AFCサッカー選手権決勝が行われ、オーストラリアが韓国を「2対1」で破って優勝しました。両チームとも予選グループリーグの戦いにおいては、危ない場面もあって「戦力的」には日本よりやや劣っているのかなと思っていましたが、決勝トーナメントに入ってから試合毎にどんどん成長してきたようです。決勝戦は素晴らしいゲームとなったようです。(ハイライトしか見ていません)
両チームとも若い人材が育ってきていることがポイントです。昨年6月のワールドカップでアジア勢は予選リーグで惨敗でした。日本も韓国もオーストラリアもひとつの試合も勝てませんでした。そのどん底からオーストラリア、韓国は「世代交代」を図ってチーム力を強化してきました。そのライバル2チームに対して、日本は殆どワールドカップのメンバーで、「闘い方」もほぼ当時のままで今回のAFCの戦いに望み、見事予選リーグ敗退となりました。果たして次のワールドカップに出場することはできるのでしょうか。
イラクとシリアの両国に跨って自ら「イスラム国」を名乗っているイスラム原理主義(過激派)が勢力を維持しています。そのイスラム国に忠誠を誓ったというエジプトの反政府組織がエジプトシナイ半島でエジプト軍・警察組織を襲って30人程の死者を出したそうです。中東の国々においては自国政府に不満を持つ反体制派が武力に訴えて反乱を試みる事件が相次いでいます。各国の反政府組織はどうも「アルカイダ系」「イスラム国系」の二つのグループに集約されて行きそうです。
現在はこの「アルカイダ系」と「イスラム国系」は対立関係(ライバル関係)にあるとされていますが、果たして今後とも対立の構図が続くのかどうか不明です。というのも両者には「イスラエル」「米・欧州」「自国の専制王政政権」という共通の敵があります。現在このような共通の敵を横において勢力争いをしている状況なのです。この二つの流れは「アルカイダのテロ能力」と「イスラム国の人民統治能力」を併せ持つ組織に一体化されない保証はどこにもありません。
イスラエルは現在モスリム内部の争いに「高みの見物」を決め込み、米・欧州連合は「空爆」に徹しています。現地で直接戦っているのは「イスラム国に敵対する反政府勢力」ですが、この勢力は非常に頼りない組織です。イスラム国に正面から挑んで優勢に戦っているのは「トルコ系クルド人組織」だけで、クルド人勢力以外のシリア・イラクの反イスラム国勢力はアメリカがどれ程訓練して武器を提供しても「イスラム国」と真っ向から勝負するとは思えません。
アメリカは「イスラム国」を決して「国」としては認めないでしょうが、それならばイラク・イラン・イエメンにおいてどのような勢力が政権を握るのと期待しているのでしょうか。「イスラム国」に対抗できる「健全な反政府組織」を育て上げることができるのでしょうか。その「健全は反政府組織」は「イスラム教」とどのような距離を持つべきなのでしょうか。残念ながらトルコのような安定した非イスラムの「世俗政権」を樹立するのは難しいと思います。むしろ統治能力がある「イスラム国」の変革・発展に期待することはできないのでしょうか。「日本人人質事件」はまだ解決していませんが、人質解放に向け当事者間で「交渉」ができる状況であるとすると、「イスラム国」は以前に比べて変化してきているような気がします。
思い返せば、第二次世界大戦では先進国どうしで戦い、ユダヤ人大虐殺があり、日本の東アジア侵略があり、戦争解決のために「二発の原爆」が必要でした。その時からまだ70年しか経っていないのです。西側あるいは欧米諸国が「十字軍の野蛮さ」「南北アメリカ大陸の住民虐殺」「奴隷制」などの蛮行から「健全な社会」に変わるためには数百年の年月が必要でした。「イスラム国」が変質し国際社会に受け入れられるような国になるという状況は不可能なのでしょうか。
| 2015年01月29日(木) |
オバマ夫人・インドネシア女性に注目 |
オバマ大統領夫妻がサウジアラビアを訪問しました。サウジアラビアのアブドゥラ国王の追悼のためにインド訪問を切り上げての弔問でした。オバマ大統領は「サルマン新国王」との首脳会談に臨み、両国間の懸案事項である原油価格問題を話し合ったものと思われます。しかしネットで話題になったのは「ミッチェル夫人」の方でした。
