| 2005年05月21日(土) |
やはり夜遅くのパーティ |
土曜日(21日)、女性インド人スタッフの結婚記念日だというので、パーティに呼ばれました。27回目の結婚記念日です。彼女は、ムンバイのキリスト教徒の社交クラブみたいなところを予約していて待っていてくれました。今日の参加者は、会社関係と彼女の近所のお友達15人程度かな。
パーティの始まりは夜の9時。マリンドライブというムンバイの目抜き通りに面している会場につくと、歌がガンガン聞こえます。これはうるさいパーティになりそうだと思いましたがその通り。アルコールなどあまり飲まず、踊るわ踊るわ。バンドはキーボード、リズムと歌手二人。
基本的には洋楽なのですが、たまにインドローカルの「映画音楽(つまり踊りに適した)」をやります。そうすると、それまで大人しかった人も踊りに参加。夜11時30頃に、ディナーが始まりました。踊りでお腹を空かせてカレーを食べるのです。私は、少し踊りに参加しつつビール(キングフィッシャー)を飲んでいました。
何組ものパーティが同じフロアで、わいわいガヤガヤなのですが、中には小さい子供もいて、退屈そうに大人なの騒ぎを見ていました。12時過ぎると、多くの参加者は大分疲れてくるのですが、元気が良い人は疲れを見せずに踊り続けます。
こういうパーティに参加するのは、一種の「やさしさ」なのかなとも思いました。お祝いする気持ちをおそくまで付き合うことで現しているのです。子供達も退屈で眠そうですが、大人たちのそういう友人との関わりをみて育つ。夜中でも、タクシーが安い走っているし、街中はにぎやかでした。
最近、事務所のインド人スタッフが、連続してダウンしました。ひとりは、昼食のチキンがあたって食中毒。先週のある日、3時半ごろ真っ青になってきて私のところに来て、「フードポイゾニングだ。だめです。帰ります」といって早退し二日間ダウンしました。
私も見舞いに行きましたが医者来ていて大変な状況だったみたい。同じ店の出前の「ボンレスチキンブリアニ」は私の通常のメニューなのです。もうひとりは、今週「ビールス性の風邪」でダウン。こっちも早退し二日ダウン。運が悪かったり、ちょっと油断すると身体を壊す可能性が高いことを痛感しました。
しかし、スリランカ時代から通算しても私は比較的元気です。寝込んだことは一度もない。原因を想像してみると、
1.日本で打ってきた「予防注射」が利いている。 2.運が良い。(各種宗教寺院の参拝が利いているのかも・・・) 3.もともと、南アジアの風土に身体があっていた。(北信州出身ですが) 4.用心深い。(良く寝ます) 5.年をとると元気になる しかし、一層気をつけようと思います。
| 2005年05月19日(木) |
もうひとりの「ボース」 |
新宿中村屋のインドカレー生みの親「ラシュ・ビハリ・ボース氏」について少し書きます。詳しくは中村屋のホームページへ。 新宿中村屋http://www.nakamuraya.co.jp/salon/index.html
ビハリ・ボースはチャンドラ・ボースと同じコルカタ(カルカッタ)生まれです。1886年に生まれだそうですから1897年生まれのチャンドラ・ボースより、約一回り上の年齢です。青年時代から独立運動に身を投じ、学業を捨てインド兵になることを目指しますがそれはかないませんでした。
そしてサラリーマンとして勤める傍ら独立運動を続けます。彼の考え方は今流の「テロ活動」ということができるでしょう。1912年にはデリーでイギリス総督のハーディング爆殺計画を決行します。
さらに2年後の1914年のデリーテロ事件で主犯とされイギリス植民地政府の尋ね者になります。そして、日本に渡ることを決意し「詩聖タゴール」の渡日にまぎれて来日。これが1915年です。
東京では当時日本に居た中国の革命家「孫文」ともと交流したようです。当時の日本はイギリスと日英同盟を締結していたので、日本政府はイギリス政府が反英分子として追っている犯罪者としてボースを捜索します。
官憲の尾行がついたボースが逃げ延びた先が当時の「中村屋」でした。中村屋は昔から沢山の文化人が出入りしていたとのこと。中村屋の相馬夫妻が4カ月間ボースを匿いました。その後も日本政府、英国政府の追及が続き、10数回にもわたり逃亡生活が続いたのだそうです。
