KENの日記
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2016年09月10日(土) 宮崎兄弟生家へ



今回の長崎帰港では実家に帰らずに長崎近辺を散策することにしました。昨日は血液検査・大腸内視鏡検査予約の後に長崎市「稲佐山」に登山しました。今日はこれまでずっと温めていたプランの熊本県荒尾市の「宮崎兄弟生家」を見学してきました。「宮崎兄弟」とは宮崎家の長男格「八郎」、次男格「民蔵」、三男格「彌像」、そして末っ子の「虎蔵(滔天)」を言います。

滔天が「孫文」をサポートし辛亥革命成功に功績があったことにより、2011年の辛亥革命100周年の年には台湾・中華人民共和国などからも注目を集めた場所です。更には最近では「白蓮」と駆け落ちした滔天の長男の「宮崎龍介」の実家として全国的に注目を集めました。しかし今日土曜日の午後の見学者私一人でした。暫くは静かな日々が続くことになるのでしょう。

長崎から荒尾に行くには幾つかの方法があります。荒尾市は島原半島から有明海を挟んだ反対側なので、島原半島の多比良からフェリーで行くのが最短距離となります。しかしこのルートは歩き区間が多かったり待ち合わせ時間が長かったりして苦労を伴うものです。楽な方法はJR長崎本線とJR鹿児島本線を乗り継いで有明海を迂回する方法です。これは殆ど列車の旅となります。私は有明フェリールートを選びました。今日のルートは以下となりました。

長崎駅(JR)→諫早駅、
諫早駅(島原鉄道)→多比良駅
多比良駅(歩き10分)→多比良フェリー港
多比良フェリー乗り場(フェリー40分)→長洲フェリー港
長洲フェリー港(歩き20分)→長洲駅
長洲駅(JR2駅)→荒尾駅
荒尾駅(歩き10分)→宮崎兄弟生家

宮崎兄弟生家の「宮崎家」はかつて荒尾随一の財力を誇ったのですが、敷地こそ広いものの現在残されている家屋は非常に質素なものです。実はこの質素な佇まいこそ「宮崎家」の凄さの表れなのです。宮崎家は江戸初期まで遡ることのできる名家ですが、明治維新前後の動乱期に当主であった4兄弟の父親の「宮崎政賢」の教育が大変優れていたようです。それは一言でいうならば「世の中(人々)のためになることを為せ」というものです。そしてその教えに忠実に従った宮崎家の兄弟は、諸国に遊学して金を使い、目的を定まったら生活を顧みずにわき目も振らずに邁進する行動力を備えていたのでした。

長男八郎と次男民蔵は社会改革に取り組みました。八郎は西南戦争で命を落としますが、民蔵は昭和まで生き延びました。その次男の民蔵は明治時代にアメリカに留学するし、彌蔵と虎蔵は生業に殆ど付かずに中国革命運動に身を投じたのでから、宮崎家の財産はどんどん少なくなっていったのでした。4人の子供を励まし続けた母「さき」さんもすごい母親だったのだと思います。

彌蔵と虎蔵の目は中国に向けられました。日本が明治維新を経験して社会改革の端緒に辿りついたのに、中国では相変わらず旧態依然の清朝の支配が続き、欧米列強の浸食が激しさを増して中国社会は疲弊し混乱していました。彌蔵と虎蔵は中国の社会改革に目的を定めました。ここで比較すべきは「福沢諭吉」の「脱亜入欧」という思想です。「福沢諭吉」は古い体制から抜け出せない「アジア(中国・韓国)」とは一線を画し日本は欧米列強の仲間入りをしようという主張したのでした。福沢は中国・朝鮮を見捨てたのでした。その福沢の考え方に従った大日本帝国は、歴史が証明したように欧米列強と同じように中国韓国に武力進出することとなり最終的に太平戦争の敗戦まで付き進んだのでした

彌蔵・虎蔵の考え方は全く別なものでした。二人は中国・韓国が社会変革できないのであれば、それを助けようと考えました。そして社会変革を担う人材がいないのであれば自分達が中国人になってその役割を果たそうと考えたのでした。この思想が「孫文」に通じて宮崎兄弟は孫文から真の革命同志と認められたのでした。当然ですが宮崎兄弟は政府から監視されました。日本政府の方針は「脱亜入欧」であり、孫文の革命運動を助けるどころか逆に「21か条の要求」を突き付けて火事場泥棒的な行動に出たのでした。

