| 2009年06月21日(日) |
NTTフィルハーモニー演奏会 |
NTTフィルハーモニー管弦楽団の第25階演奏会を聞いてきました。場所は池袋の東京芸術劇場大ホール、指揮は松岡究氏。曲目は以下の通りでした。
ブリテン:青少年のための管弦楽入門 ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)

演奏会が日曜日の午後からだったので池袋東京芸術劇場近くのレストランで昼食を取ることにしました。芸術劇場の西側に各国料理レストランがあることは分かっていました。今日はインド料理の「GARA」で昼食を食べました。丁度今日出演するNTTフィルの弦楽器セクションの方も昼食を食べていました。ここのカレーは「ニューデリー」から来たシェフが作っているようですが、日本人に合うようにアレンジして辛さを抑えているようでした。ちょっと物足りなったです。
演奏会ですが芸術劇場は7分の入りだったでしょうか。雨の日曜午後のアマチュア演奏会にしては客は入っていたという印象です。曲目がブルックナーの7番をメインとするもので少し地味なのですが、しっかりしたサポータが聞きに来ていたのでしょう。私は前回ベートーベンの「皇帝」とメンデルスゾーンの「イタリア」を聞いて今回ブルックナーを聞いてみようとおもったのでした。
最初のブリテンの管弦楽入門ですが、大曲の前のサブとしては少し違和感がありました。各セクションに「腕自慢」が揃っていることをアピールするには絶好の曲ですが、腕自慢よりは「音楽自慢」を聞きたいところでした。終曲のフーガがかなり難しい曲ですがさすがに人材豊富なNTTフィルだけに聞かせてくれました。
休憩の後はブルックナー。休憩時間に飲んだワインで適度にリラックスして聞くことができました。一楽章はいきなりチェロの出だしが揃いませんでした。トップの「Tさん」は以前に一緒に仕事をした仲間です。高校・大学とチェロを続けてきた腕自慢です。Tさんの熱演にも拘らず全体的にチェロセクションの音量が少し足りない感じでした。一楽章は少し硬いかなという感じでした。それとトップフルートが1stバイオリンと同じ旋律を演奏して、音に丸みを持たせる部分が多いのですがフルートが重なった効果があまり感じられませんでした。
ニ楽章は交響曲全体の中心です。ワーグナーチューバが活躍するのですが、今一歩音に力が感じられませんでした。NTTフィル全体に言えると思いますが、奏者の演奏技術のレベルはかなり高く、各セクションの音程・音色は素晴らしいのですが、音のエネルギーが少し小さい感じがするのです。例外はクラリネットとホルンでしょうか。この二つのパート(クラはセカンド)は物凄い演奏意欲が表に現れていました。ニ楽章最後の和音は素晴らしかった。こういう場所は本当にプロ顔負けです。3楽章は何と言っても冒頭のトランペットなのですが、上手く吹いているのですがエネルギーが小さいので感動に至りません。これはトランペット・トロンボーンに共通した課題だと思います。
終楽章は交響曲全体を締め括るには小規模で演奏効果を出すには難しい曲だと思います。それなりに音楽が処理されて一応ブルックナー的に進んでいくのですが心に響いて来る「何か」が少ないのです。何時も「燃えるコバケン」のように演奏するのは無理だとしても「音楽が今この時に生まれている」感じがないのはどうしたことでしょう。今では学生オケでもどんどん取り上げるブルックナーです。アマチュアであっても学生のような「勢いのある」演奏を期待して出かけたのですが、カレーと同じで少し期待外れでした。

グリコの特大ぷっちんプリンを買いました。武蔵浦和のオリンピックに売っていました。ファミリーマートで売っているプリンより大きいです。左が小さなぷっちんプリンで75gです。右は特大400gです。さすがに一人では食べ切れず家族で分けて食べました。容器の底にはしっかり「ぷっちん」が付いています。
グリコのぷっちんプリンページ
