KENの日記
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2008年07月25日(金) スリランカ内戦激化(11)「25年目」

1983年7月24日、スリランカの首都コロンボでタミール人市民に対する暴動が各地で発生しました。これが現在まで続くスリランカの民族紛争の直接の始まりでした。今年ついに25年を迎えてしまいました。スリランカ北部を拠点とするタミール人・海外の住むスリランカタミール人はWeb上で様々な声明を発表しています。スリランカの政府側(シンハラ人側)の新聞報道には殆どこれに関連する記事は載っていません。それどころから丁度同じ時期にコロンボで開催されている南アジア地域協力連合(SAARC)のためにLTTEが休戦提案をしたのですが、攻勢を続け各地の戦線で有利になっている政府側はこれを拒否しました。

25年前のスリランカ南部のタミール人に対する暴行で2000人から3000人のタミール市民が犠牲になりました。そして家を焼かれ財産を失い命からがら北部に逃れたタミール人は100,000人を超えたのでした。その当時撮影された写真がホームページに掲載されていました。

タミールネットの掲載されている記事と写真

この写真のようにスリランカの首都コロンボで少数であったタミール人が狙われ、苛められ、殺されました。弱いもの、少数者が犠牲になりました。ガソリンをかけられて焼かれた、強姦された、略奪されたという報道が多いのです。同じ人間をまるで「虫けら」のように扱う集団心理が人間には備わっているようです。政府も軍も警察も数日間暴動を止めませんでした。むしろ政府サイドには多数派シンハラ人の生活への不満・政府への不満をそらすために意図的に煽った形跡があります。軍も警察もシンハラ人は同じような「集団の狂気」に参加した人達が多かったのだと思います。この犯罪に対して今だに誰も責任をとっていないのです。

やはり人間はキチンと教育され、法律・刑罰というものの枠に嵌らないと凶暴になり、取り返しのつかないことをする動物なのだと思います。1983年のコロンボでは法律・警察制度・刑罰がありませんでした。しかし仏教があったはずです。シンハラ人は敬虔な仏教徒として有名なのですが、その仏教徒がこのような重大な犯罪を犯したのでした。宗教さえ人間の狂気を抑えることはできなかったのです。

実はスリランカ政府は今でも殆ど同じことを毎日繰り返しています。戦闘における死者の数が毎日発表されますが、敵側LTTEの死者数は「戦果」なのです。「戦果」が大きいと民衆(選挙民)が喜ぶ構図がまだ続いているのでしょうか。スリランカの仏教界はどうなっているのでしょうか。



2008年07月22日(火) チャンドラ・ボースの64回忌法要

非常に有難いことで、もったいないことでさえあるのですが、今年も杉並区の蓮光寺様から、チャンドラ・ボースの法要のご案内を頂きました。今年の法要の日程は以下の通りです。

ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース64回忌法要
日時:8月18日 午後1時より
場所:蓮光寺本堂

昨年に引き続きご案内状を頂きました。私は勿論知りませんが、当時を知る人が段々少なくなって故人を偲ぶ法要も段々寂しくなっていくようです。昨年の法要ではインド系の方らしい人達の参拝が増えたように感じました。帰り道で話を聞くとIT関連でインドから日本に来ている方が参拝されたようです。私の友人(ベンガル出身)が今年の春来日した際に、貴重な日程を割いて蓮光寺に参拝しました。これからインドの方の参拝が増えていくでしょうね。

一方で日本国内において「故人」に関すること、日本とインドに関する歴史が風化してしまわないように、キチンと伝承すべきだと思います。

私としては8月18日を「カレーの日」として、祝日にしないまでも「記念日」に決議したらどうかと思います。そしてこの日に限って全国のカレーライスを半額にしたらどうでしょうか。日比谷の松本楼の10円カレーも少し早めてもらって・・・。



2008年07月18日(金) グールドの写真集

カナダに出張して「何か記念になるもの」ということで本屋さんに行って「グールド写真集」を買ってきました。グールドはトロント出身です。出張先はモントリールでしたがカナダには変わりありません。カナダの音楽家というとまず「グレン・グールド」が思い浮かびます。そして孤高な感じがカナダの原野にダブります。この写真集には小さい頃からのグールドの写真がタップリ収められています。




