KENの日記
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2009年11月11日(水) クリスピー・ドーナツ

前から話題になっていた「クリスピー・ドーナツ」を初めて味わいました。これまで、新宿南口とか有楽町とか物凄い行列ができていると聞いていて、ブームが収まるまで待っていたのですが、今日横浜駅西口のドーナツショップが比較的空いていたので並んで買ったのでした。

もともとのオリジナルは"Glazed Doughnut"だそうです。昔習った英会話の話題に「コーヒーとグレイズドドーナツ」があったのですが、アメリカの本場の味はこういうものなのかと納得しました。上品な味ですね。

ホームページではその歴史を以下のように紹介しています。

「ヴァーモン・ルドルフはニューオリンズからやってきたフランス人シェフからイースト菌を使って作るドーナッツの秘伝の造り方を教えてもらい、1937年7月13日米国ノースカロライナ州ウィンストン=セーラムでドーナツ製造を開始し小売店への卸販売を開始した。しかしその味に魅せられた客からの暖かいドーナツを直接売って欲しいという要望に応えて、製造した暖かいドーナツの直接販売開始。これがオリジナルのクリスピー・クリーム・ドーナツであった。」




日本のクリスピークリームドーナツ・ホームページ

アメリカ本家のホームページ



2009年11月09日(月) ベルリンの壁崩壊から20年

20年前1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊して戦後の冷戦構造が終わりを告げました。テレビで記念番組が放送され新聞でも特別な記事が掲載されました。ベルリンノブランデンブルク門では記念式典が行われ、旧ソ連のゴルバチャフ書記長が招待され式典に参加しました。

確かにベルリンの壁崩壊・旧ソ連支配の終焉それ自体は時代の流れであったとは言え、物凄い出来事であったことは確かでしょう。ゴルバチョフ書記長がソ連書記長の系譜の中で、非常に「まとも」で人道主義者であり、歴史に残る人物であったことは事実だと思います。そのゴルバチョフ氏もエリティン、レーガンとの関係で、傑出した指導者という印象が薄れてしまったことは残念です。

NHKの特別番組では、冷戦終結後のアメリカのテロとの戦い、昨年来の不良住宅ローン問題に端を発した世界的な金融危機、更には地球温暖化・CO2排出に伴う環境問題を取り上げ、冷戦終結後の非常に難しい問題に触れ、市場至上主義の限界を指摘していました。

これらの問題は確かに非常に難しい問題なのですが、しかし、冷戦終結が無ければどうなっていたのか、更に多くの人命が奪われていたのではないか、もっと多くの自由のない子供達が残されていたのではないかと思われます。ゴルバチョフを始めとして、東側の指導者達は西の市場経済に大きな期待を抱いていたのでしょうが、実は市場経済はそれほど「気の利いたもの」ではなかったのです。放っておくと、悪い面ばかりでてきてしまうような状態だったのでしょう。

やはり、人間にとって「自由そのもの」が大切であるというより、「自由という生活環境の中」で、如何に有意義な生活をおくるのかということが大切なのでしょう。市場経済で言うならば「自由」は「金」と言い換える事もできます。



2009年11月02日(月) 山形鶴岡の酒「出羽の雪」

鶴岡の渡会酒造の酒「出羽の雪」ですが、今回特別に明治時代の復刻ラベルで登場しました。




山形の酒では、天童の「出羽桜」、日本海側の遊佐町の「東北泉」、酒田の「麓井」などを飲んできましたが、この鶴岡の「出羽の雪」も山形らしいすっきりした酒です。

仙台に住んでいた頃の職場は山形出身の人が多く、山形の自慢話を良く聞かされました。秋の「芋煮の味」はその最たるもので山形各地の特産品の話も随分聞きました。山形は最上川がその源流から日本海に流れ込む庄内の河口まで山形県内に終始していることで分かる様に、県内には山間部あり庄内平野ありで様々な環境の地域あって特産物が豊富です。一方全ての自治体に温泉があることは共通しています。

日本酒も多くの酒蔵があり、新潟の影響を受けつつ、東北の力強さも兼ね備えた美味しい酒を造っています。この出羽の雪も非常にすっきりした飲み口です。丁寧に作られていることが想像できます。米は契約栽培の「ササニシキ」を使っています。



2009年11月01日(日) 今年読んだ本

昨年暮れの「北京旅行」以来、19世紀から20世紀初頭にかけての中国の歴史に興味を持ちました。このあたりの歴史にはこれまで踏み込んだ事が無かったのですが今年は集中的に読んできました。まだ一年が終わっていませんが今年読んだ関連する本を紹介してみます。

