| 2013年05月09日(木) |
孫文が医者として活動した場所(マカオ) |
1892年に香港の西医書院を卒業した孫文は、マカオにある1871年創立の「鏡湖医院」で西洋式医療を施す医者として活動を開始しました。当時澳門は阿片戦争後の香港の英国への割譲に準じる形で、ポルトガルが中国から統治権を獲得していました(植民地ではない)。従って孫文は医療を続けながら革命運動の準備をすることができたのだと思います。
孫文は1894年にはハワイに渡って民主革命団体「興中会」を結成し、1895年に最初の武装蜂起の「広州起義」を策動しました。その後辛亥革命に至るまで清朝打倒の革命運動に従事し、その後も「建国」へむけての活動に専念していきます。従って1892年からの数年間は澳門において医者と革命家の二つの顔をもっていたのだと思います。
「鏡湖医院」はマカオ博物館の北側にあってマカオでも有数の大きな病院となっています。孫文はそこに勤める傍ら自らの医院と薬局を別な場所に開設しました。その薬局のあった建物は最近になって漸く場所が特定されたらしく、澳門文化庁が調査・修復を始めています。

近い将来「孫文」が開設した薬局跡として観光名所のひとつとなるのだと思います。その場所は孫文の活動時期を考えるとその医院や薬局は医療行為や薬販売だけに使われたとは考えにくく、革命活動の準備拠点であったのではないかと思われます。
また丁度この時期香港の医療事情で特筆すべき事態が発生しています。それは1894年に流行した香港のペストです。この疫病で香港・澳門で多くの人が亡くなりました。孫文がこの疫病にどう対応したのか資料がありませんが日本から派遣された北里柴三郎が香港で世界で始めてペスト菌を発見しました。
| 2013年05月08日(水) |
孫文が学んだ場所(香港) |
香港西部の「Possession Street」を登った高台にイギリス人が最初に拠点を構築し、Possession Streetを降りて海に近い海岸沿に当時就任早々のヴィクトリア女王の名前を冠したヴィクトリアロードが作られ、その通りが香港の政治・経済の中心となっていきました。一方Possession Pointsから東に向かって丁度ビクトリア湾を見下ろすような山の斜面には教会や学校・病院が多く集積することとなりました。それがPossession Roadから東に伸びる「ハリウッドロード」でありその一本山側を走る「ブリッジ通りです」。
若き日の「孫文」はブリッジ通りにあった「The Preaching Hall of American Congregational Mission」で洗礼を受け、その教会の二階に寄宿しながら、「Man Mo Temple」の少し先でハリウッドロードを下っって一本下の道の「Gough Road」 にあった「The Government Central School」で1884年から1886年の二年間西洋教育を受けました。
そして卒業後一旦広東の医学校(漢方)で医学の勉強を始めますが、少し前まで通っていたThe Government Central Schoolのごく近い場所に1887年に開設された西洋医学を教える「The College of Medicine for Chinese」に入り直しました。孫文はここで5年間の教育を受け1892年にこの学校を卒業しました。従って若き日の孫文は香港のハリウッドロード、ブリッジ通りあたりの道を焼く8年間歩きまわったことになります。そして孫文は医学校の学友「陳少白」等と様々な議論をし、中国革命に身を捧げることを決意したのでした。
移動 ○徒歩 :ホテル → 地下鉄上環 ○地下鉄:上環 → 中環 ○空港快特 :AEL香港駅 → 香港国際空港 ○UA78便:香港(HKG)(9:55)→ NRT(15:35) ○京成スカイアクセス:成田空港 → 東松戸 ○JR:東松戸 → 武蔵浦和
食事 朝食:UAラウンジ 昼食:UA機内食 夕食:自宅