非常に敬虔なイスラム教国サウジアラビアに現れた「ミッチェル夫人」は肌の露出は控かえたものの、頭をスカーフで隠すことなく、あっけらかんと「サルマン新国王」と握手しました。アメリカ大統領夫人ですから可能だったのですが、サウジアラビア国の女性と他のイスラム諸国の女性にとっては非常な驚きであったと思います。こういう大胆な行動を堂々としてしまうミッチェル夫人は大したものだと思います。
クリントン夫人とかキャロライン・ケネディ大使なら、頭にスカーフをかぶり現地の風習を重んじたと思います。アメリカのエスタブリッシュメントに属する人達には、やはり何処か保守的な行動パターンが見られると思います。しかしオバマ大統領にも更にミッチェル夫人にも「過去の権威・過去のしきたり」等に拘るのではなく、現在の自分達の気持ち・誠意を精一杯表現しようとする「人間性」が勝っているように思われます。
インドネシアで「セルフィー」が流行っていて、ネット上に若い女性の素顔が大胆に掲載されていることに対してイスラム法学者などが苦言を呈しているという話があります。スマホ世代のインドネシアの若者にはネットで自己表現することは全く自然な行為なのです。自分を表現することを当たり前に考えているインドネシアの女性の行動は非常に大切だと思います。
インドネシアの若い女性、オバマ夫人等現代の女性が堂々と自己表現していることに将来に対する明るい見通しを持つことができると思います。ミッチェル夫人には是非ともアメリカ大統領を目指して欲しいと思います。インドネシアの女性にはどんどんセルフィーで自分を撮影して、将来の夢に胸を膨らませる美しい顔をどんどん掲載して欲しいし、スカーフを奇麗ですが、スカーフを取って様々な髪型を試してみて欲しいと思います。
| 2015年01月28日(水) |
アンネ家族とアウシュビッツ |
大昔からある「アンネの日記」を読み返しています。1月27日がアウシュビッツ強制収容所の解放日だったので、アンネの家族の生活を辿ってみたいと思います。
1926年6月12日、アンネがフランクフルトで生まれる。生きていれば今年の誕生日で89歳。
1933年、ドイツでのナチス党台頭の状況下フランクフルトから家族でアムステルダムに引越し。
1942年7月、秘密の隠れ家に引越し。
1944年6月、連合国のノルマンディー上陸作戦開始の情報に希望を抱く。
1944年8月4日、アムステルダムの「隠れ家」が発覚。その後オランダの強制収用所に家族で連行される。
1944年9月3日、連合軍の進軍のため、収容所のユダヤ人はアウシュビッツに向けて出発。
1944年11月、アンネと姉マルゴットはアウシュビッツからドイツのベルゲンベルゼン収容所に移される。
1945年1月、アンネの母エディットがアウシュビッツにおいて病気で亡くなる。
1945年1月27日、ロシア軍によってアウジュビッツが解放され父オットーが救出される。
1945年2月、ベルゲン・ベルゼン収容所で姉マルゴットが病気で死亡。
1945年3月、ベルゲン・ベルゼン収容所でアンネが病気で死亡。
1945年4月15日、ベルゲン・ベルゼン収容所解放
1980年8月、アンネの父オットーが亡くなる。
昨日のアウシュビッツ強制収容所解放70年の式典には収容所から解放された300人程の生存者が参加したそうです。もしアンネがそのままアウシュビッツに収容されていて1月27日に救出されていれば今年89歳ですから、まだまだ元気にこの式典に参加できていたはずです。しかしアンネの家族には不幸や不運が重なり、戦争を生き抜くことが出来たのは父親のオットーひとりでした。
アンネは私の亡くなった母より「5歳」も年下でした。アウシュビッツも太平洋戦争も現代の戦争なのだということは忘れがちです。「アンネの日記」のようにキチンと歴史を記録することが大切なことを痛感します。
| 2015年01月27日(火) |
アウシュビッツ・リメンブランス・デイ |
1月27日はポーランドのアウシュビッツで「アウシュビッツ強制収容所解放70周年記念」の式典が行われます。1945年のこの日アウシュビッツに到達したソ連軍によってアウシュビッツ強制収容所が解放されました。今年2015年は解放70周年で特別なセレモニーが行われるのだそうです。ヨーロッパの主要国首脳が出席して行われることになっています。70年前に収容所解放を行ったのが「ソ連軍」ですが、ロシアのプーチン大統領は欠席だそうです。ポーランド大統領が最初にアウシュビッツを解放したのは「ウクライナ兵だった」と発言したことに対する反発だという噂です。そのロシアは5月9日に対独勝利70周年記念のセレモニーをモスクワで開催する予定でそこに主要国首脳を招待しているそうです。
