で天然温泉付きの宿に泊まれるという宿です。土日には「歩き遍路特別料金」設定はないのですが、部屋が空いていれば安く泊めてくれるかもしれないというので電話てみました。ご主人の言葉通り日曜日夜は空いているので「歩き遍路特別料金」で予約することができました。
松山観光港0515→JR松山駅0535:460円 JR松山駅0630→久万中学校前0738:1,380円 久万中バス停0800→大宝寺0830、1km 大宝寺0830→第45番岩屋寺1030(8.4km山道) 岩屋寺1100→於久万大師1400(10.4km) 於久万大師1430→桃李庵1600(4.6km) 総行程24.4Km、宿:桃李庵 この日の歩数:46375歩
今日から3回目の「区切り遍路」を再開しました。一年振りの遍路でこの間長崎に赴任したので今回の遍路は長崎からの四国入りとなります。午後3時45分発の長崎駅発小倉駅行きの高速バスで小倉駅に移動しました。この高速バスは3時間で長崎から小倉に低料金で旅行できる大変お得な交通手段です。しかし乗客は少なく正直ガラガラです。西鉄バスと長崎県営バスが運行しているようなのですが、採算が合っているのか心配になります。
小倉からはフェリーで松山に移動します。フェリーは小倉駅北側の小倉港から出発します。このフェリーは毎晩、小倉→松山・松山→小倉間を一便運航しているもので、九州から四国に渡る重要な交通手段のひとつです。特に車を利用しなくても小倉港は新幹線小倉駅に近いし、松山側の松山観光港からは松山市中心部にへ「リムジンバス」が頻繁に走っているので大変便利なのです。
9時55分の松山行きフェリーの出発までには時間があるので小倉駅新幹線口のサイゼリアで夕食をゆっくり食べました。遍路に入ると遍路宿の食事は和食ばかりとなるので洋食を食べておきたかったのです。サイゼリアの食事と100円グラスワインで結構満足しました。
松山行きフェリーは思ったより大型船でした。木曜夜のフェリー「二等客室」は大変空いていて大部屋の客はチラホラ程度です。フェリーの旅は随分前に仙台から苫小牧に家族旅行した時以来です。船旅は珍しいものと思っていましたが、まさか船で生活することになろうとは思っていませんでした。毎日鍛えていますから船の「揺れ」には慣れっこになっているのですが、幸か不幸かこの日の航海は非常に静かなものとなりました。
フェリー内の売店では「遍路用品一式」が揃うコーナーを設置していました。この日は別として九州の遍路客の利用がある証拠です。九州方面から四国の遍路に来るにはまず松山へ渡ることのできるこのフェリーが便利だと思います。松山からは高松・高知・徳島に高速バスが走っています。東日本から遍路に来る場合には高松・徳島が玄関口になります。フェリーの便利な設備として「お風呂」がありますが、仕事の疲れが溜まっていたようで、大部屋の幅の細い布団に横になったら直ぐに眠くなってしまい、フェリーの出発時間には風呂に入ることも忘れてぐっすり眠っていました。
高速バス 長崎1545→小倉1853(3600円) フェリー 小倉港2155→松山観光港翌日0500(5450円) 宿泊:フェリー内 歩数:17,719歩
13日午後1時に横浜を出港した「本船すばる」は今日午前9時に無事長崎港に帰港しました。
今日横浜港に入港しました。海気象悪化の影響で工期が一日延びたので予定より1日遅れての横浜入港となりました。それもあって横浜滞在は2日間に短縮され明日13日午後横浜を出港して長崎に向かいます。横浜滞在時間が短縮されたので埼玉の実家に戻るのは取り止めにしました。その代り妻に横浜まで来てもらって横浜で一泊することにしました。実は昨日10月11日は結婚記念日であり妻の誕生日でもあったのです。
横浜で晩御飯を食べる機会ができたので、予て機会を探っていた関内になるピッツェリアの「シシリア」に行くことにしました。シシリアはランチ営業をせずに夜だけの営業なので「さいたま」から食べに行く機会は殆どなかったのです。今日はシシリアを最初に予約し、次にシシリアに近い船員関連宿泊施設のナビウス横浜に宿を取りました。
シシリアは広くない店内でキッチンを囲んでカウンター席が並んでいました。テーブル席は二つほど。カウンター席の一番奥の席を確保してくれていました。実はその席の開店5時から7時30分までだけが今日の空席だったのです。水曜日だというのに6時頃店に着いた時には店は満員大盛況でした。シシリアのピザの人気は大変なものだと感心しました。メニューはピザと前菜程度と至ってシンプル。客はビールやワインでピザを食べることが目的なのです。私達も前菜3品、ピザ2枚(マルゲリータ、マリナーラ)、ワイン赤一本(アリアニコ)を頂きました。
「シチリア」さんのピザは流石に人気の示すとおり大変美味しく完成度が高いものでした。味は上品でバランスが取れています。特に感心したのはピザの淵の部分の美味しさです。トマトソースのかかっていない淵の部分が生地の美味しさの証明していました。生地と焼き加減が絶妙なのだと思いました。ご主人がピザ生地を調理し、窯に向かって黙々とピザを焼いている姿はとても印象的でした。ナポリのピザ職人気質までしっかり学んでこられたようです。満足度の高い夕食でした。
本日午前8時からの三宅島ケーブル接続工事を終了し今回の工事の全工程を終了。工事海域から近い横浜港に入港して工事要員を下船させて長崎に向かう予定。
「御蔵島→三宅島」ケーブル工事着工。御蔵島接続工事終了後三宅島へケーブル敷設開始。
台風接近のため八丈島の島陰で待機。
本日午前6時30分から神津島の接続工事に着手し無事終了しました。
|