| 2005年06月19日(日) |
ボンベイチェンバーオケ(ムンバイ室内交響楽団) |
ムンバイはモンスーン入りして、雨が降っている時間が長いですが、アパートが面している「プリヤダルシニパーク」では、朝からサッカーの練習をしています。雨の中を散歩している人達も多く見かけました。晴れているから外出する、雨が降ったら家に居るという単純な発想では過ごせないのだと思います。これから3ヶ月間以上のモンスーンが続くのですから。
今日のムンバイオケ(ボンベイ室内オーケストラの略)は、メンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第7番」の初見大会でした。指揮者からパート譜が送付されてきたのです。パート譜はスコアをコピーして各パート毎に切って張り合わせたもの。全くの手作りです。指揮者が作ったのだそうです。
4楽章形式の古典的な曲という印象です。譜面面はそれ程難しくないので、どのように細かいニュアンスに注意していく余裕があります。ジニ先生が、今回の指揮者は「シャー・ルク・カーン」に似ていると紹介していました。「シャー・ルク・カーン」はインド随一の二枚目映画俳優です。どんな「シャー・ルク・カーン」が現れるか見ものです。
ムンバイではきのうの深夜、強い雨が降り雷もなっていました。いよいよモンスーンシーズン到来です。午前中は晴れて日が差しましたが、湿気があって蒸し暑いです。午後からは不安定な天気になり、雷がなったり、雨がざーっと降ったり。
モンスーンが来ると外に出ることが億劫になり運動不足になりそうです。これから、路上生活者の人達は大変だろうなと思います。夜のケーブルテレビの歴史チャネルで「自爆テロ」のことを扱っていました。自爆テロは、戦いの理論の中では「効率が良い」作戦と理解されているようです。
番組は現在の自爆テロの原点的なものとして、日本の特別攻撃隊のことを取り上げていました。太平洋戦争の最中に、飛行機搭乗員が自分の機の損害で帰還できないと覚悟した時、最も効率的な方法として自爆を考えたことは容易に想像が付きます。
しかし片道分だけの燃料と爆弾を積んで攻撃に向かう特別攻撃隊の発想は、そこからかなり飛躍したと思います。しかし60数年前の日本ではそれが許されていたのでした。私の叔父は特攻隊の生き残りだったので、実家に色々な写真がありました。日本では既に過去になってしまった「効率的な攻撃」がまだ現在の世界で有効な作戦として機能しています。
中東、ロシア、スリランカ、そして「9.11」。「一人の命で何人殺せるか」この判断基準は辛いです。「ひとりの不幸によって、何人の不幸を道連れにするのか」悲しい現実ですが・・・。
| 2005年06月17日(金) |
ムンバイに帰ります。 |
今のニューデリーの国内線空港からアップしています。
無線アクセスは快調です。
今日は1日、あちこちを走り回り最後に日本食材屋の「大和屋」さんにいって日本米を発送注文し少し日本食を買いました。
「大和屋」さんは予想を超える品揃えです。少し高いですがニューデリーで揃うので感激です。
「そうめん」と「焼肉のたれ」を買ってきました。
空港への時間調整に「田村さん(日本食レストラン)」で晩御飯を食べて空港にチェックインしたところです。
このコースはニューデリー出張の帰り道の定番コースになりそうです。
金曜日の夕方の「田村レストラン」は日本人で混雑していました。
ニューデリーはムンバイと違って日本人人口が多いです。
======================================
ニューデリーに来ています。
いろいろな案件が溜まったので一挙に解決するためにニューデリーに来ています。
最近はジェットエアーは遅れることが多く今日も1時間遅れました。
昼前にニューデリーの空港に到着した時外気温は41度。
後で聞いた話ですが今日16日の最高気温は42度。昨日15日は45度だったとのこと。
日差しは強いし熱風ですね。
でもムンバイほど湿気はないです。
どちらが過ごしやすいか難しいところです。
=========================
今回、初めて無線アクセスインターネットをムンバイ以外に持ち出しました。
今はニューデリーのホテルですが、快適に繋がります。
150Kbpsですが、主要都市の市街地・空港で繋がるので、待ち時間とかホテルの帰ってからとか、メールをチェックするには便利です。
少し高かったのですが、無線アクセスカードを買ったのは正解でした。
明日、帰りに日本食材店によって、日本米を買っていく予定。
ニューデリーには、手頃な日本食レストラン・食材店があります。
