KENの日記
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2005年06月07日(火) ムンバイ室内オーケストラ

今日はジニ先生宅でのレッスンだったのですがレッスンの後、ジニ先生からムンバイ室内オケのことを色々伺いました。ムンバイ室内オーケストラは、ジニ先生が42年間、指導し世話をしてきたのだそうです。


ジニ先生は今75歳(私の母よりは少し若いけれど、母の年代といっていいでしょう)。高齢にもかかわらず50年以上乗っているという「ローバー」を駆って、オケの仕事をしているのです。オーケストラ運営の全ての仕事をほぼ一人でこなしているのです。もちろん全てボランティア。


まず普段のオケの練習(日曜日午前中)はジニ先生の指導です。演奏会前にはオーストリアから音楽家がボランティアで駆けつけるとのこと。その飛行機代をオーストリア大使館に掛け合って、出してもらうような仕事もジニ先生の仕事。プログラム作成から、楽譜の調達もジニ先生の仕事。


8月7日のコンサートの演目でもヴィヴァルディのギター協奏曲の楽譜は、ソリストの考えている伴奏譜とは異なっているため現在調整中とか。オーケストラに必要な楽器の調達もジニ先生の仕事だそうです。オケの楽器を私財を投じて揃えてきたのだそうです。


最近も中国製のフレンチホルンを買ったとのこと。日本のヤマハは「高価」で手が出ないのだそうです。今は「ファゴット」が欲しいのだけれど、資金がないのだそうです。


練習所はパルシーのジニ先生の顔の効く「TATA劇場」のリハーサル室を確保しているのです。政府とか自治体からの援助は一切なし。逆に政府からコンサート入場料に高額の税金が課されるのだそうです。インドの民俗音楽の演奏会は無税なのですが、西洋音楽は税金を払わなければならないのだそうです。


ジニ先生にとっては、インドで唯一の常設オケを運営している「誇り」が唯一の支えのようです。でも、若い世代が手伝っていかないと将来が心配です。ジニ先生のお弟子さんは、皆海外で演奏家になっていてインドに戻ってこないのだそうです。



2005年06月06日(月) 誕生パーティ

土曜日、事務所の社員がパーティをやるから家まで来いとのこと。ローカル社員の試用期間が終わった記念か、エンジニアのシスコ試験合格記念かと思ったら私の誕生パーティに代わっていました。インドのムンバイでこんなに暖かく誕生日を祝ってもらえて感激しました。事務所の社員は非常にチームワーク良く各自の配偶者ともども既に何回もパーティをしました。


ローカル社員の私への注文は「早く奥さんを連れて来い」というもの。とにかく歌ありダンスあり、そして各自で用意したというとんでもない量の食事。現在の社員は、全員、ノンベジ・アルコール可なので、色々な料理が可能なのです。なんだかんだで、終わったのは夜中の12時30分。疲れました。


その時間になるとさすがに外は静かです。帰り道、夜のインドの実態を確認しました。いつもの人通りの多い歩道には多くの人が寝ているのです。色々な向きに頭を向けてごろごろ人が寝ているため、歩道はほとんど通行不能なのです。その道路は鉄道駅に繋がっていて、非常に重要で日中は賑やかな通りなのですが、海から吹いてくる風が適当に涼しいのか、夜はタクシードライバー達の寝室になっているのでした。歩道際の道路はタクシーがびっしり止まっています。モンスーンになったらどこで寝るのだろうかと少し心配になりました。


日曜日午前中のムンバイ室内オーケストラの練習を見学してきました。8月上旬のコンサートに向けて、練習を開始したところだそうです。場所は、ムンバイ南端のTATAシアターの練習所。窓からのインド洋の眺めは最高です。ジニ先生が指導していました。(ヴァイオリン専門ですが、チェロも教えています。私の先生)正直言ってもう少し人数がいるだろうと期待していたのですが、1stヴァイオリン2名、2ndヴァイオリン3名、ヴィオラ3名の練習でした。


ジニ先生に」よると練習予定の周知が遅れてこれない団員が多かったとのこと。次回の日曜日期待です。私の参加を快く受け入れてもらい、チェロの楽譜を貸してもらってきました。今現在決まっている曲は、

