KENの日記
 < 過去  INDEX  未来 >

2005年05月16日(月) 少し右より (日本海海戦100周年)

1905年。今から100年前の5月末、バルチック艦隊と日本の連動艦隊の日本海海戦が行われました。全世界が日本に勝ち目がないと見ていた戦いでした。しかし日本はこの決戦に勝利してしまった。


後にこの戦いが日本軍部の神話ともなり、「失敗の本質」で明らかにされているとおり、第二次世界大戦突入・遂行の理由ともなってしまいました。しかし、この時の日本の勝利は植民地支配に苦しみアジア諸国をどれほど勇気付けたことか。インドしかりです。


極東アジアの日本の勇気・西欧列強と真正面から対峙した日本。今からは全く想像することが出来ないような状況だと思います。昨日みた「チャンドラ・ボース」の映画の中の台詞で、「アングロサクソン支配からの脱却」という東条英機の台詞がありました。今年は終戦60周年でもありますが、この「アングロサクソン支配からの脱却」という思想は重いです。


パックスブリタニカからパックスアメリカーナ。ここ数百年の間アングロサクソンの支配(支配とまではいえないかも)、アングロサクソンスタンダードが世界の標準になっています。日本は100年前に、アングロサクソンではないですが当時の列強の中でも最強国のロシアに挑戦し65年前にアメリカに挑戦しました。今はというとアメリカと運命共同体となっています。


いや日本だけがそう思っているだけで、アメリカはそれ程気にかけていないかもしれません。歴史の重みはよその国に居ると余計に感ずるみたい。特に、非常に長い歴史を持ち、素直に植民地支配に甘んじ、平和を尊ぶインドにいるとそう思います。宗主国の支配はどうすることも出来なかったのですが、同じアジア人がとてつもない強敵のロシアに挑んだという事実は、植民地の被支配民族に勇気を与えました。


アジアからみた日本人の評価は、「平和を尊ぶ民族」に加えて「勇気のある民族」という部分も見逃せません。アジアの人々がかつて憧れた日本人像は今も生きているのでしょうか。



2005年05月15日(日) チャンドラ・ボースの映画

チャンドラ・ボース「忘れられた英雄」を見てきました。場所はムンバイ・コラバのリーガルシネマ。ムンバイの映画館ではこ綺麗な映画館の一つです。日曜料金でRs90。12時から3時30分まで、途中に5分の休憩がありましたが少し長く感じました。


言葉は9割が「ヒンドゥ」。残りは英語と判らない言葉と日本語が少し。どこの映画館でもそのようですが、上映前にインド国家を流すので観客起立。あちこちで音痴な歌声が聞こえます。映画は、1940年暮れにガンジーとボースの決別から始まりました。多分路線の違いを議論していたのだと思います。


ガンジーとボースとの真摯な議論を丁寧に扱っていました。ガンジーについては「そっくりサン」が居るようで似ています。前半の話は、ボースの旅に焦点があてられています。まずイギリス支配下の厳しいインドからの脱出劇。家族に永遠の別れを告げて、アフガニスタンのカブールを目指す旅が始まります。


カルカッタからカブール。途中の険しい山間部はロバとガイド一人の旅。漸く辿り付いたカブールでは頼みの「ソビエト」大使館から冷たく拒絶されます。
カブールではイタリア大使館で救われてイタリアからのビザを取得し一路ベルリンを目指します。ベルリンではドイツ人秘書を恋に落ち、一人娘をもうけます。これはしばしの幸福。


ベルリンで反英独立活動の準備をしますがインドまでは遠い。そして、ヒトラーにあってドイツからの支援を断られるかわりに日本を紹介されます。日本の大島大使に会って日本に行くように進言されます。それまでは、日本とボースの接点はありませんでした。


