KENの日記
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2012年10月08日(月) 「トスカ」(大宮ソニック)

ウィーンの森バーデン市劇場の「トスカ」の公演を大宮ソニック劇場で見てきました。

日時:10月8日(月・祝) 15時開演
トスカ     :セシリア・ベルグルンド
カヴァラドッシ :オイジェネェ・アァメスマァン
スカルピア   :アンドゥリィイ・シュクゥルハァン
アンジェロッティ:フロォリアン・クレッスェァル
            
会場:大宮ソニックシティ大ホール
演出:ルチア・メシュヴィッツ
指揮:クリスティアン・ボォラァック
楽団:モーツァルティアーデ管弦楽団    
合唱:バーデン市劇場合唱団

ここ3年間毎年通っている「ウィーンバーデン市劇場」の日本公演ですが今年の演目は「トスカ」です。プッチーニのオペラは「ラ・ボエーム」に次いで2作目となります。

今年の春、ローマ・ナポリに旅行したときに「トスカ」の場面は十分に見てきました。第一幕の「聖アンドレア・デラ・ヴァルレ教会」は朝一番に行って朝日に映える厳かな堂内を十分に満喫しました。フランス大使館となっている「ファルネーゼ宮」は当然入場できませんが、時間をかけて大きな建物の周りを一周しました。「サンタンジェロ城」は内部を隈なく見学しました。ということでトスカ舞台の地理は頭の中に入っています。それにしてもアッタヴァンティ侯爵夫人(アンジェロッティの妹)が、嫁ぎ先の礼拝堂があるとはいえ、敵親分スカルピアが本拠地としているファルネーゼ宮と目と鼻の先の「聖アンドレア・デラ・ヴァルレ教会」で逃亡の助けをするというのは気が利かないと思いました。

今回の「トスカ」ですが、カヴァラドッシ役の「オイジェネェ・アァメスマァン」は昨年のカルメンでホセを歌った人です。昨年の印象と全く同じで、少し硬い感じがして、声の伸びが今一歩。最初の見せ場の「妙なる調和」では少し抑えているのだろうと思いましたが、結局最後まで同じ調子でした。まあその分破綻のない安定した歌を聞かせてくれたと思います。スカルピアは声といい体格といい申し分ない悪役ぶりだと思いました。特に関心したのはトスカに刺されて死ぬ場面で、結構細かい芸をしていたところです。SS席の舞台の真正面だったので見ることができましたが、床に倒れて「最期の息を吸って」死んで行った演技に「いいね!」を贈りたいと思いました。

タイトルロールの「トスカ」について面白かったのは、スカルピアから「偽の銃殺刑の言質」とカヴァラドッシとの二人の逃避行用の証明書を手に入れて「勝手にルンルン気分となる」場面を上手に表現していたことです。ここの表現によってトスカが相当に嫉妬深かったこと、及び一緒に逃げるはずだったカヴァラドッシを失ってしまったショックで身を投げることとなる筋に旨く繋がっていったと思いました。

今回の大宮公演は今回の日本公演の最期の方に当ります。昨年のカルメンの埼玉公演が公演初日で、オケが散々であったことに対比するとかなり練れてきている状態でした。やはり長い公演では初日は外す方が良いようです。

公演内容からは離れますが、今年からプログラムが有料になりました。カラー写真をふんだんに使ってきれいに仕上がっているいるのは良しとして、曲目億解説については、相変わらず「途中までは頑張って解説するも、直ぐ挫折して、後の方の説明が驚くほど荒くなる」というパターンはそのまま踏襲されていました。でもバーデン市の説明が充実しているので面白く読みました。



2012年09月29日(土) 巾着田の彼岸花




日高市の巾着田の彼岸花を見てきました。この土・日がピークだろうと言うことで大混雑が予想されたので朝早く車で出かけました。朝6時30分頃に自宅を車で出発しましたところ、新大宮バイパスや国道16号線は混んでいましたが、日高市内、巾着田近辺はまだ空いていたので、巾着田の駐車場に余裕で車をとめることができました。(巾着田は朝7時開園です。)

