| 2013年05月26日(日) |
懐かしいウィーンフィルの画像 |
音楽を中心に録画している「ブルーレイレコーダ」のハードディスクがあと少しで満杯になってしまうため幾つかのコンテンツをブルーレイに移しました。昨年のサッカーイングランドプレミアリーグ山場のマンチェスターダービー、昨年のサッカーヨーロッパ選手権の準決勝決勝の模様からCM等を切り取ってファイル容量を減らして7試合分を一枚に落としました結果ハードディスクに大分余裕が出来ました。
NHKBSプレミアムの音楽放送を録音した中身を確認している最中に非常に懐かしい画像がでてきました。それは他のコンサート模様と抱き合わせで録画されていた「ムーティ・ウィーンフィル」の演奏によるモーツァルトの交響曲等でした。詳しく言うと、1991年7月28日にザルツブルク祝祭大劇場にて行われたザルツブルク音楽祭のオープニングコンサートの模様です。1991年はモーツァルト没後200年を記念する音楽祭だったので、一際立派な演奏だと思っています。曲目は以下の3曲でモールァルトを代表する名曲が選ばれました。
ディヴェルティメント ニ長調 K.136 交響曲 第40番 ト短調 K.550 交響曲 第41番 ハ長調 K.551≪ジュピター≫
指揮者のムーティは1941年7月28日生まれなので、この演奏会はムーティの50歳の誕生日に行われたものとなります。油の乗り切ったムーティが颯爽と指揮棒を振る姿は、イタリア彫刻から出てきたような立派な感じで非常に魅力的です。この録画は1991年当時でも高精細で収録しているため演奏者・指揮者の表情が生き生きと捕らえられているので素晴らしいのです。以前放送された時にビデオテープで録画してありますが、今回高精細な画像を確保できたので良かったです。
この録音画像で私が特に気に入っているのはコンサートマスター席に「在りし日」の「ゲルハルト・ヘッツエル」が座っていることです。そしてその名手のヘッツエルが音楽祭初日の緊張のためなのか、なんと40番の終楽章の主題が繰り返えされた最後の部分で「チョンボ」しているところがはっきり画像に映っていることです。
幾つかのカメラを配して様々な角度からコンサートを録画しているのですが、その部分ではヘッツエルの弓が他の第一バイオリン奏者と全く異なる動きをしている所を証拠として記録しています。ヘッツエルが40番終了後にバツが悪そうに隣の奏者と言葉を交わしているところもはっきり録画されています。
その名コンサートマスターだった「ゲルハルト・ヘッツエル」はその翌年1992年7月29日にザルツブルグ近郊の山をハイキングしている最中に転落事故を起こして命を落としてしまいました。ハンガリー人の血を引く「ヘッツエル」がコンマス席に座っていた時にウィーンフィルの名演奏が多いと思います。特に同じハンガリー系の「イシュトゥヴァン・ケルテス」との相性の良さはヘッツエルの存在抜きには語れないでしょう。そのケルテスも不慮の水難事故で亡くなったのでした。
| 2013年05月25日(土) |
踵骨棘(しょうこつきょく)で足が痛い |
左足の踵(かかと)の後ろのアキレス腱の筋が非常に痛むので近くの整形外科で見てもらってきました。実は同じ場所の痛みは昨年の暮れにも発生しましたし、よく思い出してみると数年前にも発生していました。これまで痛みを我慢しているとそれぞれ数週間で痛みが治まっていたので医者には行かなかったのですが、今回も長続きするのであれば困りますし、何と言っても悪い代物であったら大変なので思い切って医者に行ってみました。
レントゲンで足の踵骨の写真を撮ったところ、先生曰く「踵骨棘」ができていて、その「棘」がアキレス腱の骨との接着面を内側から刺激し「腱」に炎症が出来ている結果だという診断でした。この症状は結構多くの人が経験しているようで、先生は最初に触診したときに「良くある痛みかもしれない」と仰っていました。治療はというと炎症を鎮めることで、炎症が酷いときには注射で治すようですが私の場合は飲み薬と膏薬で治せるとのことでした。薬を飲んだら1日で痛みは治まりました。
踵骨棘(しょうこつきょく)は、機械的ストレスや炎症性刺激によって骨の辺縁部にできる骨性の隆起だそうです。形態的にはプラスチックや金属の型抜きの場合にできる「バリ」のようなものだそうです。踵骨の場合には「底」にできることが多いようですが、私の場合は「踵後ろ」のアキレス腱接合部に棘のようなものが生えてきていました。
