2015年(未年)の私の年賀状です。「羊」は私の干支であり、「平和」で「ノンビリ」しているという印象があります。この「羊」のイメージにピッタリなのがバッハの「羊は安らかに草を食み」の音楽です。羊の絵とバッハ作曲のこの曲の楽譜を組み合わせてみました。
元旦の恒例で近くの神社に初詣しそこことし一年を占う「おみくじ」をひきました。私の干支の「羊年」なので箱の中の「おみくじ」をひくときには少し緊張しました。引き当てたの「おみくじ」の運勢は「大吉」で安心したのですが、詳しく読んでみるとかなり注意が必要な内容になっています。還暦の年の「おみくじ」で、内容が内容なので一年間忘れずに気を付けるように記録しておくことにします。
「運勢」:大吉:思うように見えてこころにまかせないことがある。思わぬ幸福があるようですが、よく気をつけないと後になって損をすることがあります。女難あり、女性は金難あり。気をつけることです。
「教え」:言い訳が上手くなるほど他人からの信頼は失われていく。
「天のみこえ」:ゆるされてまなびの窓をいづる子よ。思わぬ道にふみな迷いそ。
「言」:天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。
「願事」:初めに気をつけないと途中で失敗します。
「失物」:女性に尋ねなさい。知っているでしょう。
「旅行」:行きなさい。女性に溺れてはいけません。出費に注意することです。
「学問」:難しいです。さらに勉強することです。
「争いごと」:女性を相手にすると負けるでしょう。
「転居」:安心して変えてみることです。
「縁談」:女性は思うままになります。男性は取り消すのつかぬことが起りますから注意することです。
非常に天気が良く暖かい「大晦日」となりました。私は午前中に車の洗車にいってきました。オートでない自分で洗うタイプの洗車場がだんだん少なくなったこともり、大晦日の洗車場は大変混んでいました。少し待ちましたが無事に車を洗うことができました。私の場合、車を洗うと「雨」が降るのですが、1日・2日は良い天気が続いて欲しいと思います。
今年の年末・年始の休みは土日の関係で「9日間」の長期休みとなりました。この休みを利用して年内に「旅行」しようかと考えていたのですが、12月初旬に妻が「足指」を痛め、長時間の歩行が無理となってしまったのでこの休みは基本的に「家で過ごす」ことになりました。部屋の掃除・お正月料理の準備など比較的順調に進み、今日私が洗車している間に妻と長男がお正月料理の材料を買い込んできて一応買い物は終了しました。
時間が余裕ある分「テレビ」を見る時間も取れるのですが残念ながら面白そうな番組は殆どありません。と言うわけで、これまで録画してよく見ていなかった「マノン・レスコー」「ナブッコ」の二本のオペラを見終えました。 プッチーニの「マノン」、ベルディの「ナブッコ」は二人のオペラ作曲家の代表的な有名作品の「次」くらいに位置する作品だと思われます。それぞれ素晴らしい曲を持っているのですが、ストーリーの展開に「唐突」な部分があるように思われます。(何回も見ると分かってくるのかも知れませんが)
私は「赤・白」の間に少し休憩睡眠の時間を取り、「赤・白」が終わる頃に起き出して年越し蕎麦を食べ、近くの「観音様」に初詣に行きます。これが最近の我が家の「年越し」となっています。

年末掃除の片手間に少しですが自宅の趣味の収集品の整理しました。「象の像(置物)」が幾つかあるのですが、このチャンスに一同に集めて写真をとりました。1番大きな象はスリランカ南部の木彫りショップが集中しているヒッカドゥアという街で購入したものです。ヒッカドゥアはスキューバダイビングでも有名なので、スキューバを楽しみに来る外国人向けの土産物屋が多いのです。
インドのヒンドゥー寺院にも象がいることがありますが、スリランカの大きな仏教寺院では必ずと言っていい程、その寺所属の「像」を飼っています。一年を通して満月の日にはスリランカ国内のどこかの寺院で「祭り」が行われ、その際の催し物では「象」が主役を演じます。スリランカはインドより「本物の象」と身近に接することができます。象の像(置物)も色々なものがあります。上の写真ではスリランカで手に入れた置物が多いです。
インドで「象」というと「ガネーシャ神」ということになります。「ガネーシャ」はシバ神とパルバティ神夫婦の長男で「知恵・商売」の神として人々の人気を集めています。インドの商業の中心地「ムンバイ」は典型的にガネーシャの人気が高い地域です。ガネーシャ像はかなりデフォルメされ、様々な形のものがあるので趣味で集めるような種類のものではないように思えます。上の写真には「象の形をした像」だけを並べてみました。
| 2014年12月29日(月) |
2014年の献血記録 |
2014年は14回献血しました。今年の献血の状況を記録しておきます。数値はグリコアルブミン比率です。この値は過去2週間程度の血糖値の値を示しているのだそうです。基準値の値は「15,6」未満だということですが、GA(グリコアルブミン)の寿命がHbA1c(グリコヘモグロビン)の1/3程度だとことなので、HbA1c比率の3倍を目安として考えています。HbA1cの目標を「6」と考えていますので、GAの目標値は「18」ということになります。
