KENの日記
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2012年08月18日(土) スバッシュ・チャンドラ・ボース68回目の法要

毎年8月18日恒例となっている「スバッシュ・チャンドラ・ボース」の法要が杉並区の蓮光寺で開催されました。妻と二人で出かけました。インドからジニー先生がやってきているし、インド関係のイベントが多い夏になっています。今年は日印国交樹立60周年なので多少例年と違うことがあるかしらと期待していきました。

昨日昼食を食べた文京区本郷のインド料理店の店員に今日の法要のことを知らせておいたのですが来られなかったようでした。今やインドの方が大勢日本に来て働いたり勉強したりしているはずなのですが、昨年までの法要には数人かのインド人しか参列していなかったので、少しでもインドの方にこの催しを知ってもらおうと思ったからです。

今年もインド人の参加の少ない寂しい法要になれば残念なことだなと思っていたのですが、事前の予想に反してインド人の参列者が多くそう広くない蓮光寺の本堂はギューギュー詰めの状態となりました。座る席がなく立っている参加者が多いこともあって、例年だと順番に整然と行われる「お焼香」はかなり雑然と騒々しく行われました。その所為でひそひそ話をする人が多く、お焼香の間「お経」を読み続ける望月導師さんには非常に申し訳ないことになってしまいました。

法要の後の開催された御斎も昨年より多くのインド人の方が参加されました。今回少し工夫されたようで、出された食事は「寿司(魚類)」と「鶏肉」でインド人でも何とかギリギリOKというレベルでした。しかし多くのインドの方が法要に参列されましたが、やはり食事を食べずに直ぐに帰られたインド人は多かったようです。アルコール(缶ビール)とハムの挟まったサンドイッチは一見なんでもないように思えますが、インド人の中でも厳しくベジタリアンを貫いている人には受付されない食事です。

私達の正面にはコルカタから日本に留学している学生が座りました。ベンガル出身のスバッシュですからベンガル出身者には人気があります。この非常に優秀そうな学生さんは普通に魚も鳥も食べていました。インドでもベンガル地方の人達は東南アジアに近いためか食材に対して柔軟な感じがします。

一方でこれは私の印象ですが、北インド出身の「ネルー一族」とかグジャラート出身のガンジーとか非常に禁欲的で厳しくベジを守るタイプで、むしろ少し堅苦しくさえ感じます。この辺りがインド国民会議派主流の「ガンジー・ネルー系」の人達とスバッシュがしっくり行かなかった一つの理由かもしれません。宗教にも食べ物にも寛容で柔軟だった「スバッシュ」が国民に人気があったのは分かるような気がします。

今のところインド政府が蓮光寺のボースの遺骨が本物であると見解を変える気配は全くありません。インドではボースの誕生日である1月23日は知られているようですが8月18日は全く教えられていないのです。政府レベルだと現在の与党国民会議派の都合で、スバッシュを英雄視することに繋がりかねないその死の経緯について国民に詳らかにしたくないのですね。そうすると着実の民間レベルでインド人への浸透を図り、その結果として政府に見解修正を求める方法しかないと思います。



2012年08月17日(金) 高価なバイオリン弓の毛張替え

インドから来日したBCO(Bombay Chamber Orchertra)のジニー先生が毛の張替えのためにインドからバイオリンの弓を日本持って来られました。バイオリン修理業者を探して「毛の張替え」を頼まれたので、今日文京区春日にある文京楽器さんに行ってきました。この楽器店は前の職場の近くにあって、いつもショーウインドーの素晴らしい楽器を眺めていたのでした。今回その記憶があったのでお願いしたのですが、移転していて移転先を捜すのに苦労しました。(詳しくは後述)

ジニー先生のバイオリンボーについて調べたことを記載しておきます。

バイオリン弓(A)
W.E.Hill & Sons (From Wikipedia)

W. E. Hill & Sons (1887–1992) was a London-based firm, that specialized in violins and other string instruments, and bows. It was also known as William Hill & Sons or William E. Hill & Sons.

Founded by William Ebsworth Hill at 38 New Bond Street, London in 1887, the name W. E. Hill & Sons built on a long family history of violin making going back to William Ebsworth's great grandfather, Joseph Hill. The firm soon gained a widespread reputation for excellence in repairs, making of instruments, bows, cases and fittings as well as instrument identification and authentication. A "Hill's" Certificate of Authenticity was considered definitive worldwide throughout the firm's history.