香港で宿泊したホテルは香港西部のハリウッドロードとポセッション通り(Possession Street)(中国語:水坑口街)の角にありました。ハリウッドロードは骨董品屋が沢山集中していて洋食レストランの多いお洒落な通りで、香港島を山に沿って東西に走っています。ポゼッション通りはハリウッドロードとクィーンズロードを結ぶ道で、クィーンズロードに向かって急な下り坂になっています。今回ホテルと上環の街との往復のために何度もこの急な坂道を通ることとなりました。
「ポセッションロード」という名前はイギリス海軍兵士が香港島に最初に上陸してイギリス国旗を立てたことから名前が付けられたのだそうです。イギリス海軍兵士は海岸から少し登った所に、平らで広いキャンプに適した場所を探していてこの場所に定めたようです。ユニオンジャック旗が掲揚された場所は現在ハリウッドロード公園となっている場所だそうです。今でこそ香港の人達の憩いの場所になっていますがそこは歴史的に重要な英領香港の最初を記録する場所だったのです。
このポゼッション通りに非常に興味深い酒屋さんがあったので紹介しておきます。上にも書いたとおりこの通りはかなりの坂道で荷物を持って登るのに苦労します。妻が夕食後ウーロン茶を買っていこうというので、坂をほぼ上った道の右側にある小さな酒屋さんに入ることにしました。酒屋さんで奥の棚に輸入物のワインを並べているのですが、店の入口近くには見たことのない透明な酒瓶をずらっと並べていました。
店の方に聞くとそれは「香港米種」(Rice Wine)だということ。80年位前から作られているのだそうです。珍しいのでウーロン茶とともに小瓶の米種を買ってきました。この香港米酒というのは大陸の安価な酒との競争や、若者が伝統的な酒を飲まなくなったことによって衰退の一歩をたどっていて、この店が米種を作る最期の一軒となっているのだそうです。さてどんな香港の香りがするのでしょうか。
本日の移動 ○徒歩 :上環地下鉄 ○地価轍:上環 → 旺角 ○徒歩 :旺角 → 上海ストリート → ヒスイマーケット → 昼食 → 尖沙咀散策 ○バス :ミラ香港 → 香港文化センタ ○徒歩 :公園散策 ○フェリー:スターフェリー九龍 → スターフェリー湾仔 ○地下鉄 :湾仔 → 上環
本日の食事 朝食:科記咖啡餐室 Pork Chop Bun、麺 昼食:Miraモールのレストランアサッジオ イタリアン 夕食:生記粥品專家 粥
今日は九龍半島を散策しました。地下鉄で一気に「旺角」まで行って屋台で有名な「ネイザン道路」「女人街」「テンプルストリート」などの観光名所を歩きました。午前中は殆どの屋台が片付けられていて賑やかな面影はありません。屋台街は昨夜日曜の夜の喧騒を想像するしかありません。ネイザン道路は日本の繁華街と同じなので特に珍しいものではありませんでした。途中の食器屋さんで、ピザ用の粉振器と胡椒挽きを買いました。日本の合羽橋よりは安く買えました。日本製品を沢山扱っている店が多く、少し高い日本製品も結局は安くつくのかなと思いました。
昼食は中華ではなく「イタリアン」にしました。高級ショッピングセンタ内のイタリアンレストランは非常に高級で高価な昼食となりました。赤白のグラスワインの味は良かったですが、注文したマルゲリータピザはピザトーストのようなものでともてナポリスタイルではありませんでした。ちょっと損をした気分になりました。でも昼食後のビクトリア湾を望むプロムナードは空気が奇麗でとても気持ちが良かったので大満足でした。北京ほどではないと思いますが香港もマカオに較べると空気が悪くて気持ちが滅入りました。この海沿いの公園は唯一の救いでした。香港島までは渡し船で帰りました。
昼食のイタリアンが思いがけず腹にもたれたので夕食は軽く「粥」を食べることにしました。ホテル近くに日本でも有名な粥専門店があることを探り当ていってみました。日本語・英語は通じませんでしたが何とか粥と湯がき空芯菜を注文しました。評判通りで非常に美味しい「粥」でした。さすがに名店らしく向かいに座ったおじさんは「香港一の味」だと教えてくれました(解釈しました)。