その逃亡生活に同行したのが相馬夫妻の長女「俊子さん」だそうで、ボースは1918年に「俊子さん」と結婚します。そして第一次世界大戦終結でイギリスによるボース追及が終わると、ボースは中村屋敷地内に新居を立て生活を始めます。ボースは日本を拠点にインド独立運動の活動を続け、チャンドラ・ボースの来日を助けました。この生活の中でボースは中村屋にインド風のカレーの作り方を伝授しました。従って中村屋のカレーはベンガル風なのです。
ビハリ・ボースは、インドの独立を見ることなく1944年に亡くなりました。ボースの死後インド独立運動はチャンドラ・ボースに引き継がれました。ビハリ・ボースの考え方は、ガンジーの無抵抗主義ではなく、チャンドラ・ボースに近かったようです。日露戦争、第一次世界大戦をインドから見ていて、列強に伍して戦った日本に憧れたのだと思います。
彼が4ヶ月間「中村屋」に匿われたいた間に、インドカレーを相馬夫妻に伝授したとのですが、これはビハリ・ボースが日本食に飽き足らずインド式の辛いカレーを自分のために作ったのだろうと想像されます。「チャンドラ・ボース」の映画の中に、同じような光景が描かれています。
北ドイツのキール港からインド洋のマダガスカル島沖までの「Uボート」(潜水艦)の中の生活で、ボース等二人のインド人がドイツ料理が飽き足らず、インド式料理を船員に振舞う様子が描かれています。ドイツ人はインド料理を上手そうに食べます。インド人は、昔も今のインド料理なしでは生きていけないのです。いずれにしろ、ビハリ・ボースのお陰で日本の本格カレーライスの伝統が築かれました。
東インドのベンガルのカレーは北インド料理とは少し違います。北インド料理として有名な銀座のアショカのカレーを食べ比べると違いが判ります。ベンガル地方では米も取れるので、日本のご飯とインド式カレーはそれほど違和感が無かったと思います。インド西海岸、北部には米はそれほど一般的でないようです。
| 2005年05月18日(水) |
インドで電話配線工事 |
今日は新しいオフィスのビジネスフォン設置工事でした。3回線7電話で、2室にまたがる工事です。基本的には非常にシンプル。午前11時頃、業者二人がやってきて工事を始めました。少し見ていたのですが、非常に段取りが悪い。私は一応、日本の電話工事の免許を持っているし、大昔に少し経験があるので、口を出さざるを得ない。(業者はうるさい外国人だと思ったことでしょう)別の部屋のケーブルを引く必要があるのですが、彼らは引きたがらない。なんとか既存のケーブルをやりくりして電話機を繋ごうとするのです。
壁の中はこれまで中途半端に使ってきた電話線がごちゃごちゃになっているのです。私は遠回りでも、20芯のケーブルを引くことを提案しました。業者二人はしぶしぶその作業を始めめましたが、引っ張るケーブルの敷設するケーブルの結合をいいかげんにしているものだからケーブルが通らない。「やっぱりだめでしょ」見たいな顔をしている。
私が上手く通るようにテーピングして上手にケーブルを通したら彼等も少し見直したみたい。20芯のケーブルを引いてしまえば、あとは、電話機ごとに配線するのだから簡単だと見ていたら、芯線の確認に非常に手間取っているのです。ちゃんと芯線の色毎に少しメモでもしておけば簡単なのにそうしないのです。何回も多くの芯線にテスターをあてて探しているのです。
また工具もそろっていなくてドライバーでねじを締めるのに時間が掛かっている。ごちゃごちゃした配線は壁の中に埋め込んでしまえば外からはわかりません。しかし、次に工事するとき何がなんだか全くわからないはずです。大昔、会社入社早々に電話工事の研修を受けましたが、先輩の指導が非常に厳しかったことを覚えています。いわゆる職人気質です。
しかし、その先輩方の仕事の仕上がりは美しく、後から工事をする人は、前の工事人の巧みさに驚いたものです。壁の中の隠れた配線の処理をみて「丁寧な仕上げをしているね」と関心することが度々ありました。残念ながら今日の工事では、他人が見ていなければ、何をするかわからないような危なさがありました。日本の工事は単価がとてつもなく高いですが、やはり長い目でみると効率的なのかとな思いました。
ボンベイ室内オーケストラの役員の方に紹介してもらって、チェロの先生宅を訪問しました。先生はジーニさんといって、バイオリンが専門でチェロも片手間に教えているとのこと。
