工事を今朝7時前に一旦中断した本船は一目散に室蘭港方面に向かって避難しました。低気圧との競争です。しかし結果的には船長の判断良かったのか通過した海域はそれほど荒れませんでした。午後3時過ぎあたりからは全体に波が高くなり風も強くなりましたが、上手に低気圧の通る方向を避けることができたのか、船の揺れは大したことありませんでした。しかし工事していた海域は相当な高波が襲っていると思われます。
午後には北海道の陸地に近づいたので携帯電話も入るようになりました。夜は室蘭港近くに停泊しているのですが、ここでは携帯電話は勿論のこと地上波テレビ放送も入ります。少し前までのテレビ放送は「下関、福岡、長崎」の放送局の電波を受信していましたが、今は「札幌」「室蘭」の放送が入ります。ハウステンボスのコマーシャルを見た記憶が新しいのに今日は札幌「定山渓」のコマーシャルを見ました。不思議な気分になります。
現在、北海道釧路沖の南西海域で工事中です。現在シベリア方面から強烈な低気圧が北海道に近づいています。工事をやっている最中に高波に遭遇すると非常に危険なので、低気圧が近づいて海気象が悪くならないうちに工事を一旦中断して、安全措置をとる必要があります。今回の工事における最後の機械(10個目)発射は今日の17時30分に予定されています。その機械が5000mの海底に届くまで約6時間かかり、それまで本船は現在の海域を動けません。あれやこれやで本線が現場を離脱できるのは明朝になりそうです。
一方、低気圧が北海道東海域に時速60Kmのスピードで近づいていて、明日の午後までに猛烈に発達しそうです。気圧は970Hpまで下がり、海域の波の高さは「9m」に達しそうだと天気予報は脅かします。予定では明日早朝に現場を離脱し低気圧の進路を見ながら、危険を避けることができる海域まで全速力で移動することになるようです。しかし低気圧の移動スピードが速まったりすると荒海で待機することにもなりかねません、今回の船の揺れはこれまで私が経験した中で最も大きくなると思います。部屋の荷物を滑らないように整理し、船酔い薬を準備しました。
今日午前8時30分函館港に入港しました。函館の街は雪に埋もれていました。でもそれほど寒くはありませんでした。函館港で今回の工事のための船員が乗船しました。長崎から工事場所までの移動については船を運行するだけの最少人数で走ります。工事船員が乗ってくると途端に船がにぎやかになります。
函館港の岸壁では何人かの釣り人が寒い中数本の釣り糸を垂れていました。入港後釣り人のところに行ってみると、彼らは「烏賊」のゲソを餌にしてカニ(栗蟹)を釣っていました。冬の味覚の「アイナメ」は時期が過ぎたのだそうです。仙台湾の冬のアイナメ釣りを思いだしました。
函館港近くにある「マックスバリュー」で個人的に食料を買い込みました。長崎では忙しく十分買えなかったのです。函館を離れると暫く工事期間が続くので「酒のつまみ」・「お菓子類」を買い足しました。
結局函館港には2時間30分の係留しただけで予定通り午前11時には出港しました。冬の北海道の海は荒れていて視界が悪く出港が遅れるかとおもったのですが、予想外に天候の変化が良い方にも激しくて、11時の出向時には視界が改善して問題なく函館湾を出ることができました。これから釧路沖に向かいます。
今日、北海道釧路沖での工事のために長崎を出港(1130)しました。長崎港を出てから北上して、佐賀・福岡沖、山陰沖、新潟沖、秋田沖を通過してまずは函館港に向かいます。函館港には5日の午前中に到着する予定です。冬の日本海はどんな状況なのか楽しみです。
昨年9月に宮城・福島県沖での工事を終えて長崎に帰るときには太平洋をぐるっと回って長崎に戻ってきました。今回長崎から日本海経由で函館港に行くと「九州・本州」の殆どを廻ったことになります。太平洋を回って帰るルートは日本海ルートに比べて随分ながいようです。北海道と西日本を結ぶ海上交通路は「日本海回り」の方が便利であることを実感しました。
ドック開け・工事出港前のタイミングで「すばる船内特別清掃」を実施しました。今回は船員の居住スパースを中心に清掃を行うことにしましたが、各船室には船員の荷物が沢山残してありその型付けをお願いすることが大変でした。しかし部谷が綺麗になる作業なので快く協力いただきました。