このような宮崎家兄弟達の思想がどこから生まれたのか。それを探すのが今回の荒尾の宮崎兄弟生家訪問の目的でした。明確ではないのですが実際に行ってみて感じたことはあります。それは宮崎家が荒尾の土地に長く根を張った非常に立派な家庭を持っていたということです。家族と地域との結びつき、家族の間の尊敬・愛情が伝わってくる佇まいでした。それは何年か前に訪問した「孫文」の実家の雰囲気にも似ています。今回改めて「家庭・郷土」といった社会仕組みの大切さを実感しました。



2016年09月09日(金) 糖尿病専門医・稲佐山登山

今日は振り替えの休日を取って糖尿病専門の医院に検査に行ってきました。6月に行った船員県健康診断では「心電図」「血糖値」「大腸血液反応」が指摘され、「血糖値」と「大腸血液反応」の再検査の指示が来ていました。これはこれまでも何回か経験したことなのですが、町の医者で両方一気に解決しようと考えて両方の診療科目のある医者を見つけて行ったという訳です。今日は血液検査(空腹時血糖検査)のために朝は食事を抜いて出かけました。

血液を採取して、次の大腸内視鏡検査を13日火曜日に予約して今日のことろは終了しました。血液検査の結果は多分良くないでしょうが、現在のこれまでの船内生活の中は現状維持が精一杯で改善は無理だとわかっています。13日に先生からどのような診断が下されるのか。騒いで仕方ありません。

糖尿病専門医は長崎市の「稲佐山」の麓にあります。医院のある場所の直ぐ近くに「稲佐山登山道」の標識がありました。折角休みをとったのだからこれまで登ったことのなかった「稲佐山」に上ってみることにしました。稲佐山は標高333メートル。車で頂上まで登れます。バスも通っているのですがここは歩きです。医院の方の話では歩きだと1時間程度かかるとの話でした。

結局45分で頂上に着くことができました。稲佐山の頂上はとても景色が良く東には長崎市街地、西側には外海が見渡せます。なんといっても気持ちが良いのは山々が雑木林であること。信州の山だと基本的に「杉林」になってしまいます。広葉樹の山々は本当に豊かに見えます。稲佐山の頂上には「鹿園」と「猿園」があって登山の疲れを癒してくれました。帰りは「バス」で帰ってきました。



2016年09月06日(火) 長崎帰港

本日午後2時長崎港に帰港しました。台湾の高雄港からの外航船資格での帰港のため、着岸後に長崎税関の検査を受けました。船員持ち混むことができる「免税品」の範囲は非常に少ないので、船員の方々にはその旨徹底し間違いのないようお願いしました。検査は無事終了しました。



2016年09月04日(日) もうすぐ帰国

帰国の途についています。台湾の高雄から長崎まで3日半程かかります。台風12号の影響で帰路の航路が荒れているかと心配していたのですが海は大変静かです。この三日間で日本入国の準備を完了させなければなりません。日本出国・台湾入国・台湾出国と3つの手続きを無事に済ませました。あと日本入国だけです。

本日午後8時に船内時間を日本時間に切り替えました。1時間進めて午後9時としたので急に夜が進んでしまった感じです。船内で交代勤務している船員さんにとっては、仕事をしている人の勤務時間は少なくなり、休憩している人の休憩時間が短くなります。その時の交代勤務の割り当てによって影響が違うのです。



2016年09月03日(土) 台湾出国

昨日深夜0時に工事を終了し、本日9時に高雄港に入港した「本船すばる」は漸く台湾を出国しました。船では珍しいことではないのですが、台湾出国までの数日間神経をすり減らす作業が続きました。

今日は高雄に入港して工事の方々が船を下りて飛行機で日本に帰国する予定にしていました。飛行機は明日4日発の高雄→成田を予約していました。ところが台風12号が九州地方に向かっていて4日中には家に帰りつけない可能性が出てきました。従ってできるだけ多くの方々を3日の飛行機に振り替えることとなったのです。何回も旅行会社と電話のやり取りをした結果、結局3日の「高雄→福岡」を結ぶEVA航空に空席があったのでこの便に全員変更していただきました。日本の旅行会社が日本語で対応してくれたので大分助かりました。