Many fine craftsmen worked for the firm. They were particularly famous for their bow makers. For much of the 20th century, the Hill workshop employed England’s best bow makers, who created bows renowned for character and consistency. Hill violins, cellos and cases are also highly regarded. Their other famous products included varnish cleaner, violin e-strings, and books about violin making families. Many famous stringed instruments passed through Hill & Sons, including the Alard Stradivarius, the Messiah Stradivarius, and the Lipinski Stradivarius. W. E. Hill and Sons ceased operation in 1992.

ジニー先生は18歳でイギリスに留学し、7年間音楽を学んでインドに帰国しBCOの活動を始められました。ジニー先生はロンドンで楽器等を大量の購入して帰られたようです。多分このヒルの弓もその中のひとつだと思います。ジニー先生のムンバイのレッスン室にはバイオリン弓の他に「ヒルのチェロ弓」がありました。ジニー先生の自慢の一品で宝物のような大切にしていました。今その弓はドュッシー先生が気に入って使っているとのことです。ヒルの弓は見かけは非常に繊細です。スティックの部分の木はかなり細く仕上げられています。それでいて弦に吸い付くような感触を出すのでしょうね。

バイオリン弓(B)
PAUL WEIDHAAS Bow (Finkelのホームページより)

A workshop with a long tradition

The tradition of the Finkel-Weidhaas bows started in the 19th century with Ewald Weidhaas (1869 – 1939). Weidhaas manufactured his bows in the city of Markneukirchen. We know less about him than about his son Paul (1894 – 1962). Paul worked for V.Fetique in Paris, in Leipzig with L.C.A Bausch and Möller in Amsterdam. He took over his fathers wokshop (Ewald's). Shortly after the end of World war II his daughter Hanna Weidhaas fell in love with Siegfried Finkel (1927 – 2010). Siegfried started an apprenticeship with his father-in-law. When communism begun in Markneukirchen Siegfried Finkel moved due to the advice of his father-in-law with his wife and their son Johannes (1947) to Brienz /Switzerland, where he started his own business (1952).

The Bogenwerkstätte became one of the worlds most famous bow making business. From 1965 - 1968 Johannes made his apprenticeship in his fathers workshop. After his apprenticeship Johannes worked with J. & A. Beare in London, Hans Weisshaar in Los Angeles and in Philadelphia with William Moennig & Son.

In 1974 he returned to Switzerland and worked with his father together in the Bogenwerkstätte. l984 after his father's retirement Johannes took over the business. Daniela Finkel, 1984, made her apprenticeship as a bowmaker in her fathers workshop, in the 5th generation and is now also making bows.

弓(B)の製作者と思われる「ポール・ヴァイドハース」は現在日本でもかなり出回っている「フィンケル」の現在の製作者のお爺さんにあたる人です。フィンケルの弓はその安定した品質と手頃な値段でかなり多くのアマチュア演奏家が使っていると思います。文京楽器さんの話では「ポール・ヴァイドハース」の弓は日本ではあまり見かけないのだそうです。

ジニー先生はこの二つの弓をドュッシー先生のチェロ弓ケースに入れてムンバイからはるばる持ってきました。清水のホテルについてから一応清水・静岡で「弓の張替え」業者をインターネットで検索しましたがヒットしませんでした。結局ジニー先生が清水でセミナー等に参加している間私達は東京に戻るので、東京の楽器修理屋さんに頼むことにしたのでした。

そこで文京楽器です。3年前には確か丸の内線の後楽園から直ぐ近くに店舗があったのですが、そこではマンション建築が進行中でした。移転のことには全く考え及ばず電話で問い合わせていたのでした。文京楽器さんも2年以上前に移転しているので移転の話は必要ないと考えていたようです。電話で移転先を聞いてみると春日通りの真砂坂を登ったところでそれほど遠くなかったのがラッキーでした。そこは随分前に移転した楽譜の「アカデミアミュージック」の直ぐ近くでした。

私のチェロの弓も毛の交換したかったので都合3本の弓の毛換えをお願いしました。当然ですがジニー先生の有名な弓は「最高級の毛」、私の初心者用の弓は普通程度の毛で交換を頼みました。一本1時間で計3時間の修理時間がかかることになりました。真夏の太陽がガンガン照りつける時間帯ですが、3時間お昼を食べて本郷近辺で過ごすことになりました。

まず東大近辺を散策することとして、赤門向かいのインド料理店の「ムンバイ」でカレーを食べました。カレーは期待通りの美味しさでしたが、食べ放題のナンはかなり美味しかったです。ここでインド人の店員さんに明日18日のボースの法要の話をしておきました。

