ドック終了後会場走行試験を行い本日午前900に長崎の西泊に戻りました。
下関三菱造船所でのドックが終了し、本日7時下関を出港し長崎に向かいました。
今日の飛行機(JAL293便)で「下関」に戻りました。ケーブル敷設船「すばる」の下関でのドックも後数日残すだけとなりました。1月10日にはドックを出て海上で走行試験を行い、その結果が良ければそのまま長崎港に戻ります。ドックの期間中お世話になった「彦島荘」ともそろそろお別れとなります。
今後ドック中の大きな仕事としては、ドック期間中にドックヤードの冷蔵庫・冷凍庫に保管しておいた「すばる」の食料を「すばる」の冷蔵庫・冷凍庫に戻す作業があります。ドックの期間中船内の電源を切ってドック作業をするため、悪くならないように食料を一時退避しておいたのでした。約一か月分の船員の食料ですので大変な量になります。
JAL293便は羽田から山口宇部空港に飛びます。山口宇部空港から下関までは「リムジンバス」が運航されているので便利です。
| 2016年01月01日(金) |
あけましておめでとうございます。 |
2016年の正月を「さいたま」で過ごしています。今年は暖冬のようで年末から良い天気が続いています。「下関と長崎」は暖かかったのですが関東も非常に過ごしやすい正月となっています。恒例の二年参りで近くの「沼影観音」に行きましたが昨年とは大違いの暖かさでした。昨年秋に信州の田舎から着物を持ち帰ってから急に「着物を着る事」を楽しみを見出した妻は元日の朝から着物姿でした。御岳神社への初詣にも着物を着ていきました。最近の嫁入りでは「着物」を嫁ぎ先に持ってくるという慣習は無くなっているのでしょうが、35年前にはそういう「嫁入り」はまだ一般的でした。従って田舎の実家には妻が持ち込んだ着物が沢山あり、それを昨年秋に「さいたま」に運んだのでした。せっかくの着物ですから正月のように気分の改まる時期に着てみることは良いことです。
御岳神社ではこれまた恒例となった今年占うの「おもくじ」をひきました。 ことしの運勢は「中吉」で「正しい生活をしていると親戚や他人から便りがあり喜び事が起こります。天にまかせて思い悩むことは無用です。」とのこと。
願い事:他人の助けを受けて望み事がかないます。急がぬことです。 待ち人:早くはきません。便りがあるでしょう。 失し物:手近にありますがなかなか見つかりません。 旅 行:旅先で遠くへ行かない方が良いでしょう。 商 売:大量に買うと損をします。 学 問:怠ると危ないです。努力してください。 方 向:北ならばよいでしょう。 争い事:よくありません。控えて時を待つことです。 求 人:思うようになりません。 転 居:今は良くないので暫く待つことです。 病 気:軽くはないので大事をとることです。 縁 談:急に相手の気持ちが変わります。心を安らかに持つことです。
これを肝に銘じて健康に気を付けて過ごしたいと思います。
昨日の夜に下関から長崎に移動しました。先月契約した長崎のアパートに一泊して今日は朝から不動産屋さんからアパートの最終的な契約書を受領しました。今年の12月は下関の三菱重工下関造船所でのドックに勤務しながら、長崎にアパートを探して契約を締結するという非常にタフな活動をしました。住む場所がケーブル敷設円「すばる」、造船所の宿舎「彦島荘」、長崎の単身赴任用のアパートと一挙に3カ所になったのですから、手続きが大変だったことや、どこのどんな荷物を運ぶべきなのかとか、かなり難しい引越しをこなしたと思います。一挙に3カ所の住処作りなのでかなりの分割損が出た勘定ですが、長野の実家を整理して使えそうな物を運び出していたことは大変役立ちました。今日でその作業を終了で長崎から「さいたま」に帰省します。
これだけの活動をして、殆ど間違えなく且つ事故もなく作業を終えることができたことには我ながら感心しました。勿論のことですが年末12月の恒例行事の「年賀状作成」と「お歳暮」手配、アパートの高熱水料の支払い関係はさいたまの妻に担って貰いました。私としては「各所の鍵」を失くさないこととか、持ち歩いた「現金」を間違いなくキープすることとか、必要な書類を失くさないとか、さまざまな「危険」に対処するこてで精一杯でした。しかもそれに並行して「新しい任務」を遂行するために全力を尽くすことが要求されました。やはり自分の年齢を考えて無理をせずに、出来る範囲内を確実にこなそうと考えたことが良かったと思います。記憶力と注意力が確実に衰えている分確認作業に時間を掛けました。これからこういう行動が更に必要になってくるのでしょう。