グールドの演奏で何回も聞くのはやはりバッハのゴールドベルク変奏曲ですね。それと他の演奏家とは全く異質な「モーツアルトのピアノソナタ」。こちらは聞いていて疲れてしまうので何曲も続けて聞くことはできません。ところで超絶技巧で知られるアムラン(マーク・アンドレ・アムラン)もカナダ出身でした。彼はモントリオール近郊の生まれだそうです。かわったキャラのピアニストを生む国です。

モントリオールには、モントリオール交響楽団で有名な「Palace Des Arts」があります。実は2008年5月末から6月初めにかけて、ここのオペラハウスで「蝶々婦人」が演じられました。タイトルロールは「大村博美」さん。ポスターでも残っていないかと劇場に行ってみました。残念ながら「大村さん」の痕跡は劇場のパンフレットにしかありませんでした。それがこれ。




モントリオール交響楽団のシェフは「ケント・ナガノ」だったのですね。彼の写真が色々な場所に貼ってありました。大村さんといいナガノといい日系の音楽家と結構関係が深いのですね。



2008年07月16日(水) スリランカ渡航情報

外務省渡航情報

外務省海外渡航情報においてスリランカに関する情報が6月27日から変更されたようです。

●北部州、東部州(国道A4号線以北)、北西部州(ウィルパットゥ国立公園)
    :「渡航の延期をお勧めします。」(継続)

●東部州(国道A4号線以南)、ウーワ州(モネラガラ県)、ヤーラ国立公園
    :「渡航の是非を検討してください。」(継続)

●西部州(コロンボ市、デヒワラ・マウントラビニア市)
    :「渡航の是非を検討してください。」(引き上げ)

●北西部州(ウィルパットゥ国立公園以外の地域)、北中央州、中央州、
  西部州(上記以外の地域)、サバラガムワ州、ウーワ州(バドゥッラ
  県)、南部州(ヤーラ国立公園以外の地域)
    :「十分注意してください。」(継続)

西部州の首都コロンボを含み、爆弾テロのあったデヒワラ、優雅なホテルのある郊外のマウントラビニアにも警戒情報が出されました。スリランカ北部における政府軍の攻勢が続いています。LTTE側には毎日のように戦闘で数十人の死者がでているのですから、消耗戦になってきいます。反政府組織のLTTEにはスリランカ南部におけるテロ活動で政府を揺さぶる作戦しか残っていないのです。



因みに外務省発表の情報は以下の区分になっています。
(外務省ホームページから」)

「十分注意してください。」
その国・地域への渡航、滞在に当たって特別な注意が必要であることを示し、危険を避けていただくよう、おすすめするものです。

「渡航の是非を検討してください。」
その国・地域への渡航に関し、渡航の是非を含めた検討を真剣に行っていただき、渡航される場合には、十分な安全措置を講じることをおすすめするものです。

「渡航の延期をお勧めします。」
その国・地域への渡航は、どのような目的であれ延期されるようおすすめするものです。また、場合によっては、現地に滞在している日本人の方々に対して退避の可能性の検討や準備を促すメッセージを含むことがあります。

「退避を勧告します。渡航は延期してください。」
その国・地域に滞在している全ての日本人の方々に対して、滞在地から、安全な国・地域への退避(日本への帰国も含む)を勧告するものです。この状況では、当然のことながら新たな渡航は延期することが望まれます。



2008年07月13日(日) チリワイン「Morande」




会社の同僚の結婚式の引き出物として頂いたチリワインの「Morande」です。グラン・レゼルヴということで期待して飲んだのですが、期待通りの美味しさでした。葡萄は「カベルネソービニオン」。判ってないで言うのもなんですが、ボルドーの「サンジュリアン」的な女性的な味がしました。といっても私が知っているいると言えばタルボとかラスカーズ程度ですが。

ワイナリーのホームページ

このワイナリーはチリ中部山岳部に複数の畑を持っているようです。1996年に作られた若いワイナリーのようです。葡萄の種類も豊富です。やはり少し高級なワインでは「カベルネソーヴィニオン」種が美味しさを引き立てる感じがします。逆に廉価なワインだと、シラー、メルローなどの個性の強い葡萄が美味しいようです。ワインラベルに「Maipo Velly」の表示がありますが、ここの葡萄畑は小石を含む土壌で水はけがよく「カベルネソーヴィニオン」の産地として有名なようです。