「血糖値低減」のために1日15000歩程度歩いていますが、先生曰く少し歩き過ぎなので、このような余分な棘ができるのだろうとのこと。歩く歩数を減らして踵に無理のかからないほかの方法に変えた方が良いとのアドバイスを頂きました。さてまた難しい課題が発生です。それでなくと少し油断すると血糖値は上がってしまいます。
澳門旅行で「孫文記念館」に行きました。この記念館はあまり解説されていないので調べた歴史を記載しておきます。
香港で医学を修めて澳門での医療活動に従事した孫文は、中国革命のための活動を開始して1895年には広州起義を起こしました。その10年後1905年には東京で「同盟会」が結成されて革命組織が強化されその後の数次の武装蜂起を経て1911年秋に辛亥革命が実現しました。そして孫文は大統領に選出されます。しかし選出された「大統領職」は僅か3ヶ月で実力者の袁世凱に譲らざるをえませんでした。孫文の民主主義国家建設のため活動はまだ道半ばでした。
1912年孫文はほぼ20年ぶりに「鏡湖医院」「東西薬局」等の医師として暮らした澳門を訪れました。このとき孫文は革命指導者としての名声を確立していました。澳門の実業家の「盧家」の家に宿泊した孫文は故郷香山県に残ししてきた妻を澳門に呼ぶために「盧家」屋敷(現在のLou Lim Ieoc Garden)近くに、妻(盧慕貞Lu Muzhen)・子が住むための家を建築しました。これが現在の澳門孫文記念館が建っている場所です。
孫文が妻の「盧慕貞」と子供達のために澳門に家を建ててから程なく、日本に戻った孫文は秘書の宋慶齡と恋に落ちてしまいます。妻の「盧慕貞」は宋慶齡を「妾」にすることを願ったようですが、キリスト教徒の宋慶齡と孫文は正式な結婚を望み孫文は「盧慕貞」とは正式に離婚しました。
孫文と結婚し(1915年10月)妻となった宋慶齡はその後の孫文の建国活動を支援することとなり、国民党と中国共産党の争いにおいては中国共産党を選びました。宋慶齡は中国共産党から「名誉主席」の称号を与えられ建国の父孫文の妻として厚く処遇されました。
一方の盧慕貞とその子供達は国民党の側に身を置くこととなりました。その結果でしょうか澳門の「孫分記念館」は台湾政府の出資するファンドの所有となっています。台湾関係の資料が豊富で入口右側の孫文の胸像の左右には「青天白日旗」がずらりと並んでいました。
孫文の前妻の「盧慕貞」は澳門のその場所で彼女の息子(孫科Sun Ke)と二人の娘(Sun Yan (孫延), Sun Wan (孫琬)on Sun Ke)と孫文の長兄のSun Mei (孫眉)が暮らすこととなりました。その後付近の爆発事故で家屋が損傷を受けると、台湾政府、ハワイに住む孫文の兄等から支援を受け今の広大な3階建ての非常に立派な家屋を建築しました。これが現在の記念館の建物で、完全に西洋式で、木の床に木製の家具・ワードローブを備え、広い浴室には水洗トイレが完備されて大きなバスタブが作りつけられている。
「盧慕貞」は1952年になくなりましたが、その死後にこの建物は1958年に「孫文記念館」と命名されて保存されることとなりました。建物の北側の庭には梅屋庄吉が孫文の死後に中国に寄贈した4体の孫文像のひとつが建っています。因みに他の三つは上海、南京、広東(黄埔)にあるということです。
中国南部の広東・広西地方は「食は広州にあり」と言われるようにその郷土料理は中華料理の中でも有名です。この連休の「香港・澳門・中山旅行」では広東料理でも比較的親しみのある「飲茶」を楽しんできました。
「中山・珠海」を案内してくれた珠海在住のガイドの「温」さんはから非常に参考となる情報を話していただきました。「温」さん自身は中国北部の黒龍江省出身だそうですが南部の珠海に移り住んで長くなるのだそうです。中国北部出身という広州を客観的に見ることができる人の話なので南部の広州の特徴が浮かび上がります。
まず、「広州人は酒が弱い」のだそうです。温さんが育った中国北部は寒さが厳しくそこに住む人々はとても酒が強いのだ。高粱から作る強い蒸留酒が有名です。その北部の人々に較べて南部の広州の人は酒に弱いそうです。これは遺伝的な体質のようで、酒に弱いからこそ「お茶」文化が高度に発達したといえます。広州の人は酒で歓談する代わりに「茶」を賞味するのです。