ヴィヴァルディ 「ギター協奏曲」
ロゴリゴ 「ギター協奏曲」
エルガー 「弦楽のためのセレナード」

ヴィヴァルディ、ロドリゴのパート譜は手書きです。エルガーはコピー。やはり昔からの影響で、イギリス音楽が得意だし楽譜もそろっているのかなと思いました。



2005年06月05日(日) 50周年特別企画第二回

今年50歳の有名人。(インターネットのウィキメディア頁等を参考にしました)


渡辺えり子(女優)、高橋恵子(女優)、伊藤蘭(女優)、いがらしみきお(漫画家)、田中真弓(声優)、ケビン・コスナー(俳優)、太田裕美(歌手)、桜井賢(ミュージシャン;知りません) 所ジョージ(タレント)、大葉健二(俳優:知りません)、ジョン・グリシャム(作家)、矢野顕子(ミュージシャン)、サイモン・ラトル(指揮者)、スティーブ・ジョブズ(企業家)、城ヶ崎祐子(元フジテレビアナウンサー:知りません)、グレッグ・ノーマン(ゴルファー)、佐野四郎(俳優)、春風亭小朝(落語家)、池波志乃(女優)、松本智津夫(麻原彰晃、オウム真理教教祖)、島崎俊郎(タレント)、田中幹保(元バレーボール選手)ケント・デリカット(タレント)、ゲイリー・シニーズ(俳優)、ブルース・ウィリス(俳優)、村井純(大学教授)、寺沢武一(漫画家:知りません)、アンガス・ヤング(ミュージシャン:知りません)鳥山明(漫画家)、上沼恵美子(女性タレント)、西条秀樹(歌手)、トニーニョ・セレーゾ(元サッカー選手:知りません)、メレス・ゼナウィ(エチオピアの首相:知りません)、江川卓(元野球選手・スポーツキャスター)、中村勘三郎18世(歌舞伎俳優)、千代の富士貢(第58代横綱)、掛布雅之(元野球選手)、ティム・バーナーズ=リー(技術者:知りません)、金子修介(映画監督:知りません)、ミシェル・プラティニ(フランスのサッカー選手)、具志堅用高(ボクサー)、明石家さんま(お笑いタレント)、田中裕子(女優)、中川富雄(NHKアナウンサー:知りません)、黒沢清(映画監督:知りません)、ゲリー・コーツィー(元プロボクサー:知りません)、アグネス・チャン(歌手)、平松伸二(漫画家:知りません)、室山真弓(漫画家:知りません)、のむらしんぼ(漫画家:知りません)、今野敏(小説家:知りません)、ヨーヨー・マ(チェロリスト)、大和田獏(俳優)、郷ひろみ(歌手)、ラサール石井(タレント)、坂口良子(女優)、篠田節子(小説家、SF作家:知りません)、ビル・ゲイツ(マイクロソフト社の創立者)、麻岡めぐみ(元歌手)、ローランド・エメリッヒ(映画監督:知りません)、ジグメ・シンゲ・ワンチュク(ブータン王国第四代国王)、朝汐太郎(元力士)、世良公則(歌手)、松山千春(フォーク歌手)、野田秀樹(劇作家、演出家、俳優)、宮川花子(漫才師)、川中美幸(歌手)、関口和之(ミュージシャン(サザンオールスターズ:知りません)、福島瑞穂(社会民主党党首)


ビル・ゲイツ、ブルース・ウイルス、ケビン・コスナーが同じ年生まれだとは初めてしりました。人によって若い印象があったり年上の印象がありますね。高橋恵子さんとか、宮川花子さんは確実に自分より年上だと思っていましたよ。



2005年06月04日(土) 50周年特別企画第一回

50周年企画として過去を振り返って勝手に記録しておきたいと思います。この次は100年か75周年かいつになるかわかりません。

私の故郷は長野県須坂市です。北信濃の小都市でずっと人口5万人くらいです。昔は製糸産業が非常に盛だったので桑畑に影響があるからと信越線の通過に反対した結果、信越線は千曲川の東側の長野市方面を通過しているとか。


