KENの日記
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2007年09月07日(金) パバロッティが亡くなりました。

テノール歌手のルチアーノ・パバロッティが膵臓癌で亡くなったそうです。パバロッティを聞き始めたのは「3テナーズ」からです。ドミンゴ、カレーラスとの「3テナーズ」の何回かのコンサートはオペラファンを随分増やしたのだと思います。私もそのひとり。とにかくオペラの美味しいところだけを、それこそ現代最高のテノール歌手が歌ってくれるのですから人気がでるはずです。3人の中でもパバロッティの歌にファンは注目していました。但し好調・不調の波が大きく、マイクの使い方も上手くないので、高額な入場料に対して不満が残る公演もありました。

パバロッティの声は素晴らしい「高音」にありますが、私は低音から高音へのスムーズな発声法、ピアノからフォルテへのスムーズな変化が他に類を見ないと思います。とにかく「エンジンの排気量の違い」を感じます。国産大衆車が高速道路を時速100Kmで走っているときに、外国の高級車が後ろから軽々と抜いていく感じですね。ギアの変化だとか回転数の変化を感じません。低い回転数から高速回転まで一気にしかもスムーズに上り詰めるのです。歌い回しも素晴らしいです。歌そのものだけを聞いていると本当ににくい程上手い。しかし体格が体格なだけに視覚的には辛いものがありました。飛行機の移動も大変だったと思います。あの体格で世界中飛び回ることは苦痛だったでしょう。

残されたのテノール会には「ドミンゴ」が大御所として残りました。声・容姿・才能に恵まれたドミンゴは最近は指揮もするので、まだまだ現役で活躍できます。テノール会の新人では「ロランド・ビラゾン」が飛びぬけていると思います。テノールのビラゾン、バリトンのホロストフスキーが共にソプラノのネトレプコと絡んでいます。



2007年09月02日(日) 「アレキサンドラ」という映画

ガリーナ・ヴィシネフスカヤの関するページ

「ガリーナ・ヴィシネフスカヤ」に関するホームページの記事を書いているのですが、インターネットで調べている中で、彼女が昨年映画に主演していたことを知りました。今年のカンヌ映画祭に出品されたロシア・フランス合作映画の「アレキサンドラ」という映画です。

チェチェンに駐屯する軍隊の孫に合うために老婆がチェチェンを訪問するストーリーのようです。監督は「ソクーロフ」。ロストロポーヴィッチとガリーナのドキュメンタリー映画を撮った監督です。ソクーロフの次の作品がガリーナを主演に迎えた「アレキサンドラ」なのです。

このドキュメンタリー「Elegy of Life」(ドキュメンタリの本当のタイトルです。「人生の祭典」とは少しニュアンスが違いますね) の中でソクーロフがガリーナにインタビューするシーンがありましたが、ここが非常に印象的でした。ロストロポーヴィッチとの話では、ベートーベンとかプロコフィエフとかブリテン、ショスターコーヴィッチなどの音楽家・音楽に関することばかりなのでした。ところがガリーナへのインタビューの最初は「最初の息子のことを憶えていますか」というものだったのです。

ガリーナは下積み時代18歳で長男を生みました。もちろんロストロポーヴィッチと結婚するずっと前のことです。レニングラード封鎖の最中でその子供は幼くして亡くなってしまったのです。ガリーナとのインタビューはそんな悲しい話ばかりなのです。私の想像ですが、このインタビューをきっかけにして、ソクーロフはガリーナの映画を撮る気になったのだと思います。ソクーロフはガリーナのために「アレクサンドラ」の脚本を書いたと言っています。是非見てみたいと思います。

あらためてドキュメンタリーの解説本を読んでみて思い出したのですが、ロストロポーヴィッチはロシアの偉大さを「長さ、雄大さ、無限」と表現しています。ガリーナは同じような意味でしょうが「すべてが過剰」と言っています。日本語がそうなっているだけでロシア語の意味がそうなのか不明ですが。とにかく「ロシアの魂」というものに非常に興味をひかれるこの頃です。