第114回 2月 2日(日) 18.6% 第115回 2月22日(土) 18.4% 第116回 3月14日(土) 18.7% 第117回 4月26日(土) 18.4% 第118回 5月15日(木) 18.5% 第119回 6月 6日(金) 18.6% 第120回 6月29日(日) 18.2% 第121回 7月26日(土) 18.7% 第122回 8月15日(金) 18.8% 第123回 9月 6日(土) 18.1% 第124回10月18日(土) 18.7% 第125回11月 1日(土) 18,6% 第126回11月22日(土) 17.8% 第127回12月21日(日) 18.2%
今年の血糖値の状況を見ると、「目標」の「18」を切った回数が1回、18%前半が6回、18%後半が7回でした。残念ながら血糖値が目標通りコンとロールできたとは言い難い状況でした。
| 2014年12月28日(日) |
エアアジアの飛行機遭難 |
インドネシアのスラバヤからシンガポールに向かっていたマレーシアの航空会社エアアジア旅客機(QZ8501便)が消息を絶ちました。この飛行機は乗員乗客は162人を乗せて、28日の午前5時35分(日本時間7時35分)頃にスラバヤの空港を離陸しました。インドネシア航空当局の情報は同機が6時18分に消息を絶ったというものであり、エアアジアの発表は午前7時24分に機影が消えたというものです。情報はまだ錯綜しています。
飛行機との連絡が途絶える前に同機のパイロットでは「悪天候で雲をよけるために高度を上げたい」との連絡があったとのことです。飛行機がレーダーから消えるという事件は、今年3月8日の発生したマレーシア航空MH370便の遭難事件と状況が似ています。明日の夜明けから本格的な捜索活動が開始されますが、遭難のあった現地の机上が非常に悪いので捜索活動は難航するものと思われます。マレーシアの航空業界にとって2014年は悪夢のような年になりました。
それにしても日本のテレビ業界の年末報道体制には呆れます。8時から11時ごろまで地上波でもBSでも、NHKでも民放でも全くニュース番組がありませんでした。年末・年始特別番組に趣向を凝らし、一年を振り返り・色々面白そうな話題で特別番組を作り、視聴率を競い合う状況が当たり前になっていますが、他国の事、犠牲者に日本人がいなかったということもあるのでしょうがニュース報道が非常に軽くなることに少し怒りを感じました。
| 2014年12月27日(土) |
インド洋大津波から10年 |
10年前の2004年12月26日早朝にインドネシアのスマトラ沖で発した大地震はインド洋に大津波を発生させ、タイ・マレーシア・スリランカ・インド等のインド洋沿岸国に甚大な被害を与えました。大地震は現地時間朝7時58分(日本時間5時58分)に発生しました。マグニチュードは9.1あるいは9.3とも言われていて、歴史的な大地震でした。
私はその当時インドのムンバイで仕事をしていて。その翌年2005年の1月にインドに正式に引越しするために正月休暇で日本に帰国するすることにしていました。当時まだスリランカ勤務時代のスリランカの友人達とは頻繁に連絡を取り合う仲だったので、この津波襲来では大変心配しました。連絡がついた友人の間には犠牲者は居なかったので少し安心したのでした。
当時の日記を見てみると、津波は「アンダマン・ニコバル」にインド時間の朝7時50分に到着してるようです。これは日本時間の11時20分(時差3時間30分)ですから、地震発生後5時間20分後に津波がインド領土に到着したことになります。スリランカには同時刻か少し前ぐらい、インド本土東海岸チェンナイにはその1時間後に津波が到着しました。その津波の高さを10mにも及んだのだそうです。
スリランカ南部の海岸の町はこの大津波でなす術がありませんでした。海岸にある狭い平地をには貧しい人達が多く住んでいました。海岸に沿って走る国道に市場があったりするので人々が集まる場所でした。そういう場所が並みに飲み込まれました。その後2011年に東北大震災があり大津波が東日本を襲ったのですが、インド洋大津波は教訓とはなっていなかったようです。
| 2014年12月26日(金) |
フランシスコ法王のメッセージ(続き2) |
11. The disease of indifference to others. This is where each individual thinks only of himself and loses sincerity and warmth of human relationships. When the most knowledgeable person does not put that knowledge at the service of his less knowledgeable colleagues. When we learn something and then keep it to ourselves rather than sharing it in a helpful way with others. When out of jealousy or deceit we take joy in seeing others fall instead of helping them up and encouraging them.