本日の移動 ○タクシー :ホテル → セントラルピークトラム駅 ○ケーブルカー :ピークトラム駅 → ビクトリアピーク山頂 ○ケーブルカー :ビクトリアピーク山頂 → ピークトラム駅(セントラル) ○徒歩 :香港公園 → セントラル皇后像広場 → 昼食 ○スカイエスカレータ : ハリウッドロード → ケインロード(孫文記念館) ○徒歩 :ブリッジストリート → アバディーンロード → ハリウッドロード → ホテル ○徒歩 :ホテル → 上環地下鉄駅 ○地下鉄:上環 → 北角 ○トラム:北角 → 上環 → 夕食
食事 朝食:上環鳳城酒家 飲茶 昼食:中環陸羽茶室 飲茶 有職:上環鳳城酒家 飲茶
香港のホテルは香港島西部の「上環」に確保しました。そこはフェリーターミナル、地下鉄の上環に近く便利なのですが、何といって「孫文が過ごした記念の場所」に近いハリウッドロード沿いにある上に、広東料理の美味しいレストランが多い土地柄なのです。香港のホテルはマカオと違って非常に高価で、通常の料金でも部屋が狭くバスタブもないというホテルが多いのですが、今回のホテルもそのような種類のホテルとなりました。
香港観光初日はパターン通りに「ビクトリアピーク」に登りました。ケーブルカーは比較的空いていましたが山頂は観光客で混雑していました。今日は日曜日なので地元の人達もピクニックで訪れているようでした。生憎の曇り空で遠くまでは見渡せませんでしたが、名物の高層ビル群の素晴らしい眺めは堪能することができました。
ケーブルカーでビクトリアピークからセントラルに降りてセントラルの街を散策しました。日曜日は出稼ぎ労働者が公園に集まって賑わうと聞いていましたが、まさしくその通りでセントラルの公園はどこもアジア系の人達がグループで集っていました。頻繁に故郷に帰れない寂しさを同郷の仲間が集まって癒しているのだろうと想像できます。
午後はスカイエスカレータを使って孫文記念館まで行き、そこから孫文の足跡を辿る標識を目標に歩き回りました。孫文が香港で教育を受けた学校はハリウッド通り・アバディーン通りに近いので、散策していくとホテルに近づいていくことができます。建物は残っていませんが嘗て孫文が学び、その後日本とも深い関係を持つこととなる孫文の革命運動を思い起こすと歴史の重みを感じます。
今日の食事は全て「飲茶」となりました。昨日珠海市で頂いた昼食の飲茶は大変美味しかったし今日の飲茶も感動ものでした。飲茶は「広東」料理であり、中華料理屋ならどこでも良いというわけではにことを知りました。比較的薄味ですが繊細で上品な味は中々出会えないものだと思いました。前回仕事で香港に来たときにローカルの方に連れて行ってもらった飲茶が本当に美味しかったのですが、その時の感動を再び味わうことができました。香港の本場で味わうと上海名物のショウロンポーを注文する気になりません。それにビールやワインも必要ではなく美味しい「お茶」で十分なので健康に良いです。
| 2013年05月04日(土) |
中山市の孫文故居記念館訪問 |
本日の移動 ○徒歩 :コタイコンラッドホテル → マカオ蓮花路出入国管理事務所 ○バス :澳門出入国管理事務所 → 中国横琴口岸(出入国管理事務所、運賃3ドル) ○車 :横琴口岸 → 珠海漁乙女像 → 孫文故居記念館 → 昼食 → 横琴口岸 ○バス :中国横琴口岸 → 澳門出入国管理事務所(3ドル) ○ホテルシャトルバス :澳門出入国管理事務所 → コタイコンラッドホテル ○ホテルシャトルバス :コタイコンラッドホテル → 澳門外港フェリーターミナル ○澳門ターボジェット :澳門外港フェリーターミナル → 香港上環フェリーターミナル ○徒歩 :上環フェリーターミナル → 香港のホテル ○バタフライオンハリウッドホテル
本日の食事 朝食:コタイサンズ3Fフードコート ラーメン、オムレツ 昼食:珠海市 飲茶 有職:上環 飲茶
マカオから中国に入国して中山市の「孫中山故居記念館」に行ってきました。マカオから中国への入国口の「横琴入管」を通って入国し、そこで事前に頼んでおいた珠海のガイドの「温」さんと合流しました。この「横琴」は比較的新しい入管で非常に空いていたので、待ち合わせの約束の午前9時30分に通過することができました。マカオから中国に入国する従来のゴンベイ入管では数時間またされることもあると聞いていたのでラッキーでした。