また、広州は亜熱帯に属し雨量も多いため、植物・動物の種類が多く豊富です。これが食材の多様性に繋がります。食品市場で目立つものでは果物です。マンゴー・バナナを始め南国の果物が採れるために食後のデザートにも美味しい果物を使ったデザートを食べることができます。また果物の甘さを生かした甘味食品も豊富です。「動物関連」では普通の食材に加えて、犬、猫、ヘビ、蛙等色々食べます。海が近いのでこれに様々な「海産物」が加わります。海産物は乾季の強烈な日光で乾燥させて「うま味」を濃縮させることができます。保存目的もあるでしょうが、香草等と長時間煮込むことによって、消化の良い非常に甘味の凝縮した料理が可能になるのだと思いました。
これらの集大成が「飲茶」だと思います。ウーロン、プーアールどちらも食事にマッチします。粥、腸粉、蒸餃子などの熱い料理に熱いお茶は非常に健康的だと思いました。冷たいビールを注文する必要は全くありません。食前酒の必要がないほど料理は胃に優しく、更に薬味成分を含む「お茶」はそれを助けてくれます。中国北部の50度を越す白酒は北京では美味しかったですが広州では全く必要ありません。
健康のために日本ではかなり野菜を食べていますが旅行中も苦労して野菜を注文しました。市場や町中の八百屋さんではこの時期「菜の花」が旬のようでした。これを高温の湯で「湯がい」て美味しい醤油をかけて食べるのですがこれが素晴らしく美味しいのです。「粥と菜の花と茶」の組み合わせは朝食にぴったりだと思いました。
これから夏を迎える日本では夕食時につい「冷えたビール」を飲んでしまいそうですが、今年はその回数を減らして「お茶」を飲もうと思います。そのために数年前に上海出張の折に買ってきた「餅茶(プーアール)」をさっそく苦労して細かく崩して飲めるように準備しました。
橋下大阪市長の「従軍慰安婦」に関するコメントが様々な注目を集めていますが、個人的には橋下氏が指摘したことは当たり前のことで、日本人なら同じように考えるだろうと思われます。全体のトーンは安倍首相の発言をサポートする内容で、自民党高市政調会長の個人的な発言よりずっと安倍首相を助ける役割を果たしていると思います。
しかし、現在の「在日米軍」と「風俗法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)事業」を関連させてしまったことが問題を違う方向に進めてしまった感が否めません。それは「在日米軍」と「風営法」には「本音と建前」があって、どちらも平場で議論できないような「困った裏側」を持っていて、そこをあからさまに指摘されると、例えそれが正しかろうが反論せざるを得ないという「やっかい」なものだからだと思われます。
キリスト教信者が殆どを占める「在日米軍」(本土の政府およびその指令層)は従軍慰安婦のような公娼制度を採用していないことを「誇り」としています。それを裏付けるかのように海外派遣部隊において美味しいレストランや娯楽施設が完備していたり、一時帰省休暇を儲けて建前上は兵士達の「性欲」は「健全」に処理されていることになっています。
この「建前」は現実に順守されてきたかどうかは別にして昔からの米国軍の統一した考え方のようです。つまりキリスト教精神と潤沢な資金に支えられた米国軍隊は、嘗ての貧乏日本軍と同じような従軍慰安婦の存在を認めないし、居住環境を整える代償として兵士に対しては厳しい規律を要求しているのです。米国軍隊はこの「建前」を崩すわけにはいかないのです。
「風営法事業(風俗営業)」にも非常に微妙な裏があります。風営法第二条で「風俗事業、性風俗関連特殊営業」を定義していますが、これは非常にアバウトでどのように考えてもこの定義どおりの営業で終わっているとは思えません。例えば「店舗型性風俗特殊営業」の定義として「浴場業の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業」としています。しかし当然ながら自由恋愛の末のSEXは規制の対象ではありえずそこからは風営法の枠から外れます。これは柔軟な社会の知恵であり、どこの国でも多かれ少なかれあるはずで、それによってより酷い犯罪行為・社会の乱れを防いでいるのだと思います。しかしそのことは声高に言うべきものではないと思います。