そして日本に出発するために再び家族との別れます。ドイツのUボートでマダガスカル沖まで行きそこで日本の潜水艦に乗り換えます。この潜水艦でのドイツ脱出は物語の一つの山場でした。この時すでにドイツは大西洋の制空権・制海権を失っていたようです。従って連合軍の警戒の網の目を潜っての脱出なのです。

日本で東条英機に会い独立インド軍結成への支援を取り付けます。この時、一瞬ですが「ビハリ・ボース」が登場し日本とボースの橋渡し役を匂わせていました。ヒトラー役に俳優は結構似ていますが東条英機は日本人顔のインド人を使ったみたい。英語が上手いのです。そして、在シンガポールのインド人を募って自由インド軍(暫定政府)を設立しインドへの進軍を準備します。


ここで休憩。チキンバーガー食べ紅茶を飲んでしばし休憩。後半は先頭シーンです。日本軍のインバール作戦に連動してインドシナ半島を北上し、インド方面に進軍しますが、頼みの日本軍はどんどん脱落してしまいます。日本軍の支援は殆ど得られません。


日本軍には日本から遠く離れた暑い熱帯のジャングルの行軍ですがインド軍には故国へ一歩一歩近づく行軍なのです。シンガポールを発して、漸くインドに到達したときのインド軍の喜びようは感動ものです。しかし、戦局は厳しいものでした。長崎・広島への原爆投下で日本は無条件降伏します。


そして8月17日ボースはサイゴンから台北に向かい、台北の飛行場で事故にあって死亡します。自由インド軍はイギリス軍に降伏し独立を目指した同志は投獄されてしまいます。しかしこの自由インド軍の捕虜を乗せた列車は、イギリス軍の制止にもかかわらずインドで大歓迎を受けます。そして自由インド軍に触発されたインド人のイギリスへの抗議行動が激しくなり、それから2年後1947年の8月15日に独立を果たすのです。


ボースの1940年から1945年まで5年間は活動はインド独立の大きな礎になっているとの設定。歴史を少し勉強していくと、言葉がわからなくとも筋は追えました。日本・ドイツとの関係はあまり深く描けないのでしょうが、日本人として恥ずかしい場面はありません。この映画、他の娯楽物の映画同様に音楽は凝っているのです。音楽がストーリを盛り上げます。至るところでダンスが出てきてもおかしくない雰囲気になります。


さらに映画館の音響効果(360度スピーカに囲まれている)を生かし、戦闘場面の迫力は満点。日本の娘が居たら、確実にきもちが悪くなっているような超低音のサウンド(爆発音など)。戦車が現代的であったり、現代式の機関銃の打ち合いがあったりと、時代考証の点では、「ほんと?」という場面が多いけれどそれはそれで楽しめました。ぜひ、日本語吹き替えで、日本でも上映して欲しいと思いました。



2005年05月14日(土) カレーと「チャンドラ・ボース」

私の新婚時代(といっても25年も前ですが)妻と各地のカレーレストランを食べ歩きました。なぜ始めたか理由は忘れましたが、フランス料理を食べる余裕が無かったことも理由だったはず。妻と一緒にグルメ本を頼りに、店を探し出して基本的にチキンカレーを食べるのです。最後の仕上げは「シナモンティー」。


当時は東京のインド料理店は数えるほどしかありませんでした。この趣味は今でも続いていますが、ここ数年スリランカとインドに住むチャンスを得て、本家のカレーレストランを食べ歩き、趣味の総仕上げをやっているようなものです。東京のインドカレーの代表はなんといっても新宿中村屋と東銀座のナイルでしょう。


この二つのレストランは、インド独立に尽くした二人のインド人に深く関係しています。中村屋は革命家「ラシュ・ビハリ・ボース氏」、ナイルレストランは創業者の「A.M.ナイル氏」です。


この二人は、昨日インドで封切られた映画、インド独立の英雄「チャンドラ・ボース」に深く関わっていました。この3人について少し調べて順番に記録しておきたいと思います。