他人に対して無頓着になる病気。この病気は各個人が自分自身のことだけを考え、他人との関係にある誠実さ・暖かさを失ってしまう病である。高位聖職者が自分より経験に少ない聖職者に対して自分の有る限りの全ての知識を与えないとか、自分が学んだことを他の人に教え・共有することをせずに、自分だけの秘密にして置くような場合も同様である。また嫉妬や不誠実の結果、他人を育て勇気づける代わりにその人が成長しないことを冷ややかに眺めることに喜びを感ずるような状況の病である。
12. The disease of a lugubrious face. Those glum and dour persons who think that to be serious we have to put on a face of melancholy and severity, and treat others – especially those we consider our inferiors – with rigour, brusqueness and arrogance. In fact, a show of severity and sterile pessimism are frequently symptoms of fear and insecurity. An apostle must make an effort to be courteous, serene, enthusiastic and joyful, a person who transmits joy everywhere he goes. A heart filled with God is a happy heart which radiates an infectious joy: it is immediately evident! So let us not lose that joyful, humorous and even self-deprecating spirit which makes people amiable even in difficult situations. How beneficial is a good dose of humour! We would do well to recite often the prayer of St. Thomas More. I say it every day, and it helps.
塞ぎ込んだ表情をする病気。ぶっきらぼうで厳しい表情。他人に対して重々しくあるために自分の表情を憂鬱で厳格に装うことが必要で、人々と接するときに(特に自分より下位の人々に対して)厳格で容赦無く傲慢に接することが相応しいと考えている人の病である。実際上、厳格さを装ったり、実態のない悲観はしばしば恐れと不安の症状であることが多い。聖職者は慇懃で穏やかで喜びに満ちた表情をするよう心掛けるべきであり、聖職者とは赴く場所全てに喜びを伝える人間なのである。神で満たされた心は幸福な心であり、人々に順次伝染していく喜びを発するものである。それは今直ぐに取り組むべきものである。我々は喜びを失うべきではなく、困難な状況にある人々に喜びを与えるためにユーモラスであることが求められ、時には自分を愚かにみせるような精神も必要となる。私達は時として「トマス・モア」の祈りを唱えることが必要となろう。私は毎日唱えていて、それに助けられている。
13. The disease of hoarding. When an apostle tries to fill an existential void in his heart by accumulating material goods, not out of need but only in order to feel secure. The fact is that we are not able to bring material goods with us, since “the winding sheet does not have pockets”, and all our earthly treasures – even if they are gifts – will never be able to fill that void; instead, they will only make it deeper and more demanding. To these persons the Lord repeats: “You say, I am rich, I have prospered and I need nothing; not knowing that you are wretched, pitiable, poor, blind and naked. So be zealous and repent” (Rev 3:17, 19). Accumulating goods only burdens and inexorably slows down the journey! Here I think of an anecdote: the Spanish Jesuits used to describe the Society of Jesus as the “light brigade of the Church”. I remember when a young Jesuit was moving, and while he was loading a truck full of his many possessions, suitcases, books, objects and gifts, an old Jesuit standing by was heard to say with a smile: And this is “the light brigade of the Church”? Our moving can be a sign of this disease.