腹ごしらえをしてから東大の「三四郎池」を散策しました。最近「三四郎」を読み返したところだったのでその舞台を確かめたかったのです。真夏の三四郎池は訪れる人も少なく、大きな木の日陰もあって都会とは思えない雰囲気でした。池の水はあまりきれいではないのですが、予想外に大きな鯉とか亀が泳いでいます。「美禰子」さんが降りてきそうな病院の方から池に下る道だとか、それを見上げることのできる休憩ベンチだとか「三四郎」の雰囲気を十分に味わうことができました。それから東大構内、弥生町あたりを散策してから戻りました。

本郷三丁目付近の春日通りは「スカイツリー」の撮影スポットのようです。春日通りの中央分離帯から東方向にちょうどカメラに収まりの良い程度の大きさのタワーが見えます。下の写真はバイオリンの弓とは全く関係ないですが、「本郷台中学入り口」という横断歩道の中央分離帯から取った写真です。



2012年08月16日(木) 清水へ

世界アマチュアオーケストラフェスティヴァルに参加するムンバイ(BCO)のジニー先生、コロンボ(SOSL)のドュッシー先生、BCOのビオラのシャロム君が来日しました。3人は15日の午後のキャセイ便で成田の到着したので、私と妻が成田で迎えてそのまま私の車で清水に向かいました。私達夫婦は15日清水で宿泊して16日の午後に清水から自宅に戻りました。19日のコンサート終了後3人を成田まで送るためにもう一度清水に向かいます。今回アテンドの半分が終了したのですが、幾つか記憶に残る経験がありましたので、順不同で記載しておきます。

15日午後3時過ぎの成田空港第二空港ビルの到着ロビーにはテレビカメラと大勢の報道陣・出迎の人が混雑していました。ロンドンオリンピックの選手は14日に帰国しているはずなので、だれか有名人の帰国かなと思っていたが、背が高くがっしりした人が出てきました。ハンマー投げの「室伏選手」でした。貫禄がありますね。

予想外に遠かった清水。さいたまから成田に行きそこから一気に清水まで走りましたが結構疲れました。午後4時30分ごろ成田を出発し、8時には清水インターから出ていました。ホテルを探すのに少し手間取りましたが、4時間かからずにホテルに到着しました。3ナンバーとは言え後ろに3人座りは少し厳しかったようです。シャロム君が痩せていたのでそれでもラッキーでした。

ジニー先生は18歳でロンドンに留学して7年間ロンドンで音楽を学んだのだそうです。そしてその後帰国してBCO(ボンベイ室内管弦楽団)を創立し、そのBCOが今年50周年を迎えたのでした。そうすると単純に一番若い年齢を考えると今年75歳になります。さすがに食べる食事の量は少ないですが、非常にお元気で活動的です。50年前のインドの音楽活動は全く想像ができません。その使命感、音楽への深い愛情、そして何事にも挫けないポジティブな考え方には脱帽です。

ドュッシー先生とシャロム君が3G携帯電話を持ってきたので、日本で電波を拾うことはできました。彼等の本国でのキャリアの指定でしょうが、日本ではソフトバンクを選択していました。ところがソフトバンク経由の日本発国際電話設定に手間取りました。「010」を頭に着ければよいはずだと思っていましたが、何度やってもだめ。「+」をつけたら通じました。どうしてこうなるのでしょう。

ジニー先生、ドュッシー先生、シャロム君と清水で遅い夕食を食べました。ホテル近くには飲み屋が沢山あるのですがレストランは限られています。悩んだ挙句に駅前の中華レストランに入りました。そこで食材制限を3人に聞いたのですが、ジニー先生はチキンだけOK。魚もだめ。スープは基本的にベジ(卵はOK)。ドッシュー先生は魚はだめで「海老」はOK、蟹はだめ、冷水はだめ。シャロム君は海老OK、海老だめでした。仕方が無いので海老チャーハンを中心に、蒸し鶏、野菜のみの野菜炒め、コーンスープを食べて貰いました。南アジアの方は「インド料理店」がベストです。

私達の想定をはるかに超えていましたが、ドッシュー先生が時刻を日本時間に修正するのを忘れていて、16日朝の待ち合わせの時間にロビーに下りてきませんでした。ドッシュー先生は「コロンボ→ムンバイ→香港→成田」という移動でそれも殆ど夜の飛行だったので、時刻感覚がめちゃくちゃになっていたみたいです。身体をこわさなければ良いのですが。