記録的な大雪の影響で昨日の九州地方発着の飛行機の運行には大きな影響sが出ました。特に長崎便は全面運休のようでした。今日の午後の便で妻が「さいたま」が帰ることになっていますが、飛行機は飛ぶというニュースは朝から流していました。ということで安心したのですが、ふと気づいたのは長崎から大村の飛行場までのアクセスは大丈夫かという問題です。
アパートから遠くない長崎駅前のバスターミナルに行ってみると、長崎と空港を結ぶリムジンバスは全面運休が続いていました。途中に利用する長崎高速道路が通行止めになっているからだとのことでした。バスターミナルの案内では、長崎駅から大村までJRで行けばそこから空港まで臨時バスが出ているとのことでした。仕方がないので午後の便に間に合うように妻を早めのJRで送り出しました。因みにバスターミナルに取材に来ていた地元放送局のインタビューの取材に捕まりました。後で職場の同僚からテレビに出ていたと教えてもらいました。
妻は長崎どころか九州旅行は初めてです。初めての南国旅行が大雪に見舞われたことも思い出でしょう。雪に埋もれた長崎の街を見る事は今後何十年もないと思います。
| 2016年01月25日(月) |
長崎の休日(三日目) |
長崎休日三日目浦上地区を散策することにしました。今日25日は月曜日ですが、昨日の大雪の影響で長崎市内の交通機関はまだ復旧していないことから、長崎のビジネス街に向かう道は長靴と防寒着を着た人達が徒歩で職場に向かう列が続いていました。アパートから浦上地区へは少し距離がありますが交通手段がないので歩いていきました。といっても歩数はさいたま時代の土曜・日曜の歩数に比べれば大したことはありません。
浦上では最初に「平和記念公園」に行き「平和記念像(北村西望作)」を見ました。平和公園全体は雪景色、平和記念像も雪を冠っていました。前から考えていたのですが、平和を祈念する姿がこのように具象的で逞しいことに少し違和感を覚えます。特定の宗教に偏らない記念碑として仕方がなかったのでないかとは妻の解釈ですが、もう少し別な観点もあったのではと思われます。作者の「北村西望」さんは長崎県出身の彫刻家ですが、ネットで作品画像を見る限り、対象のもつ「力強さ・精神性」を筋肉や像のポーズ等の具象的な要素で表現する作品が多いようです。「北村」さんに依頼した時点でこのような像になることはある程度想像できるような気がしました。個人的には静かに犠牲者に思いを馳せ、平和を祈る像であって欲しいと思いました。ここでは「力強さ」は無用であると思いました。
平和記念公園を抜けて更に北に歩くと「永井隆記念館」があります。私は依然から永井隆記念館を訪れたいと思っていました。雪は止むどころかどんどん降り積もっています。住宅地のところどころに上手な「雪だるま」が作られています。長崎の子供たちとっては「雪だるま」を作る経験は空前絶後のものだろうと思われます。大人も手伝って気合が入った作品に出合いました。静かに雪の降り積もる「如己堂」は大変印象深いものでした。昭和20年8月9日の長崎は熱かったはずで雪の降り積もる静かに祈るように佇む姿は祈りに相応しい感じがします。
永井博士の専門は放射線医学で昭和20年6月には長年の放射線被曝による白血病を発症して余命幾ばくもないことを宣告されます。そして同年8月9日には爆心に近い長崎医科大学で原爆に襲われることとなりました。博士はコンクリートの病院建物の中で原爆を生き延びたものの博士の妻の緑さんは自宅で焼死しました。被爆直後の医療活動に従事した博士が被曝の数日後自宅に戻って妻緑さんの変わり果てた姿に出合ったのでした。博士はその後も医療活動・放射線の研究に生涯を捧げ昭和26年43歳で亡くなったのでした。
長崎・広島の原爆犠牲者を考えるときその膨大な数に圧倒されます。しかし死者の数を何万・何十万・「数」から入って、その人々の死を悼むためにはかなりの想像力が必要です。とても数秒の祈りでは足りません。人を悼む時は亡くなった人との絆とか、亡くなった人の人生を理解して始めて深い悼みを感ずるのだと思います。長崎の原爆犠牲者を悼む行為には、特定の個人に思いを寄せる必要があると思いました。永井博士だけが立派だった訳ではないですが、長崎原爆犠牲者の象徴として永井夫妻をもう少し前面に出してほしいと思いました。永井平和記念館で静かに私達を迎えてくれたのは館長さんですが、館長さんは永井博士のお孫さんでした。