グリコのホームページです。開発の物語などぷっちんプリンの情報の宝庫です。大変重いのでダウンロードに苦労しますが「思い」は伝わってきますね。
| 2009年06月13日(土) |
「政府へ尋問の廉有之」 |
昨日麻生内閣の鳩山総務大臣が大臣辞表を提出し麻生首相に受理されました。鳩山総務大臣は長らく日本郵政株式会社の「西川社長」の社長続投に反対の姿勢を取ってきたものの、最終的に麻生首相の決断で社長指名の拒否権を持つ「総務大臣の首」を切られたもの。喧嘩両成敗的な「ばら色」の決着ではなく、一方的に片方を切るという最近では珍しい麻生首相の決断でした。
ところで辞任した鳩山氏は辞任後の記者会見の中で、無念さを顕にしながら西郷隆盛の「政府へ尋問の廉有之」という言葉を引用しました。非常に興味があったので調べてみました。
この言葉は1877年(明治10年)下野していた西郷隆盛が鹿児島の私学校生徒等の動きを押さえ切れずに決起し、武装した西郷軍が熊本城下を抜ける通行許可を得るために熊本鎮台司令長官に宛てた手紙の冒頭の言葉です。鎮台司令長官はこの勿論これを了承せずに西南戦争が勃発したわけです。但し、この手紙は西郷隆盛の直筆ではなく、書かれている内容も西郷の意に反する部分があったと言われていますが、この冒頭の言葉が有名になっています。
西郷の「政府への尋問の廉」とは何であったのか。この時際西郷隆盛は「征韓論」で大久保・岩倉・伊藤等に敗れ「下野」したとされています。この辺りの話は最近ずっと興味を持って考えてきたテーマです。
「頑なな朝鮮との交渉をどのように進めるか」これは欧米視察旅行(1871年から1873年)で大久保、岩倉、伊藤等が留守の間に持ち上がった問題でした。当時の日本に残った明治政府の留守番のリーダは西郷隆盛でした。断固朝鮮に武力出兵すべしという過激論を押さえて、西郷は穏当な外交儀礼として礼を尽くして自ら交渉にあたる事を決定しました。西郷隆盛としては「江戸城無血開城」を実現したように、礼を尽くし誠意を持った交渉によってこじれてしまった朝鮮(その背後の清朝)との関係を修復し友好関係を築くことができる自信があったのでしょう。西郷は清朝、朝鮮、日本の民族に脈々と流れる「道徳精神」「武士の精神」等への確信・期待があったことと思います。
ところがヨーロッパ視察から帰国した「大久保・岩倉・伊藤」はヨーロッパ先進国の最新の状況に非常に感化され、西郷の穏当な交渉案を廃案とし、富国強兵策を推し進めることとなります。別な言葉でいうと、西欧列強が産業を興して強国となったように、日本はまず近代化を推し進め、軍事力を増強して、西欧列強のように植民地政策を採用して朝鮮・中国問題に対処していこうというものでした。これは結果的に福沢諭吉の「脱亜論」の考え方とも一致するものでした。この大方針に基づいて近代化に成功した日本は「日清・日露」の戦争に勝って列強の仲間入り(植民地支配競争に参加)を果たし、満州国を建設して大東亜戦争へと突き進んだのでした。
翻って、西郷隆盛の考えは「文明とは道の普く行われるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華をいうの非ず」というものでした。もし西郷隆盛も欧米使節団に参加していたらどのようになっていたか。私は西郷隆盛が欧米の近代化精神の真髄を掴みつつも、東洋の道徳精神の素晴らしさを再確認したはずだと思います。そしてそのような西郷隆盛の存在する明治政府の指導によって明治以降の日本の近代化は別の道を辿っていたはずだと思います。この西郷隆盛の精神は、インドのタゴール、ガンジーや中国の孫文の考えと全く同じものだと思います。まさに西南戦争の勃発は日本のその後の日本の行く末を決めてしまったのではないと思われます。そして現在でも近代化した日本社会にその時の「忘れ物のつけ」が残っているのではないかとも思われます。