財産の蓄えようとする病。聖職者が心の空虚を満たすために必要性からではなく単に安心のためだけに財貨を蓄えることがある。実際のところ「経帷子」にはポケットが用意されていないので、この世で蓄えた財貨をあの世に持っていくことはできない。この世の全ての財貨は、例えそれが贈られたものであっても心の隙間を埋めることはできない。逆にそれは財貨をより多く蓄積したく思わせ、より貪欲にさせるものになる。そうした人々に対して神は繰り返して言う。「貴方は金持ちで成功者で、この上は何も欲しくないかもしれないが、実は哀れで悲しむべき存在で、貧しく・眼が見えず裸なのであるから、熱心に祈り悔い改めなさい。」財貨の蓄積は唯単に人間の重荷となり容赦なく人の旅路の速度を遅くするだけである。そこで私は次の逸話を思い出すのである。「スペインのイエズス会では自らのイエス教会のことを“教会の灯台」だと表現しているが、或る時若いイエズス会徒が引越しの際にトラックに多くのスーツケースや書籍・飾り物・贈り物などの持ち物を詰め込む光景を脇で見ていた年配のイエズス会士が「これが”教会の灯台”の引越しですか」と嘆いたことを覚えている。我々の引越しはこの「病気の兆候」をよく表すものとなっている場合がある。
14. The disease of closed circles, where belonging to a clique becomes more powerful than belonging to the Body and, in some circumstances, to Christ himself. This disease too always begins with good intentions, but with the passing of time it enslaves its members and becomes a cancer which threatens the harmony of the Body and causes immense evil – scandals – especially to our weaker brothers and sisters. Self-destruction, “friendly fire” from our fellow soldiers, is the most insidious danger. It is the evil which strikes from within; and, as Christ says: “Every kingdom divided against itself is laid waste” (Lk 11:17).
閉鎖的な仲間関係。この病気は小さな仲間集団に隷属することが、教会に隷属することより、あるいはある状況においては神自身に隷属するより強く隷属することとなる病気である。この病気はしばしば最初は善良な動機から出発するが、しかし時間が経っていくに連れて周囲の仲間は教会組織の調和を破壊する「癌」に変質していき、計り知れない「悪・恥辱」を作り出す。特に我々の組織内の経験の浅い聖職者を蝕む。仲間集団から要求される「自己破壊要求・友好的な炎」は最も警戒すべき危険な兆候である。キリストは「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまう」と言っている。
15. Lastly: the disease of worldly profit, of forms of self-exhibition. When an apostle turns his service into power, and his power into a commodity in order to gain worldly profit or even greater power. This is the disease of persons who insatiably try to accumulate power and to this end are ready to slander, defame and discredit others, even in newspapers and magazines. Naturally, so as to put themselves on display and to show that they are more capable than others. This disease does great harm to the Body because it leads persons to justify the use of any means whatsoever to attain their goal, often in the name of justice and transparency! Here I remember a priest who used to call journalists to tell – and invent – private and confidential matters involving his confrères and parishioners. The only thing he was concerned about was being able to see himself on the front page, since this made him feel “powerful and glamorous”, while causing great harm to others and to the Church. Poor sad soul!
世俗利益追求・自己顕示欲の病。聖職者が「奉仕」を「権力」に変え、「権力」を世俗の利益やより大きな「権力」に変えるための財貨に変えようとする病である。これは飽くことなく「権力」を蓄積しようと新聞や雑誌まで動員して隣人を中傷・辱め信用を落とそうとする者が罹っている病気である。自然な結果としてそういう人達は自分を見せびらかし、他人より力があることを示そうとする。この病気はカトリック教会組織にとって大きな脅威となる。何故ならばこの病気は病気に罹った人に、自分の目的を達成するためにどんな手段を使うこともしばしば「正義」あるいは「透明性」という名目で正当化するよう導いてしまう。ひとりの聖職者が嘗てジャーナリストを集めて同僚や教区民を巻き込んで私的な機密事項を暴露したことを私は思い出す。彼の狙いは唯一つ新聞の表紙を自分の写真で飾ることだけであった。何故ならば彼は他人や教会に多大な迷惑をかけたにも拘わらず、そうすることが彼を「権力」があり「魅力的」だと思わせたからである。貧しく悲しい精神である。
| 2014年12月25日(木) |
フランシスコ法王のメッセージ(続き1) |
6. There is also a “spiritual Alzheimer’s disease”. It consists in losing the memory of our personal “salvation history”, our past history with the Lord and our “first love” (Rev 2:4). It involves a progressive decline in the spiritual faculties which in the long or short run greatly handicaps a person by making him incapable of doing anything on his own, living in a state of absolute dependence on his often imaginary perceptions. We see it in those who have lost the memory of their encounter with the Lord; in those who no longer see life’s meaning in “deuteronomic” terms; in those who are completely caught up in the present moment, in their passions, whims and obsessions; in those who build walls and routines around themselves, and thus become more and more the slaves of idols carved by their own hands.
