KENの日記
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2006年01月01日(日) A happy new year

A Happy new year.I am writing this diary at Changi Airport in Singapore. Today we - Kenji & Moromu - are going back to Japan by UA 890. We wish the all the best for our friends.

(追記)
この記事はシンガポールのチャンギ空港から書いたものです。この日ムンバイを出発してシンガポールで一泊し、午前中のUA便の乗って日本に向かう予定だったのですが、飛行機に搭乗してみると、私たちの座る席には知らない外国人家族が座っているではありませんか。私達のチケットは大分前にムンバイで購入したのですが、見事にダブルブッキングとなっていたようです。

UA地上職員の方が色々調整してくれ、結局「ファーストクラス」の席に移って日本に帰る事になったのでした。ファーストクラスも私たち二人の席で一杯になりました。元旦の日本行きの便は結構混んでいることが分かりました。ビジネスから移って着たので文句は言えないのですが、妻と前後の席になってしまったのは不本意ではありました。私達の席の近くには年末にシンガポールでコンサートを行ったという日本人の音楽家の方が座っていました。まあ今回の旅が結婚25周年記念を兼ねたものでしたので、最後の飛行機がファーストクラスであったことは一つの思い出になりました。



2005年12月24日(土) The last week in India

今日はクリスマス・イブの24日。インド生活の最後の1週間が始まりました。大晦日には日本帰国のためインドを離れます。引越し荷物整理の応援のためと、結婚25周年記念を兼ねて妻が昨日日本を出発してインドに向かっています。昨日の夜シンガポールに1泊しシンガポールを朝出発して今日の昼頃ニューデリーに着く予定です。私は朝8時50分の飛行機でムンバイからニューデリーに向かい、国際空港に移動して妻を迎える「予定」ですが、今午前9時30分になったところでまだムンバイ空港に居ます。

冬場のニューデリー空港は「霧」のため飛行機が到着できず「到着時間が遅れる」ことがしばしばあります。昨日も飛行機が大分送れたという記事が新聞に乗っていました。今漸く私が乗ることになるニューデリーからの飛行機が到着しました。これから到着の客を降ろして直ぐに搭乗が始まるでしょう。妻がニューデリーに予定通り着いていると、私が迎えなければ不安になるでしょう。飛行機にはできるだけ速く飛んで欲しいし妻には少し我慢して欲しいです。

月曜日にニューデリーでの最後の仕事して火曜日にムンバイに戻ります。28日水曜日が引越しの荷作りです。ではニューデリーに行ってきます。(ムンバイの空港からアップしています。)

(追記です)
飛行機の出発は遅れて結局ムンバイを出発したのは午後1時過ぎでした。ニューデリーの国内線空港に着いたのは午後4時少し前でした。更に今日のキングフィッシャーフライトのサービスは最悪。手荷物が出てくるまでに30分もかかりました。荷物を受け取り大急ぎでタクシーを捕まえて国際線空港に向かいました。妻との待ち合わせ場所のニューデリーの国際線の出口で妻を捜しました。実はニューデリーの国際空港の出口で客を迎えるのは初めてです。暫く出口付近を捜していると既に退屈しきっている妻に出会うことができました。

妻の乗ったシンガポールからの飛行機はほぼ順調で昼頃にはニューデリーに着いていたのでした。妻は全く始めてのニューデリーの空港で4時間以上待たされて大変でした。私が現れないので非常に不安になった時があったようですが、インドの人達が親切に声を掛けてくれたとのことで私が心配した程は不安になっていなかったみたいです。インドで使える携帯電話を持っていないので連絡手段がないのです。後から考えるとかなりの冒険だったと思います。とにかく出会えて良かった。



2005年12月20日(火) ムンバイ最後の日曜日

一昨日18日の日曜日はムンバイでの最後の日曜日でした。今週の日曜日はニューデリーに居るはずだしその次は帰国して日本です。ということで心残りだったムンバイ博物館にいきました。ずっと改閉館中なのですがひょっとするとオープンしているかなと思って。ムンバイ博物館は動物園の隣にあり、日曜日のビクトリア公園は家族連れで賑わっていました。


残念なことに博物館相変わらずは休館中。ここではムンバイの歴史を展示しているということだったのです。仕方ないので外の展示物だけ眺めてきました。
下の写真は、エレファンタ島にあった「象」です。この「象」があったことから「エレファンタ島」という名前が付けられたとのことです。エレファンタ島の彫刻に比べると、随分、大雑把で素朴です。解説の看板ではエレファンタ島の彫刻郡と同時期に作られたとありますが、ひょっとすると、それよりもずっと前の物かもしれません。


