10月8日の献血の検査結果が到着しました。最近の食事制限の成果がようやく現れたようです。GA比率が「16.9」に低下しました。最近の動向は下の状況です。
私のGA比率の推移
2011年 10月08日 16.9% 2011年 9月19日 17.5% 2011年 9月03日 18.9% 2011年 8月17日 19.0% 2011年 7月02日 17.8% 2011年 6月18日 17.7% 2011年 6月04日 18.7% 2011年 5月03日 20.1% 2011年 4月17日 21・9% 2011年 2月13日 20.0% 2011年 1月09日 19.5% 2010年 11月21日 17.9%
今回8月末に行った人間ドック直後から食事制限を強化した結果、これまでにない16%台の数値となりました。それ以前の食事制限は、「主食の御飯の量を減らして野菜を多く摂る」というものでした。一方で3食の他の楽しみなアルコールだとか「オヤツ」の量はそれなりに許容してきたのでしたが、それでは抜本的な改善には繋がらないことに思い至った次第。
そこで、今回はアルコールの分量を減らし(さすがにゼロではない)、間食の量もできるだけ減らすことにしました。その結果体重は約1kg減り血糖の値もこれまになく低下しました。次の献血は1週間後です。
| 2011年10月10日(月) |
31回目の結婚記念日 |
明日11日は私達の31回目の結婚記念日です。と同時に○○回めの妻の誕生日でもあります。年一回の貴重な機会なので気合を入れて美味しい物を食べるました。レストランは武蔵浦和駅前の「アズーリ」。アズーリは武蔵浦和近辺では抜群に美味しいイタリアンレストランですが、ここのピザ(特にマルゲリータ)は滅多に出会わない感激物のピザなのです。アズーリの広報誌「ディアボラ」に武蔵浦和アズーリのピザ職人の「渡辺文雄さん」の記事が出ていたので紹介します。
アズーリの入り口近くににピザ焼き用の大きな窯がありますが、朝の窯への薪くべで仕事が始まるのだそうです。渡辺さんのピザは500度の窯で1分30分焼くのだそうですから、窯をいつでもピザを焼ける状態に保っておくことは大変なことだと思います。一度もピザの注文が無かったどうするのかしら。
マルゲリータはイタリヤ国旗の色に合わせたトマトソース、バジル、モッツァレラチーズで作られますが、モッツァレラには水牛の乳から作られる「モッツァレラ・デ・ブッファラ」と普通の乳牛の乳から作られる「モッツァレラ・デ・ラッテ」があり、この二つは味わいが全く違うのだそうです。マルゲリータの場合には水牛の方を使うのだそうです。
アズーリのマルゲリータはモッツァレラとトマトソースの混じり度合いが絶妙なのです。モッツァレラとトマトソースがそれぞれ自分を主張するピザも美味しいのだけれど、それが程よく交じり合って更に複雑な味わいを醸し出すのがアズーリのマルゲリータの特徴のようです。
マルゲリータピザはナポリ名物ですが、ナポリピザに関してはこのようなホムページがありました。
真のナポリピッツァ協会
このページにナポリのマルゲリータピザの特質のことが記載されています。
「「真のナポリピッツァ」の呼称の使用は、ピッツァ・マリナーラ(トマト、オイル、オレガノ、ニンニク)およびピッツァ・マルゲリータ(トマト、オイル、モッツァレッラあるいはフィオル・ディ・ラッテ、オイル、バジリコ)の2種類のピッツァに限られ、なおかつ作業の工程、最終製品の官能的、商品学的特徴、ならびに原材料と調理・加熱の方法が、本規約に定められる必要条件を満たしている場合においてのみ認められる。」 これに続いてマルゲリータピザの原材料とか作り方が詳細に記載されています。そのとおりに作れば非常においしそうなことは分かります。
ピザというと「宅配ピザ」が手軽で簡単に色々なピザを注文していつでも食べられるのですが、今、本場イタリアの現地仕様のピザが流行し始めています。本格的なナポリピザは窯の準備からして手間ひまがかかるもののようです。
