| 2011年07月22日(金) |
長崎須崎屋のカステラ |

長崎出張の帰り長崎空港の土産物売り場で、長崎土産の定番のカステラでメーカの入れ替えはないのかと聞いたところ、少し前に須崎屋さんというカステラ屋さんの製品が入ったがすごく美味しいのでお薦めだというので買って来ました。
何でも手作りなので一日限定10個しか作らないということです。空港には5箱並んでいました。一箱2100円と非常に高価でした。家に帰ってから食べてみて、なるほどお薦めの品だけあると感心しました。五三焼きと言って卵の黄身の割合が多い高級品だそうですが、非常に上品な味であり、しっとり具合が最高です。なんでも南島原市にあるカステラ屋さんで、その店と長崎空港でしか入手できないのだそうです。解説の紙が入っていたので内容を記載しておきます。
須崎屋さんの情報(e-Nagasaki)
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カステラの最高峰 幻の「長崎五三焼きカステラ」 須崎屋は長崎港まで海運業を営んでいた初代伊藤安次郎が、当時大変貴重であった長崎カステラを「地元の人に食べてもらいたい」との思いから、長崎で作り方を学び、材料の小麦粉、砂糖を長崎から本業である海運船で運んで作ったのが始まりです。慶応三年(1867年)のことです。
店の屋号は、目の前の須崎港と運搬船の名前「須崎丸」から「須崎屋」と名付けました。三代目萬吉は長崎で「長崎五三焼きカステラ」の製法を体得市四代目洲二、五代目代二と受け継がれました。
通常のカステラは卵の黄身と白身の割合が五対五であるのに対して、「長崎五三焼きカステラ」は黄身と白身の割合が五対三と白身の割合が大変少ないため、焼き上げるのにとても気を使います。そのため泡立て、中混ぜ、泡きりを丹念に行い、絶え間ない火加減の調整で慎重にひとつひとつ焼き上げますので量産することはできません。(1日限定10個)
現在、この五三焼きカステラを焼き上げることのできる菓子職人は長崎でもほんの数人と言われます。従来の長崎五三焼きカステラの伝統製法に更に磨きをかけ、材料ひとつひとつにこだわり、平成の新たな五三焼きカステラとして生まれ変りました。生地には稀少な「和三盆糖」と地鶏の卵を使い、ザラメは純度99%の「上一等氷砂糖」を砕いて敷き詰めました。
深く濃厚な味わいとしっとり感、すっきりとした後味をお楽しみください。
須崎屋五代目 伊藤代二
(五三焼きカステラは作った日から7日位が一番おいしく召し上がれます。それは焼き上げたカステラがしっとり馴染むのに7日位かかるからです)
今日はガイドの「白」さんにお願いした「旅順1日ツアー」です。朝8時30分に「白さん」と運転手の「劉さん」がホテルまで迎えに来てくれました。車で一路旅順を目指しました。旅順へ向かう道は結構広く市内電車が横を走っています。この市内電車は現在は途中で切れていますが、旅順市内まで至る所で建設中で近い中に大連から旅順まで繋がりそうです。
旅順は日露戦争における激しい戦いの場でした。日清戦争の結果日本は遼東半島の租借権を獲得しますが、その後の三国干渉によって遼東半島の租借権はロシアが手に入れました。当時ロシアは太平洋に拠点を確保するためにシベリア鉄道を建設してウラジオストックを開発する計画を進めていました。それに加えてハルピンから直接南下して遼東半島にも旅順・大連の戦略基地を建設しようとしたのでした。遼東半島の旅順はウラジオよりずっと戦略的に優れているのです。ロシアは天然の良港である旅順の周り山々に堅固なトーチカ陣地を建設して軍港の守備を固めていました。
明治37年(1904年)始めに開始された日露戦争は、朝鮮半島・中国北東部(満州)の領有を争う戦争でした。ロシアの旅順軍港は海軍が海から攻めて、最悪でも封鎖するはずでした(3月)が、それが不徹底に終わり陸軍が陸の方から攻めることとなったのでした。そのために乃木大将を司令官とする第三軍が編成されました(5月)。実は日清戦争においても乃木は旅順を攻めて比較的容易にそこは陥落させていたのですが、今回は徹底的に守りを固めたロシアが相手だったので大苦戦を強いられました。