精神的なアルツハイマー病がある。この病では自分の救済の歴史・個人の神とのかかわりの歴史、初恋の事を忘れてしまう事ことになる。この病は人が自分自信のことを自分で次第にできなくなり、短い期間あるいは長い期間に渡って自分の想像の産物だけに頼り切りになるといった精神的な清新な活動が次第にできなくなるという症状を含む。この病気は、神との出会いに関する思い出を失ってしまった人々、旧約聖書に書かれている「人生の意味」を考えなくなった人々、情熱において、感情においても完全に現在の事象しか考えられなくなってしまった人々、自分と他人との間に壁を作ってしまい、自分自身で作り上げた偶像に徐々に隷属していくようななってしまう人々にこの兆候を見られる。
7. The disease of rivalry and vainglory. When appearances, the colour of our clothes and our titles of honour become the primary object in life, we forget the words of Saint Paul: ”Do nothing from selfishness or conceit but in humility count others better than yourselves. Let each of you look not only to his own interests, but also to the interests of others” (Phil 2:3-4). This is a disease which leads us to be men and woman of deceit, and to live a false “mysticism” and a false “quietism”. Saint Paul himself defines such persons as “enemies of the cross of Christ” because “they glory in their shame, with minds set on earthly things”.
対抗意識と虚飾:「見掛け」各人の礼服の色とか官職・名声が人生の最も大切なものとなってしまう時には、聖ポールが言われた「何事も自分の利益・自分の才能を考えて行うのではなく、相手のことをより大切に考え謙虚に行うべきです。各自が自分だけの利益ではなく隣人の利益を考えて行動すべきです。」という言葉を忘れています。この病によって人々は次第に不誠実になり、間違った信仰・間違った神秘主義に生きることになるのです。聖ポールはそういう人々を「彼らは恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていないので、十字架上のキリストの敵である。」としています。
8. The disease of existential schizophrenia. This is the disease of those who live a double life, the fruit of that hypocrisy typical of the mediocre and of a progressive spiritual emptiness which no doctorates or academic titles can fill. It is a disease which often strikes those who abandon pastoral service and restrict themselves to bureaucratic matters, thus losing contact with reality, with concrete people. In this way they create their own parallel world, where they set aside all that they teach with severity to others and begin to live a hidden and often dissolute life. For this most serious disease conversion is most urgent and indeed indispensable (cf. Lk 15:11-32).
存在の精神分裂症。ありきたりな代表例の「虚飾からの青果物」と学位や学術的名声では満たされない精神的な空虚さの二重人生を送っている者の病気である。この病は特に聖職者サービスを放棄し、官僚的な職務に没入し、実際の人間と現実に接触することが無くなった者を苛む。他人に対して厳正であれと自ら教えた全てを脇に置いて、自分の作り出した秘密のずぼらな生活を作り出すのである。このためこの病を治すことが緊急課題であり直ぐにも取り組まなければならない。
9. The disease of gossiping, grumbling and back-biting. I have already spoken many times about this disease, but never enough. It is a grave illness which begins simply, perhaps even in small talk, and takes over a person, making him become a “sower of weeds” (like Satan) and in many cases, a cold-blooded killer of the good name of our colleagues and confrères. It is the disease of cowardly persons who lack the courage to speak out directly, but instead speak behind other people’s backs. Saint Paul admonishes us to do all things without grumbling or questioning, that you may be blameless and innocent” (Phil 2:14-15). Brothers, let us be on our guard against the terrorism of gossip!