入管から車で珠海市に入り、広州市に通ずる新幹線の巨大な駅やら、大規模なモールのあるゴンベイ入管の下を通って珠海市観光名所の「真珠海女像」を見ました。広大な珠江湾は珠江が海に流れ込む場所で、それに面する珠海市の海岸はプロムナードとして整備されています。その一角にある「真珠海女像」の公園は観光客で混雑していました。珠海ではかつて真珠の養殖が行われていたのでこの名前が付けられたものだそうですが、今は途絶えているようです。
「温」さんによると、改革開放前の珠海市は人口5万人の小さな漁村だったのだそうです。その漁村が今では150万人の都会に成長しました。お隣のマカオが発展してきたとは言え人口数十万なので、あっという間に追い越してしまったのです。それは珠海の対岸の深セン市でも同じ状況です。珠海の道路は整備されていて高速道路は北京まで通しているのだそうです。2000Km以上離れた北京まで3日かかると言うことです。
「孫中山故居記念館」は珠海市内から車で30分位でしょうか。珠海市の北の中山市の南部にあります。広州の行くよりはマカオ・香港に行くほうがずっと近い場所にあります。広東・マカオはイギリスのアヘン貿易の拠点だった場所で阿片戦争が始まった場所です。マカオは阿片戦争後に香港とともに外国に割譲されました。その後マカオはポルトガル、香港はイギリスの植民地となります。そうした植民地近くの中山(当時は香山県)に生まれた「孫文」は、戦争に敗れた清朝の衰退と西洋文化を身近に育ったのでした。
「孫文」の生まれ故郷の「孫中山故居記念館」は孫文の生家とともに記念館を設けて孫文関係の文物を展示しています。マカオの孫文記念館に較べると大規模で整備されています。またマカオの孫文記念館は全くガラガラでしたが、そこは多くの観光客で賑わっていました。
「マカオの孫文記念館」では台湾の国民党に関係する展示が多かったのです。そこでは孫文の国民党創始者としての一面を強調しているようでした。一方「中山の孫文記念館」は近代中国者としての中国や、中国共産党の名誉主席として孫文死後も活躍した「宋慶齢」に関する展示の結構多くの面積を割いています。この辺りは辛亥革命後の中国の政治情勢を反映していて非常に微妙なところです。しかし「孫文」に関する限り「国民党」「共産党」の党派を超えて中国国民のことを考えていたことから「国父」となっているのです。
そのような「孫文」の革命運動に対する「日本人」の支援活動に関することも少ないながらキチンと展示されています。これは避けて通れない歴史的事実なので中国でも評価されています。日本人を評価している展示は現在の中国でも数少ないものではないでしょうか。辛亥革命以降中国への侵略によって日本は大分迷惑(この言葉は田中元総理の発言で中国から反発を買いましたが)を掛けましたが、梅屋庄吉、山田良政・純三郎兄弟、宮崎虎蔵などの文字通り「献身的」な支援によって孫文の活動が支えられたのでした。
「孫中山故居記念館」記念館見学の後珠海市に戻り昼食を食べてから横琴の入管に向かいました。「温」さんに案内してもらった「飲茶」のレストランは「金悦軒」というレストランで珠海市でもおいしいという評判なのだそうです。ひろいレストランフロアは多くの客で賑わっていました。ここで食べた「飲茶」は本当に美味しく「飲茶」の魅力を存分に楽しむことができました。
注文した「茶」はウーロン茶ですがいつまでも美味しく料理にぴったりでした。これは茶葉もさることながらレストランの店員さんがタイミングよく茶碗につぎお湯を足してくれたからと思います。「温」さんによると広州の「飲茶」は素材の良さとバランスにあるということでした。香菜を上手に使って複雑で上品な味に仕上がっています。食事と一緒にアルコールを飲んで味覚を鈍らせるのが勿体なく思えました。それなので「飲茶」なのだと実感しました。 広州人は一般的に「アルコール」が弱いのだそうですが、食事がこんなに美味しくて、まるいテーブルを囲んで楽しく時間が過ごせるならば「アルコール」の出番は無いように思えました。