近隣の中国・韓国も対日戦勝利70周年記念のセレモニーをそれぞれ開催することになるようです。中国・韓国との現在の関係を考えると日本政府首脳が参列することにはなりそうもありません。8月15日には日本政府も日本国民が静かに敗戦70周年を迎えることになりそうです。そうした終戦70年の節目も意義があるのではないかと思います。天皇陛下が正月元旦に発表された言葉が非常に印象的でした。その通りだと思います。「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今極めて大切なことだと思っています。」
今のところ終戦70周年の特別なイベントとしては「日本政府のメッセージ」があるだけです。中国・韓国国民だけでなく日本国民も終戦70周年の日本政府のメッセージに注目しています。これまでの政府見解は20年前の「村山談話」です。安倍首相は基本的に村山談話を踏襲するも、「今までのスタイルを踏襲することなく」と言い始めています。日本国政府の気持ちをより的確に表す「表現」があればベターですが、「言葉」の選択には十分注意して欲しいと思います。一旦政府談話が確定すると20年或いはそれ以上日本政府(国民代表)の公式見解となるのですから。日中国交回復交渉では「迷惑」と言う単語を巡って中国と日本の間で悶着がありました。
そして将来とも日本国内から異論の出ないような形で作成して欲しいものですし、河野談話のような状態にならないように十分に練り上げて欲しいものです。そして何より近隣諸国から歓迎されるメッセージでなくてはなりません。
| 2015年01月26日(月) |
オバマ大統領のインド訪問 |
今日26日はインドの共和国記念日(憲法制定日)です。ニューデリーでは大規模な祝賀行事が開催されますが、今年はアメリカのオバマ大統領夫妻が出席しました。昨年就任した「モディ首相」との蜜月関係をPRするオバマ大統領の訪問でした。オバマ大統領は明日27日にアグラのタージマハールを訪問する予定でしたが、これを急遽キャンセルしてサウジアラビアを訪問することになりました。23日に亡くなったサウジアラビアの故アブドラ国王の弔問に行くことになったためです。
世界最大の産油国でOPECの中心的な存在のサウジアラビアの同行は世界の原油価格を左右します。急激な原油価格低下でアメリアのシェールガス業者が「ヒーヒー」言っている状況なので、このあたりで「中期的な原油生産量の腹合わせ」をする必要があります。また弔問外交で「ISIS」との戦い、イスラエル・パレスティナ問題での突っ込んだ話し合いも可能だと思います。
既にノーベル平和賞を受賞しているオバマ大統領としては残る任期中に何とかノーベル賞に相応しい功績を残したいところでしょう。キューバとの関係改善に加えて中東でもポイントを追加できればかなりのものです。今年は第二次世界大戦終戦から70周年。これから世界各国で行事が目白押しです。解決できそうな課題からひとつひとつ解決していくことが大切だと思います。
| 2015年01月25日(日) |
ISIS日本人人質事件 |
ISISに拘束され人質となり身代金2億ドルとの交換を要求されていた「後藤さん、湯川さん」ですが、「湯川」さんが殺害された模様です。そして残った人質「後藤さん」の交換条件としてヨルダンに拘束されている女性テロリストの釈放という新たな条件が提示されました。
日本政府の立場としては「テロには屈しない」というものなので、2億ドルの身代金支払いもできないし、人質釈放のために拘束されている「テロリストの釈放」を求めることは難しいので、「後藤」さん救出は非常に困難な状況にあると思います。兎に角事件が進行中であり、日本政府は現時点で精一杯のことをしていると思いますので、「後藤さん」が無事救出されることだけ祈っています。
| 2015年01月24日(土) |
ラグビーワイルドカードトーナメント一回戦 |
ラグビー全日本選手権出場を目指して、トップリーグAグループの5位から8位チームとBグループの1位から4位チームによる選手権出場の2枠を争ってワイルドカードトーナメントが一回戦の二試合が行われました。NTTコムアークス(Aグループ8位)はリコー(Bグループ首位)と秩父宮で闘いました。今日負けてワイルドカードトーナメント敗退が決まると今シーズンの最後の試合となります。妻と一緒に出かけて応援してきました。