早朝にやってくる人達は「立派なカメラ」をもった写真マニアが多いようでした。朝の混雑しないうちに自分の撮りたい写真を思う存分撮っている感じです。子供連れもまだ来ていないので辺りは比較的静かでした。

「彼岸花」は5分咲き程度でした。しかし咲いている花は皆元気が良いので見栄えは素晴らしかったです。自然の群生地の辺り一帯が異常に赤い「彼岸花」畑に比べ、近くの人工の「コスモス畑」はいかにも自然な感じがしたのは面白い対照でした。

彼岸花、コスモス、巾着田牧場の「馬」等を一通り見て自宅に帰り着いたのはまだお昼前でした。混雑する観光地見物はこういう方式に限りますね。



2012年09月28日(金) 心臓検査

糖尿病(予備軍ですが)でお世話になっている高野先生に紹介状を書いてもらって、NTT東日本関東病院の循環器内科に行ってきました。高野先生曰く「心臓に何か異常があった場合には会社関係の病院の方が安心でしょう」ということで、少し遠いのですが五反田の関東病院にしたのでした。

今日は、「心臓のレントゲン撮影、心電図、負荷をかけてのエコー」の検査をしてから循環器内科の先生の診察を受けました。随分まえから心臓は「ST異常」の不整脈だと言われていますが、関東病院に残っている昔の心電図(2006年のもの)と比べても、異常が進んでいるということなので、別の日に心臓血管のCT検査をすることになりました。天皇陛下が心臓の検査をして血管が細くなっていることを発見されたと同じで、血液に特殊な造影剤を入れてCTで血管の状況を検査するものです。

これまでの人間ドックの結果報告書について、少し遡って「心臓」「血糖」「尿酸」の状態の推移を整理しておきます。

1999年5月17日(それまで正常であったが異常検地で再検査)
心電図:ST−T異常、軽度の右室肥大、血糖値:111(前年より上昇)、尿酸:8・0(前年より上昇)、体重:69Kg