さすが首都です。
一昨日から飲料水生成装置(正式名称不明)が故障しています。昨日は水ボトル5本買ってきて、少しずつ使うことにしました。そして大家の兄という人に電話して、今日業者に修理を依頼することと約束したのですが連絡無し。
今晩は面倒くさいので、普通の水道水で「インスタントラーメン」を作って食べてしまいました。以前なら3段階のフィルターで浄化するという浄水装置で浄水した水で作るのに・・・。インドの水道水をそのまま飲むのも時間の問題かも。私の身体は本当は物凄く強いのかもしれない・・・。いやいや注意はします。
ムンバイの私のアパートには殆ど「蚊」がいません。一階には「蝿」はうじゅうじゃいますが不思議と「蚊」には会いません。日本で妻が毎晩「蚊」に悩まされているのは容易に想像できます。(妻の日記による)
私は日本にいるときにはアルコール体質の私が「蚊」の犠牲者になっていました。したがって「蚊」を取る技能においては私が家族の中で「No.1」だったでしょう。しかし、私のいない埼玉の我が家でアルコール濃度の高い血液保有者は「妻」です。多分彼女が「蚊」の集中砲火を浴びているのだと想像できます。しかも彼女は近眼が強いから「蚊」を発見するのも難しく、血圧が低いから寝起きですばやく対応できない。蚊は逃げ放題です。
家に残っている子供達がアトピー体質なので殺虫剤は使わないでしょう。したがって夏場の「蚊」対策は結構大きな問題です。昔、信州の実家で「蚊遣」を吊ったことを思い出します。それは就寝前の儀式のようでした。
布団を全て敷き終わった後、徐に「蚊遣」が登場して、「蚊」が入り込めないように下から上手に吊るすのです。「蚊」は全く「蚊帳」の外。蚊帳の中に入ると、光の状況を変って幻想的で、眠るのがもったいないような感覚だったと思います。蚊帳の雰囲気が懐かしいです。
当時猫を飼っていたはずなので、猫と蚊帳の関係がいまいち思い出せません。 こ子猫が蚊帳を面白がって蚊帳に登ってしまったような記憶があります。スリランカにも「蚊帳」がありました。日本と同じような形式でベッドの上に吊るすのです。しかし一人用です。日本の「蚊遣」のように家族全員がその中に入って眠る環境なんて多分珍しいのでしょう。現代日本には殆どそんな環境はないでしょうから、「蚊遣」がスたるのも分かります。明日、ニューデリーに出張します。
昨日のジニ先生からのレッスン後のお話から。演奏会のその他の曲は、メンデルゾーンの「弦楽のためのシンフォニー第7番」だとのこと。したがって今のところの演奏会の曲目は以下のとおり。
ヴィバルディ、ギター協奏曲 ロドリゴ、アランフェス協奏曲 エルガー、弦楽のためのセレナーデ メンデルスゾーン、弦楽のためのシンフォニー第7番。
メンデルスゾーンの楽譜はイギリスの指揮者の方が郵送してくれるとのこと。 ジニ先生もどんな曲か知らず「難しかったら困るね」と言っています。8番はニ長調でした。7番はニ短調なので少し難しいかなとも思います。ムンバイ室内オケの9月の演奏会にはハイドンのチェロ協奏曲(ハ長調)をやるそうですがソリストが決まっていない。
9月にはオーストリアから指揮者を呼ぶ予定で、オースストリア航空がもうひとつ格安航空券を手配してくれればオーストリアからソリストも呼べるのです。現在ジニ先生が航空会社と交渉中。だめだったら近くのスリランカから「ディッシュー先生」を呼ぶ手もあると話しました。
「水道の水が出ない」 アパートの浄水装置が故障したようで料理用・飲料用の水がでません。普通の水道水はでるのですが、これは煮沸しても不安があるのです。したがって、暫くペットボトルの飲料水を使うことにしました。そして、修理やさんを探すことにします。こういう時は、一般アパートに入ってことを後悔します。
サービスアパートメントなら技術者を呼べば直ぐ直してくれます。東京の厚生担当の人には、この種の困難さはなかなか実感してもらえません。私も困難に直面して、初めて「危うさ」を認識した次第。
妻の日記に「電子レンジを落とした」との記事。電子レンジは「落とせる」ものではありません。信州の実家の電子レンジなんか初期の製品でとてつもなく「重く」落としたら大変です。最近のレンジは軽いのでしょうが。怪我が軽くて良かった。こういう事故(へま?)は連続することがあるので十分気をつけるように電話しました。離れていると正直言って心配です。
身近に生活していると、体調の不調とか気持ちの不安定などには気づくことが出来て、お互いにちょっと話せば大事に至る前に慎重になれるのです。単身赴任で遠く離れていると、それが出来ないのです。