2012年08月14日(火) 「Kilali Crossing」の日本語訳

スリランカの民族紛争を扱った小説「キラーリ・クロッシング」を少しずつ翻訳してきたのですが、そろそろ区切りをつけようと考えて思い切って日本語版の本に仕上げました。先月から新宿にあるオンデマンド印刷屋さんに相談して、一番安価な方法として原稿を全て「PDF」ファイルで持ち込み本を製作してもらったのでした。20冊で30000円ですから一冊1500円。少数部数すると割高にはなりますが大量にする性質のものでもないので、こんなところかなと思っています。

少しずつとはどういうことかというと、「原本の英語の文章に対して最も適した日本語訳を与えたか」ということに対して自信がないので時間がかかってしまったということなのです。こっちがベターだろうと思っていても、読み返すと「前の表現」の方がしっくりしていると感じたり、堂々巡りの状態が続いていたのです。日本語の文章として少し意訳するのが良いのか、英語の表現の特徴を生かして、少し硬くとも作者の雰囲気を出そうかとか、かなり悩まされました。そして自分でもこれ以上良くなることは考えられなくなったので(自分の力に限界を感じたので)、区切りをつけようと思った次第です。

原本が出版されたのが2002年頃ですのでそれから10年経ちました。小説の大きなテーマであった「スリランカ民族紛争」は2009年春に政府の武力制圧で終了しました。民族紛争の歴史を調べながら翻訳作業を進めてきた私には「スリランカ民族紛争」がこのような形で収束するとは予想ができませんでした。しかし小説にも書いてありましたが武力による紛争終結が本当の民族和解をもたらすのかどうか心配です。

スリランカに興味がある人が大勢いるとも思えませんが、興味がある方には読んで欲しいと考えています。英語が得意な方でなければ英文の小説をすらすら読むことにはならないので、小説のあらすじを追う程度には便利だろうと考えています。今ちょうどロンドンオリンピックが終わったところですが、作者が留学していたロンドンのことも記載してあってテレビで放映されるロンドンの町並みには興味が沸きました。



2012年08月10日(金) インド・スリランカからゲスト来日

今年の夏、8月15日から19日まで静岡県清水(静岡市清水区)で世界アマチュアオーケストラフェスティバルが開催されます。

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このフェスティバルにインドのBCO(Bombay Chamber Orchestra)のジニー先生とSOSL(Symphony Orchestra of Sri Lanka)のドュッシー先生が来日されることになりました。BCOからはヴァイオリン・ヴィオラの演奏者が各1名演奏に参加するようです。日本・世界各地のアマチュアオケの指導者の交流や、様々なオケのメンバー混合編成で演奏会が行われます。会場は清水の駅裏に新設された立派なコンサートホールで19日の午後行われる事になっています。(私が住んでいたずっと昔にはありませんでした)

さて今年2012年は日本とインド・スリランカが国交を樹立してから60周年の記念の年に当ります。1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されて戦争が正式に終了してのですが、インドはその時の講和条約にサインせずその翌年日印の二国間で平和友好条約を締結しました。戦後の極東軍事裁判でパル博士の意見提起は勿論日本にとって忘れられないものです。当時セイロン代表(スリランカになる以前)として講和会議に参加したジャヤワルダナ(その後首相・大統領に就任)は、講和会議の演説の中で仏陀の言葉「憎悪は憎悪によって止むことはなく慈愛によって止む」を引用して、参加国に対して一定の影響を与えるとともに敗戦国日本を大いに励ましてくれました。その翌年にスリランカはいち早く日本と国交を樹立したのでした。このように終戦後の日本はインドとスリランカから大変貴重なサポートを受けたのでした。

今でこそ「BRICS」の一国として脚光を浴びているインドですが、長い間非同盟中立で独自の道を歩んできたので国内の近代化には時間がかかっています。そのインドにおいてクラシック音楽普及活動を続けることは並大抵のことではないと思います。BCO設立者のジニー先生は50年間に亘って辛抱強くそして非常に優しくBCOの活動を続けて来られました。

独立後に民族紛争を抱えることとなったスリランカも非常に苦しい時代をすごしてきました。ようやく民族紛争が収束を迎えたのでこれからが国作りの本番です。SOSLの中心メンバーのドュッシー先生のチェロは物凄いレベルで国外でも十分演奏活動ができますが、先生は故国スリランカに留まってクラシック音楽普及活動に当たってきました。