現在旅順で観光コースとなっているのは「東鶏冠山、203高地、水師営会見」の場所です。東鶏冠山は旅順港の東北にあって大陸方面からの玄関口であることから、防御のためにロシア軍の基地は厚いセメントで覆われていました。現在でも小石を混ぜた1m以上の厚さのセメントの被いを見ることができます。正面突破に拘った乃木軍はここで甚大な消耗戦を繰り返しました。見かねた現地参謀本部の児玉源太郎が急遽指揮を採ることになりました。児玉は東鶏冠山から西側の203高地に目標を変更します。
急遽備え付けた28センチ榴弾砲による援護と、日本兵の最後の肉弾戦がロシア兵の防御を上回りようやく203高地を落としたのでした(12月5日)。その後東鶏冠山にとって返してこれを落とし旅順での戦いは日本軍の勝利となったのです。水師営での会議には乃木大将とロシア側のステッセルが望みました。嘗ての場所には昔風に再現された建物が残っています。これは少し観光用という感じがしました。どうしても横のレストランで食事を取るシステムになっているようです。
旅順・大連の遼東半島は日露戦争の後、日本が清国から租借することになりました。その後の日本の大陸侵攻の拠点となっていくわけです。その辺りのことはまだ観光化されていません。歴史的にも曖昧な部分が多く、日本人も良く知らないことが多く、非常に微妙な問題も含んでいるのだと思います。観光地とするにはまだ時間がかかるだろうと思われます。
その時期というのは、中国側としても「清朝滅亡と復壁(土はいらない)運動、孫文の革命運動、共産党の活動開始、各地の軍閥の勝手な動き」と国内は混乱していました。これに日本の大陸進出戦略と欧米列強の思惑がからむのですから大変です。
その他、旅順では「旅順博物館、関東軍本部建物、旧ヤマトホテルと粛親王の旧宅」を見ましたが、これらの遺物は大きな歴史の流れのなかでのそれぞれ挿入話のような歴史のひとコマを演じた場所でした。
中国の大連に来ています。
成田空港から午前中の便で中国に飛んで昼過ぎに大連に到着しました。飛行ルートは本州上空を飛んで島根県あたりで日本海に入り、韓国上空を経由して遼東半島に入るというもの。本州・日本海が晴天の夏空であったのに、韓国に入ったとたんに雲が多くなったのが印象的でした。大連はどんよりした曇り空で、空港で迎えてくれたガイドの「白」さんによると今年の大連は曇り空が多く、冷夏といえる気候だと言っています。日本と大違い。
空港から市内のホリデイインホテルに移動して、荷物を置いてから早速市内散策に出かけました。ホリデイインは大連市の中心といえる中山広場から北に伸びる上海街と繁華として有名な環状道路の天津街の角にある便利なホテルです。ここで情報。空港で両替すると手数料を取られて1元=14.2円でした。ホテルに着いて両替すると12.7円です。空港の両替店のレートは極端に悪いです。
市内見学の最初は中山広場に行きました。中山広場の周りには嘗ての日本租界時代の建物が多く残っています。外から眺めるものが多いビルの中、旧大和ホテル(大連賓館)と満鉄本社ビルは中を見学できるようになっています。まず大和ホテルに入って見ました。
大和ホテルは満鉄の経営していたホテルで大連の中心地の中山広場の上海街のほぼ向かいの場所に当時の姿のままで残っています。現在でも宿泊可能な現役のホテルです。その中に見学コースがあり宿泊者は無料で見学できるのだそうです。私達は一人50元の入場料を払って入りました。見学できる場所は以下の場所で、案内をしてくれたのは受付担当の岩槻に住んでいたこともあるという「昭さん」でした。
○賓客を迎える迎賓室 ○「宣統帝溥儀」が滞在した部屋 ○資料室と食堂(バルコニーから見学) ○屋上(今回は工事中で見学できませんでした) ○展示室兼売店