「とにかく、始めに聞かせてもらって教える事ができるかどうか検討する」とのことなので、訪問して一曲演奏したと言うわけです。どの程度の水準を想定していたのか不明ですが、めでたく(?)来週からレッスン開始です。
今年の3月に引越し荷物とっしょに、楽器を運び、5月中旬に先生に巡り合えたことは順調というものでしょう。私が訪問した時、ジーニ先生は別な人のレッスン中でした。その女性は、ムンバイ室内オーケストラで弾いているところも見た記憶があります。彼女は今年12月に試験を受けるそうでその準備を開始したところとのこと。
私がフォーレのエレジーを披露したところ丁度試験の課題曲の1曲がその曲だとのことでした。他の課題曲は、ベートーベンのソナタ3番1楽章と、バッハの無伴奏3番第一曲だというのですが、譜面がないのだそうです。
バッハは私の手元にペータース版があるのでそのコピーを取ればOK。ベートーベンについては、日本の妻に頼んで入手してもらい、インドへの送付を検討中です。実はベートーベンソナタ集は、随分先ですが私の練習課題にするともりだったのです。インドの音楽家を目指す若い人を少しでも支援したと思います。
ジーニ先生のレッスンは、楽譜だけ持っていって、ジーニ先生の楽器でレッスンをうけるのですが、この楽器は正直いって「辛い」です。弦は大分長く使っている感じで張りがない。弓の毛も暫く代えてないと思われます。全体として張りのある音が出なくて全体が優しい音です。この楽器でいい音が出せるようになれば凄いのでしょう。
| 2005年05月16日(月) |
少し右より (日本海海戦100周年) |
1905年。今から100年前の5月末、バルチック艦隊と日本の連動艦隊の日本海海戦が行われました。全世界が日本に勝ち目がないと見ていた戦いでした。しかし日本はこの決戦に勝利してしまった。
後にこの戦いが日本軍部の神話ともなり、「失敗の本質」で明らかにされているとおり、第二次世界大戦突入・遂行の理由ともなってしまいました。しかし、この時の日本の勝利は植民地支配に苦しみアジア諸国をどれほど勇気付けたことか。インドしかりです。
極東アジアの日本の勇気・西欧列強と真正面から対峙した日本。今からは全く想像することが出来ないような状況だと思います。昨日みた「チャンドラ・ボース」の映画の中の台詞で、「アングロサクソン支配からの脱却」という東条英機の台詞がありました。今年は終戦60周年でもありますが、この「アングロサクソン支配からの脱却」という思想は重いです。
パックスブリタニカからパックスアメリカーナ。ここ数百年の間アングロサクソンの支配(支配とまではいえないかも)、アングロサクソンスタンダードが世界の標準になっています。日本は100年前に、アングロサクソンではないですが当時の列強の中でも最強国のロシアに挑戦し65年前にアメリカに挑戦しました。今はというとアメリカと運命共同体となっています。
いや日本だけがそう思っているだけで、アメリカはそれ程気にかけていないかもしれません。歴史の重みはよその国に居ると余計に感ずるみたい。特に、非常に長い歴史を持ち、素直に植民地支配に甘んじ、平和を尊ぶインドにいるとそう思います。宗主国の支配はどうすることも出来なかったのですが、同じアジア人がとてつもない強敵のロシアに挑んだという事実は、植民地の被支配民族に勇気を与えました。
アジアからみた日本人の評価は、「平和を尊ぶ民族」に加えて「勇気のある民族」という部分も見逃せません。アジアの人々がかつて憧れた日本人像は今も生きているのでしょうか。
| 2005年05月15日(日) |
チャンドラ・ボースの映画 |
チャンドラ・ボース「忘れられた英雄」を見てきました。場所はムンバイ・コラバのリーガルシネマ。ムンバイの映画館ではこ綺麗な映画館の一つです。日曜料金でRs90。12時から3時30分まで、途中に5分の休憩がありましたが少し長く感じました。
言葉は9割が「ヒンドゥ」。残りは英語と判らない言葉と日本語が少し。どこの映画館でもそのようですが、上映前にインド国家を流すので観客起立。あちこちで音痴な歌声が聞こえます。映画は、1940年暮れにガンジーとボースの決別から始まりました。多分路線の違いを議論していたのだと思います。