県庁があり善光寺のある長野市までは、長野電鉄という私鉄が走っていました。この長野電鉄の須坂から北は、小布施・湯田中へと続いています。当時の長野市には「丸光」というデパートがあって、善光寺参拝とともに、たまに連れて行ってもらう長野市は大きな都会だと感じられました。私の実家は須坂高校という高校のすぐ西側にありました。本籍は確かここかな。今の実家は移転して須坂市の北部にあります。


小さい頃から須坂高校のグランドは子供達の遊び場でした。(因み3人姉弟の真ん中)小さい頃の記憶は結構鮮明で、須坂高校の陸上部や体操部の生徒の練習風景を思い出します。高校生は「随分おっさんだ」と見ていたことを思い出します。このグランドの周りの草原には、「ばった」とか「蟷螂」がいて良く捕まえました。


小学校は家から歩いて15分くらいの小山小学校。当時は木造の古い校舎で、人学年3クラス。クラス名は「東」「中」「西」でした。学校の直ぐ側に有名な「臥竜公園」がありました。池と小山と動物園。桜の名所です。小学校の冬の体育の時間はそこにスキーやスケートに出かけました。山の名前は「臥竜山」といって、夏は昆虫鳥、秋は「きのこ取り」、冬は「スキー」と子供達にとっては非常に愛着のある山でした。


この山には昔城があったという話です。山の至る所に墓があって、「古い墓探し」なんていうのも遊びの一つでした。その頃から「お寺好き」が始まったのかと思います。勉強の記憶はありませんが、親が「習字の塾」へ通わせてくれたことは今でもありがたいと思っています。


今でこそ年賀状はパソコンで作りますが、そうなる前には住所だけは筆で書いていました。小学校高学年に「新聞配達」をしたのは本当に随分昔のことだと思い出されます。北信濃の冬は非常に寒いのです。冬の朝の新聞配達、梅雨時期の配達は大変だったのです。


当時いつごろか正確には覚えていませんが実家でメス猫を飼っていました。三毛の雉猫でした。顔が縦より、横幅の方が広い、円満な顔をしていました。これは非常に賢い猫で子供達と随分楽しく遊んでくれました。寒い冬の就寝時には、よく暖かい猫の「奪いあい」になりました。猫も体温の高い子供達は歓迎だったのだと思います。


弟の布団から逃げてきて私の枕元で「ニャー」(入れてくれ)と鳴くことがあったことを覚えています。掛け布団を持ち上げで、猫の入り込む空間を作り、丸くなった猫と一緒に寝るのでした。この猫の面影は、田舎の実家の白黒写真に残っています。


中学校は常盤中学校という小学校に比べると随分遠い中学校に行きました。私の実家が通学区のはずれだったまでのことですが。忘れ物をしてと取りに走って帰ると非常に疲れるのです。この学校、今では殆どない「肩掛けカバン」だったのです。柔らかい材質のカバンなので、教科書の角が擦り切れたり、ノートは丸くなってしまう。やはり、少し高くともしっかりしたカバンを指定すべきでした。教科書・ノート等の学用品は大切に扱うべきだと思います。


この学校に入って入部したのが吹奏楽クラブ。始めて近くで見る「トランペット」、「クラリネット」、「チューバ」などが非常に眩しかったのです。それまでは、楽器といえば、縦笛、ハーモニカ、アコーディオン程度しか知らない子供でした。最初に宛がわれた楽器が「クラリネット」。何も知らずに選んだのですが、消耗品の「リード」を購入しなくてはならなくて、結構お金が掛かることには閉口しました。


当時の顧問の「A先生」はとても意欲的な方で、クラブとしてコンクール出場を目指しました。当時弦楽クラブと合同で「俄フルオーケストラ」を作って、コンクールに参加し、東京の「虎ノ門ホール」で演奏したのは懐かしい思い出です。その時に泊まった九段会館(旧館)は今も健在です。私は1年生でしたが、3年生の先輩は皆さん楽器演奏が上手く、しかも下級生を上手に統率していたことを思い出します。


コンクール直前の「朝練」に遅れると班長からお説教されるのでした。当時、親にねだって、ステレオを買ってもらい、なけなしの金でレコードを数枚買いました。持っていたのは、交響曲が主で、運命、新世界、悲愴、幻想、モーツアルト40番位かな。幻想をミュンシュで聞いていたのは、少し変った少年の証拠でしょうか。当時演奏会などというものは殆どなく、記憶に残っているのは、友人を誘ってはるばる長野市までバレエの公演(たぶんボリショイかなにか)を見に行ったくらいです。