鳩山氏がおっしゃる「正しい事」が本当に正しいのか、麻生首相の判断が正しいのか、それは歴史が決めることです。しかし少なくともその判断基準が「選挙」・「党利党略」であったりすると「正しさ」の根拠が正当なものだとは言い難い気がします。そして将来の歴史を知ることができない現在の人々は、現在の自分の私利私欲のない道徳精神に基づいて決断するしか方法がないのも事実です。それが多少間違っていようとも。と思いました。
| 2009年06月06日(土) |
なぜ駒野選手? 日本は勝ったが。 |
ワールドカップ予選の大一番の「ウズベキスタン戦」。日本はなんとか1対0で勝利をもぎ取り本戦への切符を手に入れました。一応最低限ラインをクリアというところでしょうか。しかし今回のウズベキスタン戦を見ていて、非常に疑問に思ったことがありました。それは右サイドバックに駒野選手を起用したことです。
前の試合で大活躍した「内田選手」が怪我のために、「駒野」選手しかいなかったとしても、駒野選手の起用はあまりにも知恵がない、あるいは無謀であったとさえ思われました。私は他のポジションの選手でも良いから「内田選手」の代わりに出場させるべきであったと考えます。
駒野選手が出場する試合は「右からの攻め」が皆無に等しいと言えます。今日の試合で2回ほど「駒野選手」が攻め上がり、そのうち一回は大久保選手の頭に合わせたセンタリングを出したもので一見活躍したように見えます。しかし背の高い相手の守備陣に対して、背の低い大久保選手を使って空中戦を挑むのは以前の得点力のない全日本のパターンそのものです。つまり「相手がミスするかもしれないのでやらないより益し」という考え方です。Jリーグでは通用する無気力なパス、過度に楽観的なパスは国際試合では通用しないと肝に銘ずるべきです。そのようなJリーグ並みのプレーを超える所からワールドカップが見えてくるのだと思います。そのように奮起してきたのが、岡崎であり、長谷部であり、内田であったのだと思います。また空中戦はセットプレーの時だけに限定し、敵ゴール前では低いボールで勝負しようと戦術を転換してきました。そのお陰で得点力が増したのと思います。
今日の試合ではどうしても「駒野選手」の動きの悪さに目が行ってしまいました。他の日本人選手との大きな「差」が目立ちました。一言でいうならば、日本は10人で試合をしていたといっても過言ではないと思いました。10人で戦うのですから、よく動く選手は「疲れる」のは当たり前です。よくカバーする人ほど消耗して行くのです。従って攻撃の基点となるミッドフィルダー(MF)が動けなくなります。従って得点力が下がってしまう。
逆に、サイドバックがボールを持つことができて「タメ」ができれば、MFは非常に楽になります。サイドバックから直接前線にパスがでたり、サイドバックが敵をカワスことができればMFは更に楽になるのです。このプラス面とそうでなくてMFがカバーしなければならないマイナスの状況では「天と地」の差が出てしまうでしょう。
得点力で言うと、岡崎、玉田、更にレッズの田中の力は非常に高いものであります。MFでは両中村、遠藤、長谷部、本田、阿部と人材は一番豊富です。デフェンスの中心は背の高い中澤とトゥーリオで決まりです。問題サイドバックです。左の長友は良しとして問題は右サイドバックです。
「駒野選手」は非常に誠実そうだし一生懸命なのは分かりますが、今日の試合は「惨い」ものでした。疲労困憊した長谷部選手の「一発レッドカード」の原因のひとつに、カバーのために走り回った疲労があると思いました。選手達が本当は何を考えているのか知りたい所です。

弟夫婦の九州旅行土産で頂いた焼酎「刻の封印」です。熊本県人吉市の深野酒造の焼酎です。
原材料 米、米麹(黒麹) 容量 720m 度数 39〜39.9度
参考ページ
球磨焼酎酒造組合のページ
深野酒造株式会社のホームページ
酒造組合ホームページの定義によると、球磨焼酎とは