最初は「長崎〜羽田」の最終便を予約していたのですが、不動産屋さんとの契約書類等取り交わしが短時間で済んだので、急遽午後早くの便に変更して明るい中にさいたまに戻ることができました。年末の飛行機便は「都会→田舎」に客が殺到すると思いますが、その便の帰り便はかならず飛ぶので「田舎→都会」の便の変更は容易なようでした。申訳ないのですが長崎からのお土産は無し。家へのお土産選びに費やすエネルギー消費を減らして空港での待ち時間は寝ていました。

手前が「巌流島」です。下関の彦島は平家の最後の拠点となったことで有名ですが、更に宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した「巌流島」でも有名です。ちょうど乾ドックから出た船から巌流島が見渡せます。巌流島へは下関の唐戸から渡し船がでています。彦島のドック近くを歩いていたら彦島からも「渡し舟」がでていることを知りました。こちらは定期船ではなく、必要な場合には看板に書かれている携帯電話に電話すると迎えに来てくれるもののようです。
「巌流島」という名前は佐々木小次郎の「巌流」から取られたもので元々は「舟島」といいます。現在滞在しているドック付属の宿泊施設の近くには「ふなしま」という人気の食堂があり、そこは夕方ドック帰りの工事の方達が一日の疲れを癒す憩いの場となっています。巌流島の向かいに彦島側には「弟子待」という地名も残っていてこの辺りを走るバスの中には「弟子待行き」という路線があります。これは佐々木小次郎が応援にやってきた弟子を巌流島には上陸させずに向かいの彦島側に留めおいた場所だとされています。高い場所からだと「巌流島」内もある程度見えますが、彦島の海岸などの低い場所からは「巌流島」の決闘の様子をうかがうことは難しかったと思われます。別の話題ですが「けっとう(決闘)」が「血糖」と変換されるのには困ったものだと思いました。
12月初旬から山口県下関に滞在しているのですが下関には大学時代に同じゼミだった旧友が住んでいるのです。彼の実家は山口県の瀬戸内海側の島(広島県に近い)で旅館を営んでいたので、私の広島勤務の時代に彼の実家を訪れたことがありました。その後彼の東京勤務時代に何度か会いましたが、お互い還暦になった今年下関で会えることとなったのです。今日は彼の自宅マンションを訪問し、その後で彼がアレンジジしてくれた下関料理の店で大変美味しい晩御飯を頂くことになりました。彼が考えて注文した料理は下関を一晩で満喫して余りあるものでした。
還暦を迎える年代になると仕事でも家庭でも様々な変化が起こります。彼は30年以上務めた仕事から離れて新たな世界に飛び込もうとしています。私はというと同じずっと同じ系列の会社とは言え「船の乗る仕事」に変わろうとしています。そのために下関までやってきました。不安と期待が混ざったかなり複雑な心境であることに違いはありません。ちょうど就職期を迎えた大学時代のようなものです。其の頃の心境に近いものがありお互い懐かしくかつ気恥ずかしく思い出しているのだと思います。
一方学生時代には考えていなかった様々な課題もも目の前にぶら下がっています。自分・妻の健康には十分気を付けなければなりません。若いころも「無茶」はできなくなりました。自分・妻の親のこともあります。私の方は自分・妻の親は全員亡くなってしまいましたが、彼は当面お母さんの介護に時間が必要となる状況だということです。空っぽになった田舎の土地・建物の問題もあります。またお墓・お寺さんとのお付き合いもあります。彼は田舎から墓を移してお寺さんとの関係も下関で新たに始めたようです。私はお墓・お寺さんとの関係を田舎の残したままにしています。既に大きくなった子供たちの結婚問題はお互いまだまだ解決は遠いようです。色々な課題がありますが、全て円満になどと考えずに少しずつ取り組んでいくことが必要だと思います。そんな気持ちが共感できるので彼と話していると気が休まります。