そうしたある種の「社会の知恵」を建前に固執する米国軍隊にぶつけて見ても受け入れられるはずがありません。キリスト教の「汝姦淫することなかれ」は彼等が護らなければならない大切な規律です。橋下市長が「米国はずるい」といってもそういうしかないのだと思います。
嘗て第二次世界大戦の戦時下において日本を離れて戦った兵士達は最初から「生きて帰国」することはあきらめていたと思います。「国のために死ぬ」ことが頭に叩き込まれていたのでしょうが、本音で愛国心を持っていたかどうかは大変疑問です。武器・弾薬の不足・食料支援物資の欠乏は日本軍が兵士達を消耗品程度と考えざるをえなかった証拠です。そういう場面において「従軍慰安婦」は確かに橋下市長が言うような「必要」なものであったのだと思われます。
しかし当時の米国軍が日本軍と同じ考え方であっととはとうてい思えず、むしろ現代の米国軍と同じで兵士達を大切にし最大限兵士達の危険を減らす努力をするとともに、正義感・愛国心をキチンと植え付けて正義・国のために命をおとすことを厭わない精鋭の兵士として扱っていたと思われるのです。そために戦争で亡くなった兵士達を最大限に讃え感謝するのだと思います。どこかの国の靖国神社みたいな中途半端なことになしていないのだと思います。
やはり本質的な問題は「従軍慰安婦」そのものではなく、そのような仕組みで兵士を慰め、尊い命を粗末にしていた「旧日本軍」の存在そのものだと思います。それに対する冷静な評価・反省が無い限り、歴史は繰り返すかも知れません。
| 2013年05月09日(木) |
孫文が医者として活動した場所(マカオ) |
1892年に香港の西医書院を卒業した孫文は、マカオにある1871年創立の「鏡湖医院」で西洋式医療を施す医者として活動を開始しました。当時澳門は阿片戦争後の香港の英国への割譲に準じる形で、ポルトガルが中国から統治権を獲得していました(植民地ではない)。従って孫文は医療を続けながら革命運動の準備をすることができたのだと思います。
孫文は1894年にはハワイに渡って民主革命団体「興中会」を結成し、1895年に最初の武装蜂起の「広州起義」を策動しました。その後辛亥革命に至るまで清朝打倒の革命運動に従事し、その後も「建国」へむけての活動に専念していきます。従って1892年からの数年間は澳門において医者と革命家の二つの顔をもっていたのだと思います。
「鏡湖医院」はマカオ博物館の北側にあってマカオでも有数の大きな病院となっています。孫文はそこに勤める傍ら自らの医院と薬局を別な場所に開設しました。その薬局のあった建物は最近になって漸く場所が特定されたらしく、澳門文化庁が調査・修復を始めています。

近い将来「孫文」が開設した薬局跡として観光名所のひとつとなるのだと思います。その場所は孫文の活動時期を考えるとその医院や薬局は医療行為や薬販売だけに使われたとは考えにくく、革命活動の準備拠点であったのではないかと思われます。
また丁度この時期香港の医療事情で特筆すべき事態が発生しています。それは1894年に流行した香港のペストです。この疫病で香港・澳門で多くの人が亡くなりました。孫文がこの疫病にどう対応したのか資料がありませんが日本から派遣された北里柴三郎が香港で世界で始めてペスト菌を発見しました。
| 2013年05月08日(水) |
孫文が学んだ場所(香港) |
香港西部の「Possession Street」を登った高台にイギリス人が最初に拠点を構築し、Possession Streetを降りて海に近い海岸沿に当時就任早々のヴィクトリア女王の名前を冠したヴィクトリアロードが作られ、その通りが香港の政治・経済の中心となっていきました。一方Possession Pointsから東に向かって丁度ビクトリア湾を見下ろすような山の斜面には教会や学校・病院が多く集積することとなりました。それがPossession Roadから東に伸びる「ハリウッドロード」でありその一本山側を走る「ブリッジ通りです」。