ガンジーとボースとの真摯な議論を丁寧に扱っていました。ガンジーについては「そっくりサン」が居るようで似ています。前半の話は、ボースの旅に焦点があてられています。まずイギリス支配下の厳しいインドからの脱出劇。家族に永遠の別れを告げて、アフガニスタンのカブールを目指す旅が始まります。
カルカッタからカブール。途中の険しい山間部はロバとガイド一人の旅。漸く辿り付いたカブールでは頼みの「ソビエト」大使館から冷たく拒絶されます。 カブールではイタリア大使館で救われてイタリアからのビザを取得し一路ベルリンを目指します。ベルリンではドイツ人秘書を恋に落ち、一人娘をもうけます。これはしばしの幸福。
ベルリンで反英独立活動の準備をしますがインドまでは遠い。そして、ヒトラーにあってドイツからの支援を断られるかわりに日本を紹介されます。日本の大島大使に会って日本に行くように進言されます。それまでは、日本とボースの接点はありませんでした。
そして日本に出発するために再び家族との別れます。ドイツのUボートでマダガスカル沖まで行きそこで日本の潜水艦に乗り換えます。この潜水艦でのドイツ脱出は物語の一つの山場でした。この時すでにドイツは大西洋の制空権・制海権を失っていたようです。従って連合軍の警戒の網の目を潜っての脱出なのです。
日本で東条英機に会い独立インド軍結成への支援を取り付けます。この時、一瞬ですが「ビハリ・ボース」が登場し日本とボースの橋渡し役を匂わせていました。ヒトラー役に俳優は結構似ていますが東条英機は日本人顔のインド人を使ったみたい。英語が上手いのです。そして、在シンガポールのインド人を募って自由インド軍(暫定政府)を設立しインドへの進軍を準備します。
ここで休憩。チキンバーガー食べ紅茶を飲んでしばし休憩。後半は先頭シーンです。日本軍のインバール作戦に連動してインドシナ半島を北上し、インド方面に進軍しますが、頼みの日本軍はどんどん脱落してしまいます。日本軍の支援は殆ど得られません。
日本軍には日本から遠く離れた暑い熱帯のジャングルの行軍ですがインド軍には故国へ一歩一歩近づく行軍なのです。シンガポールを発して、漸くインドに到達したときのインド軍の喜びようは感動ものです。しかし、戦局は厳しいものでした。長崎・広島への原爆投下で日本は無条件降伏します。
そして8月17日ボースはサイゴンから台北に向かい、台北の飛行場で事故にあって死亡します。自由インド軍はイギリス軍に降伏し独立を目指した同志は投獄されてしまいます。しかしこの自由インド軍の捕虜を乗せた列車は、イギリス軍の制止にもかかわらずインドで大歓迎を受けます。そして自由インド軍に触発されたインド人のイギリスへの抗議行動が激しくなり、それから2年後1947年の8月15日に独立を果たすのです。
ボースの1940年から1945年まで5年間は活動はインド独立の大きな礎になっているとの設定。歴史を少し勉強していくと、言葉がわからなくとも筋は追えました。日本・ドイツとの関係はあまり深く描けないのでしょうが、日本人として恥ずかしい場面はありません。この映画、他の娯楽物の映画同様に音楽は凝っているのです。音楽がストーリを盛り上げます。至るところでダンスが出てきてもおかしくない雰囲気になります。
さらに映画館の音響効果(360度スピーカに囲まれている)を生かし、戦闘場面の迫力は満点。日本の娘が居たら、確実にきもちが悪くなっているような超低音のサウンド(爆発音など)。戦車が現代的であったり、現代式の機関銃の打ち合いがあったりと、時代考証の点では、「ほんと?」という場面が多いけれどそれはそれで楽しめました。ぜひ、日本語吹き替えで、日本でも上映して欲しいと思いました。
| 2005年05月14日(土) |
カレーと「チャンドラ・ボース」 |
私の新婚時代(といっても25年も前ですが)妻と各地のカレーレストランを食べ歩きました。なぜ始めたか理由は忘れましたが、フランス料理を食べる余裕が無かったことも理由だったはず。妻と一緒にグルメ本を頼りに、店を探し出して基本的にチキンカレーを食べるのです。最後の仕上げは「シナモンティー」。
当時は東京のインド料理店は数えるほどしかありませんでした。この趣味は今でも続いていますが、ここ数年スリランカとインドに住むチャンスを得て、本家のカレーレストランを食べ歩き、趣味の総仕上げをやっているようなものです。東京のインドカレーの代表はなんといっても新宿中村屋と東銀座のナイルでしょう。