試合は「12対16」でリコーが勝ちました。この試合まずアークスがペナルティゴールを決めてリードしたものの、リコーの早いパス回しで押し込まれて闘う場面が多く、結局アークスはトライをあげる事が出来ませんでした。NTTアークスにはトップリーグ第7節のサントリー戦の時のような「勝利への執念」は見ることが出来ませんでした。結局アークスはトップリーグ後半戦からワイルドカードトーナメントまで全敗となりました。
この試合で相手リコーで非常に目立ったのが「スタンド・オフ」背番号10番の「コリン・ポーク」選手です。大型の選手ですが非常に機敏な動きで神出鬼没の選手です。ポーク選手を基点とする攻撃が非常に多彩なため、リコーの攻撃力が増します。キックで味方を走らせる攻撃も多彩ですが、パスしたボールを再び受け取って自分で走りこむ攻撃にも威力があります。更に体が大きいので守備力もあります。今日NTTアークスはの試合は「ポーク選手」の巧みな試合作りに負けたような感じでした。今日はスクラムでは押し負けていなかったのですが攻撃力の差が出てしまいました。ラグビーはチームとして「攻撃の型」を作り上げることが大切だと思いました。
| 2015年01月23日(金) |
サッカー日本代表UAEの敗れる |
オーストラリアで行われているサッカーアジアカップはグループステージを勝ち抜いた8チームの間で決勝トーナメントが始まっています。韓国・オーストラリアが既に準決勝進出を決めています。日本はUAEとあたりましたが延長線も闘い「1対1」で決着付かずPK戦で敗れました。
日本はグループステージでは対戦国に恵まれたと思います。昨年ブラジルワールドカップで1勝つも出来なかった チームから殆ど進化していないチーム力ですが、グループステージは首位通過してしまいました。しかし決勝トーナメントでは通用しなかっただけのことだと思います。PKを失敗したのが「本田」と「香川」というブラジルワールドカップの日本代表のコアメンバーだったことは皮肉ですが実態を表していると思いました。
今回のAFCの結果・、昨年のブラジルワールドカップ惨敗から日本代表の闘い方を根本から見直して欲しいと思います。アギーレ監督の采配は今日が最後だと思いますので、しっかりした監督人事を行って欲しいと思います。日本代表が世界レベルに近づくためには、中長期的なチーム力強化が必要だと思います。やはり「機動力サッカー」を目指し、「全員の走力強化・パススピードアップ・長距離パスへの対応力強化」のために若手中心の代表育成をするべきだと思います。
| 2015年01月22日(木) |
チャイコフスキー「フィレンツェの思い出(Souvenir de Florence)」について |
昨年秋にフィレンツェを旅する機会を得たのですが、それをきっかけにしてチャイコフスキー作曲の弦楽六重奏曲作品70「フィレンツェの思い出」が気になっていました。楽曲はボロディン四重奏団(チェロパートはベルリンスキー)にヴィオラとチェロが参加したCDを借りてきて何回も聞きました。一楽章冒頭から非常に濃密に書かれた音楽で演奏も素晴らしいです。チャイコフスキーがどんな気持ちでこの曲を書いたのか興味が湧いて少し調べてみました。
チャイコフスキー(1840〜1893)のイタリアに纏わる曲としてはブラスバンドでも良く演奏される「イタリア奇想曲」が有名です。イタリア奇想曲は作品45で1880年の作品であり「フィレンツェの思い出」は1890年作曲の作品番号は70番です。「悲愴」交響曲が作品74番です。チャイコフスキーは「悲愴」を作曲した後数か月後に亡くなりますので、「フィレンツェの思い出」はチャイコフスキーの晩年(死の3年前)の作品ということになります。非常に明るい「イタリア奇想曲」とは時代が違います。
チャイコフスキーの音楽生活を語るとき「ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック(1831〜1894)(メック夫人)」の存在は避けて通れません。メック夫人は夫の鉄道事業成功で大金持ちになりました。彼女は非常に権威主義的で自分の子供達の結婚にも口を出したという封建主義的な方のようですが、音楽家を育てることには非常に思いれがあり多くの音楽家を助けました。チャイコフスキーはメック夫人お気に入りNo1だったようです。チャイコフスキーには1877年から1890年まで13年間に渡って毎年多額の援助をしまし、そのお蔭でチャイコフスキーは作曲に専念することができました。この間チャイコフスキーの多くの名曲が作曲されました。有名な所では交響曲第4番(作品36)がメック夫人に捧げられています。チャイコフスキーが数々の名作を後世に残すことができたのはメック夫人のサポートのお蔭でした。