「米こうじ及び球磨川の伏流水である熊本県球磨郡又は同県人吉市の地下水(以下「球磨の地下水」という)を原料として発酵させた一次もろみに米及び球磨の地下水を加えて、更に発酵させた二次もろみを熊本県球磨郡又は同県人吉市において単式蒸留器をもって蒸留し、かつ、一切の添加物を加えず容器詰めしたもの」だそうです。
深野酒造の創業は文政六年(1828年)とのことで、福岡・久留米、筑前・黒田藩の御用商人をしていた初代「深野時次」がお米の買い付けに人吉・球磨(当時の相良藩)に出入りするうちに、人吉盆地の豊富な米、良質な水、冬の冷涼な気候に目をつけ、当時相良藩が藩をあげて焼酎・清酒の製造を奨励していたこともあり一族でこの地に移ってきたのだそうです。現在の当主は6代目にあたるという非常に伝統のある酒造所です。
この球磨焼酎はあまり飲んだことがないのですが、「刻の封印」は非常にしっかりした味わいです。正攻法の妥協を許さない厳しい酒造りをしていると思います。約40度のアルコール濃度なので4倍に薄めると丁度10%になります。その辺りをキチンと割らないと美味しくいただけないと思います。
今日は天気が良くはなかったのですが、佐野市の散策に出かけることにしました。目的は佐野市の郷土博物館で開催されている「須永元」の特別展でし。しかし、佐野市というと他に「佐野ラーメン」「田中正造」など色々興味深い歴史を有する街ですので一度訪れてみたいと思っていた場所でした。

佐野市の北東部郊外にある佐野ラーメンの「おぐら屋」です。午前11時の開店20分前に行ったのですが既に玄関前には行列ができていました。20分ほど外で待って開店と同時に入店。店内の席はすぐにいっぱいになり外には行列ができ始めました。注文したのは定番のラーメンと餃子。ラーメンはあっさりしたスープに独特の「まろやかな麺」。おいしさを主張するタイプではないけれど非常にバランスが良く上品な感じがします。餃子は野菜たっぷりの大ぶり餃子。従業員がよく訓練されていて「てきぱき」と動いていたのが印象的でした。外で待っているときから地元の「とちぎテレビ」の撮影クルーが来ていて、店の繁盛ぶりを記録していました。県外ナンバーということで私達の車も撮影されたみたいです。とにかく佐野市にはたくさんのラーメン屋があって、人気の店には行列ができています。この「おぐらや」をはじめ、街で見かけたラーメン屋のいくつかにお客が群がっていました。たいしたものです。

「田中正造」の生家。ラーメンの「おぐらや」がある佐野市北部郊外から市内に向かう街道沿いにあります。県道237号線の「旗川」を渡ったすぐ左側にあります。田中正造は明治時代の政治家で足尾銅山鉱毒事件で明治政府と渡り合った人物です。佐野市郷土博物館には「田中正造」に関する展示が豊富です。明治維新後の殖産興業に邁進する明治政府の「ゆがみ」を糾したことに非常に大きな意味があると考えています。明治維新後の明治政府は列強に対抗するため、かなり無理をして国力強化を行いました。殖産興業、薩長主導政府を支える官僚制・官立学校制度確立、軍事力増強等ですが、そうした体制強化に国民の考え・目標を集中させたことにより、一方で国家全体が盲目的に戦争に向かって突き進んでしまったともいえます。明治・大正・昭和の国民は「田中正造」のように国に対して正面から「異論」を唱えることができなかった。これに匹敵するのは、世代が限られるものの戦後の「安保闘争」くらいしか思い浮かびません。「田中正造」の依頼により書かれた荒畑寒村の「谷中村滅亡史」は私が若い頃に買った最初の社会問題を扱った本でした。
政府が盲目的に方針を決定し(諸外国の動向・歴史の推移をよく見極めずに)、国民が盲目的にそれに追随するという構図は、今でもあまり変わっていません。日本の「新型インフルエンザ対応」は典型的な例だと思います。

