先週土曜日の日記(下)に江戸時代の地図の話があるのですが、ヤフーの地図ですごいものがあるのですね。下のアドレスです。
スクロール古地図
東京の都心部だけすが、江戸時代、明治時代、現代、航空写真を見ることができます。この3つの図柄が同じ縮尺に合わせられていて、相互に変換することがでるので「この場所は昔何があった?」という疑問に答えられるのです。で何に使えるのか分からないですが、とにかく非常に興味深いですね。

この地図は帝国ホテルの北側の道にあります。江戸時代最後の頃の内幸町近辺がどうなっていたか知ることができます。私の職場である日比谷電電ビルはかつて島津斉彬候の屋敷であったのでした。当時は内幸町から日比谷公園あたりは大名屋敷が集中していたのでした。
明治になって参勤交代がなくなったため大名(特に外様)が国に帰ったため、このあたりは広い空き地になってしまったようです。日比谷公園あたりに陸軍練兵城が作られました。現在の帝国ホテルからみずほ銀行あたりまでの地域は、阿部守正奥州白川藩邸と島津家のい屋敷でした。そして山手線・京浜東北線の線路は「堀」で第一ホテルのあたりに「幸橋」が架かっていました。幸橋より内側なので「内幸町」となったようです。島津家藩邸の北の部分に1883年に鹿鳴館が建てられ、1890年その北側に帝国ホテルが建設されたとのことです。
また江戸時代初期においては、現在の日比谷公園は勿論南は浜松町から北は大手町あたりまで「日比谷入江」があったそうです。この日比谷入江の西側の淵に沿った通りが「日比谷」通りであるようです。日比谷公園の北側、桜田門から西に伸びる堀が「日比谷掘り」です。
| 2007年03月09日(金) |
スリランカ内戦の情勢 |
一昨日水曜日頃からスリランカ政府がスリランカ東部で新たの攻勢にでました。重火器の支援を受けた陸上部隊(数千人規模)が反政府組織LTTEの基地を攻撃し始めたのです。これが内戦の新たなページの幕開けにならなければ良いのですが。
2月23日は2003年の同じ日にスリランカ政府とLTTEの間で和平協定が結ばれてから5周年目でした。制度上というか法律上というかは別に形だけの和平協定は今も生きているのです。しかしスリランカにおいては今年だけでも数千人の命が奪われています。和平協定は名ばかりの状態なのです。
与党党首のラジャパクサ大統領には非常に多くの権力が集中しています。今大統領は財務大臣と国防大臣を兼任しているのです。大統領は軍事予算を思う存分使えるのです。今年1月末に野党から20名以上が大統領派に寝返ったので大統領の与党は議会で単独過半数を獲得しました。
与党が単独過半数を取ったので紛争解決の政治決断ができるかもしれないという楽観的な予想はありました。LTTEに自治権を与えようという提案はスリランカの右派勢力からは大反対されるからです。しかし現時点の状況からすると大統領は平和的に紛争を解決するのではなく武力で紛争を解決しようとしているとしか思えません。非常に危険な状況なのです。
反政府組織のLTTEは今回の政府の攻撃に対して「スリランカ全土で不幸な流血事件が起こることになるだろう」と警告を発しました。暫く予断を許さない状況が続くでしょう。
2月の中旬頃の事ですが外国人の方と午後からずっと話す機会がありました。そして夕御飯もご一緒して、かなりアルコールも飲みました。日本人の方も何人かいましたが、基本的には共通言語は英語なのでずっと英語で通しました。何時もはアルコールが入ると「ヒアリング」能力が極端に落ちるのですが、頑張って聞こうとしたのが良かったのか、最後まで意思疎通はできていました。(アルコールが入ると日本語でも意思疎通が困難になる場合がありますが。)
懇親会を終え、良い気分になって通勤経路の有楽町から山手線に乗ってから非常に奇妙な体験をしました。周りの乗客の人達の会話が全く聞き取れないのです。まず近くで若い女性客が少し大きな声で話しをしていたのですが、全く何を話しているのか分からないのです。最初は韓国か中国の女性が東京に観光に来ているのか、あるいは働いているのかなと思いました。中国語か韓国語を話しているのかなと聞き耳を立てましたが分かりません。顔は日本人そっくりなので、東アジアの人には違いないはずだと、酔っ払った頭で不思議に思っていました。
暫くしてから。彼女等が話している言葉が日本語であることに気付きました。彼女達はきちんと日本語を話しているのです。日本語なのだと思って聞いてみると意味が取れました。不思議なので「英語かな・・・」と思って聞いてみると、次第に意味が取れなくなっていきました。酔っ払っているので頭の回転がおかしかったのか知れませんが、非常に不思議な感覚でした。
多分「英語を聞こう」とすると、頭の中で「よく使われるフレーズ」などを期待するのだと思います。それに単語の順番なども「英語」の順番で聞こうとするのだと思います。また「音」なども日本語の音ではなく、英語風の音を期待しているのだと思います。このスイッチが酔いによって故障していたのだと思います。でも下手でも良いですが、そういうスイッチらしきものができてきたのは嬉しいことです。