2007年09月01日(土) アカデミアミュージック

現在の勤務先は地下鉄有楽町線の「後楽園」です。実は輸入楽譜専門店の「アカデミアミュージック」が近くにあるのです。昔のアカデミアは「本郷三丁目」と「お茶の水」の中間ほどの場所にありました。ところが数年前に引越して、本郷三丁目と後楽園の中間に来たのでした。春日からは真砂坂を上って直ぐのところです。

今日会社の帰りに寄って見ました。現在探しているのは「シューベルトのピアノソナタD960」。別に弾けるわけではないのですが楽譜を見ながら演奏を聴いて見たいのです。既に池袋のヤマハは既にチェックしたのですが高い楽譜しかありませんでした。見るだけなので安い楽譜で十分なのです。できれば「ドーバー」版の「ベートーベンピアノソナタ全集」みたいなものがあれば最高と思っているのです。しかしその種の安い楽譜はありませんでした。どうしようか悩んでいます。



2007年08月28日(火) 久しぶりの大阪

本当に久しぶりに大阪に行って来ました。新幹線の「のぞみ」に乗るのは初めてでした。大阪・東京を2時間30分で走ってしまうのですから相当早いですね。外の景色をゆっくり眺めるというわけには行きません。車体の振動などは飛行機に近づいている感じです。今日は「のぞみ」の自由席に乗ったのですが昔「のぞみ」には自由席がなかったのですね。「ひかり」「こだま」の自由席料金と同じ料金で「のぞみ」に乗れるのは割安感がありますね。

新大阪から御堂筋線で難波に行き、難波で最初の用件を済ませて千日前線で「阿波座」に行き二つ目の用件を済ませんました。難波では高島屋の南の難波パークスまで行きました。ここは確か大阪球場があったところです。1990年頃大阪に住んでいましたが、その頃は阪神高速の環状線を走ると大阪球場が見えたものです。今は大きな商業施設になっていました。阿波座から地下鉄中央線で「本町」に行き新大阪に帰ってきたのですが、本町駅は昔の通りで懐かしかったです。御堂筋線本町駅は天井が高くて洒落ていると思っていました。やはりその通りでした。

久しぶりの大阪のエスカレータでやはり奇異に思ったのは、エスカレータを歩く人は左側を歩き、歩かない人達は右側に寄っていることです。東京と正反対。これって何か意味があるのでしょうか。エスカレータの左側に寄って歩かない人は大阪の新参者ですね。駅の乗降は「マナー」が良くなっている感じがしました。これって夏休みだからかもしれません。



2007年08月26日(日) 近所の田では稲刈り

今日近所の田圃で稲刈りをしていました。夫婦二人で作業をしていました。旦那さんの方が稲刈り機を運転し、奥さんが機械で刈れない隅っこの方の稲を手で買っていました。「大変ですね」と声をかけて見ると、昨年より一週間程早い稲刈りだという話をしてくれました。一日で1500坪位を刈ってしまうのだそうです。機械の力は凄いです。



2007年08月19日(日) 出羽桜(DEWA33)




出羽桜の「出羽」の純米吟醸です。「出羽燦々」は山形県農業試験場が10年以上の歳月をかけて開発した「酒米」だそうです。この米を使って醸造した酒には右上のマークが付いています。
出羽燦々のホームページ
この出羽桜の「出羽燦々純米吟醸」は、出羽燦々100%で精米割合50%です。麹菌は「オリーゼ山形」酵母は「山形酵母」で山形の知恵と努力の結晶でできたような酒です。味はとてもフルーティです。「美山錦」を使った「出羽桜桜花」より華やかで若々しい感じがします。ボリューム感もかなりあります。



2007年08月18日(土) チャンドラ・ボースの63回忌

今日8月18日はスバッシュ・チャンドラ・ボースが飛行機事故で亡くなった日です。それは1945年の太平洋戦争終戦直後でした。62年後の今日杉並区東高円寺の「蓮光寺」では63回忌の法要が営まれました。妻といっしょに法要に参列してきました。望月副住職が導師を務められました。昨年は住職のお父さんとお二人で読経されましたが、今年はお父さんの具合が良くないようでお一人で勤められました。世代交代がここでも進んでいます。