2000年6月29日
心電図:下壁梗塞可能性、軽度ST−T異常、血糖値:106(正常値)、HbA1c:5.0、尿酸:7.3、体重:69Kg

2001年6月27日
心電図:平底T、HbA1c:4.5、尿酸:7.8、体重:66Kg

2001年11月2日
心電図:R波(V1V2)増高?、軽度ST−T異常、HbA1c:5.0 尿酸:8.9 体重:68.5Kg

2003年7月4日
心電図:ST−T異常、軽度な右室肥大、HbA1c:5.3 尿酸:8.5 体重:69.3Kg

2004年2月13日
心電図:軽度ST−T異常疑、軽度な右室肥大 血糖:121、HbA1c:5.4 尿酸:8.5 体重:69.8Kg 

2005年9月26日
心電図:ST−T異常、軽度な右室肥大 血糖:138 正常高血圧、HbA1c:6.2、尿酸:8.1、体重:69.6Kg

2006年10月6日
心電図:軽度ST−T異常、軽度な右室肥大、正常高血圧、大動脈硬化、血糖:122、HbA1c:6.2 尿酸:7.0 70.8Kg 

2008年1月22日
心電図:ST−T異常、右室肥大の疑い、頚動脈:一部内膜肥厚、血糖:118、HbA1c:6.9、尿酸:7.0、体重:69.7Kg

2008年11月27日
心電図:ST−T異常、血糖:97、HbA1c:6.7、尿酸:7.9、体重:69.7Kg

2010年2月3日
心電図:軽度ST−T異常、血糖:146、HbA1c:6.5、尿酸:6.1、体重:67.9Kg

2010年11月4日
心電図:ST−T異常、血糖:127、HbA1c:6.3、尿酸:7.5、体重:66Kg

2011年8月30日
心電図:反時計回転、ST−T異常、血糖:134、HBA1c:6.4、尿酸:8.4、体重:64.8Kg

2012年6月25日
心電図:反時計回転、ST−T異常、大動脈蛇行、血糖:116、HbA1c:5.4、尿酸:7.9、体重:60.2Kg



2012年09月16日(日) 須坂に帰省

夏休みに長野に帰省できなかったので、敬老の日直前の土日を利用して田舎に帰ってきました。田舎での用事が溜まっていたのでこの機会に出来るだけ多くこなして来ました。交通手段は関越・長野道を車で走るというもの。連休の高速道路は流石に混雑していました。行きも帰りも川越付近で事故原因の渋滞に巻き込まれました。この渋滞で往復それぞれ1時間程度余分に時間がかかりました。

土曜日の午後から地元の不動産屋さんとの打ち合わせを設定していました。誰も住まなくなってしまった須坂の実家が、売却するとすればどれ位の価値があるのか、建物の中もお見せして査定して頂くことにしていました。その結果次第で売却も検討するつもりです。土地についていうとバブル以前に購入した金額の半分以下に下落しているとのこと。さらに建物については既に古いので価値は殆どないという話です。それでも建物は年数が経っている割には痛んでいないので改修すれば新築するより安くできるので利用可能だという評価でした。現在では必須となっている駐車場設備がないので、その整備費は差し引かれてしまいます。あまり期待できそうにないのですが、結果を待ちたいと思います。

時間を見つけて妻の実家も見てきました。こちらは草ぼうぼうで建物は大分朽ち果てています。外から見える障子がぼろぼろで網戸も壊れているものが多いためかなりみすぼらしく見えます。もっとも屋内には貴重品はないので泥棒に入られても大きな被害はありません。ただ草木が伸びて近所迷惑になりそうなことと、火事にでもなったら大変なのです。両実家の移動の間におよそその中間地点にある我が家のお墓にお参りしてきました。正月・盆に来ることが出来なかったのでお寺さんにもお礼をしてきました。

両方の家のチェックをすましてから、長野の日赤病院にこの夏から入院している姉の見舞いに行きました。非常に難しい病気で家族総出での看病が続いているようです。何より本人が病気と闘うことを一つの「生き甲斐」として考えるようになったと見えて、しっかりした気持ちを持っているので安心しました。さすがは同じ病院で看護師を長くやっていただけあります。難しい病気ですが頑張って欲しいと思います。



2012年09月13日(木) 中国次期首相候補の消息不明

中国では次期の国家指導者を選出する第18回全国人民代表大会(全人代)の開催が予定されていますが、その大会で中国のトップに選出されることが確実視されている「習近平」氏の消息がこの9月1日を最後に途絶えています。さらに通常なら疾うに発表されている全人代の日程も確定していません。

丁度アメリカの大統領の中間選挙が控えていますが、民主的な選挙によるかどうかは別にして中国のトップ選出の過程も、物凄くタフな絞り込みが行われることが通例のようです。日本の首相(候補)決定のための民主党・自民党の代表・総裁選挙が短期決戦で非常に簡単に終了してしまうこととは大きく異なっています。

「習近平」氏といえば2009年12月に来日した際に、日程が迫っていたにも拘らず特別の配慮によって天皇陛下との会見が行われたことで、当時既に次期「主席」就任が確実視されていることが内外に知れ渡りました。今年2月中旬にアメリカを訪問したときにも、アメリカは次期中国指導者として異例の19発の礼砲をもって「習近平」氏を向かえたのでした。