1.蒼穹の昴  文春文庫(浅田次郎)
2.珍妃の井戸 文春文庫(浅田次郎)
3.中原の虹(浅田次郎)
4.紫禁城の黄昏 祥伝社黄金文庫(R.F.ジョンストン:宣統帝溥儀の家庭教師)
5.我が半生 ちくま文庫(愛新覚羅溥儀)
6.キメラ  中公新書(山室真一)
7.紫禁城  岩波新書(入江曜子)
8.後藤新平 中公新書(北岡伸一)
9.日本とアジア ちくま学芸文庫(竹内好)
10.大川周明 講談社学術文庫(大塚健洋)
11.新脱亜論 文春新書(渡辺利夫)
12.孫文・毛沢東 世界の名著
13.辻正信と7人の僧 光人社NF文庫(橋本哲男)
14.孫文の辛亥革命を助けた日本人 ちくま文庫(保坂正康)
15.孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・恵臣兄弟(小笠原健三)

北京旅行では、天安門近くの歴史的に有名な東交民巷地区のホテルに宿泊し、故宮博物館(紫禁城)をじっくり見学することができました。その後会社の仕事で中国の大連の会社とのやり取りが何度かあって、大連出張予定があったのですが新型インフルエンザの影響で出張が取りやめとなってしまいました。

今年7月に今の海底ケーブル関連の会社に移ったのですが、この会社の本社は横浜で海底ケーブル敷設船基地は長崎にあり、長崎へ出張が増えたのでした。横浜・長崎とも中華街があって、中国との関係の深い街です。

まず始めに、清朝末期の西大后の住んだ「紫禁城」に興味を持ち、西大后、光緒帝、溥儀の最後の皇帝達のことを中心に読んできました。「蒼穹の昴」はその頃の話として非常に面白かったです。それを端緒として、清朝末期の「変法自強派」の活動、孫文を中心とする「革命派」の活動、更には朝鮮王朝のこと、そしてそれらの活動に深く関わった明治以来の日本の中国大陸政策に及びました。この間、横須賀の戦艦「三笠」を見学したり、横浜転勤になる前に横浜中華街を散策したりしました。

新しい会社の仕事で長崎には既に3回ほど出張しました。長崎は江戸時代には出島の存在によって鎖国日本における唯一の海外との窓口でした。その後の長崎の海外との繋がりの重要性は継続しました。日本と海外の国際電報は長崎の電報局を経由して行われました。長崎には電信海底ケーブルが陸揚げされました。まだ飛行機が活躍するまで大陸との航行は長崎を基点に行われました。そういう事もあってプッチーニは長崎を舞台に「蝶々婦人」を作曲しました。

会社の仕事上での繋がりが、自分の興味と絡み合っている事は非常に有難いことだと思っています。



2009年10月31日(土) 大混雑の池袋

昨日10月30日に閉店した池袋の三越に「ヤマダ電機」がオープンしました。池袋はビックカメラが支配していた地区なのです。ヤマダ電機が東口のビックカメラの直ぐ横に開店して攻勢をかけていましたが、もうひとつ攻め切れない状況でした。今回池袋駅に地下で通じている三越跡に進出したと言うわけです。

私達はビックカメラで時計を買おうと東口に出たのですが、ヤマダの新店舗とビックカメラを結ぶ道路は物凄い混雑でした。ビックカメラがヤマダの開店を前にして安売りセールを仕掛けたようで、人の流れはヤマダ→ビックの方が多かったみたい。ビックで買物を済ませた後にヤマダにも寄ってみようかと思いましたが、やめておきました。

それにしてもヤマダ電気の店舗展開は少し無謀だと思います。新橋にあった「キムラヤ」の後に進出したのを始め、池袋を含めて大きな駅の駅前の一等地に出店しました。この不景気の時代に無理は禁物だと思いますが。



2009年10月29日(木) 鹿児島焼酎「桜井」

南浦和の稲荷屋酒店で薦めて頂いた鹿児島焼酎の「桜井(造り酒屋)」です。使っているサツマイモは「黄金千貫」。割り水に「関平(せきひら)鉱泉水」を使っているとのこと。丁寧な造りが感じられるバランスの良い焼酎です。1.8Lが直ぐ終わってしまいます。




醸造所は桜井酒造有限会社。鹿児島県の南さつま市の会社だそうです。この醸造所の酒には上の「造り酒屋」の他に、「小さな蔵」「金峰櫻井」「黒櫻井 (くろさくらい)」の3種類があるとのこと。他の焼酎も飲んでみたいものです。



2009年10月19日(月) グスタフ・ドゥダメルの演奏

昨日(正確には19日早朝)NHKBS放送でグスタフ・ドゥダメルの2008年12月に来日した時のコンサート模様を放送したので、録画しておいて今日観て見ました。

2008年12月17日東京芸術劇場でのコンサーと模様

1. バレエ音楽 「ダフニスとクロエ」組曲2番 ( ラヴェル作曲 )
2. 交響曲第5番 ホ短調 作品64   ( チャイコフスキー作曲 )
3. 「ウエスト・サイド・ストーリー」から マンボ(バーンスタイン作曲)
4. バレエ組曲「エスタンシア」から「終曲の踊り」 (ヒナステラ作曲 )