| 2011年09月11日(日) |
ウィーンの森バーデン市歌劇場「カルメン」鑑賞 |
昨日10日、川口駅前のリリアホールで「ウィーンの森バーデン市歌劇場」のカルメンの公演を見てきました。会場は大体6割くらいの入りで、昨年の埼玉文化センターの「ラ・ボエーム」よりは賑やかな公演となりました。
「ウィーンの森バーデン市歌劇場」という演奏団体は、現在のネット全盛時代にインターネットで情報検索ができないという変わった団体ですが、1996年から毎年日本公演を続けていて、今年のカルメンは16回目の公演です。私達は一昨年の「ドン・ジョバンニ」と昨年の「ラ・ボエーム」を見ています。ヨーロッパの有名な歌劇場の来日公演は一人数万円もするのですが、この劇場の公演は手頃な値段で、そこそこの本場の味を味わえることから、ある意味「お得感」のあるオペラ公演なのです。今年も早々にチケットを確保したのでした。(因みに公演は都内では殆どないみたい。首都圏は埼玉・千葉・神奈川がせいぜいで後は地方を回っています。)
さて演奏ですが私の評価としては色々あって一言で言い表せないものだったと思います。まず良い面では、タイトルロールを歌った「マイラム・ソコロヴァさん」が最後まで豊かな声で魅力的なカルメンを演じていたことをあげなければなりません。どちらかというと低いメゾなので、ソプラノ陣との掛け合いは面白かったです。そして少ない歌手陣が歌う一方で、ダンサー張りに踊ったりして一人で何役もこなし、それなりの舞台を見せていたことは評価すべきと思いました。
会場のプログラムを見て分かったのですが、昨日は今回の日本公演の初日なのでした。初日の緊張感があるもののオケがこなれていなくて残念でした。今年は全国20公演あるので、最後の方ではたぶんアンサンブル・歌手陣とのコンビネーションは随分よくなるのではないかと思います。昨年の埼玉文化センタ公園は最終日の前日公演でした。
歌手陣で「ミカエラ」役を歌った「ニコラ・プロクシュマルティニクさん」にはちょっと疑問符。他の主要な主要歌手陣とちょっとレベルが違うかなという感じ。何回も歌うと違って来るのかもしれません。
一番不満に思ったのは日本サイドの準備不足です。プログラムは無料なので文句を言うのは気が引けますが、いつもの通り楽譜を載せるのであればキチンと乗せるべきです。昨年のラ・ボエームではしっかり最後まで書かれていました。一昨年のドン・ジョバンニでは今年と同様ひどい空白の五線譜が何ページもあったのですが、今年のカルメンも空白が多い五線譜だらけでした。
さらに今年は「日本語字幕」が問題でした。舞台の進行と合致しない事があるし、有名なアリアは当然翻訳があるのですが、会話の「台詞」の部分はほとんど日本語訳を付けずに「と書き程度の説明」でお茶を濁すといったやり方です。今回の公演では「レチタティーボ」ではなく歌手達は「台詞(仏語)」で会話します。そこの部分がごっそり抜けて理解不能となるので、オペラの細かな筋が見えませんでした。ウィーンから来た歌手たちがせっかくフランス語で演技をしているのに、殆どの日本の観客には中身がわからない状態なのです。これは歌手達の申し訳ないことです。
今日はまだ19回の公演があるので、是非日本語字幕を改善して、観客に分かり易いオペラにして欲しいと思いました。
富士旅行社という旅行会社のページで以下の情報を見つけて申し込んでいました。
日 時:2011年7月2日(土)午前11時 2011年7月3日(土)(予定) 場 所:JR石川町駅 中華街口改札集合 講 師:符順和先生(日本華僑華人学会会員 元横浜山手中華学校教諭) 定 員:30名 参加費:資料代500円(昼食代は別途実費) ●コース予定:孫文の提唱で1898年創設された「横浜中華学院」(中華街内)→革命の盟友である「陳少白の居宅跡地」→「温炳臣の居宅跡地」→旧清国領事館があった山下町公園→革命組織「興中会」横浜支部の結成会場となった印刷会社・キングセール商会の跡地(神奈川芸術劇場そば)→解散 ※なお解散後、中華街で符先生を交えて昼食交流予定。