当時の常盤中学校の教育には今でも疑問が多いです。非常に躾に厳しく体罰も結構ありました。今考えても「こういう言い方は子供を傷つけるな」という反省材料に事欠きません。少し違うかもしれませんが、「ビター・スィート」の感覚かな。後に、信州は教育県だという噂を各地で聞きますが、どこが教育県なのか未だにわかりません。


私の感覚でいうと、田舎なので非常に同質的な人達が住んでいたのだと思います。小さな共同体なので共同体の輪は非常に大事です。それが行き過ぎて、異質な者には嫌う、一定の距離を置く。共同体とうまくやろうとすると、自然と異質であることを恥じる・・・。人と接する尺度は自分達の共同体のルールで定める。その中に上手く入り込めて、上手に立ち回ることができれば快適なのでしょう。それができない人間にとっては、とても辛い。


この頃深夜放送が始まって友達の影響で「オールナイトニッポン」を聞き始めました。ニッポン放送の亀淵社長が新米アナウンサーで入ってきた頃です。セイヤングの「野沢なち・白石冬美」コンビも有名でした。近所の家からもらった古いラジオで、東京の電波を必死に探して、大きくなったり、小さくなったりする不安定な電波で聞いていました。その後深夜放送は高校・大学時代まで、少しずつ聞いていました。


受験勉強をそこそこして無事中学を卒業し長野市の高校に通うことになります。須坂駅まで15分。須坂駅から本郷駅まで電車で20分位かな。そこから坂道を歩いて10分位で高校に行き着けます。本当は電車通学するなんて全く考えていませんでした。実は実家の目の前の高校に進学すれば、朝チャイムがなってから走っていってもOKだったのです。それでも、少し無理をして電車通学しようと考えたのは、私の身体の中で、少しづつ異質な物への憧れが膨らんできたからだと思います。


故郷の須坂市には私の実家と妻の実家があります。でも誰も住んでいません。妻の父母は既に亡くなり、私の母は小田原の弟の所にいます。昔は、新幹線もなし。高速道路もなしの僻地でしたが、長野オリンピックのお陰で、新幹線・高速道路が開通し須坂も近くなりました。これは「堤さん」のお陰です。誰も住んでいない二軒の家の管理と、方々にある親戚縁者の墓参りが大きな課題です。



2005年05月30日(月) まとめて

少し古い話題ですが、サッカーのヨーロッパクラブ選手権で、イギリスのリバプールがイタリアのACミランを破って優勝しました。ケーブルテレビのスポーツ番組で、この試合も他の試合もいくつか見ることが出来ました。


印象に残ったのはバルセロナ対チェルシー。この試合は順々決勝で実現しました。実質の決勝戦といってもいい組み合わせです。ホームでもアウェィでもバルセロナが押していました。ロナルジーニョを基点にバルセロナは終始攻め続けました。しかし、イギリスに帰って行われた後半で、チェルシーが挽回し、ついにリードを守りきったのでした。


そしてプレミアリーグ首位にいるチェルシーが、同じイギリスのリバプールに惜敗(1対0)したのです。リバプールはその余勢をかって、ミラン戦で前半の3点差を後半挽回し同点PK戦で優勝です。リバプールでは、キャプテンの存在が非常に大きいです。

チェルシー戦でも最後まで必死に猛攻を防いだし、ミラン戦では3点リードされた後半、最初の反撃のゴールを決めたのはキャプテンのヘディングでした。
テクニックでは負けていても、全員の気力を引き出して勝ちに結びつけるのです。正直言って、こういうサッカーを見ていると、日本に帰ってJリーグを見るのつらい。


昨日土曜日、領事館のIさん、メーカのOさん、商社のYさんを招待して夕食会をしました。メードのいない私が精一杯こしらえた料理で楽しんでもらいました。色々な話がでますが「食べ物」特に日本食の話は尽きないです。米がどれくらい残っているとか、どこで何を売っているとか。ムンバイは正直言って食環境が厳しいものがあります。私のところも、米の残りが減ってきたので、そろそろニューデリー買出しを考えないといけません。