先客が見学中とのことなので20分位ホテル奥の吹き抜けの喫茶店でコーヒーを飲んで休みました。そこは非常に洒落たホテルの中庭で昔のままに残っていました。少し高いと思われるコーヒー(アイスとホット)を飲みましたが大変美味しかったです。
ホテル一階の迎賓室は非常に立派な造りの広間で、多くの賓客がここで会談を行ったということです。大連に縁があるいう村山総理の会見の写真が掲示っされていました。
二階の溥儀が滞在したという部屋は正直言って大変狭くて「本当?」と言う感じでした。立派な机のある居間と普通程度にダブルベッドの置かれた寝室です。溥儀の写真が掲示されている以外これと言って特徴はありません。この溥儀の部屋・資料展示室には満鉄時代の様々な品が展示・販売されています。特に満鉄時代のグラス類が豊富で、当時の満鉄マークの入ったものは非常に貴重なのだそうです。
「昭」さんの話では倉庫にはまだ沢山の品物が残っていて少しずつ整理しているとのことです。確かにソ連参戦のために急いで日本人が逃げ返ってしまったのですから、かなり多くの遺留品があることは想像できるのですが、「本物」を売り払うのかどうかもうひとつ納得することが出来ない説明でした。
満鉄本社ビルは中山広場から魯迅街を少し南東に下った場所にありました。ここは嘗ての総裁室と資料館が見学可能となっています。ここも入場料50元でした。「通常はツアーガイドが説明するのですが」といいながら資料館の「麻さん」が大変詳しく説明してくれました。
満鉄の事業として鉱山開発、製鉄、発電、電気・ガス等の公共サービスの提供、満鉄映画とか調査室の活動などをパネルを参考にして要領よく説明してくました。アジア号、水力発電所等当時世界有数の最先端技術を惜しげも無く採用したのでした。初代の後藤新平はじめ初期の経営者の指導の下で、満州事変でおかしくなるなるまでの満鉄の活動は非常に先鋭的でした。
関東州(≒遼東半島)は香港と同じように日本が清国から1997年まで租借しました。軍部の暴走が無くて、満州事変・太平洋戦争起こらなかったならば香港以上の発展が可能であったかもしれません。
中山広場見学の後は上海街を北上して旧ロシア人居住区に行って見ました。ここは中国国内からの観光客が沢山いました。道の行側にはマトリョーシカをはじめとするお土産さんがいっぱい。観光地としては面白いと思いました。
今月15日(金)から4日間、大連・旅順に旅行します。妻との海外旅行は2年前の北京旅行以来です。実は目的地として北京も考えたのですが、真夏の北京はたぶん暑すぎるだろうと考えて大連にしました(前回は真冬でした)。北京は故宮をはじめとした明・清の応急文化の宝庫ですが、大連・旅順はもう少しあとの日清・日露戦争から満州国に関する遺物が残っているのだそうです。
北京旅行の後「蒼穹の昴」をはじめ「日中関係」の本を大分読みました。細かい描写は忘れていますが、学校では教えない様々の事情を知ることが出来ました。今回現地で様々な遺物をみることは楽しみですし、発展した中国地方都市の様子も興味津々です。これから少しの時間ですが、中国の情報を溜め込みます。
| 2011年06月25日(土) |
血糖値低下についての一考察 |
6月18日の献血の血液検査結果が来ました。 グリコヘモグロビン比率は「17.7%」で前回より1ポイント改善です。
H22.11.21 : 17.9% H23.01.09 : 19.5% H23.02.13 : 20.0% H23.04.17 : 21.9% H23.05.03 : 20.1% H23.05.21 : 18.9% H23.06.04 : 18.7% H23.06.18 : 17.7%
半年かかって17%台に下がったことになります。糖尿病対策として、野菜を多くとる食事を心がけ、運動を増やす(毎日の通勤の歩く距離を増やす+土日の集中的な散歩・水泳)対策を採っています。その効果が2週間単位の献血の血液検査に現れているといっても良いでしょう。(か?)