噂話を囁き・陰口を聞くこと。私はこれまで何度もこの病気のことを注意してきたがまだ十分ではない。これはしばしば単なる四方山話から始まるが非常に重大な病である。その結果人々を悪魔のような不和の種まきに変えてしまう。多くの場合同僚・仲間の評判に対する冷血な殺人行為となる。これは関係する本人に直接話す勇気を持たない、影でこそこそ話をする人の病である。聖ポールは「すべてのことをつぶやかずに疑わないでしなさい。そうすることが責められず純粋な道だからです」と忠告しています。兄弟よ「噂話のテロに対してしっかり自分の身をガードしましょう。
10. The disease of idolizing superiors. This is the disease of those who court their superiors in the hope of gaining their favour. They are victims of careerism and opportunism; they honour persons and not God (cf. Mt 23:8-12). They serve thinking only of what they can get and not of what they should give. Small-minded persons, unhappy and inspired only by their own lethal selfishness (cf. Gal 5:16-25). Superiors themselves could be affected by this disease, when they court their collaborators in order to obtain their submission, loyalty and psychological dependency, but the end result is a real complicity.
上位の者を神格化すること。この病は上位者からの慈悲を得んがために上位者の機嫌を取る者の典型的な病である。そういう人達は立身出世主義・日和見主義の犠牲者であり、神ではなく人間を崇拝する者である。そして教会活動において自分が何を与えることができるのかではなく、自分が何を得ることができるのかだけを考えている。心の狭い人達は自分にとって損か得かだけによって動機づけられていて常に不幸な気持ちをもっている。上位の者もこの病気の影響を受けることがある。上位者は自分の仲間から慕われ、忠誠をを期待し、精神的に頼られることを期待して彼らの機嫌を取ることがあり、最後は双方とも共犯となってしまう。
| 2014年12月24日(水) |
フランシスコローマ法王の指摘 |
フランシスコ法王がクリスマスに際し法王丁の聖職者に向けてメッセージを発しました。それはともすると聖職者の中に見らがちな「15の病」への指摘です。2013年3月に就任したフランシスコ法王はこれまでも率直な発言で世界に情報発信してきましたが、この「15の病気」は聖職者だけでなく一般の人々にも振り返ってみる価値のある指摘だと思います。バチカン英文ホームページからの英文と我流の日本語訳を付して記録しておきます。(一応5項目づつの予定です)
1. The disease of thinking we are “immortal”, “immune” or downright “indispensable”, neglecting the need for regular check-ups. A Curia which is not self-critical, which does not keep up with things, which does not seek to be more fit, is a sick body. A simple visit to the cemetery might help us see the names of many people who thought they were immortal, immune and indispensable! It is the disease of the rich fool in the Gospel, who thought he would live forever (cf. Lk 12:13-21), but also of those who turn into lords and masters, and think of themselves as above others and not at their service. It is often an effect of the pathology of power, from a superiority complex, from a narcissism which passionately gazes at its own image and does not see the image of God on the face of others, especially the weakest and those most in need.[8] The antidote to this plague is the grace of realizing that we are sinners and able to say heartily: “We are unworthy servants. We have only done what was our duty” (Lk 17:10).
日々の反省を怠って自分達が不滅で、間違いを犯さず、欠く事のできない存在だと考える病。聖職者が自己に批判的でなく、新しい環境ことについて勉強しようとせず、自分を変えていこうと考えないのは病気の状況にある。墓地に行って見れば、自分が不滅で間違いを犯さず欠くことのできない存在だと考えた多くの人々の名前を見出すことができる。それは愚かな金持ちが自分の生命が永遠だと考える病気であり(ルカ伝12章)、本来人々に奉仕する立場にある聖職者が人々の主人や指導者だと考えるようになってしまう病気である。これはしばしば「権力の病」がもたらす影響であり、自分が優れているという間違った考えから、そして神や、弱く困っている人々を見ようとせずに、自分の作り出したイメージだけを見続ける自己陶酔から発生する。この病気に対抗できるのは、私達は罪深く価値のない奉仕者であり、唯自分達の義務を果たすだけの存在であるということを認識することからくる慈悲だけである。
2. Another disease is the “Martha complex”, excessive busy-ness. It is found in those who immerse themselves in work and inevitably neglect “the better part”: sitting at the feet of Jesus (cf. Lk 10:38-42). Jesus called his disciples to “rest a while” (cf. Mk 6:31) for a reason, because neglecting needed rest leads to stress and agitation. A time of rest, for those who have completed their work, is necessary, obligatory and should be taken seriously: by spending time with one’s family and respecting holidays as moments of spiritual and physical recharging. We need to learn from Qohelet that “for everything there is a season” (3:1-15).