土曜日の夕食で、食べすぎ・飲みすぎしたため日曜日は寝坊してしまいました。実は、ムンバイ室内オーケストラの練習風景を見学しようかと考えいたのです。練習は、TATA劇場のリハーサル室で、日曜の朝8時30分から11時30分までやっているとのこと。残念ながら二度寝をしてしまい起きたら11時でした。


午前中の寝坊は不本意だったので、午後はせっせと掃除して、その後練習をしました。月曜日はレッスンの日。



2005年05月29日(日) エレベータ奉行

今回事務所が入居したビルのエレベータは非常に面倒くさい。16階建てビルで、8階までが低層用、9階から15階まで高層用。全部で6基あるリフトのうち、一つは荷物運搬優先、一つがVIP用。残り4つを、低層用と高層用でつかうのですが、電力節約なのか通常二つは動かない。そして、朝とか夜遅くは低層・高層の区別なし。


まずエレベータに運転手いることに加えて、エレベータ広場に数人の「仕切り人」がいるのです。彼らは各エレベータに人を割り振る役割をするのです。VIPにはビル管理組合から許可証がだされていて「仕切り人」が顔を覚えていてVIP用リフトにはVIP以外の人は絶対乗れないようになっています。


そして少し大きな荷物を持っていると荷物運搬用にまわされるのです。この「仕切り人」のすごいところは、玄関の混雑でしか「運行」の判断をしないこと。上の各階に何人待っていようがお構いなし。そして、エレベーターの人数にがある程度にならないとスタートさせないのです。それも非常に毅然としていて誇らしげに采配を振るうのです。「仕切り人(奉行)」がOKサインを出すと徐に運転手が入ってきて出発するのです。


P.S.今日は日本海会戦100周年です。



2005年05月27日(金) ガンジーとボース

「忘れられた英雄−チャンドラボース」の映画はあまり人気がないみたいです。ボースに関する本を買ってきて斜め読みしています。


ボースはガンジーを非常に尊敬していたのですが「非暴力主義」はイギリス人にインド国民が勇気がない弱い集団なのだと思わせてしまうと考えていました。インド独立に関するイギリス宗主国との数回の折衝も、殆ど前進が見られなかったのはインドの人々が甘く見られているからに他ならないと考えていました。


歴史では、こうした意見の対立でボースはガンジーら国民会議派から離脱し、海外に逃れてイギリスの敵国の協力を得て、インド国民軍を組織しインドに攻め上がろうと考えたとされています。そんな成り行きで、ヒトラーと東条英機が登場してボースを助けることになったのでした。


一見ボースはガンジーと決別したかのように見えますが、実はこれはガンジーとボースの暗黙の了解であったのだと考えることも可能だと思われます。


ガンジーもイギリスの「ずるさ」には困り果てていて、何とか事態の打開を模索していた。かといって自分が「非暴力の旗」を降ろすわけにはいかない。当時、本格的な独立戦争になったら多くの人命が奪われ、国土は荒廃してしてしまう。そこでボースと示し合わせて、「不戦のガンジー」「武力のボース」という二枚看板を拵えた。「どちらかが成功すれば良し」。そのために双方は最後まで対立の構図を演出した。


最後にボースが飛行機事故でなくなってしまうのは誤算だったのか、それも予定にはいっていたのかもしれません。宗主国イギリスに対抗する戦略として、こういう話があっても面白いのではないでしょうか。「樅の木は残った」の原田甲斐の話は本当かどうか分かりませんが、結果的に伊達80万石が安堵されたようにインド独立が達成されたのでした。


日本の無条件降伏がもう少し遅れ、もしインド国民軍がインド主要都市に達してインドがイギリスから独立を勝ち取っていたら、現在の世界情勢は多いに変っていたのではないか。まず、独立戦争を共に戦ったのでヒンズーとイスラムの分裂は当然起こらなかった。


従ってパキスタンからバングラディシュを含む13億の人口を有する国が南アジアに出来ていたかもしれません。インドは貧しいけれど、宗教対立を上手く回避して、多民族・複数宗教国として民主主義を実践する。特に世界最大の3億人のイスラム教徒を有するのでイスラム教国の中での発言力が非常に大きくなっていたはずです。(イスラエル建国、インド・パキスタンの分裂等、イギリスの罪は大きいと思います。)