ひとつ気になるのは、献血(成分献血で血漿献血)の際に相当量の糖分が強制的に抜かれているために、結果的に血糖値が下がっている可能性が排除しきれないことです。血漿献血の採取の基準は、一回の献血で600cc以内(全血漿の12%以内)となっています。仮に10%の血漿を抜いたと仮定するとそれだけで血糖値は1割下がる計算になります。豊富な糖分に慣れてしまった身体が、薄まってしまった糖分を元に戻そうとするはずですが2週間程度では元に戻らないので、2週間おきの献血では血糖が下がっているように見えているのではないか。
厳しく言うと、献血で強制的に血液を薄めなくても、血糖値が下がっていなければならないのだと考えています。
午後6時過ぎにJRの新子安付近の踏み切りで事故があったとのこと。横浜からの上りJRは、京浜東北線、東海道線、湘南新宿・総武横須賀がほぼ並んで走っています。その線路6本をわたる踏み切りでの事故のようなので、全ての線がストップしました。
私は京浜急行線で神奈川新町からJR東神奈川(京浜急行仲木戸駅と繋がっています)に着いたとたんに、京浜急行駅仲木戸駅のホームの大混雑を見てやばいと思いました。JRの東神奈川駅では京浜東北線の電車が停まっていて、乗っているお客さんに聞くと「1時間後にしか動かないそうだよ」との応えが返って来ました。仕方が無いので代替輸送の京浜急行線を使うことにしました。再び仲木戸駅から神奈川新町に戻り、そこで京急の特急で品川まで迂回しました。
横浜から川崎まで京浜急行はJRと「付かず離れず」といった距離感で平行して走って居ます。踏み切りは別です。JRと京浜急行は鶴見とか川崎では駅舎が少し離れていて乗り換えに不便な感じがしますが、離れている分JRの踏切事故には巻き込まれません。今日も大動脈が滞ってしまったJRを横目に見て走っていました。振替客が押し寄せるので定刻には走れませんが。
この路線(京浜東北、東海道、湘南新宿、総武横須賀)でJRが停まるといつもながら品川駅(JR・京急)が大混雑します。京浜東北が停まることによって山手線がまず大混雑。そして南を目指すJR客は京浜急行に殺到します。京浜急行線からは品川までたどり着いた北行きの客が山手線ホームに押し寄せます。この結果品川の1番2番の山手線のホームおよびホームへの階段は、入れ替え客で埋まってしまいます。
3月12日も動かないJRとは別で、元気の良い「京浜急行」はいち早く動き出しました。その結果品川駅がものすごい事になったのでした。リニアの駅を品川にもって来るそうですが少し考えたほうが良いかも。
6月4日の献血時の血液検査結果が到着しました。グリコヘモグロビン比率は「18.7%」で前回より若干改善しているものの、改善のテンポは落ちました。この辺りからの改善はやはり難しいのですね。しかも少し油断すると直ぐ悪化する。
H22.11.21 : 17.9 H23.01.09 : 19.5 H23.02.13 : 20.0 H23.04.17 : 21.9 H23.05.03 : 20.1 H23.05.21 : 18.9 H23.06.04 : 18.7
今日は午前中朝から雨模様だったので朝の散歩は中止です。その代わりに昼頃雨がやんだので散歩をしてから昼食を外でとることにしました。武蔵浦和駅近辺は新鮮味がないので、逆方向の西浦和方面に行くことにしました。目指したのは西浦和のダイエーの直ぐ手前のイタリアンレストランです。前から出来たのは知っていたのですが、駐車場が無いようだし少し入り難い感じだったので今日まで行かずに居ました。