管弦楽 : シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ
指 揮 : グスターボ・ドゥダメル

今や世界中が注目している「ドゥダメル」と「シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ(Simon Bolivar Youth Orchestra of Venezuela:SBYOV)の音楽を初めて聞くことができました。ドゥダメルはベルリンフィルとのコンサートを聞いて素晴らしい感性の持ち主だということは分かっていましたが、ドゥダメル自身も参加していたSBYOVとの共演は歴史に残る名演といえるでしょう。指揮者も凄いが「オケ」も凄い。ドゥダメルもSBYOVのベネズエラの音楽教育が育んだ大きな果実なのです。

ヴェネズエラ政府関連のSBYOV関連ページ

上のホームページではヴェネズエラ音楽教育が紹介されています。ヴェネズエラの児童・青少年の健全な育成のためのプログラムとして34年前に活動が開始されました。現在ではヴェネズエラ全国で180に及ぶ大小のオーケストラ・コーラスが活動していて、そこでは35万人の児童・青少年が学び、その最優秀な選抜メンバーで構成されているのが「SBYOV」なのです。下記はホームページ記載の活動精神抜粋をですが、クラシック音楽がこれほど普通の一般社会に貢献したことがこれまであったでしょうか。

Music is not only the product of the talent and virtuosity of its creators; it is the reflection of the soul of the peoples and, in this case, is the outgrowth of an education program that over the past 34 years has spread beyond our borders and has surpassed all expectations.

グスタフ・ドゥダメルのホームページ



2009年10月16日(金) 孫文と長崎福建会館




長崎の唐人街の「福建会館」です。長崎出張の際は「新地」に泊まる事が多いのですが、新地から少しあるくと唐人街がありそこには4棟ほど古い中国様式の建物が残されており、「福建会館」はその中でも中心的な建物です。福建省出身の華僑の方が多く住まわれていたので、福建会館はそうした華僑人達の交流の場であったようです。

この福建会館において1913年3月22日に来日して長崎を訪れた「孫文」の歓迎会が催されました。その時の写真が福建会館の中に飾られています。幾度も武装蜂起に失敗した中国革命運動ですが、1911年(辛亥)の武装蜂起が成功し、孫文は1912年中華民国臨時政府の大総統に就任しました。しかし革命政府内での力関係から、数ヵ月後に大総統の地位を「袁世凱」に譲り、孫文自らは「鉄道大臣」のような職を引き受ける事となりました。この時の来日は中華民国鉄道大臣としての公式な訪問となったのでした。しかしそんなことでは決して挫けないのが「孫文」でした。下のこの胴像は福建会館に建つ「孫文」です。




追記:気になって調べたら、革命家「宋教仁」が上海駅で銃撃されたのが1913年3月20日、死亡したのが3月22日のようです。「宋教仁」は孫文とは全く別に革命運動に従事してきて、日本亡命中に宮崎滔天の紹介で孫文としりあうこととなった人です。辛亥革命の際には外国遊説中の孫文とは違って、現地の武昌に参加し、袁世凱が大総統に就任した後は、徹底して共和制を主張し袁世凱の独裁に反対しました。清末・中華民国成立時期には袁世凱の動きが非常に大きな影響を与えたのですが、この宋教仁暗殺も将来に非常に大きな影響を与えたと思います。日本を公式訪問中の「孫文」は3月23日に長崎で長崎華僑団体の歓送迎を受けたのですが、この時上海での革命同士でありライバルでもあった「宋教仁」遭難をしていたのでしょうか。



2009年10月10日(土) 残念「孫文100年先を見る男」ツアー中止

9月から「孫文 100年先を見る男」が上映されています。これに併せて以下のような映画鑑賞とセットのツアーが企画されていました。10月になったらこのツアーに応募して、孫文ゆかりの場所を訪問しようと考えていたのですが残念ながらツアーが中止になってしまいました。

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日本での9年間の亡命生活のうち5年間を横浜に滞在した孫文。孫文ゆかりの地として7箇所が知られています。これら7箇所をガイドによる解説付きで巡り、廣東飯店でランチタイム、横浜シネマリンに移動して「孫文・100年先を見る男」を鑑賞するツアーです。

【開催予定日】
9月5日(土)、9月12日(土)、9月19日(土)、9月26日(土)
(10月分は都合により中止となりました。ご了承いただきます様お願い申し上げます。)