その後、アパートに帰って荷作りの準備に入りました。帰国する準備としては、食料品を上手に使っていく。(最後の日に無くなる様に)無駄なものを出来るだけ早く処分する。ことが大切です。それと、チェロの梱包。せっかく直したのですから十分注意して運ばなければならなし、2ヶ月お別れなのでできるだけ最後まで梱包せずに、弾いていたいからです。



2005年12月15日(木) ムンバイ到着

ニューデリーからムンバイに戻りました。日本でもないのに故郷に帰ったような感覚です。昨日の飛行機は結局夜の10時20分出発。ムンバイ着が午前1時。アパート到着1時50分。機内放送では「ムンバイの気温摂氏26度」。
ニューデリーから厚い長袖シャツと上着を着てきたので暑い暑い。


迎えの車は冷房ギンギン。アパートに帰ってからさっそくクーラーをいれました。ニューデリーからほぼ真南に1200Km。ニューデリーとムンバイの気温の差は非常に大きいです。今頃のムンバイは朝から半袖で十分。最近のニューデリーは非常に寒い。


ニューデリーの12日は朝の気温が摂氏3度でした。この寒さは暫くなかった低温だそうです。ムンバイは過ごしやすいです。(とっくにモンスーンのことは忘れていますね)



2005年12月14日(水) ムンバイへ戻ります

現在12月14日午後8時(インド時間)。ニューデリーでの仕事を終えてムンバイに戻るところです。つまりニューデリー空港の待合室。二ヶ月間のニューデリーの仕事は一応終了。本日の午後8時25分の出発スケジュールは9時30分に遅れています。8時15分から特別(お詫びのしるし?)の夕食サービスが出る予定。


ニューデリー市内中心部のオフィスを出たのは午後6時で、既にフライトスケジュールが9時10分に変更されたことを知っていたことから、何時ものコースのレストラン「田村」さんで日本食+ビールを目論んでいたのですが、思いのほか道が混んでいたし、ドライバー氏が左に曲がるべきところを右に曲がってしまい、Uターンに時間もかかりそうなので「田村での夕食」は諦めたのでした。


今回のニューデリー滞在中で全ての業務を終了させる予定でいたのですが、幾つか残っているので、年末の26日に再度ニューデリーに来る時に終了させます。今週(木・金)と来週で、ムンバイの仕事を終え荷物もパックするつもりです。インド最後の日々なので年末に妻をインドに呼んで観光し、一緒に日本に帰国しようと思っています。結婚25周年の記念旅行の意味も含んでいます。従って息子と娘には年末・年始を我慢してもらいます。妻が1週間以上家を空けると2人の子供達がどんな生活をするのか心配なのですが・・・。


妻は12月24日にニューデリーに到着する予定です。その後ムンバイに移り引越し荷物整理を手伝ってもらい、12月31日にムンバイから出国します。
大晦日はシンガポールで過ごし元旦の朝日本に向けて出発します。因みに昨年も大晦日に帰国しました。元旦はバンコクの空港でした。さて今年はどんな年末・年始になるかしら。



2005年12月06日(火) 「Bodhi-Tree」の葉っぱ

「こればっかり」と言う感じですが、ブッダガヤの聖菩提寺の「聖Bodhi-Tree」の葉っぱです。同じように考える人が沢山いて、風が吹いて葉が落ちるとダッシュして拾ってしまう人達が居ました。これはお寺の掃除のおじさんに頼んで隠してあった落ち葉をもらったもの。(Rs10のチップで)おじさんが拾って塀の上の隠していたみたいです。この日は天気が穏やかだったので風による落ち葉は非常に少なかったようです。


寺院の外では菩提樹の葉っぱのセットをRs100ルピーで売っていました。漂白済みで長持ちするのだということです。とにかく、仏陀が悟りに達した場所で仏陀を見下ろしていた菩提樹の葉っぱです。ホームページの方にはスリランカの「BodhiTree」の葉っぱの写真があります。


インドは日本の10倍の広さですから当たり前ですが、ブッダガヤはニューデリーから遠いです。デリーから1000Km。「デリー・カルカッタ間1500Km」の2/3行ったところにあるのです。今回の旅は3泊2日。二泊は寝台夜行列車ということで少し強行軍。これくらい覚悟しないと忙しい身ではインドを回れません。飛行機も便利ですが「4大都市+2」間を除けば便数は少なく昼間しか飛んでいないのです。(4大都市は、ニューデリー、ムンバイ、コルカタ、チャンナイ、+はバンガロール・ハイデラバード)