佐野市内の戻って佐野市郷土博物館を見学しました。博物館は佐野市の大橋町の「例幣使街道」沿いにあります。例幣使街道とは江戸時代に京都から日光東照宮に定期的に通った「例幣使」が通った道で、中仙道の「倉賀野」から日光に向かって東に伸びる街道でした。丁度現在の国道50号線のような街道です。さて博物館の須永元の展示ですが、今回は須永の修行時代の展示が中心のようでした。私の興味は須永が慶応義塾を出た後に朝鮮独立闘争家を支援したことで、今回の展示ではほとんど触れられていませんでした。
須永元の旧家は、博物館の道を挟んで反対側の佐野市市民プールの場所にありました。上の写真がプールの入り口です。季節外れのプールは草に覆われて荒涼としていました。このプールの奥の一番南側に須永家の庭園・築山の部分が少し残っています。柵の中に入ってみてきました。かつてはさそ立派な庭園だったと思わせる植木が残っています。しかし訪れる人はほとんどいないようです。日本と朝鮮の過去の歴史に目を向けることを避けているようです。金玉金を始めとする須永が支援した朝鮮の政治家は「閔妃暗殺」の罰を逃れて日本に逃れてきた人達でした。このあたり以降の歴史はあまり語られることがありません。

最後に訪れた場所が佐野市内堀込にある「妙顕寺」。金玉均の書となる扁額があり朝鮮革命闘士の墓があります。金玉均は1884年12月、閔妃の独裁政治を倒すために日本人とともに甲申事変を起こします。しかし政権奪取に失敗した金玉均は日本に逃れました。実は須永元も当時朝鮮にいたのですが重病のために事件にかかわることがなかったのでした。日本に帰った須永は金玉均を手厚くサポートしたようです。しかし金玉均は李鴻章の誘いにのって日本を離れ上海を訪れますが、そこで中国側と通じた朝鮮の暗殺者に命を奪われました。1984年3月のことでした。その年の7月には日清戦争が起こります。日本・朝鮮・中国を巻き込む泥沼の抗争の始まりです。韓国の独立を支援した須永はそれから10年後の「日韓併合」(1910)には大反対だったようです。日本政府(軍)の方向は既に須永の思い描いた構図から大きく外れてしまっていたようです。妙顕寺には朝鮮革命闘士の禹範善と黄鉄の墓があります。この二人の詳しい来歴はわかりません。今後おいおい調べたいと思います。
| 2009年05月19日(火) |
スリランカ内戦終結? |
スリランカ政府軍が敵の大将(V.プラバーカラン)の首を取ったことにより、一応26年間に及んだLTTE(タミール開放の虎)との内戦は終結したもようです。今回の内戦の最終局面について少し考えて見たいと思います。
1.インドとの関係
スリランカにとって最も重要なインドとの関係は非常に微妙でした。スリランカの対岸のタミール・ナド州の世論はルーツの同じタミール人(LTTE)に同情的でした。私はいつかインド政府の仲介が入るのではないかと思っていました。しかしスリランカ政府は最後の総攻撃を「インド総選挙」にぶつけました。与党のインド国民会議派はどちらかというとタミール・ナド州の動きには批判的でしたので政治的な介入にはなりませんでした。
インドにとっての悪い思い出は「ラジブ・ガンジー暗殺」です。今回の総選挙でも大勝利した国民会議派の現党首の「ソニア・ガンジー」の旦那さんでした。ラジブはスリランカ内戦に介入し、インド平和維持軍をスリランカに派遣し当時のスリランカ政府を助けました。これに反旗を翻した「LTTE」は自爆テロで「ラジブ」を吹き飛ばしたのでした。「ソニア」にとってスリランカ問題に介入することは「悪夢」を思い出すことです。しかも選挙の真っ最中ですから、介入はできなかったのだと思います。インド政府の公式な談話を待ちたいと思います。
2.アメリカ、ヨーロッパ諸国との微妙な関係
スリランカの新聞には「スリランカ政府のテロに対する勝利になぜアメリカは祝福しないのか」「ヨーロッパはなぜ歓迎しないのか」といった論調が出始めました。たしかにイラク・アフガニスタンにおけるアメリカを中心とする多国籍軍のテロとの戦いをみれば、テロに勝利したスリランカ政府の気持ちも分かります。