若き日の「孫文」はブリッジ通りにあった「The Preaching Hall of American Congregational Mission」で洗礼を受け、その教会の二階に寄宿しながら、「Man Mo Temple」の少し先でハリウッドロードを下っって一本下の道の「Gough Road」 にあった「The Government Central School」で1884年から1886年の二年間西洋教育を受けました。
そして卒業後一旦広東の医学校(漢方)で医学の勉強を始めますが、少し前まで通っていたThe Government Central Schoolのごく近い場所に1887年に開設された西洋医学を教える「The College of Medicine for Chinese」に入り直しました。孫文はここで5年間の教育を受け1892年にこの学校を卒業しました。従って若き日の孫文は香港のハリウッドロード、ブリッジ通りあたりの道を焼く8年間歩きまわったことになります。そして孫文は医学校の学友「陳少白」等と様々な議論をし、中国革命に身を捧げることを決意したのでした。
移動 ○徒歩 :ホテル → 地下鉄上環 ○地下鉄:上環 → 中環 ○空港快特 :AEL香港駅 → 香港国際空港 ○UA78便:香港(HKG)(9:55)→ NRT(15:35) ○京成スカイアクセス:成田空港 → 東松戸 ○JR:東松戸 → 武蔵浦和
食事 朝食:UAラウンジ 昼食:UA機内食 夕食:自宅
香港で宿泊したホテルは香港西部のハリウッドロードとポセッション通り(Possession Street)(中国語:水坑口街)の角にありました。ハリウッドロードは骨董品屋が沢山集中していて洋食レストランの多いお洒落な通りで、香港島を山に沿って東西に走っています。ポゼッション通りはハリウッドロードとクィーンズロードを結ぶ道で、クィーンズロードに向かって急な下り坂になっています。今回ホテルと上環の街との往復のために何度もこの急な坂道を通ることとなりました。
「ポセッションロード」という名前はイギリス海軍兵士が香港島に最初に上陸してイギリス国旗を立てたことから名前が付けられたのだそうです。イギリス海軍兵士は海岸から少し登った所に、平らで広いキャンプに適した場所を探していてこの場所に定めたようです。ユニオンジャック旗が掲揚された場所は現在ハリウッドロード公園となっている場所だそうです。今でこそ香港の人達の憩いの場所になっていますがそこは歴史的に重要な英領香港の最初を記録する場所だったのです。
このポゼッション通りに非常に興味深い酒屋さんがあったので紹介しておきます。上にも書いたとおりこの通りはかなりの坂道で荷物を持って登るのに苦労します。妻が夕食後ウーロン茶を買っていこうというので、坂をほぼ上った道の右側にある小さな酒屋さんに入ることにしました。酒屋さんで奥の棚に輸入物のワインを並べているのですが、店の入口近くには見たことのない透明な酒瓶をずらっと並べていました。
店の方に聞くとそれは「香港米種」(Rice Wine)だということ。80年位前から作られているのだそうです。珍しいのでウーロン茶とともに小瓶の米種を買ってきました。この香港米酒というのは大陸の安価な酒との競争や、若者が伝統的な酒を飲まなくなったことによって衰退の一歩をたどっていて、この店が米種を作る最期の一軒となっているのだそうです。さてどんな香港の香りがするのでしょうか。
本日の移動 ○徒歩 :上環地下鉄 ○地価轍:上環 → 旺角 ○徒歩 :旺角 → 上海ストリート → ヒスイマーケット → 昼食 → 尖沙咀散策 ○バス :ミラ香港 → 香港文化センタ ○徒歩 :公園散策 ○フェリー:スターフェリー九龍 → スターフェリー湾仔 ○地下鉄 :湾仔 → 上環
本日の食事 朝食:科記咖啡餐室 Pork Chop Bun、麺 昼食:Miraモールのレストランアサッジオ イタリアン 夕食:生記粥品專家 粥
今日は九龍半島を散策しました。地下鉄で一気に「旺角」まで行って屋台で有名な「ネイザン道路」「女人街」「テンプルストリート」などの観光名所を歩きました。午前中は殆どの屋台が片付けられていて賑やかな面影はありません。屋台街は昨夜日曜の夜の喧騒を想像するしかありません。ネイザン道路は日本の繁華街と同じなので特に珍しいものではありませんでした。途中の食器屋さんで、ピザ用の粉振器と胡椒挽きを買いました。日本の合羽橋よりは安く買えました。日本製品を沢山扱っている店が多く、少し高い日本製品も結局は安くつくのかなと思いました。