この二つのレストランは、インド独立に尽くした二人のインド人に深く関係しています。中村屋は革命家「ラシュ・ビハリ・ボース氏」、ナイルレストランは創業者の「A.M.ナイル氏」です。
この二人は、昨日インドで封切られた映画、インド独立の英雄「チャンドラ・ボース」に深く関わっていました。この3人について少し調べて順番に記録しておきたいと思います。
「2005年小泉首相来印記念・・・チャンドラ・ボース」 チャンドラ・ボースは1897年にカルカッタ(現在のコルカタ)に生まれました。スバス・チャンドラ・ボースが正式名前です。イギリス留学から帰国して、1921年にマハトマ・ガンジーの英国支配への非協力・不服従運動に参加しました。
その後インド国民会議派に入り1938−39年に同派議長をつとめました。しかし、チャンドラ・ボースは非暴力のガンジーの路線と対立してインド国民会議から離れました。ボースの考え方は武力を否定するものでありませんでしたが、これは決してテロの類ではなく、勢力の弱まったイギリス軍に対して「有効な戦い方法」「勝ち方」を選んだのだとされています。
その後ボースはアフガニスタンを経由して1941年にベルリンに逃れ、武力でのインド解放を提唱します。そして1943年、ドイツの潜水艦に乗り、インド洋において日本の潜水艦に乗り換えて日本に入りました。彼は時の東条英機首相に支援を取り付け、日本軍の援助の下にシンガポールに自由インド仮政府を樹立してその首班となりました。そしてインド国民軍を率いて日本軍とともにインパール作戦参加し、大失敗に終わります。1945年8月19日、台北の飛行場で離陸直後の事故で死亡しました。
チャンドラ・ボースの墓は東京にありインドの要人は来日にあわせ訪問することになっているようです。(杉並区の蓮光寺に遺骨が安置されています)
新宿中村屋のラシュ・ビハリ・ボースは、チャンドラ・ボースの来日を画策し日本国内で彼の支援を行ったのです。確かにガンジーの「非暴力」は理想的なのですが、インドでは武力で独立を目指した「ボース」も英雄です。インドは第二次世界大戦終了後1957年に独立を果たしました。
日露戦争の日本の奇跡的勝利に加え、意見は分かれるでしょうが、英米列強に対抗するアジアの結束を目指した日本の理想に理解を示すインド人は少なくないようです。チャンドラ・ボースを再評価し、これまでの日印関係をきちんと理解しインドと付き合いって行きたいと思います。
日本の大衆料理はラーメンとカレーライス。中国とインドには切っても切れない縁があるのです。
今日は東京を中心に、いろいろな国を結んで電話会議がありました。電話会議は東京時間の9時30分に始まりました。従って、インド時間で6時から。その時間に会社に出勤するのも面倒なので、自宅の電話で参加しました。通常の会議だとと、日本時間の午後からにしてもらうのだけれど、今日の会議は少し「あらたまって」いたので9時30分開始なのです。一番遠くは南米のブラジルです。いったい何時なのでしょう。
昨日のマンゴーの続きです。ムンバイのフルーツショップで買ったのはムンバイでは最高級とされる「アルフォンスマンゴー」。アパートに帰って、「ゴア土産」のマンゴーと食べ比べたら、圧倒的に「ゴア産」が美味しいのです。
個体差かもしれないとおもって2個づつ食べましたが、「ゴア」産が圧倒的に美味しいのです。今日事務所で、お土産のマンゴーはなんというマンゴーなのか同僚に聞いてみました。彼女曰く、ゴア土産のマンゴーは「マンクラッド(Mancrad)」という種類で、ゴアでは、アルフォンスマンゴ以上に美味しいとされる種類なのだそうです。
「ムンバイでも手に入るのか」と聞くと、「ゴアでしか入手困難なのだ」とのこと。私への土産として夜行バスの手荷物として運んできてもらったものす。ムンバイはインドでも有数の美味しいマンゴーが集まる町ですが、上には上があるものです。マンゴウがこんなに上品で美味しい果物であることを始めてしりました。スリランカ時代の「バナナ」の発見に続く新発見でした。
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