昼間は貴重なのでできるだけ観光に充てたいのです。夜の観光は意味が無いし非常に危険なのです。従って寝台夜行列車の旅に慣れなければ短期間での観光旅行はできません。しかし寝台夜行列車はそれなりに快適です。ウイスキー小瓶一本買い込んでグビと飲んで横になれば翌朝は目的地という感じ。どこを走っているかはわからないけれど降りる駅に近づくと車掌さんが足をつついてくれます。


「地球の歩き方」の解説では盗難の記事が多いし、駅のホームでは荷物を繋ぐ「鎖」を売り歩いていて少し不安もあったけど、今回の2泊は何の問題も無し。衛生面だとか静かさだとかの「良い睡眠環境」を求めるのは無理ですが。


私は「バラナシ」から「ブッダガヤ」まで車で走りました。走行距離約250Km。6時間です。「バラナシ・ガヤ」間は、NH(ナショナルハイウェイ)3号線の幹線道路。(因みに終点はカルカッタ)この道路がまだ所々整備中なのです。整備されているところは片側2車線の素晴らしい道で時速80〜90Kmで走れます。整備されていないところは細くて舗装もはがれたでこぼこ道。時速30Km程度がせいぜいでのろのろ運転です。この道が完全に整備されればバラナシ・ガヤ間の走行時間が短縮され観光に便利になります。


更に、この道路は夜間の通行は避けたほうが良いという「いわくつき」の道路。ガヤのある「ビハール州」は治安が悪く夜の走行は強盗団に狙われる可能性が高いとのこと。ブッダガヤはそんなビハール州内の観光名所のピンポイントなのです。



2005年12月05日(月) 長年の夢を実現・・・ブッダガヤ探訪

金曜日と日曜日の夜行列車を使い、土曜日一泊してインド西部の「ブッダガヤ詣」をしてきました。ブッダガヤはニューデリーから約1000Km。さすがに遠いですが夜行寝台車はウイスキー小瓶で快適な眠りを提供してくれました。


「ブッダガヤ」の「マハボーディ・マハービラ」(聖菩提寺)には本当に感動しました。仏陀が「悟り」を開いたところです。「仏陀」が瞑想したとされる菩提樹下の金剛座が目指す場所でした。世界各国の仏教徒が集まる究極の場所なのです。長年の夢が適いました。今日はとりあえず報告だけ。



2005年12月01日(木) 再びニューデリー

11月28日月曜日からニューデリーに戻っています。ムンバイの快適な気温に比べると朝のニューデリーは寒いです。持参した「寒暖計」では外気温10度。日本の信州に比べれば大した事ないのですが。しかし、外で暮らしている人達には相当厳しいです。朝夕、焚き火にあたっている家族を良く見ます。新オフィスの改修工事が終了しました。工事の埃が発生しないので、オフィスの空気は格段に良いです。12月末をもってインドから日本に帰国する事になりました。日本に着くのは新年です。



2005年11月27日(日) ソニア・ガンジーについて

何の脈絡も無く、ソニア・ガンジー(インド国民会議党のリーダ)について調べたので記録しておきます。


ソニアはイタリアのトリノ郊外の寒村の中流家庭に1946年生まれました。
経験なカトリックの家で平凡に育った彼女は、18歳の時に英語を勉強するためイギリスのケンブリジに遊学しました。そして1965年にケンブリッジの街のレストランで偶然に出会ったインド人と恋に落ちました。


このインド人はケンブリッジ大学には在籍していましたが、あまり勉学に励まず、インドの飛行機会社のパイロットになろうと考えていた青年でした。この青年の名前はラジブ・ガンジー。インドの革命の英雄「ネルー」の孫で、当時のインド首相「インディラ・ガンジー」の長男でした。


インディラは「のんびりした性格」の長男のラジブより、活発で覇気のある次男の「サンジャイ」を後継者と考えていました。従ってラジブはケンブリッジを出た後は「パイロット」になり、平凡な家庭を持つこと考えていたはずです。ソニアもインド随一の名門家に嫁ぐことは覚悟していたものの、結婚してパイロットの奥さんになるのだと考えていたでしょう。


1977年の総選挙において国民会議党党首のインディラを弟の「サンジャイ」が助けて国民会議を牽引しましたが国民会議は敗れました。これは与党政治汚職スキャンダルに対するインディラ・ガンジーの煮え切らない姿勢がマイナスになったのです。国民会議はインディラとサンジャイを中心にして盛り返し、次の1980年の選挙で勝利して政権を取り返しました。


選挙には勝ったものインディラの政権は安定せず彼女の支えは次男のサンジャイだったのです。ところが1980年6月、ソニアの義理の弟「サンジャイ」が飛行機事故で急逝してしまいます。「サンジャイ」の妻の「モネカ」はサンジャイ同様に政治向きな活発な女性であったのでサンジャイの死後、インディラの後継者としての地位を望んだようです。