横浜中華街には「孫文」と関係の深い場所がいくつかあり、これまでも参加しようと思ってトライしたことがあったのですがチャンスを逸してきました。今度こそと思っていたのですが台風で延期になってしまいました。会社のメールアドレスに延期のお知らせが入っていたのですが、見過ごして横浜石川町の集合場所から主催会社に電話して中止を知りました。せっかく妻と二人で横浜まできたので、「港の見える丘公園」「元町商店」を散策して帰ってきました。
「孫文史跡めぐり」は気長に次の機会を待ちたいと思います。
| 2011年08月18日(木) |
チャンドラ・ボースの命日供養 |
今日8月18日はネタージ・スバッシュ・チャンドラ・ボースの命日です。毎年の事ですが、杉並に蓮光寺さんの「法要」に参加してきました。蓮光寺さんは望月教善住職の代になっています。66年前にボースの葬式を引き受けたのは先々代の住職でしたので、蓮光寺さんでは既に3代に渡ってボースの法要を営んできたこととなります。教善住職は「遺骨をインドに返すまで毎年法要を続け、しっかり守っていく」と決意を新たにしていました。
インドと日本とは今年日印自由貿易協定が発効し、経済上の結び付きが大変強くなります(関税は10年間に渡って少しずつ下がっていくようですが)。東京のインド料理レストランの数が増え、日本でのインド人の就業人口も増えているようです(電車でインド人風の方を良く見かけるようになりました)。でも「チャンドラ・ボース」の遺骨の故国インドへの返還しはとても実現しそうにありません。
経済の繋がりが強くなっても、相変わらず「入国ビザ」が必要な状況が変わっていないように、日本とインドの間にはまだまだ大きな障害が立ちはだかっているように思えてなりません。
それは「言葉と生活習慣」の二つだと思います。普通のインドの方は母国語の他に英語を話します。国内に複数の言語を持つ広大なインドでは英語が標準語のようなものとなっています。その英語が殆ど通じない国が日本です。生活習慣は「菜食主義文化」です。インドの菜食主義は「健康のため」なのでは決してなく「行き方」「生活そのもの」なのです。「身の回りの命」を大切にすること由来する菜食主義は、命あるものは全て平等に尊いものであることを実践していることを理解すべきです。「断食文化」にも通じますが、日本では最近全くそのような文化を目にすることがなくなりました。
今日も何人かのインド人の方が法要に参加されましたが、法要後軽食(懇親の場)には殆ど参加されませんでした。他の理由もあるとは思いますが、上の二つの理由が主だと思います。帰りの「東高円寺」駅の近くで、法要に参加していたインド人(たぶん)の方に会いました。彼らはベジタリアンで近くのレストランで家族だけで食事をしてきた帰りでした。
ボースの遺骨を早く故国インドに返すためには、政治だけではなく我々日本人がもう少し他人に対して細やかに心配りをする必要があるとつくづく感じました。
| 2011年07月22日(金) |
長崎須崎屋のカステラ |

長崎出張の帰り長崎空港の土産物売り場で、長崎土産の定番のカステラでメーカの入れ替えはないのかと聞いたところ、少し前に須崎屋さんというカステラ屋さんの製品が入ったがすごく美味しいのでお薦めだというので買って来ました。
何でも手作りなので一日限定10個しか作らないということです。空港には5箱並んでいました。一箱2100円と非常に高価でした。家に帰ってから食べてみて、なるほどお薦めの品だけあると感心しました。五三焼きと言って卵の黄身の割合が多い高級品だそうですが、非常に上品な味であり、しっとり具合が最高です。なんでも南島原市にあるカステラ屋さんで、その店と長崎空港でしか入手できないのだそうです。解説の紙が入っていたので内容を記載しておきます。
須崎屋さんの情報(e-Nagasaki)