横琴入管から中国を出てマカオに戻りました。マカオ側にはカジノの送迎バスが待っているのでそのバスを利用してホテルに戻りました。マカオのコタイ地区は横琴入管と目と鼻の先の距離にあります。付近は新たなカジノ建設のための工事が幾つかの場所で進められています。5年もすると物凄いカジノ地区に変身するでしょう。
マカオからフェリーに乗って香港に移動しました。現在珠海を横断する香港−珠海高速道路を建設中です。これができると中国大陸と香港の距離は更に近くなります。但し、香港・マカオでは自動車は左側通行、中国国内は右側通行です。高速道路を接続するとこれを上手に連結しなくてはなりません。
香港サイドのフェリー発着場所は香港島西側の「上環」です。ホテルはその近くに確保したので歩いてホテルに向かいました。この地区は下町で香港ローカルのレストランが多いので食事を楽しむには絶好の場所だと思います。
本日の移動 ○公共バス(25番):ヴェネチアン → Lin Leoc Garden(盧廉若公園)、孫文記念館 ○徒歩:盧廉若公園 → 鏡湖病院 → 聖ポール天主堂跡 →孫文医院跡 → セナド広場 ○徒歩:民政総署 → 聖オーガスティン広場 → 聖ジョセフ修道院(ザビエルの遺骨) ○タクシー:川辺新街 → コタイコンラッド
本日の食事 朝食:コタイサンズ 飲茶 昼食:セナド広場近くのレストラン ポルトガル料理 夕食:コタイサンズ マックカフェ
マカオのホテルはコタイサンズというカジノに隣接しています。このカジノは道を挟んで向かいにある「ヴェネチアンリゾート」の系列で、道路を跨ぐ回廊で結ばれています。コタイサンズのカジノは新しくできただけに、それほどの客入りでは在りませんが、夕方散歩した同じ系列の「ヴェネチアン」は多くの客で賑わっていました。
「ヴェネチアン」はヴェネチアの街並みや空を模した作りで客を驚かせます。3階フロアショッピングエリアの各所に運河を作ってゴンドラ遊覧を提供しています。中国はじめアジア各国かららしい多くの観光客が楽しんでいました。最近シンガポールにオープンした高層ビルの屋上にプールのあるマリーナ・ベイ・サンズもこのグループの系列です。
コタイ地区からは路線バスでマカオ半島移動して今日の散策開始です。旅行の目的のひとつは孫文の足跡を訪れることであり、孫文記念館、孫文が勤めた鏡湖病院、孫文の開設した診療所・薬局跡の建物を見ました。
それらと並行して世界遺産に指定されているマカオのポルトガル関連、カトリック関係の旧跡を歩きました。メーデーの連休を利用した中国からの観光客が多いらしく観光名所の聖ポール教会跡は大変な人出でした。
お昼ご飯はセナド広場近くのポルトガル料理店で頂きました。ポルトガル料理の味付けがどのようなものか知りませんが、料理は少し胃にもたれる味付けと量でした。このレストランは日本のガイドブックで紹介されているからでしょうか、日本人観光客が多かったです。私達の両隣のテーブルは日本人でした。マカオでは日本人・中高年夫婦が目立ちました。私達もそうですがその年齢層は色々な面で活動が可能になっているのだと思います。
午後はセナド広場の南側の世界遺産の教会を見て回りました。非常に狭い範囲内に多くの教会があり、それぞれが経験な祈祷の場所となっているということはキリスト教徒の人口が多いことを物語っています。見物する側からみるとイタリアローマの教会群に較べると装飾的あるいは教えを芸術的に表現するためのの絵画だとか彫像類が乏しい感じです。当時マカオでは建築家は探せても芸術家はいなかったのだと思います。もし日本に伝わったキリスト教が当時の幕府や支配階級に浸透していたとしたら、狩野派だとか仏像彫刻家がキリスト今日関係の作品をのこしていたのだろうと思われます。