2008年07月12日(土) 将門ゆかりの坂東市




坂東市の図書館・音楽ホールが入っている「ベルフォーレ」の正面にある「平将門」騎馬像。広場で自転車に乗って遊んでいた小学生くらいの子供達に「誰か知っている?」と聞くと、「知らない」と言う返事。別の子供は「徳川家康?」という答えが返ってきました。小さい子供には知られていないのですね。




坂東市郊外の延命院にある「平将門の胴塚」。

今日は真夏のような天気で「暑すぎるかな」とも思ったのですが、思い切って妻をさそって平将門ゆかりの茨城県坂東市へ行ってきました。坂東市は平成17年3月に旧岩井市と旧猿島町が合併してできた新しい市です。茨城県の地図がないので千葉県の道路地図、インターネットで検索した坂東市の観光案内地図をたよりに行ってきました。

外環状線、常磐道を経由して谷和原インターで高速道路を降り、水海道市を抜けて坂東市に入りました。まず今回の訪問の「延命院」の「平将門の胴塚」を訪れました。東京千代田区大手町にある「首塚」とは約50Km離れています。将門の胴塚自体が「神田山(かだやま)」と呼ばれいて、このあたりの地区は神田山と言いますが、将門を祭っている神田明神と関係があるのです。

将門胴塚のある延命院には広い境内と大きな木が沢山ありました。今日は真夏のような日差しでしたが、「鶯」が見事な声を聞かせてくれました。色々な鳥の声に包まれている延命院付近は本当に長閑です。少し起伏のある大地になっているので、どこか奈良の飛鳥地方に似ているところがありますね。

全く人影のない「延命院」で十分写真を撮った後、坂東市街を抜けて国王神社とか将門の屋敷跡(島広山)に行きました。坂東市のメインストリートの国道354号線は市内中心部で電柱が撤去され本当に綺麗な町並みとなっています。但し、直角に交差していない道が多いので、目的地に辿り着くまでが大変でした。有名な名所・旧跡はもう少し案内表示を増やしてもいいのではないでしょうか。国王神社は非常に立派な屋根を持つ寺院でした。人が居ないのですが、奥まで灯明が焚かれていて、将門に対するこの地域の人達の思いが伝わりました。「石井の館跡」は民家の畑の中にポツンとある遺跡ですが、よく整備されています。ここが嘗て短い間でしたが関東を治めた中心地であったと思うと不思議な感動を覚えました。

この他にも将門関連の遺跡・ゆかりの場所が沢山ある坂東市は非常にユニークな地域だと思いました。



2008年07月04日(金) 変貌する武蔵浦和駅付近







上の写真が今日撮影した武蔵浦和駅付近の写真です。駅の南西側の区画で高層マンションを建設中です。私の通勤経路でもある場所です。写真の左側は建設中のマンション(プラウドタワー)・ショッピングセンタ・駐車場です。道の右側のマンション(ラムザ)は随分前に建てられたものです。下の写真は2年前の1月に同じ場所で撮影した写真です。風景が随分変化しました。

上の写真の左右のマンションは道を隔てていますが、それぞれ2階に歩行者用デッキがあります。右のマンションのデッキはそのまま武蔵浦和駅の改札口の直結しているのでとても便利です。実は前から気になっていたのですが、左の建設中のマンションの2階のデッキも右のマンションのデッキに接続することになりそうです。工事のために警備をしている警備員に聞いてみたら、接続工事が始まったとのことでした。

この歩行者用デッキが「公道」の上で繋がるなんてどこにも記載されていません。マンションの案内広告にも書いてありませんでした。でも繋がれば便利だろうなと思っていました。警備員さんの話では「両方のマンションのオーナが同じなので繋げるのでしょう」と言っていました。

このデッキが繋がれば新しくできる左のマンションは格段に便利になって「マンション価値」があがるのでしょうね。オーナにとっては資産価値を高める重要な工事でしょう。古くからある右のマンションの住民は「日当たりが悪くなる」等といって建設に反対していたこともありました。