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カステラの最高峰 幻の「長崎五三焼きカステラ」 須崎屋は長崎港まで海運業を営んでいた初代伊藤安次郎が、当時大変貴重であった長崎カステラを「地元の人に食べてもらいたい」との思いから、長崎で作り方を学び、材料の小麦粉、砂糖を長崎から本業である海運船で運んで作ったのが始まりです。慶応三年(1867年)のことです。
店の屋号は、目の前の須崎港と運搬船の名前「須崎丸」から「須崎屋」と名付けました。三代目萬吉は長崎で「長崎五三焼きカステラ」の製法を体得市四代目洲二、五代目代二と受け継がれました。
通常のカステラは卵の黄身と白身の割合が五対五であるのに対して、「長崎五三焼きカステラ」は黄身と白身の割合が五対三と白身の割合が大変少ないため、焼き上げるのにとても気を使います。そのため泡立て、中混ぜ、泡きりを丹念に行い、絶え間ない火加減の調整で慎重にひとつひとつ焼き上げますので量産することはできません。(1日限定10個)
現在、この五三焼きカステラを焼き上げることのできる菓子職人は長崎でもほんの数人と言われます。従来の長崎五三焼きカステラの伝統製法に更に磨きをかけ、材料ひとつひとつにこだわり、平成の新たな五三焼きカステラとして生まれ変りました。生地には稀少な「和三盆糖」と地鶏の卵を使い、ザラメは純度99%の「上一等氷砂糖」を砕いて敷き詰めました。
深く濃厚な味わいとしっとり感、すっきりとした後味をお楽しみください。
須崎屋五代目 伊藤代二
(五三焼きカステラは作った日から7日位が一番おいしく召し上がれます。それは焼き上げたカステラがしっとり馴染むのに7日位かかるからです)
今日はガイドの「白」さんにお願いした「旅順1日ツアー」です。朝8時30分に「白さん」と運転手の「劉さん」がホテルまで迎えに来てくれました。車で一路旅順を目指しました。旅順へ向かう道は結構広く市内電車が横を走っています。この市内電車は現在は途中で切れていますが、旅順市内まで至る所で建設中で近い中に大連から旅順まで繋がりそうです。
旅順は日露戦争における激しい戦いの場でした。日清戦争の結果日本は遼東半島の租借権を獲得しますが、その後の三国干渉によって遼東半島の租借権はロシアが手に入れました。当時ロシアは太平洋に拠点を確保するためにシベリア鉄道を建設してウラジオストックを開発する計画を進めていました。それに加えてハルピンから直接南下して遼東半島にも旅順・大連の戦略基地を建設しようとしたのでした。遼東半島の旅順はウラジオよりずっと戦略的に優れているのです。ロシアは天然の良港である旅順の周り山々に堅固なトーチカ陣地を建設して軍港の守備を固めていました。
明治37年(1904年)始めに開始された日露戦争は、朝鮮半島・中国北東部(満州)の領有を争う戦争でした。ロシアの旅順軍港は海軍が海から攻めて、最悪でも封鎖するはずでした(3月)が、それが不徹底に終わり陸軍が陸の方から攻めることとなったのでした。そのために乃木大将を司令官とする第三軍が編成されました(5月)。実は日清戦争においても乃木は旅順を攻めて比較的容易にそこは陥落させていたのですが、今回は徹底的に守りを固めたロシアが相手だったので大苦戦を強いられました。
現在旅順で観光コースとなっているのは「東鶏冠山、203高地、水師営会見」の場所です。東鶏冠山は旅順港の東北にあって大陸方面からの玄関口であることから、防御のためにロシア軍の基地は厚いセメントで覆われていました。現在でも小石を混ぜた1m以上の厚さのセメントの被いを見ることができます。正面突破に拘った乃木軍はここで甚大な消耗戦を繰り返しました。見かねた現地参謀本部の児玉源太郎が急遽指揮を採ることになりました。児玉は東鶏冠山から西側の203高地に目標を変更します。