しかし、アメリカ・ヨーロッパ諸国からすると、核兵器を保有するパキスタン・イランの情勢と、小さな島国のスリランカの内戦とはそもそも利害関係が全く違います。できれば最悪のシナリオは避けて、どこかで「LTTE降伏」「残存メンバーの第3国脱出」を実現させたかったところです。そしてアメリカに限っていうと、核兵器問題では大きく譲歩した「インド」との関係を考慮しなければなりません。インド政府が歓迎しない「一方的勝利」を簡単に祝うことはできないのです。またアメリカ・ヨーロッパが、未曾有の経済低迷・新型インフルエンザの流行といった大きな内政問題を抱えていたことも、積極的な関与を遅らせた原因であった思われます・
さらに注目しておきたいのは、1983年のタミール人迫害の際に難民として欧米豪等に逃れたタミールの人々のことです。シンハラ人も海外に移住していますが、タミール人の数には及びません。タミールの人々はカナダ・オーストラリア・ヨーロッパ諸国で有力な「集団」となっている模様です。それらの人々にとっては、祖国スリランカにタミール人自治区域ができることが夢でした。今回その夢は消え去ってしまいました。スリランカの内戦が収まっても、海外におけるスリランカ政府批判は激しくなるのではないでしょうか。
3.復興に要する資金は?
国際社会はスリランカ政府に対して、インド洋津波の後「内戦解決を条件」に大規模な復興資金援助を約束しました。その中で日本の拠出は最大なのです。今回内戦解決が「政府軍の一方的勝利」に終わったのですが、これを契機にして援助凍結が解除されるのかどうか。26年間の内戦の間に破壊されたインフラ復興のためには多額の資金援助が必要になります。多分内戦終結後のスリランカ政府の姿勢を確かめた上での判断になると思います。その中で日本政府は「復興資金」をちらつかせるだけで、スリランカ政府に強いメッセージを発しませんでした。ここでも日本政府は中途半端な対応に終始しました。
| 2009年05月18日(月) |
プラバカラン氏死亡。 |
BBCページの配信です。
Sri Lankan rebel leader 'killed' The elusive and feared Prabhakaran had led the Tigers since the mid-1970s. The leader of the Tamil Tiger rebels, Velupillai Prabhakaran, is dead, the Sri Lankan military has said.
The broadcast quoted military officials as saying Prabhakaran was killed along with two of his deputies. It said Prabhakaran, his intelligence chief Pottu Amman and Soosai, the head of the rebels' naval wing, were shot dead in an ambush in the Mullivaikal district while trying to escape the war zone in an ambulance.
Earlier, at least three senior rebel leaders were killed, including Prabhakaran's eldest son, Charles Anthony, the military said. State TV broadcast images of what it said was Charles Anthony's body.
Military spokesman Brig Udaya Nanayakkara confirmed Prabhakaran's death, saying 250 Tamil Tigers were also killed overnight.