昼食が予想外に胃に重かったので、晩御飯は軽くホテル隣接のマクドナルドで軽く済ませることとしました。これが大失敗。マクドナルドの味は世界共通と期待していましたが期待はずれでした。ハンバーガーとコーヒーの両方とも日本のマクドナルドとは比べ物になりませんでした。おまけに高いし客を待たせます。日本のマクドナルドの素晴らしさを実感しました。
今年のゴールデンウィークは今日二日から七日まで「香港・マカオ・中山」を旅行しています。今日は一日かけてマカオまでたどりつきました。
本日の移動
○徒歩 :自宅 → 武蔵浦和 ○JR武蔵野線 :武蔵浦和 → 東松戸へ ○京成スカイアクセス線 :東松戸 → 成田空港第一ビル(奥の方) ○全日空(NH)905便:成田空港NRT(10:35) → 北京首都国際空港(PEK)に(13:25) ○中国国際航空(CA)115便:北京首都国際空港(15:30)香港 → 香港(HKG)(19:00) ○ターボジェット(フェリー):香港国際空港(22:00) → 澳門外港フェリーターミナル(22:50) ○コタイサンズシャトルバス:澳門外港フェリー → コタイサンズ(コンラッド) ○マカオコンラッドホテル(Sands Cotai Central Conrad)到着
本日の食事 朝食:自宅 昼食:全日空機内食 夕食:中国国際航空機内食
成田空港へのアクセスは、武蔵野線東松戸経由の京成アクセス急行を利用しました。この路線は日暮里まで出る必要がないので、成田まで遠く感じないのがいいところです。成田空港からは北京首都国際空港・香港国際空港を経由しマカオにやってきました。それほど遠くないマカオにこのように遠回りしてきたのは、今回の航空券をマイレージで入手したからです。ゴールデンウィークの繁忙期には香港直行便は直ぐにいっぱいになってしまいますし、「日本−マカオ」直行便はスターアライアンスの会社が運営しているものではないからです。
香港からマカオへの旅は「ターボジェット」というフェリーを使いました。この方法では香港に入国することなく香港国際空港から直接マカオに入国できました。成田で預けた二つの荷物は、北京・香港を経てマカオの入国口で受け取ることができました。成田の全日空のカウンターでは、北京で一回ピックアップすることになるだろうという話でしたが、北京空港ではそのまま乗せ換えてくれて無事マカオまで運ばれました。
その代わり北京空港の搭乗者検査場で「痴漢撃退音付万歩計」が検査に引っ掛かり、色々考えた末に中のバッテリーを抜いてバッテリーを検査官に渡すという方法で通してもらいました。香港の空港の電気店で直ぐに補充しました。万歩計は「大連旅行」でも引っ掛かった経験があり今回で二回目です。中国の空港検査官は非常に規則に忠実に仕事をしているという証拠でしょうか。日本への帰り便では預ける荷物に入れることにします。
マカオフェリーターミナルからマカオのホテルまではホテルのバスが運転されていてそれを利用しました。今回マカオのホテルはコタイ地区に新しくできた「サンズカジノ」の一角のホテルです。マカオのコタイ地区はカジノの進出ラッシュです。ホテルの向かいには有名な「ヴェネチアリゾート」があります。ラスベガスで驚いたあのヴェネチアンリゾートの経営のようです。
マカオは世界遺産地区の観光客誘致力に加えて、もうひとつカジノで人を集めようとしています。ラスベガスもそうですが、カジノ客のためのホテル建設ラッシュは「コンヴェンション誘致」に繋がります。マカオの後背地の珠海・中山などでゴルフ場を整備すれば、非常に魅力的な地域になるでしょうね。
香港島は第一次アヘン戦争後の1842年の南京条約で、また九龍半島南部は1860年の第二次アヘン戦争後の北京協定において中国からイギリスに割譲されました。その後1898年の北京協定において九龍半島北部およびその付近の島(新界:New Territories)が99年の期限をつけてイギリスに租借されることとなりました。1842年からイギリスの施政下にありましたが、食料だとか水の供給源としての新界を得たことによって、香港はイギリスの窓口・中継地というだけではなく、独自の発展を遂げることができたのでした。