ところがちょうどその2月前後から「きな臭い」話が中国から聞こえてきたのでした。「習近平」氏のアメリカ訪問の一週間前に中国成都のアメリカ領事館に重慶市の公安トップが亡命を求めて逃げ込むという事件が発生したのでした。最終的にアメリカは亡命を認めず中国政府に亡命者の身柄を引き渡したのですが、アメリカはその人物から詳細な内部情報を入手したことは確実です。この亡命者こそ「習近平」と同じ革命家二世政治家(太子党)エースの「薄熙来」氏の側近でした。その後の経緯については、3月には「薄熙来」氏の失脚が報じられ、「薄熙来」氏の妻の「英国人殺人事件」が露見しその裁判がつい先頃行われるという、未曾有のスキャンダルとなったのでした。

この間「習近平」氏は同じ太子党でも「薄熙来」氏とは一線を画して、次期主席として立場を確実に守ってきた感がありました。その「習近平」氏の消息が途絶えたのですから、中国政権内部に何かあったと考えざるを得ません。今日になって非公式(香港経由)ながら、「習近平」氏が主要摘出手術をしていたとの情報が流れています。本当かどうか数日中に判明するでしょう。

因みに、「習近平」「薄熙来」の二人の家族は非常に似通ったところがあります。二人ともバツ1であ、再婚相手は飛び切り美人の才媛(もっとも薄熙来氏の妻の「谷開来」は裁判所に別人のような姿で現われましたが)。「習近平」氏の再婚相手は群所属のオペラ歌手。そして子供はそろってアメリカ留学中です。



2012年09月08日(土) ナポリピザのファストフード

今日・明日と代々木公園でスリランカフェスティヴァルが開催されていて、妻と二人で行ってみました。過去何回か会場で昼食を食べたのですが、場所取りが大変やら、本場の味とはいうもののそれ程感動しなかったので、今日は渋谷のピザ店で昼食を済ませてから行きました。(ピザ店の話が中心になってしまいました。)

目的の場所は「ナポリス」という「ピザのファストフード店」と謳ったピザ店です。なんとマルゲリータが1枚350円なのです。これはユーロ換算でも3.5ユーロ程度。まさしく現地価格です。妻と二人でマルゲリータのランチセットを頂きました。マルゲリータと野菜サラダと飲物(ワインor生ビール)で850円です。これに生ハム(500円)を追加しました。値段でいうとピザが圧倒的に安いので、その他の注文を最小限に抑えればかなりお得です。

「マルゲリータピザ」はというとそれなりに美味しく頂けました。生地は縁と中央の厚さの差があまり無く、つまり厚さは殆ど均一なので全体に火を通してりました。具でいうとチーズには最初から期待していないので、こんなものかと言う感じですが、トマトペーストは通常の輸入物を使っているらしくてピザを引き立てるのに役立っていました。

良く考えればトマト臭さを極力排除して甘くなってしまった日本のトマトより、缶入りの輸入トマトに方がトマトそのものの味がするはずですし、価格的に買っているはずです。最近「バジル」も安く手に入りますのでチーズに目を瞑ればそれなりのマルゲリータになることを実感した次第です。

ただファストフードと謳っているのですが、店の奥の飲食スパースはかなり空いているにも係らず、注文カウンターにはかなり長い列が出来てしまいます。それはピザが焼けるまでカウンターで待たされるからです。かなり大きなピザ窯(ガス)ですが、同時に焼けるのが3枚程度が限度にようで結果的にお客様は並んで焼き上がりを待つことになってしまいます。番号札か何かを渡して代金支払い後は飲食スペースで待たせるとか工夫が必要だと思いました。

とは言うものの「ナポリピザ」という料理に関して、イタリアンレストランにはかなり普及しているし、ピッツェリアと称して「ピザ中心」の店舗形態も出てきているし、今回の「ナポリス」のようなファストフード形態を模索する動きも出てきました。ナポリピザが本格的に認知され、フード業界に一定の地位を確立した証拠だと思いました。

スリランカフェスティバルは毎年どんどん変化している感じがしました。今回注目したのは、スリランカに資金送金するための会社の出展が多かったこと。日本に支店はないですがスリランカ大手の「バンク・オブ・セイロン」が出展していたことには驚きました。それとコロンボの日本食レストラン「日本橋」がスリランカカレーのデモを行っていました。コロンボ在住時代のレストランオーナも来日していてPRしていました。日本食レストランが大繁盛して事業拡大しているようでした。