ジニー先生の50年に及ぶ活動に共鳴された「Yさん」の奔走のお陰で今回のジニー先生の来日が実現したもののようです。そのジニー先生の希望によってSOSLのドュッシー先生も来日されることとなりました。このお二人が揃って来日されるのであれば、お二人に大変お世話になった私も何かお役に立ちたいと思い、お二人とビオラ奏者のシャルメさんの3人の「空港⇔清水」のアテンドを引き受けることにしました。

ところがこれはかなり気を使うものです。私はスリランカからスリランカ人と一緒に日本に来たり、インドからインド人社員に日本に出張してもらったりしましたが、日本は日本人には大変便利ですが、スリランカ人・インド人にとってはかなりハードシップの高い国なのです。日本に住んでいてはなかなか実感できない外国人(特に南アジア)を迎えるときの注意点を、これからの準備もありますので確認のために列記しておきます。

1.妻にも手伝ってもらう。
女性のジニー先生・ドュッシー先生に対応するためご両人に面識のある妻にも参加してもらいます。女性をアテンドするには男では限界があります。

2.「成田⇔清水」の移動はできるだけ安く。
電車では乗り換えが大変だし費用も高いので私の車を使うことにしました。長旅なので途中の休憩場所を検討しておかなければなりません。最近PAが充実しているようです。足柄、海老名あたりを考えておきます。

3.食事に気を配る。
ちょうど今はイスラム教のラマダンです。今回来日される方はイスラムではないはずですが、南アジアには様々な宗教がありそれぞれが色々な食事の制限を持っています。まずベジタリアンかどうかは聞いておかなければなりません。私もインド人と付き合って知ったのですがベジタリアンがそうした食事を食べられないことは物凄い苦痛で、旅が非常に辛いものになってしまうのです。ベジにも様々な段階があるので丁寧に聞いておかなければなりません。

4.日本の携帯電話は不便
日本では3G携帯が普通になっているが、世界の携帯電話は60億を超えていますが、その殆どはGSM(2G)です。従って一般的にはGSM携帯が世界どこでも使えると考えられています。ところが日本は韓国と並んでGSM携帯が使えない珍しい国なのです。2Gの携帯しかもっていなかったらどうしようか心配です。

5.貴重な時間で東京見物も。
せっかく日本に来るのですから少しは東京見物でもして欲しいところ。しかし3人とも15日に来日してそのまま清水に移動して19日の演奏会終了後成田に移動して20日午前の便で帰国される予定です。19日中に成田空港近くのホテルに送り届けなければならない。19日のコンサートを途中で切り上げて少しでも東京見物をと思っています。どんな所に興味があるのかしら。買い物なら「秋葉原」、日本の名物なら「築地場外市場」か「浅草寺」といったところでしょうか。これは本人達の希望次第です。



2012年08月09日(木) 武蔵浦和「K’s電気」閉店

武蔵浦和駅前の「K's電気」から閉店処分セールの案内葉書が届きました(妻宛ですが)。再開発が進んでいる武蔵浦和駅西口でぽっこり残っていた場所ですが、ここにきて再開発が動きが出てきたのかしら。場所的には田島通りに面した一等地です。南区役所が東口から西口のK'sの裏に移転して、そこに繋がる道路も整備されますので、K'sの敷地は西南北とも人通りの多い集客力のある道に面することとなります。そこに平屋の店舗をそのままにしておくのは如何にも勿体無い状況でした。

まだK'sが閉店するというだけで、その後どうなるのか全く情報がありませんが上手に再開発してほしいものです。というのもK'sの南側には下駄履き構造の2階建てアパート形式の建物が残っているし、東側には駐車場と比較的最近できた「キャッシュコーナ兼飲食店専門」の二階建てビルが建っているのです。これらの周辺の土地も含めて一体で再開発できれば、利用価値は格段に高まると思います。



2012年08月08日(水) 武蔵浦和の新しいピザ屋さん

武蔵浦和駅近くに「ピザバーKOMUGI」がオープンしました。周りが再開発にかかっているにもかかわらず、以前は確か中華料理店だった場所で建物は比較的古くて狭いテナントです。立地は良いものの賃料は安いでしょうから非常に計算された参入だと思います。(ところでその場所は再開発されないのかしら)