先週末から鼻水タラタラ、目がショボショボです。花粉の季節がついにやってきました。これから春の連休あたりまで、この「花粉」に悩まされます。ティシュペーパの消費量が急激に増えます。
今日は午前中近くのプールで泳ぎ、午後から池袋のHMVにCDを買いにいってきました。ホロストフスキーのCDが欲しかったのです。有楽町のHMVはクラシックコーナーが小さいので、彼のCDは置いていなかったのです。今日池袋HMVで買ったのは「ヴェルディのアリア集」。早速家に帰って聞いてみたのですが、予想通り素晴らしい声です。若手No1でしょう。
ホロスロフスキーはシベリアの「クラスノヤルスク」の出身です。地図で捜してみたら、カスピ海よりずっと東の町です。とても寒そうな感じですね。彼は精悍な顔つき、がっしりした体格、その美しい銀髪の髪から「シベリアン・タイガー」と渾名されています。その容姿でこの声ですから、女性ファンが多いはずです。
それにしてもロシアの歌手はすごいです。今や世界の主要なオペラハウスでロシア出身の歌手が活躍しています。キーロフを中心に海外に歌手を送り出しているのです。ロシアから暫く目が離せません。

大手町を少し歩く機会がありビルの谷間に「将門の首塚」を見つけました。場所は三井物産ビルの隣、三菱UFJ銀行の向かいです。小さな公園のようになっています。大手町では日比谷通りより西側にしか用事がないので東側には行かないのですが、今日は国際協力銀行に用があったので初めて大手町から内堀通り方面に歩いていき偶然見つけたのでした。
何故こんな所にこんな「塚」があるのか疑問に思ったので寄ってみました。平将門は関東の出身ですが確か茨城県あたりで活躍していたはずなので、皇居の大手門に程近い場所になぜ「首塚」があるのか全く理由が分かりません。看板の解説は以下の通りでした。(将門塚保存会の解説)
今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱(940年)という。 将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ち、この場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。 その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治二年(1302年)時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てゝ日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
京都の獄門に晒された「将門の首」が東の飛び去り、現在の東京大手町のこの地に落ちた。その後将門の怨霊の祟りがあった。これを鎮めるために将門を神田明神に供養した。嘗て神田明神はここにあったとのこと。面白い話ですね。江戸城が築かれたのは「将門首塚」が作られたのより約150年後です。有名な「太田道灌」が室町時代の1457年に完成させました。その頃は今の東京駅、日比谷あたりまで海が迫っていたと思われますが、太田道灌は「将門首塚」を意識して城を築いたのだと思います。「将門首塚」は城の守り神であったのではないでしょうか。
更に興味を引く看板がありました。この「将門の首塚」がある場所は嘗て江戸幕府初期の重鎮の酒井忠清の屋敷の中庭であったとのことです。酒井忠清は第四代将軍徳川家綱の時代に大老となり、家綱が幼かったことから幕府の実権を握っていたのでした。酒井家の屋敷は江戸城大手門の「下馬札」付近にあったことから酒井忠清は「下馬将軍」とも呼ばれたのでした。
さてこの酒井雅楽頭の屋敷で有名なのは「寛文事件」です。伊達騒動のメインイベントの「原田甲斐」が「伊達安芸等」を殺害した刃傷事件です。これが1671年(寛文11年)の3月27日。この日、大老酒井雅楽頭が伊達騒動の裁きを行うということで関係者が大手町の酒井家の屋敷に呼び出されたのでした。そして屋敷の縁側で「原田甲斐」が通りかかった「伊達安芸」にいきなり切り付けたことになっています。そしてその光景を「将門の首塚の石卒塔婆」が庭から見つめていたことになるのです。「原田甲斐」の狂気の行動はひょっとして将門の怨霊の仕業かもしれませんね。
西暦の940年、1302年、1671年。360年程度の間隔を置いて「イベント」があるようですね。この次は2030年頃でしょうか。その場所は今は日本のビジネスの中心地大手町です。今度何か起こったら大変なことになるでしょうね。
| 2007年02月18日(日) |
遅ればせながら「ホロストフスキー」 |
NHKの芸術劇場で昨年の「プロムス」最終日のコンサートを放送していました。その中で圧倒的な存在感を示していたのがバリトンの「ドミトリー・ホロストフスキー」です。彼が歌った曲は以下の3曲でした。
「歌劇“イーゴリ公”から“眠りも憩いもなく”」ボロディン作曲 「歌劇“カルメン”から“諸君の乾杯を喜んで受けよう”」ビゼー作曲 「モスクワの夕べ」ソロヴィヨフ・セドイ作曲