昼食は中華ではなく「イタリアン」にしました。高級ショッピングセンタ内のイタリアンレストランは非常に高級で高価な昼食となりました。赤白のグラスワインの味は良かったですが、注文したマルゲリータピザはピザトーストのようなものでともてナポリスタイルではありませんでした。ちょっと損をした気分になりました。でも昼食後のビクトリア湾を望むプロムナードは空気が奇麗でとても気持ちが良かったので大満足でした。北京ほどではないと思いますが香港もマカオに較べると空気が悪くて気持ちが滅入りました。この海沿いの公園は唯一の救いでした。香港島までは渡し船で帰りました。
昼食のイタリアンが思いがけず腹にもたれたので夕食は軽く「粥」を食べることにしました。ホテル近くに日本でも有名な粥専門店があることを探り当ていってみました。日本語・英語は通じませんでしたが何とか粥と湯がき空芯菜を注文しました。評判通りで非常に美味しい「粥」でした。さすがに名店らしく向かいに座ったおじさんは「香港一の味」だと教えてくれました(解釈しました)。
本日の移動 ○タクシー :ホテル → セントラルピークトラム駅 ○ケーブルカー :ピークトラム駅 → ビクトリアピーク山頂 ○ケーブルカー :ビクトリアピーク山頂 → ピークトラム駅(セントラル) ○徒歩 :香港公園 → セントラル皇后像広場 → 昼食 ○スカイエスカレータ : ハリウッドロード → ケインロード(孫文記念館) ○徒歩 :ブリッジストリート → アバディーンロード → ハリウッドロード → ホテル ○徒歩 :ホテル → 上環地下鉄駅 ○地下鉄:上環 → 北角 ○トラム:北角 → 上環 → 夕食
食事 朝食:上環鳳城酒家 飲茶 昼食:中環陸羽茶室 飲茶 有職:上環鳳城酒家 飲茶
香港のホテルは香港島西部の「上環」に確保しました。そこはフェリーターミナル、地下鉄の上環に近く便利なのですが、何といって「孫文が過ごした記念の場所」に近いハリウッドロード沿いにある上に、広東料理の美味しいレストランが多い土地柄なのです。香港のホテルはマカオと違って非常に高価で、通常の料金でも部屋が狭くバスタブもないというホテルが多いのですが、今回のホテルもそのような種類のホテルとなりました。
香港観光初日はパターン通りに「ビクトリアピーク」に登りました。ケーブルカーは比較的空いていましたが山頂は観光客で混雑していました。今日は日曜日なので地元の人達もピクニックで訪れているようでした。生憎の曇り空で遠くまでは見渡せませんでしたが、名物の高層ビル群の素晴らしい眺めは堪能することができました。
ケーブルカーでビクトリアピークからセントラルに降りてセントラルの街を散策しました。日曜日は出稼ぎ労働者が公園に集まって賑わうと聞いていましたが、まさしくその通りでセントラルの公園はどこもアジア系の人達がグループで集っていました。頻繁に故郷に帰れない寂しさを同郷の仲間が集まって癒しているのだろうと想像できます。
午後はスカイエスカレータを使って孫文記念館まで行き、そこから孫文の足跡を辿る標識を目標に歩き回りました。孫文が香港で教育を受けた学校はハリウッド通り・アバディーン通りに近いので、散策していくとホテルに近づいていくことができます。建物は残っていませんが嘗て孫文が学び、その後日本とも深い関係を持つこととなる孫文の革命運動を思い起こすと歴史の重みを感じます。
今日の食事は全て「飲茶」となりました。昨日珠海市で頂いた昼食の飲茶は大変美味しかったし今日の飲茶も感動ものでした。飲茶は「広東」料理であり、中華料理屋ならどこでも良いというわけではにことを知りました。比較的薄味ですが繊細で上品な味は中々出会えないものだと思いました。前回仕事で香港に来たときにローカルの方に連れて行ってもらった飲茶が本当に美味しかったのですが、その時の感動を再び味わうことができました。香港の本場で味わうと上海名物のショウロンポーを注文する気になりません。それにビールやワインも必要ではなく美味しい「お茶」で十分なので健康に良いです。
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