8月1日オープンの日に妻と二人で行ってきました。オープン初日ということで7時30分に店の前で待ち合わせしたのですが、店内は既に満員で、外のテーブルで少し待ちました。暫くして空席ができて店内に案内され、特別サービスの100円の「ハイボール」で、マルゲリータ(2枚)、マリナーラ、鯛のカルパッチョを頂きました。途中我慢できなくてアカ・シロのグラスワインも飲みましたが。

注目のピザですが1枚580円という値段設定。値段から想像していたものより格段に美味しかったです。マリナーラ、マルゲリータが580円ということで、モッツァレラチーズ等の素材に多くを期待することはできないと考えていましたが、それなりの材料を窯の火加減と焼き方で旨くまとめているのだと思いました。オープンの一週間位前から、石釜に火を入れているところを外から見ることが出来ました。多分火の回り方とか温度の加減を試していたのだと思います。少しサイズが小さいですが女性には十分だと思われますし、2枚食べても1200円弱ですから男性でも十分です。マリナーラはモッツァレラチーズが無い分完成度が高く文句なしでした。

ランチメニューもあるようなので、野菜サラダがどの程度のものなのか早く食べてみたいところです。



2012年08月01日(水) エンピツ復活

先週末からこの日記サイトの「エンピツ」がダウンしていました。妻と二人で既に10年以上利用しているユーザとしては、非常に不安な思いをしていました。今日復活していたので、差し当たり安心しました。

インターネットが始まった頃、この「エンピツ」のようなサイトは非常に便利でした。私の家では一方で自分のホームページを立ち上げながら、更新の多い日記については、比較的シンプルで軽い「エンピツ」を利用してきました。ブログ全盛時代を経て、SNSが主流の現在、「エンピツ」のような日記サイトが広告モデルでやっていくには非常に困難だと思います。それでも「エンピツ」が続いているのは、古いタイプのユーザが残っていることに加え、それに対応してくれる非常に良心的なプロヴァイダーが存在する証拠でもあります。ぜひ頑張って欲しいものだと思います。

しかし何時か持たなくなるときが来ると思います。その時には是非事前に知らせて欲しいと思います。過去の記録は「我が家の宝」なのです。



2012年07月21日(土) 唐辛子のお守り







上の二つの写真は「赤唐辛子のお守り」を売っている風景です。二つの写真の中で上の写真は「横浜中華街」の様子で、下は「イタリアもナポリの下町」の様子です。ナポリと横浜という非常に離れた場所の風景ですが、「赤唐辛子」を派手に売っている様子は驚くほど似ています。

実はイタリアの首都ローマでは「赤唐辛子のお土産」を入手することは困難なのです。ローマの土産物屋で目立つ「赤色」の小物といえばピノキオの人形程度です。同様に横浜中華街では「赤唐辛子」は今や名物で街の路上で多くの露天を見出すことができますが、横浜のほかの場所や東京ではなかなか見かけません。新大久保でも見かけることはありませんでした。非常にピンポイントで流行っているのも「唐辛子のお守り」の特徴です。

「ナポリの赤唐辛子」は身に付けることで「魔よけ」になるようで、「唐辛子ひとつ」がお守りになっている形式が多いようですが、中華街の「唐辛子」は「身代わりになってくれる」ことが効能のようで、複数の唐辛子をジャラジャラぶら下げる形式です。

唐辛子というと韓国料理に欠かせない食材です。そう遠くない時期に新大久保にも「唐辛子土産」ブームが来ると思いますよ。



2012年07月20日(金) 本当に梅雨明けか。

一昨日まで暑い日が続いたので、慎重な気象庁も「梅雨明け宣言」を出しました。ところが梅雨明け宣言したとたんに、涼しい日が続いています。今日は日中も涼しいし、夜は窓を締めないと少し寒く感ずるほどでした。

実は「梅雨明け」に少し疑問を感じていたのでした。「セミ」が鳴き始めないからです。散歩コースの別所沼公園は毎年物凄い量のセミが地中からわき出て、まぶしい太陽の下で大音量を聞かせてくれるのですが、今年はまだ静かです。

一週間の命しかない「セミ」ですから、早とちりして地中から出てしまうと、仲間が少ないために、ムクドリの餌食となる可能性が高まるし、交尾できずに一生涯を終えることとなったりと、さんざんなことになってしまいます。判断間違いしたときのペナルティは気象予報官の比ではりません。

従って、セミは本当に夏なのかどうかを真剣に見極めて地中から出てくるのだと思います。今回数日間暑さが続きましたが、その評価は圧倒的に「セミ」の予想の方が正しかったようです。




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