私は永井博士記念館で「緑夫人」の写真を探しました。原爆投下後の火災で殆ど焼けてしまって何も残らなかったことは想像できます。「緑夫人」の写真は記念館に2枚だけありました。永井博士が長崎医大時代に下宿していた家のお嬢さんです。永井博士をクリスチャンに導いたのが「緑夫人」でした。緑さんと永井博士が深い愛情で結ばれていたことは容易に想像できました。戦後の永井博士の「命」は「緑夫人」の支えあってのことのように思えました。
| 2016年01月24日(日) |
長崎の休日(二日目) |
昨日の午後からの雨は夜には雪に変わりました。夜中にトイレにいった妻が湯沸器のお湯が出ないといっていました。朝になって確かめていると湯沸器に通ずる水道管が凍結したらしくお湯がでません。日が昇って暖かくなれば何とかなるかと思いましたが天気は悪く気温が上がるような状況にはありません。仕方がないのでコンロで湯を沸かして雑巾を温め、剥き出しになっている水道管を温めてみました。これを何回か繰り返している中に湯沸器経由の水が出るようになり、湯沸器に火が通ってお湯が使えるようになりました。外は一面の銀世界です。長崎ではかつて記録が無いようですが17cmの降雪を記録したとのことです。
急に厳しい寒さの中で雪が積もると、水道管が凍るどころではなく、交通は全面的に麻痺状態となりました。たぶんチェーンとかスタッドレスの準備をしている人は少ないでしょうし、市内の道路や高速道路・飛行場の滑走路の除雪器具も十分とは言えないでしょう。更にはバスの運転手さんとか飛行場の整備員さんも通勤手段がないでしょうから、交通機関は早々に今日の運行を諦めたようです。こうなると長崎観光も遠くにいくことはできません。従って今日は歩いて行ける範囲内を見物することにしました。
長崎のアパートの東側山裾には26聖人の殉教地がありそこには西坂教会と記念館があります。雪の積もった朝の坂道の階段にはすでに誰かあるいた跡があるので何とか教会に辿りつきました。日曜だから朝の礼拝があるはずなのですが大雪で時間を変更したようでした。26聖人の殉教は1597年豊臣秀吉の命令でなされました。これ以降キリスト教徒への弾圧が強化され各地で取り締まりが行われていきます。26聖人記念館も見学した後そこから中町通りを歩いて「長崎歴史文化博物館」に向かいました。大雪で屋外を移動するのは大変ですが大規模な博物館なら天気を心配すること無くゆっくりと見学することができます。しかしこの「長崎歴史博物館」の展示内容は私の興味とは少しずれていて入場料は高く感じました。
ここの展示で興味を引いたのが「Great Northan Telegraph」による国際電信回線のことです。日本が開国して間もない1871年デンマークの大北電信会社(Great Northan Telegraph)が長崎ー上海、長崎ーウラジオストック間に海底電信ケーブルを敷設して国際電信サービスを開始したのでした。東京と長崎の国内電信サービス開通が1873年なので、それまでの間の国際電信は東京から長崎まで陸送(玄界灘は船で)で運び長崎から世界に発信されたのでした。大北電信会社はグラバー園の麓の全日空ホテル近辺にあり現在記念碑が建っています。上海のバンドには現在でも立派な大北電信会社ビルが建ってるのです。
残念ながらこの日はサント・ドミンゴ教会の遺構が大雪のために閉館していました。この教会遺構は大変立派なものでその規模と丘の上立地から、創建当時はさぞ立派であったと思われるのです。嘗ては狭い長崎の町中に大規模な教会建築がいくつも建っていたのでした。その姿をコンピュータグラフィックで再現できないものでしょうか。
| 2016年01月23日(土) |
長崎の休日(一日目) |