しかしメック夫人とチャイコフスキーの関係は非常に風変りな関係でした。10数年間大金を送り続けたメック夫人はチャイコフスキーと会おうとはしなっかのでした。その代わり二人の間では1200通を超える手紙の遣り取りがありました。メック夫人は自分が死んだ後には手紙の全てを廃棄することを言い残したようですが、膨大な手紙は子孫の手元に保管され現在はネット上でもチャイコフスキー愛好家が読めるようになっています。手紙に中ではチャイコフスキーの作品のこと、恋愛めいた話等非常に緊密な交信がなされているようです。メック夫人はチャイコフスキーに対してどんな感情を抱いていたのか。愛情もあったと思われます。
メック夫人とチャイコフスキーは記録ではロシアで一回だけ会っているようです。しかしイタリアのフィレンツェにあるメック夫人の別荘にチャイコフスキーは何回も滞在したことがあるので、その別荘であるいはフィレンツェの音楽会で二人が顔を合わせていたことは十分に在り得ることです。もっと言うとロシアではなく外国のフィレンツェならばもっと大胆に会えたのではないかと想像できます。チャイコフスキーの作品45のイタリア奇想曲はチャイコフスキーが一回目の結婚が破綻して心に傷を負ったときに滞在したイタリア・フィレンツェで構想されたのでした。このフィレンツェ滞在もメック夫人の計らいのようです。
チャイコフスキーは1886年サンクトペテルスブルグ室内楽教会会員に選ばれたお礼に室内楽作品を作曲しようと考えたようです。そして1887年に弦楽6重奏曲の作曲を開始しますがチャイコフスキーの筆はなかなか進みませんでした。しかし1890年フレンツェでスペードの女王の作曲に没頭しているころから急にこの弦楽6重奏曲の作曲が進展し1890年に完成しています。
時期的にピッタリ合致するかどうか詳しく分かりませんが、チャイコフスキーは13年間支援してくれた「メック夫人」の破産を、そして彼女は病気で床に臥せっていることを知って、メック夫人のために「弦楽6重奏曲」を作曲したのではないかと想像されます。チャイコフスキーとしては大きな交響曲ではなく病室に奏者を招けばベッドでも聞くことが出来る室内楽を選んだのでした。お世話になったメック夫人の別荘で今度はメック夫人を慰める為に「フィレンツェの思い出」を書いたのでした。
日本語では「思い出」と訳していますが単語は「Souvenir」です。多分メック夫人が二度とフィレンツェを訪れることがないだろうと考えたチャイコフスキーが「フィレンツェ」を音楽に託したのだと思います。更に言うと手紙の遣り取りとは別に「チャイコフスキーとメック夫人」が同じ時を過ごすことができた「フィレンツェでの時間」が「Souvenir」なのかもしれません。これはチャイコフスキーとメック夫人の二人にしか意味が分からない題名なのかもしれません。
因みにメック夫人の別荘はフィレンツェ市を流れるアルノ川の南の丘の上「Florence via di San Leonardo 64」にあったのだそうです。現在はグーグルマップで付近の様子を知ることができますが、大きな屋敷が点在する保養地のような場所です。フィレンツェ中心街へのそれほど遠くはありません。メック夫人は売れっ子作曲家となったチャイコフスキーの「お土産」を聴いてさぞ嬉しかったことと思います。そのメック夫人は交響曲6番「悲愴」を作曲した後数か月後に亡くなったチャイコフスキーを追いかけるようにして亡くなったのでした。
「フィレンツェの思い出(6重奏曲)」は必ずしもイタリア風とは言えません。むしろ3・4楽章はロシア風の旋律だと思います。しかしこの曲が「メック夫人の思い出」を描いた曲だと考えると納得できる点が多く在ります。最初にメック夫人に捧げられた交響曲第4番に似ている部分が多々あるように思えるのです。第一楽章の唐突なな濃密さ、ロシア風の旋律、印象的なピチカート等・・・。「フィレンツェの思い出」をこのように聞いてみるのも良いのではないかと・・・思います。
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