「新界」租借期限切れが迫ると、イギリスのサッチャー首相と中国の小平氏の間で「香港問題」が話し合われ、「新界」を中国に返還してしまった「香港」の存続は難しいという判断から、1997年の1月1日を持って「香港」は中国に返還されることとなりました。その協定は「中英共同宣言」(1984年12月19日)で定められました。この協定の中には「50年間は一国二制度を継続する」旨等のその後の香港のあり方が決められおり、1997年の香港返還後以降も従来の体制が継続しています。
この香港が19世紀からイギリスの影響を受け始めたことに比べ、お隣のマカオは16世紀の大航海時代からキリスト教の布教の基地としての役割が大きかったといえます。イエズス会宣教師はマカオを本拠地として東アジアでカトリックの布教に努めました。更に19世紀イギリス統治下に入った香港においてはプロテスタントの教えが広がりました。
そして大陸中国の清朝が列強の進出・国内の内乱等で混乱期にある中、香港ではキリスト教を基礎とした近代的な教育制度・医療制度がどんどん広がっていったのでした。
このようなことを想像するのは香港・マカオに近い中国南部広東省の香山生まれの「孫文」が香港で近代的な教育を受けて、マカオで診療所を運営しながら革命初期の運動に携わった事実があるからです。その舞台が「香港」「マカオ」でした。香港がイギリス領であったお陰で中国官憲の捜索の目から逃れることが出来たのでした。ロンドンの中国大使館に捕囚された「孫文」を助けたのも孫文の師のイギリス人でした。この孫文を始めとする多くの革命家の活動が近代中国を生んだのでした。
この孫文の活動を多くの日本人が支援しました。しかしそれは決して当時の日本政府の意思ではなく、民間の篤志家のボランティア活動が中心でした。残念ながら日本政府は中国の混乱に乗じて日本の権益拡大を図る道に走り、その結果として第二次世界大戦の敗戦に日本を導いてしまいました。
このような歴史的な場所を実際に体感してこようと思っています。
経済力再生に悩んでいるスペインで「カジノ」を建設して経済復興を図ろうというプランがあるようです。アメリカのラスベガス、マカオのように巨大カジノ、ホテル、ゴルフ場などの娯楽施設を建設して客を呼ぶと共に、雇用機会を創出しようというもの。
もともとスペインは「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」への巡礼で有名だし、南ヨーロッパの明るい雰囲気はカジノで楽しく過ごすことにも適していると言えます。イタリアだとカジノをやっても「マフィアの資金源にしかならないだろう」という懸念もありますから。
こうした「カジノ」による経済振興はスペインに限らず、他のいくつかの国でも試みられているようです。マカオの成功の後を受けて韓国・シンガポールには既に立派なカジノがあって繁盛しているようですし、アジアではフィリピンもカジノビズネスを考えているようです。日本でもカジノを誘致する幾つかの経済特区構想があるようです。
「カジノ」は人間の「射倖心」を煽ることで儲けようとするビジネスなので、犯罪・風紀の乱れなどを起こしやすいことから、事業を誘致することには人々の間で様々な意見があるようです。私も個人的には「ネガティヴ」なイメージしかないのです。但し、数年前にラスベガスに行ったときに高齢のカップルや高齢の叔母さん達がスロットマシンに夢中になっている光景を目の当たりにして、「日常から離れて」わくわくする様な興奮を味わうことができるのなら、それもひとつの娯楽のあり方だと思いました。特に高齢者は身体を動かすことによる爽快感を味わうことは難しいので、これからの高齢化社会では大切な役割を担うかもしれません。
今年の連休の後半に、香港・マカオに行く予定です。マカオのホテルは都合で「サンズ」という大きなカジノに隣接するホテルを予約しました。今回の旅行で訪問した場所は他にも沢山あるのですが、世界有数のマカオのカジノがどのような状況なのか見るのも一興だと思っています。
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