2008年06月30日(月) 「B-C Pact」

スリランカの民族紛争の歴史を辿っているのですが、非常に重要な事項を調べたので記録しておきます。それは「Bandaranaike - Chelvanayagam Pact(1957)」というもので当時のスリランカの首相バンダラナイケとタミール人政党党首の「チャルバナヤガン」の間で締結された「民族紛争」を解決しようとする意思に基づいた協定です。 この協定は1957年7月26日に締結されました。しかしこの協定は翌年の1958年4月9日に一方的に破棄されます。以下のこの協定の内容と破棄にいたる過程を記しておきます。

「Bandaranaike - Chelvanayagam Pact(1957)」

PartA(抜粋)

After discussion, it was agreed that the proposed legislation should contain recognition of Tamil as the language of a national minority of Ceylon, and that the four points mentioned by the Prime Minister should include provision that, without infringing on the position of the Official language as such, the language of the administration of the Northern and Eastern Provinces be Tamil, and that any necessary provision be made for the non-Tamil speaking minorities in the Northern and Eastern Provinces.

東部・北部では「タミール語」を公用語として認める方向。


Part B

1. Regional areas to be defined in the Bill itself by embodying them in a schedule thereto.

2. That the Northern Province is to form one regional area whilst the Eastern Province is to be divided into two or more regional areas.

3. Provision is to be made in the Bill to enable two or more regions to amalgamate even beyond provincial limit; and for one region to divide itself subject to ratification by Parliament. Further provision is to be made in the Bill for two or more regions to collaborate for specific purposes of common interests.

4. Provision is to be made for direct election of regional councillors. Provision is to be made for a delimitation commission or commissions for carving out electorates. The question of M.P.s representing districts falling within regional areas to be eligible to function as chairmen is to be considered. The question of Government Agents being regional commissioners is to be considered. The question of supervisory functions over larger towns, strategic towns and municipalities is to be looked into.

5. Parliament is to delegate powers and to specify them in the Act. It was agreed that regional councils should have powers over specified subjects including agriculture, co-operatives, lands and land development, colonization, education, health, industries and fisheries, housing and social services, electricity, water schemes and roads. Requisite definition of powers will be made in the Bill.

6. It was agreed that in the matter of colonization schemes the powers of the regional councils shall include the power to select allottees to whom lands within their area of authority shall be alienated and also power to select personnel to be employed for work on such schemes. The position regarding the area at present administered by the Gal Oya Board in this matter requires consideration.

7. The powers in regard to the regional council vested in the Minister of Local Government in the draft Bill to be revised with a view to vesting control in Parliament wherever necessary.

8. The Central Government will provide block grants to the regional councils. The principles on which the grants will be computed will be gone into. The regional councils shall have powers of taxation and borrowing.

北部・東部地域においてのある程度のタミール人自治を認める。当該地域における直接選挙による首長の選出、あるいは選挙で選ばれた首長等への中央政府からの権限委譲の保障などを規定するものであった。

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協定破棄の顛末は以下のようです。

On the morning of April 9 (1958) a police message reached Mr Bandaranaike warning him that about 200 bhikkus or monks and 300 others were setting out on a visitation to the Prime Minister's residence in Rosmead Place to demand the abrogation of the Pact. They would arrive at 9 a.m.

The Prime Minister left the house early that morning to attend to some very important work in his office. The bhikkus came, the crowds gathered, the gates of the Bandaranaike Walawwa were closed against them and armed police were hurriedly summoned to throw a barbed-wire cordon to keep the uninvited guests out. The bhikkus decided to bivouac on the street. Pedlars, cool-drink carts, betel sellers and even bangle merchants pitched their stalls hard by. Dhana was brought to the bhikkus at the appointed hour for food.

In the meantime, the Prime Minister was fighting off the opposition to the Pact among his own party colleagues with desperate fury.

At 4.15 p.m. the B-C Pact was torn into pathetic shreds by its principal author who now claimed that its implementation had been rendered impossible by the activities of the Federalists.

The Prime Minister had gone home that afternoon accompanied by half a dozen Ministers who stood on the leeward side of the barbed-wire barricade while Mr. Bandaranaike listened to the shrill denunciations of the monks. The Minister of Health sat on the Street facing the monks and preached a sermon, promising them redress if they would only be patient. The Prime Minister consulted his colleagues. The monks had won. The Magic Pact was no more.