今日はオーケストラ初練習。正式名称は「ボンベイ室内オーケストラ」。インドでは唯一の常設オーケストラ(だそうです)。暫くは弦楽器だけの練習みたい。(管楽器はいるのか)ジニ先生と話したときに「クラリネットも吹けますけど・・・」といったら、クラリネットの方をやって欲しそうな雰囲気でしたがやはり「チェロ」です。
クラリネットはインドに持ってきていません。今日は、ビバルディのギタコン、アランフェス、エルガーのセレナーデの3曲通しでした。いろいろ課題がありますが基本的な練習をすることがポイントでしょう。オケの人達は「変な日本人」が入ってきて不審そうですが、邪魔さえしなければ「OK」みたいに考えているでしょう。
最初は邪魔しない程度の音量にしてギンギンに弾くのはもう少し後にするつもりです。上記の他にメンデルスゾーンの交響曲第8番だそうです(譜面はまだ届かない)。メンデルスゾーンは大学オケの弦楽器トレーナー氏が「難しいから出来たら避けたほうがベター」とアドバイスしてくれた作曲家。でも8番なんて知らないのです。
オケの練習場所はムンバイダウンタウンの最南端の「TATAシアター」の練習室。私のアパートから大分遠いのでレンタカーを自分で運転して行きました。実はインドの運転免許取得依頼昨日(シルディ訪問で少し)初めて運転したのでした。早朝とか日曜日だと道が空いていて比較的安全なのです。
今日もムンバイ名物の「マリンドライブ」を端から端までトロトロ走りました。車種はホンダシティー(日本とは少し違います)。ホンダのエンジンは軽くて走り易いと感じました。
| 2005年06月11日(土) |
Shirde訪問(シルディ) |
サイディは、「サイ・ババ」が暮らした町です。約100年前、シルディに住み着いた「サイ・ババ」は、その人間性と不思議な力で人々から慕われました。今でもインドの多くの都市に「サイ・ババ」を祀る寺院があります。マハラシュトラ州にシルディの街があるのでムンバイではサイババ人気は非常に高いです。
因みに南インドでいる「サティア・サイババ」も不思議な力があるそうですが、彼は本家「シルディのサイババの生まれ変わりだと称しているようです。
シルディは、ムンバイから北東約290Kmのデカン高原入り口にあります。交通手段は車ですが行き帰りとも5時間かかりました。現地滞在2時間で、都合12時間行程。朝5時30分にアパートを出発し途中でドライバーを拾って国道をひた走ります。
ライバーにアパートまで来てもらうのは大変なので、通り道沿いにある彼の家近くまで私が運転していきました。国道3号線(ムンバイーデリー間)は、日本の東海道のような幹線ですが、ムンバイから60Kmくらい走ると、片側1車線の田舎道になります。
デカン高原の殺伐とした(あまり樹木が生えていない丘)をひた走るのです。国道沿線の「ナシーク」の町で、国道3号線から降りて、田舎道でシルディを目指します。シルディの町に近づくと、サイババの写真とか、ホテルの看板が目立ち始めて、気分が盛り上がります。
そして、シルディの町に入ると、それまでのデカン高原の殺伐さが「うそ」のように急に賑やかになります。シルディの町(村?)の中でも、「サイ・ババ」の住んでいた地区一体は、テーマパークのように整備されています。シルディの町の「サイババ」関連地区の一角は本当にきれいです。そして、その周りを土産物屋が取り巻いているのです。施しを求める人も多く集まっています。
「サイババ」は、イスラム教の「スーフィ」の流れとして位置づけられ、彼自身はイスラム寺院に暮らしました。彼の墓は隣のヒンズー寺院内に設置されています。というよりヒンズー寺院が後から建てられたようです。そのヒンズー寺院が、テーマパークのメインのアトラクションみたいになっています。このヒンズー寺院に参拝するためには、入り口でチケットを入手する必要があるのです。
そんなこことは知らずに行ったものですから5人くらいにインド人聞いて、漸く次第が判明しました。そして、12時少し前私が整理券(チケット)をもらいに行くと、オフィスはお昼休みで1時半までは閉鎖とのこと。「日本からはるばるきて、午後は直ぐムンバイに戻らなければならない」とお願いしたのですが、州政府の役人らしき人は「No」の一点張り。(まさしく官僚の対応でした)
もともと、イスラムの聖人が人気があるといってヒンズー寺院に祀っているという背景を知っているので、あまり意味もないので諦めました。チケットがもらえず中に入れなかった人達が、テレビ画面で儀式の様子を見ています。中に入れない人達ようにテレビ中継しているところは「身分社会」でありながら、サイババという貧しい人達の見方を祭る場所ですね。