しかし、インディラが選んだのは、当時、飛行機会社のパイロットであった長男のラジブでした。ラジブは国民会議の政治活動を始めますが、当初はインディラ、サンジャイには遠く及ばない存在でした。ソニアは息子のラウル、娘のプリヤンカの子育てに専念していました。


1980年前半シーク教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなりインディラは強硬姿勢をとりました。そうした中1984年10月、インディラはシーク教徒の自らの護衛官によって暗殺されます。その直後長男のラジブは、インディラの後を継いでインド首相の地位に着きます。ソニアはいつの間にか、インドのファーストレディになってしまいました。


実際彼女は政治活動が嫌いでこの突然の事態は彼女を当惑させたことでしょう。国民会議与党の政治汚職事件でラジブは野に下り総選挙に復活を期していました。彼は与党時代にスリランカ内戦終結に向け努力し、スリランカに平和維持部隊を送りました。スリランカの反政府勢力はこれを嫌い、総選挙運動中のラジブをチェンナイ郊外で爆殺します。これが1991年5月。


国民会議はラジブの突然の死を受けて、その後継に妻のソニアを選びました。ソニアを頂いた国民会議は2004年の総選挙で勝利しました。ソニアは首相候補に推されましたが「外国人では如何なものか」という批判を受け、さっさと身を引き腹心の「マンモハン・シン」氏を首相に据えました。現在のインドでは、ソニアの存在は非常に大きいです。彼女がこれから内政、国際舞台でどのように活躍するか、期待が高まります。


と同時に不安もあります。彼女の味わった悲劇は再び起こって欲しくないということ。義理の弟の事故死、義理の母の暗殺、夫の暗殺。彼女の苦悩は想像を絶します。これら苦悩を克服してきたソニアが21世紀初頭インドのリーダなのです。



2005年11月25日(金) ムンバイの気候

モンスーンの後のムンバイの気候の素晴らしさを実感しています。ニューデリーの朝は相当冷え込みます。人々には長袖のシャツに加えてセーターが必要です。あさの散歩も正直言って辛いものがあります。路上生活の人にはさぞ厳しい季節なのだろうと思われます。


しかし、ムンバイの朝は非常に快適。散歩には持って来いです。日中は強い日差しで相当暑くなりますが、空気が乾燥しているので気持ちがいい。モンスーンが物凄くうっとうしいことと全く対照的に、素晴らしい季節が3月頃まで続くのです。こういう土地なら路上生活の人も楽です。一年中半袖・薄着で暮らせるのですから。人々が集まるのが分かります。


ムンバイ市営バスがどんどん新しい車両に代わっているようです。新しい車両は「一階建て」バス。眺めの良さそうな「二階建て」バスはどんどん減っていくようです。新しいバスは車体の色が、これまでのバスと同じで、見た目はあまり変わりません。車両入れ替えの際に、クーラーを着けようとか、モデルを変えようと考えない見たい。


クーラーを着けて贅沢にするようなことはしない。経費が嵩んで値上げしなければならなくなります。進歩とか改善とかいう発想について回る、コストアップ、環境への影響を考慮しているのでしょう。ムンバイのバスの最低運賃は「4ルピー」(10円です)。庶民の足なのです。10億人の人口を抱えるインド人の知恵なのでしょう。


インドの社会は10億人の人間とそれに匹敵する数いやそれをはるかに超える動物・植物達の土地なのです。人間に加えて、街中の牛、犬、猫、鶏、リス等がいっしょに生きていく権利を有する場所なのです。人間との共存が難しい動物たちは、特別保護地域で暮らしています。人間に親しい上記の動物達は人間に混じって暮らしているのです。


道路や公園は人間だけのものではない。動物や植物全てのものなのです。人間にはトイレが用意されているが、動物達は自分勝手に用を足してもOK。それは彼らの権利なのです。大きな木はリスは鳥の住処なのであって、人間の都合だけで切るわけにはいかない。公園で出会った愛犬家は、そんなインドを誇らしく語っていました。

彼は日本は便利で快適だろうけど、それは人間だけの事でしょう。と言っています。確かにそのとおりです。動物達にとっては非常に住みにくい。ある種の特定の動物は人間のペットとしてしか生きられない。人間と混じって生活することが難しい動物はどんどん排除されていく。


近くの公園に住む犬で、一際綺麗なメス犬は、ベンチに腰掛けている私のところの横に座り、片方の前足を上げて仕切りに「お手」のポーズをするのです。
これは何の合図かと愛犬家に聞くと、「身体を撫でてくれ」という合図なのだとのこと。この公園のベンチは、犬と人間の共有の場所なのです。




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