恥ずかしながらこんなすごいバリトンがいるとは知りませんでした。1962年生まれといいますから今が「旬」という感じですね。何といっても声が素晴らしいですね。顔の筋肉全体(唇・喉まで含めて)が強靭でかつ非常に柔軟なのだと思います。唇、頬、舌が柔軟なので「子音」が非常にはっきり聞こえます。色々な所が柔軟に振動するので「声」自体が非常に豊かなのでしょう。
それと存在自体が「ステージ映えします」。100人以上いるオケ・合唱団の存在が薄くなってしまうような存在感です。それも嫌味がない。「人柄」がいいのではないでしょうか。こういうキャラはスターになるための必須なものだと思います。知的で少し暗い「ハンプソン」とは好対照ですね。昨年メトロポリタンオペラで「ジェルモン」を歌ったのだそうです。あの地味な役をどのように歌ったのでしょうか。お父さんにしては「ギラギラ」し過ぎでしょう。
ネトレプコもそうですがロシアのオペラ歌手の層の厚さには驚かされますね。ゲルギエフ・キーロフ、バレエも含めると、ロシアのオペラ・バレエの天下が続きそうです。
| 2007年02月13日(火) |
スラーヴァ・ガリーナのドキュメンタリー映画 |
ホームページはこちら http://www.elegyoflife.com/
日本語ページはこちら?http://www.sokurov.jp/
ロストロポーヴィッチ、ヴィシネフスカヤの結婚50年を記念した映画が作られたそうです。表題は「Elegy of Life」。戦争・冷戦に翻弄された偉大な芸術家二人の人生を描いた映画のようです。日本では今年の春に上映されるとのこと。
映画の日本語の表題は「ロストロポーヴィッチ:人生の祭典」とされ、ロストロポヴィッチを中心にしたような印象を与えますし、「祭典」などという言葉を使っていますが、本当のタイトルは「Elegy of Life」で、ロストロポーヴィッチ、ヴィシネフスカヤ夫妻を扱ったもののようです。ヴィシネフスカヤの映像記録が非常に貴重なので、ヴィシネフスカヤファンにとっては見逃せない映画だと思います。今から楽しみです。
| 2007年02月12日(月) |
スリランカ与党内が混乱 |
The President of Sri Lanka, Mahinda Rajapaksa, has accused three senior leaders of his party of conspiring to assassinate the Head of State.
11日の記事としてスリランカのインターネットホームページに掲載されました。表現は非常にショッキングなものですが、実は占星術者のお告げの中で「スリランカのリーダには正月(スリランカ正月4月)を迎えるまでに重大な運命が訪れる」というようなことがあり、この占星術者が有力国会議員3人に近い筋の人間だったというような話です。
この3人のスリランカ与党SLFP(スリランカ自由党)の3人の主要メンバーは直ぐに内閣から外されました。しかしこの記事は与党内の分裂状態を物語っているものでしょう。3人の国会議員中には、マンガラ・サマラジーバ(前外務大臣)、アヌラ・バンダラナイケ(前大統領の実弟)が含まれているのです。この二人はSLFPの前の党首のクララトゥンガ前大統領に近いとされている人物なのです。
この1月末、スリランカ野党のUNPから18人もの大量の国会議員が与党のSLFPに鞍替えしました。この結果与党は国会で単独過半数を閉めることとなり、ラジャパクサ大統領の政権は磐石になったかに見えました。しかし、ここに来て嘗ても仲間の3人が大統領から離反したことになります。
今のスリランカ政府は北部のLTTEの軍事基地への空爆を続けています。その結果政府軍がじりじりとLTTE支配地域に進行している状態となっています。政府軍は領土を取り返したと戦果を誇っています。この状況も大統領を強気にさせているのだと思います。
| 2007年02月10日(土) |
ガリーナ・ヴィシネフスカヤの記事 |
ホームページのガリーナ・ヴィシネフスカヤの記事をアップしました。2006年がガリーナ80歳の区切りの年です。またロストロポーヴィッチとの結婚50周年(金婚式)にあたりました。ロシアの新聞のインタビュー記事をインターネットで見つけて、少しずつ翻訳を進めてきました。ようやく終了したと言うわけです。
ヴェルディの「アイーダ」のストーリーをよく知るに及んで、ガリーナの「アイーダ」がいかに「はまり役」であったのか分かりました。ガリーナは若い頃から「アイーダ」を得意としていたのでした。またフィデリオのレオノーレ役も彼女の得意とするところです。ガリーナ自身が本当に強い女性なので、このような役に共鳴できたのだろうと思います。
インタビューの中で彼女がテノールのドミンゴを評価する一方で女性歌手の名前を挙げることができないでいることは寂しい限りです。ネトレプコ頑張れと言いたいです。
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