「マーサの固定観念」(繁忙でないと気が済まない心持ち)。自分が仕事に没頭し、唯イエスの足元に寄り添うことから来る良い部分を否応なく無視する人々に見られる病ある。キリストは、必要な休養を無視ことはストレスや苛立ちに繋がるので弟子達に「暫く休む」ことを求めた。仕事を終えた人々には「暫しの休み」が必要となり、家族と過ごしたり、精神的・肉体的にリフレッシュするために期間として休日を大切にすることが義務である。私達は「コヘレト」が「全てのことにその理由がある」と教えていることを学ぶ必要がる。
3. Then too there is the disease of mental and spiritual “petrification”. It is found in those who have a heart of stone, the “stiff-necked” (Acts 7:51-60), in those who in the course of time lose their interior serenity, alertness and daring, and hide under a pile of papers, turning into paper pushers and not men of God (cf. Heb 3:12). It is dangerous to lose the human sensitivity that enables us to weep with those who weep and to rejoice with those who rejoice! This is the disease of those who lose “the sentiments of Jesus” (cf. Phil 2:5-11), because as time goes on their hearts grow hard and become incapable of loving unconditionally the Father and our neighbour (cf. Mt 22:34-35). Being a Christian means “having the same sentiments that were in Christ Jesus” (Phil 2:5), sentiments of humility and unselfishness, of detachment and generosity.
心理的・精神的な感覚が鈍ることの病。石のような冷たい心、頑な心を持つ人に、そして心の平穏さ・他人に対する気遣い・思いやりを失い、書類の山に埋もれ神の子供の「人間」に奉仕するのではなく「仕事に奉仕する官僚」になってしまった人に見られる病気である。涙を流す人と一緒に涙を流し、喜んでいる人々と共にに喜ぶといった人間的な感受性を失うことは危険なことである。このことは「イエスの心持」を失ってしまうことであり、こうした状態が続くとその人達の心は次第に硬直し、聖職者や隣人を無条件に愛しすることができなくなってしまう。キリスト教徒であることはイエスの心持ちを共有することであり、謙虚で自我を捨て去り、囚われず寛大な人間であることである。
4. The disease of excessive planning and of functionalism. When the apostle plans everything down to the last detail and believes that with perfect planning things will fall into place, he becomes an accountant or an office manager. Things need to be prepared well, but without ever falling into the temptation of trying to contain and direct the freedom of the Holy Spirit, which is always greater and more flexible than any human planning (cf. Jn 3:8). We contract this disease because “it is always more easy and comfortable to settle in our own sedentary and unchanging ways. In truth, the Church shows her fidelity to the Holy Spirit to the extent that she does not try to control or tame him… to tame the Holy Spirit! … He is freshness, imagination, and newness”.
過度に計画して機能一辺倒であること。聖職者が、完璧に計画すれば物事は何でも上手く行くと信じ、何でも細かい所まで計画しようとすることは、聖職者が会計人や会社の経営者になることである。物事は事前に準備することは必要であるが、何でも計画通りに進めようとするとか、人間の作る計画より常に柔軟に変化する「自由な神聖な意思」をもコントロールしたくなる誘惑に陥らないようにするべきである。私達はともすると自分の考えに安住し変化を拒むことが楽で心地良いことからこの病気に感染することがある。カトリック教会は「神の心」に対して忠実であること者を示している。そして教会は「神の心」をコントロール使用とはせず、それを飼い慣らそうとなしない。「神の心」は常に新鮮で想像力に富み変化するものでである。
5. The disease of poor coordination. Once its members lose communion among themselves, the body loses its harmonious functioning and its equilibrium; it then becomes an orchestra which produces noise: its members do not work together and lose the spirit of fellowship and teamwork. When the foot says to the arm: “I don't need you ”, or the hand says to the head, “I’m in charge”, they create discomfort and scandal.