2012年09月07日(金) 1812年から200年

今年は2012年。単純に1812年の200年後ですが、1812年と言えばチャイコフスキーの「序曲1812年」。今年は演奏会で取り上げられる機会が多いようです。

その「序曲1812年」が描写していると戦争が、1812年9月7日のポロジニ(Borodino)の戦いです。ボロジノはモスクワの西約120Kmのところにあります。ナポレオン一世の率いるフランス軍は70万の兵力で1812年6月にロシアに進軍を開始しました。

迎え撃つロシア軍は各所で敗北を重ね、ボロジノに強固な砦を構築して最後の決戦を挑みました。このときのロシア軍兵力は90万に上ったとの言われています。

ボロジノでの戦いは決着が付かなかったのですが、ロシア軍は退却を余儀なくされたのでした。その後フランス軍はモスクワを攻撃するのですが、ロシア軍は頑固に抵抗し続けたので、フランス軍はモスクワを落とすことができませんでした。

そうしているとモスクワは段々秋が深まっていきます。10月中旬にはロシア軍はモスクワから退却を開始しますが、フランスから大規模な遠征部隊はどんどん消耗していきます。ついにヨーロッパに冬が訪れ、結局ナポレオンの遠征軍は冬将軍に敗れてしまうのでした。

「1812年」に中間部ででてくる民謡風の旋律はこのボロジノ地方に伝わる民謡なのだそうです。



2012年08月30日(木) 宮城県七ヶ浜でボランティア

今日から二日間の日程で宮城県七ヶ浜町でボランティア活動です。これは休暇を取ってボランティア活動をする社員に対して、会社が旅費・滞在費等を補助するという会社の社会貢献活動と社員のボランティアのマッチング施策です。私の会社の属するグループは昨年の東日本震災直後からこの活動を続けています。私は今年に入って応募していたのですが、ようやくこの夏の時期に当たったという訳です。今回のチームは5人で私ともう一人が始めての参加、残りの3人はボランティア経験者です。そのうちの一人は既に何回もボランティア活動に参加しているベテランの方でした。

ボランティアの場所は宮城県中部太平洋岸の七ヶ浜町です。ボランティアセンター(VC)は七ヶ浜町の高台にあるゲートボールセンタを活用しています。その敷地内にはサッカー場、プールなどのスポーツ施設があります。もちろんボランティアが宿泊するためとかのプレハブ建物も何棟か立っています。その施設自体は高台に建っているので地震・津波の被害が少なかったようですが、七ヶ浜町のその近辺でも海抜の低い平地には建っている建物はほんの少しです。敷地の境のコンクリートの土台とかブロック塀の一部が残っているだけの平地が殆どです。低い土地に建っているのは震災後の建物が多いようです。

平地にある畑も田んぼも津波の泥をかぶり、塩分の多い海水に浸ってしまったために土壌改良が必要となっています。最初の頃のボランティア活動は家屋からの泥出しとか掃除とかの住民生活支援的なものが多かったようですが、現在はそれらが一段落したため、田畑の土壌改良の事前整備の活動が多いようです。一言で言うと田畑に積もった土壌から木材とか石(大小)とか金属類を撤去するというものとなっています。これから本格的な住宅復旧が始まると引越し手伝いとか活動が増えてくるようなのですが、まだそこまではいっていません。

今回二日間の活動でしたが日差しが強くて体力を消耗しました。ボランティア活動にいって他人に迷惑をかけてはいけないので体調管理には気をつけました。七ヶ浜には私達のような団体の他に個人ボランティアの方が来ています。こうした方は会社の補助を当てにすることなく、滞在費・交通費自腹で活動しているのです。そういう方が淡々と我々と一緒に作業されていらっしゃいます。完全に脱帽です。