読経のあと副住職さんがお父様からのメッセージを読み上げられました。内容は概ね以下のとおりでした。

○ボースの遺骨はインド政府から父(副住職のお爺さん)に託されたものである。
○父はその責任を重く考えていて、夜寝るときに遺骨を抱いて寝たこともあった。
○最近民間団体の活動でボースの遺骨をインドに返そうとする動きがあるが、そういう考えに組することは考えていない。
○インド政府からの正式な話が来るまで大切にお預かりしたい。

これは昨年インド政府に提出された「ボース調査団」の報告が基本的に「蓮光寺の遺骨は偽物」と報告していること、またインド政府はこの報告書を採用しなかったものの「遺骨が本物である」とも決めていないことを念頭に置いたものと思われます。今後も暫くこのような法要が続くものと思われます。

法要参列者の数は昨年より減っている感じがしました。法要の最後の方になってインド人の家族がどやどやとやってきたことが印象的でした。法要が終わった後、蓮光寺の1階の広間に場所を移して茶話会があり私達も参加させていただきました。私達の向かいに座られていた方は「吉野(旧姓)」さんという方で、お父様はインバール作戦を指導した「牟田口中将」の通訳をされていた方だそうです。インバール作戦は旧日本軍とチャンドラ・ボース率いる「自由インド軍」の共同作戦であったので、吉野さんのお父さんは牟田口中将とボースの通訳を何度もしたのだと思います。吉野さんはその風貌と語り口からとても優しそうな方で、お父さんの思い出でを綴った著書を持参されていたのですが、見ず知らずの私が頂戴してしまいました。ありがとうございました。

太平洋戦争中インドシナ半島に展開した日本軍は反英組織と積極的に手を組みました。さらに特殊工作部隊を組織してそうした民族独立運動を扇動もしたのでした。その対象となったのがボース率いる「自由インド軍」でありマレーのハリマオであったのです。しかしインド人やマレー人の中には日本軍の目的が民族解放ではなく、イギリスに代って宗主国になろうとしているのだと考えている人達もいて一枚岩ではなかったのです。チャンドラ・ボースはそんな中で日本軍と一体となって反英戦争を指導したのでした。従ってボースの行動についてインドで評価が固まっているとは言い難い状況にあります。当時インドではガンジーが独立運動の指導者でした。ガンジーは侵略戦争を仕掛けた独・日・伊と戦うことを選択し、インドの独立運動をひとまず中断し、宗主国のイギリス軍側に立って戦ったのでした。

チャンドラ・ボースが日本軍と共に戦ったインバール作戦は自由インド軍にとっては「祖国」に近づきつつある行軍ですが、日本軍にしてみれば祖国からどんどん離れていく熱帯ジャングルの行軍なのです。日本軍と自由インド軍の考え方の相違があったのは当然だと思います。インバールを目前にして疲弊した日本軍は撤退するのですが、その際にまだ意気軒昂なボースを説得するのは大変な仕事であったことでしょう。

蓮光寺様の法要のあとの茶話会には色々な方々が参加されていました。ボースと行動を共にしていたというご老人もいらっしゃいました。昨年チャンドラ・ボース・アカデミーを主宰し毎年の追善法要を組織されてこられた「林」様が亡くなられ、当時を実際に知る人が少しずつ減ってきていることは非常に残念です。「林」さんを失って「ボースの遺骨」をめぐる運動も求心力を失い、あらぬ方向に行ってしまうことが危惧されます。そんな中若い副住職様がお父さんのメッセージを決然として読み上げられたことが印象的でした。茶話会に参加された帝京大学の中村さんという方から、ボースの飛行機事故に関する論文の写しを頂きました。



2007年08月17日(金) うなぎの「萬店」

今日久しぶりに息子と娘が揃ったので、妻と母と一緒に「うなぎ」を食べに行きました。息子は会社の寮に入っていて今週夏休み。娘は新宿でのバイトの谷間でした。行ったのは中浦和駅の直ぐ傍の「萬店(まんだな)」です。ここは別所沼からも直ぐで昔から川魚料理が有名だという店です。さすがに美味しいですが値段もかなり高級です。ここのうなぎは「庶民の味」という訳には行きませんね。

萬店のホームページ

萬店さんのパンフレットによると、創業者の「萬蔵さん」が明治19年(1886年)の現在の場所で川魚料理を街道往来の人々に供したことが始まりのようです。萬店さんの東側は直ぐに「別所沼」ですし、裏側には少し大きな小川が流れています。従って川魚は豊富に取れたところのようです。別所沼では今でも多くの「つり人」がイトを垂れています。時々ですが大きな鯉が吊り上げられています。