そこは「クレージオ」というレストランです。「桜」と言う意味らしい(妻が調べた)。予約のお客さんが沢山いたようで奥の個室に通されました。古民家のの障子や梁を生かしたセンスの良い個室です。大きなガラス窓から庭を見渡すことが出来ました。ランチはパスタのセットを注文しましたが、非常に美味しく頂きました。基本的な味付けがしっかりしていることに加えて、振りかけ用のチーズが非常に美味しかったです。西浦和も侮れません。
| 2011年06月06日(月) |
さすがベルリンフィル |
週末に録画しておいたベルリンフィルのヨーロッパツアーの模様を見ました。最初は最後まで見るつもりはなかったのですが、あまりの名演に最後まで一気に見てしまいました。曲目・演奏者は下記のとおり。
狂詩曲「スペイン」(シャブリエ) アランフエスの協奏曲(ロドリーゴ) 交響曲 第2番 ホ短調 作品27(ラフマニノフ) ギター:カニサレス 管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:サイモン・ラトル 2011年5月1日 マドリード・レアル劇場での公演
大変洒落たプログラムでした。3曲とも傾向の違う曲のように考えていたのですが見事に一体感を見せていました。メインのラフマニノフ交響曲第2番(ラフ2)を貫く「情念」というよなものが全体を貫いた感じでした。シャブリエもアランフェスも尋常ではない「こだわり」と「掘り下げ」が見事で稀にみる名演だったと思います。ラトル・ベルリンフィルの関係の成熟もすばらしい域に達していると思います。(ウィーンフィルに望めない特定の指揮社との濃密な関係です)
アランフェスのソロは「カニサレス」(フアン・マヌエル・カニサレス)。非クラシック系の世界的に有名なスペインのギタリストだそうです。今回のアランフフェスでは独特の雰囲気を醸し出してました。とにかくその技巧に加えて、神秘的とも言えるその音楽性は大したもの。ベルリンフィルの伴奏に背景にして自分の世界を作り出していました。スペインの「哀愁と熱情」が見事に表現されていたと思います。
カニサレスさんのホームページ(日本人の奥様訳のカニブログは大変興味深い内容です。)
結構重くなった「アランフェス」の後の「ラフ2」。これは超ヘビー級の音楽でした。帝政・革命後を通したロシアの情念。ヴィシネフスカヤが表現していましたがロシア芸術の特徴の「過剰性」。ドストエフスキーの表現にも通じます。とにかく「過剰さ」を典型的に表現している音楽だと思います。私のベストは「ゲルギエフ・キーロフ」の演奏です。ロシアの演奏家の方が地味に演奏する傾向があるのかなと思っています。
ラトルの表現はとにかくラフマニノフが書いた音符をひとつ残らずに表現したような感じでした。まさしく音の洪水(それも非常に高度な)でした。それも弦楽器・管楽器の息の長さは只者ではないし、自然に聞こえるkれど微妙なテンポの揺れはあざとくなる一歩手前で踏ん張っていました。オケの燃焼度もたいしたものでした。ラトル。ベルリンフィルの音楽のひとつの頂点を見た思いがしました。ベルリンフィルの演奏水準(燃焼度)は「ドゥダメル」との出会いで一段上がったような気がします。
来月7月24日にテレビ放送がアナログ放送から地上デジタルに切り替わります。NHKを含めてどのチャンネルでも移行の周知がしつこい程放送されています。我が家のテレビはまだ「アナログ」。そろそろ本気に切り替えを考えようかと思っています。ところで我が家にはアナログ録音がかなり蓄積されています。
CDが導入される前からのFM放送のクラシック番組の録音、テレビで放送された音楽会・オペラ公演の録画などです。現在ビデオテープ再生デッキは壊れてしまっています。今のところ購入の予定はなし。更にテープデッキも不具合があって再生できない状態が頻発していました。従ってこれらアナログ録音をどうしようか悩むところです。