急遽備え付けた28センチ榴弾砲による援護と、日本兵の最後の肉弾戦がロシア兵の防御を上回りようやく203高地を落としたのでした(12月5日)。その後東鶏冠山にとって返してこれを落とし旅順での戦いは日本軍の勝利となったのです。水師営での会議には乃木大将とロシア側のステッセルが望みました。嘗ての場所には昔風に再現された建物が残っています。これは少し観光用という感じがしました。どうしても横のレストランで食事を取るシステムになっているようです。
旅順・大連の遼東半島は日露戦争の後、日本が清国から租借することになりました。その後の日本の大陸侵攻の拠点となっていくわけです。その辺りのことはまだ観光化されていません。歴史的にも曖昧な部分が多く、日本人も良く知らないことが多く、非常に微妙な問題も含んでいるのだと思います。観光地とするにはまだ時間がかかるだろうと思われます。
その時期というのは、中国側としても「清朝滅亡と復壁(土はいらない)運動、孫文の革命運動、共産党の活動開始、各地の軍閥の勝手な動き」と国内は混乱していました。これに日本の大陸進出戦略と欧米列強の思惑がからむのですから大変です。
その他、旅順では「旅順博物館、関東軍本部建物、旧ヤマトホテルと粛親王の旧宅」を見ましたが、これらの遺物は大きな歴史の流れのなかでのそれぞれ挿入話のような歴史のひとコマを演じた場所でした。
中国の大連に来ています。
成田空港から午前中の便で中国に飛んで昼過ぎに大連に到着しました。飛行ルートは本州上空を飛んで島根県あたりで日本海に入り、韓国上空を経由して遼東半島に入るというもの。本州・日本海が晴天の夏空であったのに、韓国に入ったとたんに雲が多くなったのが印象的でした。大連はどんよりした曇り空で、空港で迎えてくれたガイドの「白」さんによると今年の大連は曇り空が多く、冷夏といえる気候だと言っています。日本と大違い。
空港から市内のホリデイインホテルに移動して、荷物を置いてから早速市内散策に出かけました。ホリデイインは大連市の中心といえる中山広場から北に伸びる上海街と繁華として有名な環状道路の天津街の角にある便利なホテルです。ここで情報。空港で両替すると手数料を取られて1元=14.2円でした。ホテルに着いて両替すると12.7円です。空港の両替店のレートは極端に悪いです。
市内見学の最初は中山広場に行きました。中山広場の周りには嘗ての日本租界時代の建物が多く残っています。外から眺めるものが多いビルの中、旧大和ホテル(大連賓館)と満鉄本社ビルは中を見学できるようになっています。まず大和ホテルに入って見ました。
大和ホテルは満鉄の経営していたホテルで大連の中心地の中山広場の上海街のほぼ向かいの場所に当時の姿のままで残っています。現在でも宿泊可能な現役のホテルです。その中に見学コースがあり宿泊者は無料で見学できるのだそうです。私達は一人50元の入場料を払って入りました。見学できる場所は以下の場所で、案内をしてくれたのは受付担当の岩槻に住んでいたこともあるという「昭さん」でした。
○賓客を迎える迎賓室 ○「宣統帝溥儀」が滞在した部屋 ○資料室と食堂(バルコニーから見学) ○屋上(今回は工事中で見学できませんでした) ○展示室兼売店
先客が見学中とのことなので20分位ホテル奥の吹き抜けの喫茶店でコーヒーを飲んで休みました。そこは非常に洒落たホテルの中庭で昔のままに残っていました。少し高いと思われるコーヒー(アイスとホット)を飲みましたが大変美味しかったです。
ホテル一階の迎賓室は非常に立派な造りの広間で、多くの賓客がここで会談を行ったということです。大連に縁があるいう村山総理の会見の写真が掲示っされていました。
二階の溥儀が滞在したという部屋は正直言って大変狭くて「本当?」と言う感じでした。立派な机のある居間と普通程度にダブルベッドの置かれた寝室です。溥儀の写真が掲示されている以外これと言って特徴はありません。この溥儀の部屋・資料展示室には満鉄時代の様々な品が展示・販売されています。特に満鉄時代のグラス類が豊富で、当時の満鉄マークの入ったものは非常に貴重なのだそうです。