今回本当に久しぶりの仙台だったので、昔住んでいた「米ケ袋」近辺を散策してみました。約10年前ですが当時はデジカメが無かったのです。今回懐かしい思い出で沢山写真を撮ってきました。



2012年08月22日(水) 小笠原丸の沈没(8月22日)

1945年の8月22日北海道東部の増毛町沖で乗組員と乗船者約700名を載せた海底ケーブル敷設栓の小笠原丸(総トン数1404トン)が国籍不明の潜水艦の攻撃を受けて沈没したのでした。この沈没から生き残ったのは乗組員と乗船者併せて60名だけでした。この事件の情報をまとめて記載しておきます。

昭和20年6月「樺太−北海道」ケーブルが不通となり青函ケーブルにも障害が出ていたことから、海底ケーブル敷設船の小笠原丸がこれらのケーブルを修理するために北海道の海域に向かった。同船は8月にはケーブル修理を完了して利尻方面の工事のために稚内港で待機中に終戦を迎えた。

日本のポツダム宣言受諾直前の8月9日のソ連参戦時には南樺太には約40万人の民間日本人が住んでいた。ソ連の樺太侵攻前に出来だけ多くの民間人を樺太から退避させるため、本土避難の対象者として65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女の約16万人が15日間かけて北海道に移送する計画が作られた。

引揚船として大泊(おおどまり)を主たる乗船地として稚泊(稚内−大泊)連絡船「宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻、本斗(ほんと)から稚斗連絡船「樺太丸」と小型艇30隻、真岡(まおか)からも貨客船「大宝丸」などを運航することとなった。陸上では乗船地に向けた疎開列車編成とトラック輸送が行われた。

実際の引揚は13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達されたため、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。(ウイキペディアより)

稚内港に停泊中であった海底ケーブル敷設船の小笠原丸も、豊原逓信局の依頼もあって樺太在住民の老幼婦女子部内職員およびその家族の引揚者の移送を行うこととなった。小笠原丸は8月17日に稚内港から樺太の大泊港へ出港し、同港で約1500名の引揚者を乗船させ19日には稚内に帰港。大泊にはなお数万の引揚者が待機中であったために小笠原丸は第二回目の引揚任務に向かうこととなった。20日午前7時稚内出港、午後5時には大泊に係留し避難者約1500名を乗船させた。

20日の朝には日ソ国境付近からのロシア軍の侵攻に加えて、樺太西海岸の真岡にロシア軍が上陸し引揚げようとする日本人への攻撃を開始していた。事態が緊迫していたことから大泊の小笠原丸は20日夜11時45分に出港し、21日午前11時に稚内に帰港し稚内で約900名の乗船者を降ろし、残りの600名引揚者を乗せたまま21日午後4時ごろ小樽港にむけて出港した。

そして8月22日午前4時22分、北海道増毛郡増毛町カムイエト岬の約4海里沖合いを航行中に魚雷攻撃を受け大破沈没した。国籍不明の潜水艦は暫くしてから海面に浮上し残虐にも浮流者に機銃掃射を加えた後に再び潜航したのだという。

小笠原丸は攻撃を受け瞬時に沈没したのであるが、幸運にも一隻の救命艇がスタンバイ状態であったために漂流中の乗員がこれに泳ぎ着き付近に漂流者49名を救助して午前9時30分頃増毛町のカムイエト岬付近に到着して救助を求めた。カムイエト部落ではただちに2隻の早速漁船で救援に向い約一時間後に11名の漂流者を救助して帰着した。そして急報を受けた増毛町の連合部落会では15隻の漁業用発動船で救援に向い付近で漂流中の11遺体と漂流物150個を回収して正午過ぎ増毛町に帰着した。

同じ8月22日には小笠原丸の他に、第二新興丸(2500トン)と泰東丸(880トン)がともに樺太からの多数の引揚者を乗せて北海道に向かっていたところ、国籍不明の潜水艦の攻撃受け沈没している。それぞれ667名、400名の犠牲者を出した。小笠原丸を含めたこれら3船沈没の悲劇は3船殉難事件といわれている。