というわけで、テープデッキを直そうか買い換えようか、いっそのこと録音テープを捨てようかと思案しているのですが、時々機械の何かの拍子で再生に成功するテープがあります。そしてその音が驚くほど生き生きしていることに驚いています。CDのクリアな録音をずっと聞いてきましたが、昔エアチェックした音楽が非常に新鮮に聞こえてきました。
昔はNHKFM放送の来日音楽家の演奏会放送を録音していました。正直言ってCDの音楽よりも生々しく心に伝わる感じがします。雑音も多い代わりに伝わる情報も多いようです。アナログ録音を聞いてしまうと、CD録音は上手に人工的に調整された音であるという感じが否めません。それが感動を与えることとなるかというとそう単純ではないのです。貴重なアナログ音源は、記録性ということに加えて臨場感というめんでも優れています。暫くは保管しておくことにしました。
今日献血に行ってきました。(場所は池袋東口) 私の献血は「世の中ため」もありますが、最近は糖尿病対策効果の確認の意味合いが増しています。昨年から献血者の血液検査項目として「グリコアルブミン比率」が追加され、血糖値の状況を把握することができようになったからです。
これまで血糖値の状況把握では「HbA1c比率」が主流でした。血液中の糖とくっついた蛋白質のHbA1cのは半減期は約30日。これに対してグリコアルブミンの半減期は約17日なので、グリコアルブミン比率は比較的最近の血液の糖の状況を反映しているのです。つまり血糖値対策をした場合の変化が比較的早期に把握できるのです。比率自体の特性としてグリコアルブミン比率はHbA1cの3倍程度の値を示すものだそうです。
私の最近のグリコアルブミン比率は以下の通り
H22.11.21 : 17.9 H23.01.09 : 19.5 H23.02.13 : 20.0 H23.04.17 : 21.9 H23.05.03 : 20.1 H23.05.21 : 18.9 H23.06.04 : ?
2月末から3月始めにかけてフィリピン出張し、その後4週間献血禁止だったので2月13日以降2ヶ月のブランクがあります。そして4月17日には過去最高値「21.9」。HbA1cに直せば「7.3」。これは完全に糖尿病の領域に入ってしまった数値です。これはまずいということで連休前から食事療法・運動療法を強化しました。
まず朝晩の食事の際に「野菜摂取量」を増やすと同時に食べる順番も野菜を最初のほうに持ってくるようにしました。妻とも話したのですが、ご飯が目の前にあると、最初はご飯を食べてしまう癖がついています。日本料理でも西洋料理でも最初は前菜とか付け出し・八寸が最初に来るのに、家ではご飯を先に食べているのが現実です。最初に野菜を食べると良く噛むようになります。ご飯はそれほど噛まなくても食べることができますが、生野菜は良く噛まないと食べられません。そんなところも役立つのではないかと思います。
また運動量を追加しました。土曜日曜の散歩とどちらかの日の水泳に加えて通勤時の歩く距離を増やしています。会社は京浜急行の神奈川新町が最寄駅ですが、ここで降りずにその前後の駅を利用する機会が増えています。
神奈川新町−会社 1.1Km(1500歩) 仲木戸 −会社 1.8Km(2500歩) 神奈川 −会社 2.8Km(4000歩) 横浜 −会社 3.4Km(4800歩) 新子安 −会社 2.4Km(3500歩)
どのコースを選ぶかは、その日の気分・天候・横浜までの列車の状況等により決めています。最近は神奈川で降りる機会が増えています。
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