「昭」さんの話では倉庫にはまだ沢山の品物が残っていて少しずつ整理しているとのことです。確かにソ連参戦のために急いで日本人が逃げ返ってしまったのですから、かなり多くの遺留品があることは想像できるのですが、「本物」を売り払うのかどうかもうひとつ納得することが出来ない説明でした。
満鉄本社ビルは中山広場から魯迅街を少し南東に下った場所にありました。ここは嘗ての総裁室と資料館が見学可能となっています。ここも入場料50元でした。「通常はツアーガイドが説明するのですが」といいながら資料館の「麻さん」が大変詳しく説明してくれました。
満鉄の事業として鉱山開発、製鉄、発電、電気・ガス等の公共サービスの提供、満鉄映画とか調査室の活動などをパネルを参考にして要領よく説明してくました。アジア号、水力発電所等当時世界有数の最先端技術を惜しげも無く採用したのでした。初代の後藤新平はじめ初期の経営者の指導の下で、満州事変でおかしくなるなるまでの満鉄の活動は非常に先鋭的でした。
関東州(≒遼東半島)は香港と同じように日本が清国から1997年まで租借しました。軍部の暴走が無くて、満州事変・太平洋戦争起こらなかったならば香港以上の発展が可能であったかもしれません。
中山広場見学の後は上海街を北上して旧ロシア人居住区に行って見ました。ここは中国国内からの観光客が沢山いました。道の行側にはマトリョーシカをはじめとするお土産さんがいっぱい。観光地としては面白いと思いました。
今月15日(金)から4日間、大連・旅順に旅行します。妻との海外旅行は2年前の北京旅行以来です。実は目的地として北京も考えたのですが、真夏の北京はたぶん暑すぎるだろうと考えて大連にしました(前回は真冬でした)。北京は故宮をはじめとした明・清の応急文化の宝庫ですが、大連・旅順はもう少しあとの日清・日露戦争から満州国に関する遺物が残っているのだそうです。
北京旅行の後「蒼穹の昴」をはじめ「日中関係」の本を大分読みました。細かい描写は忘れていますが、学校では教えない様々の事情を知ることが出来ました。今回現地で様々な遺物をみることは楽しみですし、発展した中国地方都市の様子も興味津々です。これから少しの時間ですが、中国の情報を溜め込みます。
| 2011年06月25日(土) |
血糖値低下についての一考察 |
6月18日の献血の血液検査結果が来ました。 グリコヘモグロビン比率は「17.7%」で前回より1ポイント改善です。
H22.11.21 : 17.9% H23.01.09 : 19.5% H23.02.13 : 20.0% H23.04.17 : 21.9% H23.05.03 : 20.1% H23.05.21 : 18.9% H23.06.04 : 18.7% H23.06.18 : 17.7%
半年かかって17%台に下がったことになります。糖尿病対策として、野菜を多くとる食事を心がけ、運動を増やす(毎日の通勤の歩く距離を増やす+土日の集中的な散歩・水泳)対策を採っています。その効果が2週間単位の献血の血液検査に現れているといっても良いでしょう。(か?)
ひとつ気になるのは、献血(成分献血で血漿献血)の際に相当量の糖分が強制的に抜かれているために、結果的に血糖値が下がっている可能性が排除しきれないことです。血漿献血の採取の基準は、一回の献血で600cc以内(全血漿の12%以内)となっています。仮に10%の血漿を抜いたと仮定するとそれだけで血糖値は1割下がる計算になります。豊富な糖分に慣れてしまった身体が、薄まってしまった糖分を元に戻そうとするはずですが2週間程度では元に戻らないので、2週間おきの献血では血糖が下がっているように見えているのではないか。
厳しく言うと、献血で強制的に血液を薄めなくても、血糖値が下がっていなければならないのだと考えています。
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