ヒンズー寺院の横には「サイババ」がその下で過ごしたという「ニーム」の木があります。「ニーム」の木も立派に祀られています。(屋根から木が伸びています)。ここも重要な巡礼対象です。
シルディで最も重要なのは「サイババ」が暮らしたイスラム寺院です。ちょうどヒンズー寺院の裏にあります。そこには「サイババ」グッズが目白押し。サイババ」が食事をつくるために利用した釜、「サイババ」が点したという火 この辺は拝火教の影響もあるかもしれません)。その他サイババが寄りかかった「背もたれ」とか、「粉引き道具」とか。
寺院内の隅に一匹の猫がいました。ゆったりと横になっていました。カメラを向けましたがどういうわけかその時だけ、カメラが故障し写真は取れませんでした。ひょっとして「サイババ」の生まれ変わりで、今でも信者も見守っているのかなと思いました。
イスラム寺院内には多くの信者が敬虔な祈りを捧げていました。言葉は全く分かりませんが皆同じ節回しで歌っています。このイスラム寺院の参拝客には、多くの女性も混じっています。ヒンズーの女性です。多分イスラムの女性は、この中には入れないのだと思います。しかし、ヒンズーの女性は派手なサリー、パンジャビを着て、堂々と頭と顔を出して参拝しています。
こういうところは、非常に興味深いです。ヒンズーとイスラムが共存する国それがインドです。別に書いたと思いますがインドのヒンズー人口7億人。そして、イスラム人口がインド、パキスタン、バングラデイシュで3億5千万位いるでしょう。これらの国々がイギリス植民地から分かれたのはほんの60年前なのです。その前に数百年はヒンズー・イスラムの渾然一体とした社会だったのです。現在でもインド国内だけでも1億人以上のイスラム教徒がいるのです。ヒンズー・イスラムの共存の秘密は「サイババ」のような宗教の枠を超えた「人物」の活躍があったからだと思います。
今週は週の前半に色々課題が発生し、金曜日の今日その目処がたったので、少し気持ちが良いです。来週の月曜日今日出た結論が「白紙」に戻らない限り仕事は進みます。でもインドではなにが起こるかわからない。とにかく、土日は晴れ晴れと過ごせます。
明日はムンバイから少し離れたところにある「シルディ」の町に行こうと考えています。そこには約100年前に「サイ・ババ」が住んでいたのです。イスラムでもなくヒンズーでもなく奇跡を起こした聖人です。新興宗教と言ってしまえばそれまでですが、この「サイ・ババ」への信仰は非常に広範です。
パキスタン、バングラディシュを合わせると、インド亜大陸の宗教は、ヒンズーが7億人、イスラムが3.5億人くらいになるでしょう。ヒンズーとイスラムは2対1くらい。人々は60年前までは何世紀にも渡って交じり合って暮らしていたのでした。そのように宗教毎に壁は比較的低かったのです。最近におけるその象徴が「サイ・ババ」というわけ。楽しみです。
| 2005年06月09日(木) |
コンファレンステーブル |
どうも「コンファレンステーブル」には因縁があるみたい。新しいオフィスに引っ越して会議室が確保できたのですが、会議室のコンファレンステーブルがないのです。家主に相談するとRs40000(約100000円)だせば素晴らしいテーブルを用意するとのこと。
インドでテーブル如きに「100000円」も出せないので(私の吝嗇な性格)自家調達することにしました。ローカル社員といっしょに、イスラム人街近くの家具屋が集中している街に出向き、発注してきました。そこは普通のインド人が家具を揃えるところです。基本的にインド価格、インド品質です。
少し贅沢な材料を使う事にしてRs15000(約37500円)で製作してもらうことで契約しました。インドではローカルの注文生産の方が、メーカ品の既製品よりずっと安いのです。発注するために、私が大体の図面を作成しました。(強度計算などできませんが)
長野県の中学校では男子は製図・工作、女子は裁縫を習うのです。昔やったような平面図、側面図とか書いて業者に説明しました。そっち方面の大学に進んだ娘に「発注」しようとも思いましたが、入学早々なので止めました。さて、どんな会議テーブルが出来てくるか。パソコン・電話・電力ケーブル用に直径3インチの穴を二つあけるように指示しましたが・・・。
冒頭の因縁ですが、実はスリランカテレコム(電話会社)に勤めていたときにも会議卓の思い出があるのです。財務部の一角に古い部長室があり、ずっと使われていない状態だったのです。というのも前任者には日本人用のオフィスが別棟に用意されていたのでした。財務部フロアの部長室は使われないままの「お化け屋敷」と化していたのです。