But the monks insisted on getting this promise in writing. The Prime Minister went into the house and the Health Minister, hardly able to suppress the look of relief on her face, brought the written pledge out to the monks.

Yet another victory for Direct Action had been chalked up."

1958年4月9日午前9時200人の仏教僧を含む500人の民衆が協定破棄を求めて首相府に押し寄せた。この民衆の反対だけでなく、与党内からも協定破棄を求める声が大きく首相は苦しい立場に置かれていた。首相は盟友達からの反対、仏教層からの反対に抗しきれず、前年締結した協定を破棄せざるを得なくなってしまった。

因みに「バンダラナイケ首相」はもともとはキリスト教徒の家庭に生まれているが後年仏教徒に宗旨変えを行っている。バンダラナイケ首相は仏教の教えに基づき「タミール人勢力」との融和を進めたのであるが、皮肉にも仏教徒の反対によってその協定を破棄することになってしまった。

バンダラナイケ首相はその後1959年に過激派仏教党の手により暗殺されることとなる。享年60歳。このバンダラナイケ首相の長女が前スリランカ大統領の「チャンドリカ」である。



2008年06月22日(日) アメリカでの荷物検査







アメリカ出張の帰り、成田の手荷物受け取りで出てきた荷物を見ると、私の鍵が付いていなくプラスチックの止め具で固定してありました。「鍵」をかけ忘れたので空港職員が気を使って封印してくれたのかな・・・等と暢気な想像をしたところ、実際には空港職員が鍵を壊して中身を検査をしたのでした。

帰りの旅では、ラスベガスで手荷物を預け他荷物はそのままロスアンジェルスでは自動的に成田行きの飛行機に載せ換えるので、ラスベガスでの検査で十分なはずなのにどこかで再チェックしたのでしょう。壊された「鍵」は丁寧に上の通知書を添付されてバックの中に入れられていました。これがバックとは別な「鍵」だったからよかったものの、バックに内蔵された鍵ならバックが壊されてしまいますね。

手荷物の中身はかなり制約されるので(液体とか)、チェックインするバックにできるだけ詰めていくのですが、チェックバックもこのようにチェックされるとは知りませんでした。それとアメリカの手荷物検査では「靴」まで脱がされるので「靴下」が汚れます。安全対策なので仕方ないことなのでしょうが。



2008年06月21日(土) 海外出張の感想

土曜日の夕方海外出張から帰国しました。久し振りのアメリカだったので幾つか感想を記しておきます。

1.さすがにエコノミークラスの出張は辛いです。会社の方針で親会社の役員でなければエコノミークラス以上の旅行を許可していません。この原則にたって今回はエコノミークラスを取りました。やはりシートの広さ・背もたれの倒れ方が全く違うので旅の疲れが格段に違います。日本からのアジア便のように数時間の旅なら我慢できますが、10時間を越すフライトだと身体にこたえますね。更にインターネットが使えるラウンジも便利です。移動する前にメールのチャックをしておくと安心できます。

2.そのインターネットですが、空港もホテルもあまり便利ではありません。更に「フォン」など全く使えないのでが現実ですね。空港は成田でもシカゴのオヘアでも料金が高くて使う気になりません。モントリールで泊まったホテルはロビーに無料無線アクセスがあって重宝しました。部屋での有線インターネットは安くはありませんでした。インターネット環境はない場合に携帯によるメールが必要になりますね。

3.携帯電話は便利でした。アメリカでもカナダでも現地に着くと日本端末がそのまま使えました。3Gなのか2Gなのか確かではありません。少なくとも2GGSMと3Gを備えた端末ならばOKでしょう。問題はバッテリーチャージャーです。同僚がチャージャごと荷物を盗まれてしまい携帯の充電に苦労していました。モントリールのモールの携帯電話屋数件覗くましたが、ドコモの特殊なコネクターに対応するものは置いてありませんでした。モントリオールの飛行場に有料充電コーナがありましたが、対応するコネクターはありませんでした。ここれは改善する必要がありますね。

3.アジア料理のレストランは確実に増えています。東京と同じでアジア料理のレストランを探すのに苦労は必要ありませんでした。アジアの人々がどんどん北米に進出しそうした人々がアジア料理店を始めるのでしょうね。日本の「寿司」も含めて選択枝が非常に増えている感じでした。




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