調整不足。メンバー間の交流が失われ組織が機能的な調和とその均衡を失うと、教えの精神に基づく共同の仕事ができなくなり、あるいはチームいとして機能しなくなり雑音だらけの交響曲となってしまう。足が手に向かって「お前は必要ない」といったり、手が頭に向かって「私は別な仕事中だ」と言ったりすると、肉体に不便が発生して機能障害を起こす。
| 2014年12月23日(火) |
年末のクラシック音楽番組が寂しい状況です。 |
最近の急激な「円安」の影響あるとは思いますが、2014年は有名オペラハウスの来日公演が驚くほど減ってしまいました。これまで年末のNHK番組では「来日オペラ座引越し公演」とか「海外オペラハウスシーズン開始のプルミエ公演」の特別番組を放送していました。しかし今年は全くと言っていいほどありません。ブルーレイレコーダに保存されていた音楽コンテンツをディスクに移して、録画容量を確保しておいたのですが当てが外れました。
数年前、ミラノスカラ座とかメトロポリタンオペラなどの引っ越しオペラ公演ではチケットが5万円以上で飛ぶように売れた時代がありました。しかし「円安」のなる前からこうしたベラボーに高いチケットは熟れなくなって来ていました。新国オペラとか国内オペラが進化したということもあるでしょうが、世界のオペラ界がスター不足で「何が何でも聞いてみたい」と思わせる「有名歌手」が減ってしまったのも事実だと思います。 「スリーテナーズ」でドミンゴ・カレーラスを残して「パヴァロッティ」が亡くなってしまった後は「スーパースター」が消えてしまった感じはあります。更に言うと、「ネトレプコやダムラウ」が「デセイやゲオルギュー並み」のスリムな体型を維持していたらオペラ界を取り巻く情勢は大分変わっていたと思いますし、男声ではテノール界の人材不足は際立っているようで、今や「カウフマン」が一人が世界の人気を支えているようかのようです。
スーパーオペラ座が来なくなったことに加えて海外廉価版オペラも来なくなりました。昨年まで毎年来ていた「ウィーンバーデン劇場オペラ」も今年の来日はありませんでした。このオペラ公演は多くの地方公演を続けるので、最後の方の公演はかなり上手くなるのでお得なオペラだと思って期待していたのですが残念でした。こちらは多分「円安」の影響が大きいと思います。
オーケストラも同じで数年前まではウィーンフィル・ベルリンフィルが同じ年に来日することが珍しくありませんでした。今年は全く様相が一変してしまいました。その代わりといっては何ですが、ゲヴァントハウス管弦楽団、サンクトペテルブルグフィル、ニューヨークフィル、モントリオール交響楽団、ローマ・サンタ・チェチーリア国立管弦楽団、バイエルン放送交響楽団など様々な国のオーケストラが来日しました。日本の聴衆がいつまでも「ウィーンフィル・ベルリンフィル」を追っかける段階を卒業したのかもしれません。ただウィーンフィル、ベルリンフィルにおける指揮者の魅力が乏しくなっていることもあると思います。ラトルの演奏は流石に凄いとは思いますがラトルはまだ若いので「今聞いておかなければ一生の損」と思わせるものではありません。ウィーンフィルの「メスト」はなおのこと魅力に欠けます。
今年1月に「アッバード」が亡くなりました。「アッバード」の評価は様々あると思いますが、「アッバード」が亡くなったことによって昔から連綿と受け継がれてきた「巨匠時代」が終わったような気がします。「アッバード時代」には既に終わっていて、音楽ファンはアッバードに「嘗ての幻影」を見ていたのかもしれませんが。一昨年ザルツブルグイースター音楽祭からラトル・ベルリンフィルが降り、バーデンバーデンイースター音楽祭を始めました。ザルツブルグのイースターは「ティーレマン・ドレスデン国立歌劇場」が引き継ぎました。この音楽祭はザルツブルグ生まれの「カラヤン」が始めたものでした。「カラヤン・ザルツブルグ」というブランドがクラシック界で非常に大きな力を持っていたことを物語っています。スカラ座のバレンボイム、ローマのムーティも既に退任がきまっているようです。ヨーロッパ音楽会が大きな世代交代時代に入っているようです。
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