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横浜中華街の孫文ゆかりの7箇所は以下の場所のようです。

1.キングセール商会(横浜市中区山下町53番) 
孫文が1895年に初めて日本へ亡命した折に滞在した。ここで興中会横浜支部が結成された。

2.陳少白宅(横浜市中区山下町119番) 
1987年8月16日、横浜へ到着した孫文は陳少白(日本名・服部次郎)宅に住み込み、ここで9月初旬宮崎滔天と初めて出会った。

3.温丙臣宅(横浜市中区山下町121番) 
1898年8月29日、孫文はレンガ造り西洋館の温丙臣宅へ転居した。ここへは、東京から犬養毅、頭山満、山田純三郎らが訪れている。

4.大同学校(横浜市中区山下町140番) 
1897年、興中会横浜支部長の馮鏡如ら横浜華僑は、子弟教育のために学校設立を孫文に依頼した。孫文は「中西学校」を創立したが、康有為によって1899年「大同学校」と改められた。後に山手町へ移り「横浜山手中華学校」となる。

5.横浜中華学院(横浜市中区山下町142番)
孫文が提唱し、梁啓超が掌った学校として、孫文の意志を受け継いだ教育機関とされている。孫文の胸像が建てられている。

6.中山記念堂(横浜市中区山下町166番)
広東幇(バン)の事務所が置かれた場所。幇とは郷里を同じくする者同士の団体。孫文は広東出身なので、そのつながりで滞在していたらしい。

7.旧和親劇場跡(横浜市中区山下町97番)
1925年3月12日、孫文の北京での病死を受け、同年4月12日、孫文の追悼会が開催された。


最近「孫文」にはまっています。地図を頼りに一人で巡って見ようかと思っています。



2009年10月08日(木) 台風18号で通勤電車大幅遅れ

今日は台風18号が関東に接近するということで、朝から通勤電車に大きな影響が出ました。毎日使っている「JR湘南新宿線」は午前中は運休ということなので、私は京浜東北線ではるばる埼玉から横浜まで行くことにしました。埼京線・山手線で品川まで出て「京浜急行線」という選択肢もありましたが、ゆっくり座っていく京浜東北線を選んだというわけです。ところがこれが誤算でした。

家を殆ど朝の定刻(6時40分)に出発。武蔵野線で南浦和に出て丁度停車していた京浜東北線に座席を確保することができました。通勤時間が長くなることを予想して「IPOD」持参です。12月に出かけるコンサートの予習でヘンデルのメサイアを聞き始めました。列車は順調に浜松町まで進みましたが、浜松町駅で「運転見合わせ」のアナウンスがありました。多摩川鉄橋近辺の風雨が強いため運転見合わせだそうです。多摩川を渡らない「山手線」まで運転見合わせとなってしまいました。

暫く車内で待ちましたが一向に運転再開の放送がありません。駅構内と車内放送では「京浜急行線・地下鉄線は運行しているので振替輸送する」と案内しています。JRが渡れなくて何故京浜急行が多摩川を渡れるのか。止まっている京浜東北線の横を東海道新幹線が走りぬけて行きます。釈然としない気持ちで仕方なく地下鉄に向かうこととしました。

都営地下鉄浅草線「大門」は浜松町の直ぐ近くです。地下鉄へ向かう地上・地か通路は乗り買え客で大混雑でした。JRも頂いた振替切符で大門駅に入りました。大門駅の下り(品川方面)ホームは大混雑でホームに人が溢れ危険な状態でした。丁度京浜急行に乗り入れる列車が二本連続して到着したので、最初の大混雑の列車を諦めて二本目の列車に乗りました。大門駅のホームは殺気だった感じで揉みあいで文句を言う乗客がいました。皆困っているのだから仕方ないと思うのですが・・・。

途中の品川駅は更に大混雑でした。JR線(京浜東北・東海道・横須賀・湘南新宿)で多摩川を渡れない客が押し寄せたのでした。私は品川で降りる乗客の狙って座席にありつけたのですが車内は大混雑でした。そのまま神奈川新町に向かったのですが、後でわかったことですが、京浜急行は振替輸送客の混雑のため、私が品川を通過した少し後で運転を見合わせたようです。10時30分ごろ約2時間遅れて会社に到着しました。

それにしてもJRの対応は納得がいきません。午前中運休予定の「湘南新宿線」は列車の都合がつかなかったせいか終日運転を中止しました。臨時ダイヤを組むのが大変だろうと思いますし、昨日の人身事故で関係者が疲れていることは予想されますがなんとかならなかったのでしょうか。また「多摩川を渡る」列車ですが、いち早く京浜東北・東海道を運転見合わせし、京浜急行に頼った姿勢も頂けません。京浜急行が広軌軌道なので安定性が高いのかもしれませんが、川崎まで「ゆっくり走らす」とか何とか方法がなかったのでしょうか。




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