古くて不便でもあまり気にならない私は、その「お化け屋敷」に移ることにしたのでした。実際に調査してみるとトイレ付きのやたらと広い部屋なので、自分は半分使って残り半分を財務部の共用の会議室とすることにしました。
改装が終わって自室には前から使っている日本人用の机・椅子を持ち込んでOK。しかし会議室のテーブルを新しく買うと大変費用がかさむでしまうことが心配だったのです。ところが倉庫に眠っている会議卓を再生するから追加費用は要らないというのです。
家具などを保存する倉庫に行って見ると、古い机とかロッカーが山ほどありました。その中に卓球台より大きいテーブルが埃をかぶっていたのです。使えるのかどうか不安だったのですがOKを出して後は物品担当者に任せました。
2週間位すると例のテーブルが綺麗に磨かれ、新しいニスでぴかぴかに光輝いてやってきたのでした。形は古いですががっしりした木製の大きな会議テーブル。私にとっては、以前は、何時頃・誰が使っていたのか分からないテーブルですが、非常に愛着の持てる時代物のテーブルでした。
直ぐ後で知ったですが、スリランカテレコムには家具工作部隊がいて、事務机、ロッカーなどの製作・修理なども自前でやっていたのでした。さらに、ビル・建物修理用の社員も抱えていることを知りました。日本人には、伺い知れないとんでもない組織だと実感した記憶があります。
追記ですが、ミーティング室、ミーティングテーブルという概念がインドでもスリランカでも普及してないみたい。上級幹部の部屋がやたらと広く、幹部は自分の机の前に部下を呼んで指示するのが普通なのでしょう。ブレーンストーミングしたり話あったりすることがそもそも普通ではないようです。しかし「ミーティングをする」ことは非常に重要です。情報の共有、他人が何をしているのか、他人の心配ごとが何なのか知ることは組織では不可欠です。ミーティング室とミーティングテーブル、椅子、黒板(白板)は、そのためのどうしても譲れない道具です。インドのオフィスにおいても、自ら設計したテーブルを使って、風通しのよい職場にしようと思っています。
| 2005年06月08日(水) |
50周年特別企画第三回 |
あまり記事にならない周辺のことやら今日の思いなどを記しておきます。小田原の母に電話したのですがもう寝ていました。(時差3時間半はなんともしがたい)50年前に生んでもらって本当に感謝しています。
妻の両親は既に他界してしまいました。誕生日に母に感謝できるだけでも幸せです。まだ80歳ちょっとすぎですから、私の還暦を祝って欲しいなどと考えています。今年は私達夫婦の銀婚式です。
結婚の5年くらい前から知っていますから既に30年の付き合いになる勘定です。苦労をかけていますが身体に気をつけて次は金婚式を目指したいと思います。中年を迎えての単身赴任(それも海外単身)なのでベストハーフが大切なことはつくづく感じています。
お互いに尊敬できる人間性を磨いていきたいものだと思います。それが30年前の出会い一つのきっかけだったのですから(勝手な解釈)。できたら25年の記念にまとまった旅をしたいとも考えています。なにしろ妻には申し訳ないことに新婚旅行はしてなっかたので。長男と長女は既に親の手の届くところから離れています。しかし自宅通学生だからといって、あまり母親に頼るのは良くないと思います。
家の掃除くらい手伝ってもいいのではないでしょうか。(子供達が読むとこを期待して)まあ各人それぞれ別な人生がある訳でそれは自分で探し出すしかないのです。親としてはこれまで世間並みの教育環境は整えたつもりです。親のできることはここまで。世の中の役に立つ人間になって欲しいです。
これからの人生の生きがいとか職業は子供達が自分で勝手に見つけるしかないです。ベストハーフも自分で探し出して欲しいものです。二人の子供達の年齢の頃私達夫婦は既に知り合っていました。これからも自分の信ずる方向に進んでいければいいなと思っています。
日本に帰ったら出来るだけ早く献血を再開したい。密かに確実に世間に貢献できるのはこういう性質のボランティアです。成分献血だと2週間おきに出来ます。南アジア帰国後1年間は献血無用などという制度は止めて欲しい。体重は2kgほど減らせばBESTです。水泳を定期的に行えば確実に減るでしょうが、インドでは手頃なプールを探すのは難しいです。走るとつい足に負担をかけてしまいます。これが問題。
まあ、もう少しすると(?)日本に帰ることになるでしょうが、帰国してからの健康管理の方が心配ですね。何しろ本拠は「新橋」ですから。これから5年、10年は、人生でも大きな岐路となるでしょう。その実感も、準備もまだありません。でも所詮これまでの生き方をガラっとかえることなどできないでしょう。
|