2005年05月25日(水) 電話・インターネットで苦労しています。

5月上旬に今の新しいオフィスに引っ越したのですが、電話・インターネットで苦労しています。両方とも、すんなりとは行かないと思い、もともと社員には携帯電話を配備し、さらにインタネットの無線アクセスカード(DCMA)を2枚購入していました。このお陰でなんとかしのいでいます。


まず電話設備ですが、ビルのオーナから貸与された2回線は、電話会社と料金トラブルがあるとかで今時点は発信不能になっています。入居早々は使えていたし、日本からに着信呼は受けられるので着信に使っています。

私のところは国際発信できないと業務に支障がでるので、オーナの1回線(国際可能)と、別会社(料金トラブルなし)の1回線を臨時に引いてもらっています。しかし別会社の1回線は、州内電話だけで、州際・国際通話は今時点できません。


「あと3時間で国際通話可能とする」と連絡を受けてから既に二日経過しています。電話機のセットは私も工事参加し、出来上がったのですが回線が固まりません。きちっと電話回線が固まらないので、名刺も作成できなし、引越し案内もできません。昨日からインタネットが不安定です。今日午前中カード3枚(1枚は私の私物)が使えませんでした。


おまけに、申し込んで翌日開通した臨時のケーブルテレビのインタネットもダウンしていたので、午前中は、電話回線をEPBXから抜いて、メールをチェックしてもらいました。これらカード、ケーブルのインタネットは全て臨時で、本格的には64Kbpsの専用線を引きます。これはいつになるかわかりません。


今全員で5人ですが、日本、シンガポール、香港、アメリカ等と連絡を取り合っているので、相手はガンガンを送ってきます。インタネットがダウンしたときの打撃は非常に大きいです。



2005年05月24日(火) ブッダ誕生日

1日遅れの報告です。昨日5月23日は5月の満月で、インドではこの日を「ブッダ」の誕生日としています。従って、祝日で銀行はお休み。しかし、街の多くの店とか事業所は営業していて、仏教徒が極めて少数であることを示しています。


インドのカウンターパート(通信会社)訪問のために日本から二名の客がきたのですがカウンターパートはちゃんと営業日でした。事務所は休みなのですが休日出勤で会議に付き合いました。カウンターパートはインド大手の電話会社。ここで午前中に打ち合わせがあると成行きで「お昼」をご馳走になることがあります。


昨日も社員食堂の特別室でインド式の昼食をいただきました。会社の従業員は「菜食主義者」が多いので、水曜日・金曜日以外は「ヴェジ料理」だそうです。ヴェジのカレーでも相当辛く日本からお客様は「汗たらたら」で食べていました。午後3時頃に無事に打ち合わせが終了したのでムンバイの名所を案内しました。それはマーケットと道路工事現場。


至る所に無粋な電信柱が立っている日本と違って、インドの大都市の通信ケーブルは「地中化」が進んでいるのですが、地中の浅いところに、管路なしで、ケーブルをそのまま埋めているので道路工事があると非常に危ういのです。ムンバイの大きな較差点で地下通路工事が進められている場所を案内し、現実のインドの状況を見てもらいました。剥き出しの太いケーブルが束になってブラブラしている光景はショッキングでした。


月曜日の夜はレッスンです。日本から妻にファイルで送ってもらった「楽譜」をレッスン仲間にプレゼントしました。音楽学校入学試験の課題曲です。目指しているのはイギリスの大学のようです。先生が試験の日1日だけ本物の楽譜を貸して欲しいというのでOKしました。理由を聞くと音楽学校の試験で、コピーの楽譜を持っていくと、試験を受けさせてもらえないのだそうです。


試験を受けるには、本物の楽譜でないとだめなのだそうです。インドで音楽大学受験準備するのは大変です。暗譜するしかないですね。



2005年05月22日(日) 糞ころがし

ブバネシュワラに行ったときの思い出を追加。彫刻作家の「サフー」さんの工房の庭で見つけた光景。「糞ころがし」がまさしく、糞を転がしているところ。一匹は逆立ちして、一生懸命押していました。初めて見ました。




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