2月の第二週に「すばる」の出向を控えて23日から3日半の休日を取りました。この機会に妻を長崎に来てもらいました。妻は沖縄旅行の経験はありますが九州は初めてです。その初めての九州旅行は大変な天気になりそうな様子です。今回西日本特に九州上空に非常に冷たい寒気団が流れ込んでいて、九州でも大雪になるとの予報がなされていました。長崎は午前中こそ太陽が非が差していましたが、午後からは厚い雲が立ち込め空気はどんどん冷たくなっていきました。妻の飛行機は一時間ばかり遅れましたが無事長崎に着きました。天気は雨模様ですがまだ本格的荒れてはいないので、荷物をアパートに置いて天候が崩れると楽しめないグラバー亭を見ておくことにしました。
まず大浦天主堂を見学してから「グラバー園」に向かいました。大浦天主堂からグラバー園までは遠藤周作が好んで歩いた「祈念坂」を登っていきました。大浦天主堂からグラバー園までは右の道が土産物屋さんで賑わうメイン道路、そして大浦天主堂の左から登る坂道が「祈念坂」です。この道は殆ど観光客が通らない急な階段の坂になっています。この坂道の途中に「レストハウス」がありますがそこからの眺めは素晴らしかったです。ナポリのサンマルティーノ修道院からのナポリ市内の眺めを思いだしました。グラバー園の主要な洋館を見て回りました。
晴れていれば「蝶々夫人」が「ピンカートン」を待って海を眺めるシーンを想像できるのですが、今日は生憎の雨模様でした。日本に来たことがない「プッチーニ」の「蝶々夫人」は長崎の雰囲気を良く描き出していると思います。特に悲しい「ある晴れた日に」は奥深い長崎港に入ってくる船の様子と、それを待ちわびる「蝶々さん」の気持ちを劇的に表現していると思います。グラバー園の後は旧正月の準備に入った中華街を見物して駅前のアパートに戻ってきました。

遠藤周作文学館に行ってきました。数年前に購入した「遠藤周作で読むイエスと12人の弟子」という本に、遠藤周作文学館が長崎の五島灘という海を臨む岬にあるという紹介があって、ぜひ一度訪れてみたいと思っていました。長崎には他にも興味深い名所・旧跡が沢山あるのですが、長崎での最初のフリーになった休日は「文学館」を選びました。
「文学館」は長崎駅からバスで1時間以上かかる市内からは随分離れた場所にありました。「文学館」は「道の駅夕日が丘」バス亭の近くにあるのですが、長崎駅から直通バスが少ないので、「桜の里ターミナル」まで行ってそこからバスの乗り換えて「道の駅」に行くことになります。私は数少ない直通バスを逃してしまったので乗換便を利用しました。乗換便は不便ではありますが、乗客は少なく「大きなバス独り占め」のような雰囲気でした。時々まどろみながらのバス旅も楽しいものでした。複数の旅人ならレンタカーが便利でしょう
「文学館」も予想通り見学客は私一人でした。昼近くになって女性3人組が入ってきました。文学館は「遠藤周作全人生」を展示していますが、私は展示品よりもその立地に感ずることがありました。文学館の西はどこまでも続き「五島灘」です。夕陽が美しく有名なようです。そして北側には「そとめ」の集落が見渡せます。その集落の中心には「出津教会」の白くて大きな建物があります。長崎では街中でも郊外の集落でも立派な教会が町のシンボルのようになっています。それはイタリアの都市の街並みを彷彿とさせるものです。しかし立派な教会は嘗ても厳しいキリスト教弾圧の歴史の上に建っています。ローマのサンピエトロ教会も「使途ペトロ」の処刑場所に建てられた教会です。
しかし遠藤周作の目は後世の人々に神聖化された殉教者にではなく「踏絵を踏んだ」人達に向けられました。殉教して聖人となった使途達ではなく、キリスト処刑の際にキリストを裏切った11人の弟子の「心持」に向けられました。そして「海と毒草」で表題に用いられた「海」です。海は美しく雄大ですが人間の運命を翻弄してしまう大きな力の象徴として考えられています。「踏絵を踏んだ人達」「キリストを裏切った弟子達」「倫理観が欠如して非人間的な行為を行う者達」の運命には抗しがたい「海」の力が付き纏っています。殆どの人間はその力に勝てないのです。文学館では「遠藤周作と歩く長崎巡礼」という本を買ってきました。暫くは遠藤周作流の長崎見物に浸ってみたいと思います。
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