2012年08月19日(日) WAOA清水のコンサート

今日はWAOF(World Amateur Orchestra Festival in Sizuoka)のコンサートでした。会場は静岡市清水区の清水駅近くの「マリナート」の大ホール。1時30分開演に間に合うようにさいたまの家を車で出たのですが、昼食をあわてて済ませてぎりぎり一曲目の開始に間に合いました。

プログラム(8月19日 午後1時30分開演)
ユースオケ(比較的年長) ベートーベン作曲 レオノーレ序曲第3番
ユースオケ(比較的年少) エルガー作曲 減額のためのセレナードホ短調
社会人オケ(A)     ラヴェル作曲 ラ・ヴァルス 
               ラヴェル作曲 ボレロ
社会人オケ(B)     マーラー作曲 交響曲第二番「復活」
              (合唱:マリナート祝祭合唱団)

この日はユースオケコンサートに出演するシャロム君とコンサートを聞くジニー先生ドュッシ−先生の3人を成田のホテルまで送り届けることが私の役目です。最後の「復活」が終了するのは午後5時過ぎの予定であり、その後に清水から成田に走るとホテル到着は深夜になってしまいます。もし少し東京見物をするのなら、演奏会を全部聞かずに早めに出発する必要があります。結局、社会人オケ(A)のボレロまで聴いて清水を出発することにしました。

私はユースオケの2曲とラ・ヴァルスを会場で聞きましたが、レオノーレは指揮者の心地良いテンポに乗って随所で若々しい音楽を聞かせてくれました。エルガーはイギリス音楽の雰囲気を出す事が難しいと想像していましたが、やはりそこまでの練り上げにはなっていなかったのが残念でした。若い演奏家には向かない選曲だったと思います。ラ・ヴァルスはさすがに大人のオケなので、メリハリの利いた華やかな演奏になったと思います。短期間で仕上げるために仕方がないのでしょうが、アマチュアの課題として「演奏者自信・シンパのファン」の満足感だけではなく、一般聴衆にどれくらい感動を与えるかと言う観点にたった時、曲の完成度をどのように高めていくのかが課題だと思います。

社会人オケ(A)の演奏終了後、清水駅前のヴィスタホテルで3人と待ち合わせて成田に出発しました。お盆は過ぎていますが帰省客・行楽客の首都圏Uターンとぶつかって東名の上り線はかなり混雑していました。3時30分過ぎには清水を出ましたが、結局東京の夕食場所の浅草のインド料理店には7時30分過ぎに到着しました。この浅草のインド料理店は「アリ・シディーク」といって浅草ビューホテルの斜め向かいにあります。なぜここに決めたかというと、まず店の直ぐ横が駐車場となっていて車で行くに便利なこと。さらに少し歩くと浅草寺の本堂があり、短時間の浅草見物に便利だったからです。

インド・スリランカからの3人のゲストは店内のマサラの匂いでハッピーになったようで、メニューで自分の欲しい食べ物を自ら選ぶました。これはインド料理以外のレストランでは考えられないことです。日本最後の夜に少しは自分達の食べたい物をたべることができたと思っています。このインド料理店で以前にムンバイ領事館に勤務されていてBCOでパーカッションを担当していた「Hさん」が合流しました。「Hさん」はBCOのジニー先生等と旧交を温められました。

浅草の浅草寺を短時間で散策した後、成田空港近くの彼等の今夜のホテルに向かいました。私達が成田から自宅に戻ったのは夜中12時を過ぎていました。これは首都高都心環状線でルートを間違え、悪いことにその先で事故渋滞に巻き込まれてしまったからでした。(この遅れによってNHKBSプレミアウで放送されたザルツブルグ音楽際のラ・ボエームの冒頭部分の録画することができませんでした。)




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