それと萬店さんの南側の道は、中仙道浦和宿から真っ直ぐ西に伸びる道ですし、萬店さんの直ぐ東側は古い街道のような道が走っています。昔は非常に往来の激しい交差点であったようです。



2007年08月16日(木) 信州上田

今日帰省先の長野県須坂から帰ってきたのですが、せっかく近くまで行ったので上田によってきました。私達の家族は約12年前に上田市に住んでいました。上田市は真田家で有名ですが、今NHKの大河ドラマでやっている武田信玄と村上義清の戦いでも有名です。その決戦は「上田原」という千曲川の西側の平地で行われたのでした。そこは私達が住んでいた借上げ社宅から目と鼻のさきであったのです。

今日はまず高速道路で上田インターを下りて上田原の古戦場に向かいました。古戦場一帯は公園として整備されています。今は立派な野球場があります。野球場の直ぐ横に「観音寺」という寺があり、そこには村上軍の将の雨宮刑部の他多数の討ち死にした人々の墓があります。その観音寺から北に数百メートルいった畑の中に「板垣信方」の墓がポツンとありました。「風林火山」では千葉真一の熱演で主役を食っている感じですが、ドラマの討ち死にシーンもすごかったです。その場所に立っている墓です。今は夏ですが実際の合戦は2月であったので雪の舞う寒い季節であったのでした。下がその祠の入り口の写真です。



その後上田に来たついでに「無言館」を見てきました。「無言館」は窪島誠一郎氏が館長を務める戦没画学生の作品と遺品を展示した記念館です。館内一杯に数少ない画学生の作品が飾られていました。戦死した画学生の中には戦地などで病死した人達も多くいたようです。体力のある画学生など珍しいはずで殆どの学生は痩せていて病弱な体質であったでしょう。当時はそういう人達まで戦争に借り出したのです。画学生から「芸術」の才能を奪ったら何も残らないので戦力にはならなかったと思います。

「無言館」近辺には鎌倉時代の寺が残っています。千曲川の東側の台地には「信濃国府」の後があり現在は「八日堂」として親しまれています。「無言館」から直ぐ近くに「鎌倉道」の案内図を見つけました。ここから北は長野の善光寺に繋がっていて、南は川越を抜けて鎌倉に繋がっていたのだと思います。



上田から東御市(東部町と北御牧村が合併してできた市)、小諸市を抜け咲くインターから関越自動車にのりました。佐久インター直前の名物「おぎのや」で昼飯を食べました。



2007年08月15日(水) 浦野りせ子さんの歌

長野県須坂の田舎に帰っています。今日は市内のホールでコンサートがあり、母の女学校時代の友人の「浦野りせ子」さんが歌を歌うというので行ってきました。場所は須坂のメセナホールという場所。中庭の天井がない場所で浦野さん本人は響かないといって不満そうでしたが、腹から出している声は物すごい迫力でした。母と同じ83歳ですが声は殆ど衰えていません。

浦野さんは戦前に須坂市の女学校を卒業し東京藝術大学の声楽科を経てイタリアに留学したのだそうです。母は浦野さんの留学の際同窓生の一人として支援したのだそうです。母は「蝶々婦人」の「鈴木」の役が有名だと言っています。確か実家に「鈴木」を演ずる浦野さんの写真があったはず。そんな話を聞いていたので浦野さんの歌を聴いてみたかったのです。東京では何度か演奏会の情報を把握していましたが、結局今日まで聞くことは出来ませんでした。

今日は露天の会場でピアノ伴奏もない舞台で日本歌曲3曲歌われました。「からたちの花」「ふるさと」「お菓子の好きなパリ娘」でした。伴奏がなくて音程が危ないところもありましたが声はさすがです。ものすごく通る声です。演奏の後母と一緒に舞台の袖に浦野さんに会いに行きました。約60年振りの再会ですが、浦野さんは母を直ぐに思い出しました。二人には昔の思い出が去来したことでしょう。

因みに浦野さんの実家は帰省したときに「久保田」を買う浦野酒店なのです。そちらでは随分前からお世話になっていました。




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