更に今日になって「高雄出港」の時間が変更になりました。昨日通知された予定は午前9時30分高雄入港で、午後4時高雄出港だったのですが、貨物船の接岸の関係で午前12時には出港せよとの当局の指示がでたということなのです。昨日まで雨天が続いていて高雄港外には荷物の積み込み・降しを待つ貨物船がかなりの数に上っていたらしく、我々のように貨物に関係ない船は早々に出ていかざるを得ない状況だったようです。生活ごみを回収してもらい、空路帰国組を下すと時間は既に12時。3時間の高雄滞在はあっという間に過ぎてしまいました。但し予定が変わった分出港手続きは淡々と進んだようでした。一か月半に及んだ台湾領海での工事はこうして終了しました。



2016年09月01日(木) 台湾での工事終了

漸く台湾での工事の終了日程が決定しました。7月中旬に台湾の高雄に着いてから一か月半の台湾滞在でしたが、9月3日に台湾を離れて長崎に向かうことになりそうです。外国滞在といっても周りは海ですから、日本領海と何ら変わるものではありません。高雄に2回入港しましたが高雄がどんな街なのかあまり良く分かりません。9月3日に高雄に入港してお客様・工事要員を下船させます。

中華人民共和国国連承認以前に生まれた人間にとっては「台湾」ではなくて「中華民国」が正式名称だと思っていましたが、その後の国際政治の微妙な変化で「中華民国」という呼称が使われなくなっていることを改めて認識いたしました。現在ではむしろ外国においてもまた台湾国内においても「台湾」という呼称が重要なのだとわかりました。

高雄の代理店の方とは電話やメールでやり取りをしてかなり親しくなりました。言語は「英語」ですがお互いにとって「英語は」は外国語です。これまでシンガポール・香港、スリランカ・インドの英語を知りましたが、台湾での英語の位置づけは日本に近いと思いました。それは国内での日常生活ではほとんど使われていないという点です。しかし台湾の英語は政治・社会のがどのように変化していくのかということと密接に絡んでくると思います。



2016年08月18日(木) 工事再開

本日午前8時30分に高雄港を出発し工事を再開しました。



2016年08月17日(水) 高雄入港

約4週間振りに高雄港に入港しました。前回入港時の岸壁は繁華街から遠い所にありましたが、今回割り当てられた岸壁は繁華街に近い便利なところでした。地下鉄の駅まで頑張れば歩ける距離のところにあります。船内ではトレッドミルと甲板の上しか歩かないので接岸したときにはできるだけ陸上を歩くことにしています。今日も夕方勤務時間終了後から早速歩き始めました。

約4週間の航海で困ってしまったことが二つあります。髪が伸びてしまったことと「菓子・つまみ類」が払底しまったことです。まず散髪してもらおうと理容院を探したのですが、美容院は多く見かけるのですが理髪店が全く見当たりません。遠くまで行けばあるのでしょうが時間が限られているので岸壁からそう遠くないところにある小さな美容院で散髪してもらうことにしました。

散髪は美容院のおばさんにしてもらったのですがおばさんには英語は全く通じません。その店にいた中学生くらいの女の子が英語を話すので彼女に通訳してもらいました。このおばさんはバリカンだけで散髪していくので、手元が狂うとかなりやばいことになりそうだとヒヤヒヤしたのですが、おばさんは予想外に腕が良くてバリカンだけで全体の髪を形よく短く刈ってくれました。

丁度良いので美容院の中学生にお菓子のことを聞きました。台湾の名物の「牛軋糖」という「ヌガー」のような菓子を買いたいというと、女の子が近くに菓子屋があるからといって連れて行ってくれました。路地の両側に小さな店が密集している場所に案内してもらってその中のお菓子屋さんで「牛軋糖」を買うことができました。

台湾において一般に大人が英語を話せないのは比率は日本と同じ程度だと思えますが、子供達は英語、それも「会話英語」を勉強しているようです。前回高雄に入港して上陸し町中で道を聞いた子供達もしっかし英語を話していました。日本語を話す世代はだんだん減っていって英語を話す人口は増えていくのだと思います。



2016年08月12日(金) ペルセウス座流星群見えず

今夜から数日間「ペルセウス座」流星群が発生する時期だということです。せっかく邪魔な光の殆どない海上にいるので、流れ星を見ようと考えたのですが、天気は生憎の雨となり「流れ星」や星は一切見えない夜となりました。