| 2015年12月15日(火) |
引っ越し荷物受け取り |
先週土曜日に「さいたま」で妻に搬出の立ち合いを頼んで運び出した荷物が、今日3時半少し前に長崎に到着しました。アート引っ越しセンターの単身赴任向けの引っ越しサービスは男性二人で3階の私の部屋まで約30分で荷物を運び入れてくれました。荷物が無い部屋はガランとしていて自分の部屋ではないようでしたが、懐かしい整理ダンスだとかいつも見ていた小物を箱から取り出すと急に自分の部屋らしくなってきました。本来衣類等を収納するための整理ダンスは妻に言わせると非常に便利でいろいろなものがしまい込めます。さいたまのマンションの整理ダンスにパソコン関係の雑多な品物が収納されていますが、長崎の整理ダンスも同じような状況となりました。
ここで生活をするためには買い揃えなければならないものが沢山ありますが、コンビニで間に合わせることができる物はできるだけ買わずにすませようと考えています。例えば冷蔵庫はまだ必要ありません。コンビニで食料は買えるし、アルコール類は「血糖値対策」でかなり量を減らしているので「常備」する必要はないと思っています。洗濯機もないのですが近くにコインランドリーがないので洗濯をどのようにするか思案中です。テレビもないのですがCATVが管理費の範囲内で見ることができるので安い中古品でも買おうかと思っています。
先週長崎に単身赴任ための住む場所を決めました。下関から何度も長崎に通えないので、12月の初めに見ておいた部屋を借りることにしたのです。今日下関から長崎に移動して午後部屋の契約・支払いを済ませて、明日15日にさいたまから引っ越し荷物を運び入れる算段をしました。さいたまと長崎では何回も往復できませんから一回の引っ越しで必要なものを送ってしまわなければなりません。
長崎での住処は長崎駅近くの非常に便利な場所にありますが、部屋が狭い分賃料は安く収まっています。基本的には「船」に乗船することとなるのでどの程度住むこととなるのかわかりませんが、借りた部屋でも「自宅」ですので帰ってきたときに気が休まる必要があります。それが「ホテル」と違うところです。部屋を借りると同時に、電気・水道・ガスの手配をしました。これも快適に住むためには欠かせないインフラです。悩んだのが「ネット環境」です。これままだ決めていません。部屋に回線を引いても部屋に滞在する時間が少なければ役に立ちません。ここが難しいところです。
| 2015年12月13日(日) |
彦島の「平清盛石塚」 |

現在滞在している三菱重工下関造船所は下関市の彦島にあります。彦島は本州の最西端の場所にあり南は関門海峡を挟んで北九州市です。この彦島は源平合戦の最終段階で平清盛の4男の「平知盛」がこの彦島に陣を構えました。兄の「宗盛」が屋島に敗れると「宗盛」は安徳天皇とともに彦島の知盛と合流します。そして最後の決戦「壇ノ浦の合戦」となるわけです。この彦島のほぼ東側のちょうど関門海峡を見下ろせる小高い丘の上に「平清盛石塚」があります。彦島は「平家」の子孫の方が多く住んでいて昔からの言い伝えがあるようです。この石塚の開設には以下のように書かれています。
「寿永三年(1183年)中納言平知盛は亡き父清盛の遺骨を携えてこの彦島に入り平家最後の砦「彦島城」の築城にとりかかり「砦」と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立した。よく四年3月24日壇ノ浦の合戦に出陣したが再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。」ということのようです。平清盛は息子たちに最後まで源氏と戦えと言い残して亡くなったそうです。清盛の遺骨を携えて源氏と戦ってきた平知盛は九州に逃れる道は最早なく、東からは義経郡が攻め寄せる状況で「彦島」を「最期の地」と考えた可能性は十分に考えられるところです。この石塚の横には「携帯電話の送受信塔」があります。このあたりでは見晴らしの良い場所 だと思います。
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