スリランカでは土曜日の大統領の対テロ(LTTE)戦勝利宣言を受けて、日曜日最後の攻撃が行われたようです。ジャングルに逃げ込んだLTTE軍はサッカー場程度の広さの地域に追い詰められた模様です。当然周囲は「ねずみ」の逃げる余地も無いほどスリランカ政府軍が囲んでいます。LTTEに残された道は最後の抵抗か集団自殺でした。
スリランカ政府の発表では銃撃戦の末にリーダのプラバカラン氏が死亡したということになっています。果たして真実はどうだったのでしょうか。アメリカを含めて国際社会が最後の段階で介入を試みましたが、スリランカ政府は拒否しました。「テロとの戦い」を推し進めるオバマアメリカはテロリストの「命乞い」を強引に推し進めることはできなかった。結果として「LTTE」は「全滅」の道を選びました。但し、「LTTE」は最後の段階に抵抗を中止する旨の宣言を出しています。私には集団自殺であったのではないと思われます。
今日スリランカの知り合いに電話してみました。タミール人の友人は不在でしたが、シンハラ人の友人とは話ができました。彼女とはスリランカテレコムで一緒に苦労した間柄で忌憚無い話ができるのです。彼女は最近北部の難民となった人々向けに支援の輪が広がっていることを教えてくれました。シンハラ・タミールの区別なく、これから戦乱に破壊された祖国再建のために大変な苦労が待っているといった話をしてくれました。国際社会、スリランカの国民が祖国再建のために努力して欲しいと思います。
それと26年間に及んだ「LTTE」の抵抗は何であったのか。これから問われるところです。簡単には整理できないでしょうが、これからの祖国再建には避けて通れない歴史です。不幸な状況が再び発生しないように、スリランカ政府はしっかり考えて欲しいものです。
| 2009年05月16日(土) |
スリランカ内戦激化(19) |
スリランカ大統領の「ラジャパクサ氏」は訪問先のヨルダンから帰国して会見し、反政府ゲリラ組織「LTTE」との戦いに勝利したとの談話を発表したもようです。実際政府軍はインド洋に面する非常に狭い地域にLTTEを追い詰め、近く最終攻撃に着手すると思われます。下はBBCページに掲載された記事です。
The Sri Lankan president has declared a military victory over the Tamil Tigers after 26 years of bloody civil war.
Speaking on a visit to Jordan, Mahinda Rajapakse said he would return home to a nation totally free from the "barbaric acts" of the rebel group.
However, senior officials told the BBC fighting rages on in a tiny area of the north-east where the Tigers' leadership is said to be cornered.
More than 70,000 people have died in the bitter war for a Tamil homeland.
「LTTE」側については、有力幹部の死亡が再三伝えられる中、リーダのプラバカラン氏はまだ指揮を取っている模様で、既に陸・海・空の退路を完全に絶たれた「LTTE」は最後の抵抗と集団自殺を覚悟しているようです。今回のスリランカ北部を戦場とした政府軍の戦いは、一見政府軍の勝利と見えますが話はそれほど単純ではありません。
オランダのスリランカ大使館が海外に逃れた「タミールの人々」によって攻撃されたように、迫害を逃れて海外に渡ったタミール人は沢山います。こうした人々の支援によって祖国スリランカのLTTEは戦いを継続してこれたのでした。更にスリランカ島の東にはインドのタミール・ナド州があり、ここはタミール人の州で「LTTE」に同情している人々は沢山いるのです。
今回26年に及んだスリランカの内戦が「LTTE軍」の悲惨な「全滅」という結果に終わった場合、タミール人の恨みは未来永劫の消えることはないでしょう。アメリカを始めとした国際社会の停戦要請に対して、スリランカ政府が強行な姿勢を崩していません。ここ数日の政府の行動が未来の更なる不幸を生むことにならないよう願っています。
| 2009年05月15日(金) |
訃報:望月日康師死去 |
杉並区の蓮光寺の住職をされていた「望月日康さん」5月9日に死去されました。朝日新聞のWebに「訃報」が掲載されていました。67歳だったそうです。
「望月日康さん」はお父様の望月教栄上人(故人)とともに、1945年8月18日に台湾で起きた飛行機事故で死亡したインド独立の英雄「スバッシュ・チャンドラ・ボース」のものとされる遺骨を保管してきました。毎年8月18日に蓮光寺で開催される「スバッシュ」の法要を主催されてきました。昨年の第64回法要は体調を崩されたということで息子さまが教師を勤められました。「スバッシュ」の遺骨をインド政府が正式に受け取りにきて、遺骨を祖国インドに届けることを目標として遺骨を守ってこられただけに、願いが適わなかったことが残念です。ご冥福を祈りたいと思います。
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