日本は毎日猛暑日が続いているようですし台湾北部も天気は良いようです。しかし台湾南部は曇りがちで気温をそれほど高くなりません。過ごしやすいのですが、真夏の青空・夜の満天の星空が見えないことは残念です。



2016年08月11日(木) 台湾の未来

台湾では今年1月に総統選挙と立法府(国会)議員選挙が行われて、野党の「民進党」が政権を取りました。旧与党の「国民党」には歴史的大敗となりました。台湾南部の高雄選挙区は「民進党」が強く、立法府委員選挙で国民党候補が全議席を失いました。今回の「民進党」圧倒的勝利で台湾はアイデンティティを徐々に変化させていくことになりそうです。

国連では1971年にアルバニア決議が採択されました。これは「国際連合における中華人民共和国の中国代表権確立」を意味します。そしてそれまで中国を代表していた当時の中華民国(蒋介石に率いられる台湾国民党の支配下にあった)は国連を脱退しました。このことが明白に示すように「台湾(国民党支配下)」は中華人民共和国と対立する形で「中国を代表する」政治組織でした。

しかし台湾の民族や文化を考えると「台湾が中国である」と位置づけるのではなく、台湾は「東・東南アジア」の一つの島であると位置づけることも十分可能なのです。過去の中国歴代王朝は周辺の地域を「夷」として自分たちに敵対しない限り平和共存を認めていました。日本もそのひとつでしたし東南アジアの国々の多くもそのように見做されていました。実は台湾も昔からそのような「夷」と位置付けられていたようです。

その台湾が中国との関係で歴史上クローズアップされたのは明の「鄭成功」の台湾進出でした。清に敗れた明朝復活を目指す「鄭成功」は既に進出していたオランダ東インド会社を台湾から駆逐して中国大陸攻め上りの基盤を台湾に築いたのでした。「鄭成功」敗北後台湾は清朝の支配下に入ったのですが、中国北東部出身の清朝は台湾開発には無頓着であったようです。そしてその後の日本の中国進出・敗戦、中国国内における中国共産党と国民党の対立は台湾の社会の大きな影響を与えました。

清朝支配時代には殆ど真面な統治は行われなかったようですが、日清戦争で日本が勝ったことにより台湾が日本に割譲されるや否や日本からの投資が進み、日本の近代的な社会制度がどんどん導入されました。多くの住民はこのまま日本の一部になることを当然に考えていたと思われます。ところがその日本が戦争に負けて台湾の支配権を放棄してしまいました。日本に代わって統治者となったのが清朝を倒した「中国国民党政府」でした。

当時国際的に中国を代表する政権と認められていた「国民党政権」は終戦後に台湾統治を開始すると「台湾の中国化(日本統治時代の否定)」を掲げて強圧政治を開始しました。更にその国民党が中国共産党との内戦に敗れて、大挙して大陸から台湾に逃げてきたので大変なことになりました。国民党は「鄭成功」と同じく台湾に拠点にして中国大陸奪回を大目的にしていたので台湾の非常事態宣言体制は長らく続きました。

中華人民共和国の国連加盟が認めれ、中国経済が世界第二位に躍進すると台湾と中国の関係は大きく変化しました。国民党政府と中国北京政府との接近が始まりました。中国政府も「台湾は昔から中国」だったと考えていますから、体制の違いこそあっても「中華思想」という点では変わりありません。そんな時代の流れで表面に現れてきたのが「台湾は中国ではなく独自の民族国家である」という発想でした。

台湾が中国とは別の「民族国家」として道を選ぶと色々なメリットがあると思います。国際関係でいうと、中華人民共和国とは別に国連に堂々と加入することができるでしょう。オリンピックとか国際的なスポーツイベントに中国とは別に堂々と参加することができるでしょう。しかし台湾は決してその道を急いで突き進もうとはしていません。国民党・中国大陸からやってきた人々の考えとか、中華人民共和国の動きとか、周囲の状況をじっくり観察して慎重に進めているように見えます。

世界の多くの地域で民族的な対立で紛争が起こっていますが、台湾が過激な行動に走らずじっくりと着実に平和的に自分たちのアイデンティティを確立しようとしている方法が問題解決の先例になれば素晴らしいと思います。




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