「2005年小泉首相来印記念・・・チャンドラ・ボース」
チャンドラ・ボースは1897年にカルカッタ(現在のコルカタ)に生まれました。スバス・チャンドラ・ボースが正式名前です。イギリス留学から帰国して、1921年にマハトマ・ガンジーの英国支配への非協力・不服従運動に参加しました。

その後インド国民会議派に入り1938−39年に同派議長をつとめました。しかし、チャンドラ・ボースは非暴力のガンジーの路線と対立してインド国民会議から離れました。ボースの考え方は武力を否定するものでありませんでしたが、これは決してテロの類ではなく、勢力の弱まったイギリス軍に対して「有効な戦い方法」「勝ち方」を選んだのだとされています。


その後ボースはアフガニスタンを経由して1941年にベルリンに逃れ、武力でのインド解放を提唱します。そして1943年、ドイツの潜水艦に乗り、インド洋において日本の潜水艦に乗り換えて日本に入りました。彼は時の東条英機首相に支援を取り付け、日本軍の援助の下にシンガポールに自由インド仮政府を樹立してその首班となりました。そしてインド国民軍を率いて日本軍とともにインパール作戦参加し、大失敗に終わります。1945年8月19日、台北の飛行場で離陸直後の事故で死亡しました。


チャンドラ・ボースの墓は東京にありインドの要人は来日にあわせ訪問することになっているようです。(杉並区の蓮光寺に遺骨が安置されています)


新宿中村屋のラシュ・ビハリ・ボースは、チャンドラ・ボースの来日を画策し日本国内で彼の支援を行ったのです。確かにガンジーの「非暴力」は理想的なのですが、インドでは武力で独立を目指した「ボース」も英雄です。インドは第二次世界大戦終了後1957年に独立を果たしました。


日露戦争の日本の奇跡的勝利に加え、意見は分かれるでしょうが、英米列強に対抗するアジアの結束を目指した日本の理想に理解を示すインド人は少なくないようです。チャンドラ・ボースを再評価し、これまでの日印関係をきちんと理解しインドと付き合いって行きたいと思います。


日本の大衆料理はラーメンとカレーライス。中国とインドには切っても切れない縁があるのです。



2005年05月13日(金) 電話会議

今日は東京を中心に、いろいろな国を結んで電話会議がありました。電話会議は東京時間の9時30分に始まりました。従って、インド時間で6時から。その時間に会社に出勤するのも面倒なので、自宅の電話で参加しました。通常の会議だとと、日本時間の午後からにしてもらうのだけれど、今日の会議は少し「あらたまって」いたので9時30分開始なのです。一番遠くは南米のブラジルです。いったい何時なのでしょう。



2005年05月12日(木) マンゴー(続き)

昨日のマンゴーの続きです。ムンバイのフルーツショップで買ったのはムンバイでは最高級とされる「アルフォンスマンゴー」。アパートに帰って、「ゴア土産」のマンゴーと食べ比べたら、圧倒的に「ゴア産」が美味しいのです。


個体差かもしれないとおもって2個づつ食べましたが、「ゴア」産が圧倒的に美味しいのです。今日事務所で、お土産のマンゴーはなんというマンゴーなのか同僚に聞いてみました。彼女曰く、ゴア土産のマンゴーは「マンクラッド(Mancrad)」という種類で、ゴアでは、アルフォンスマンゴ以上に美味しいとされる種類なのだそうです。


「ムンバイでも手に入るのか」と聞くと、「ゴアでしか入手困難なのだ」とのこと。私への土産として夜行バスの手荷物として運んできてもらったものす。ムンバイはインドでも有数の美味しいマンゴーが集まる町ですが、上には上があるものです。マンゴウがこんなに上品で美味しい果物であることを始めてしりました。スリランカ時代の「バナナ」の発見に続く新発見でした。



2005年05月10日(火) オフィス引越しと「マンゴウ」

昨日、新しいオフィスに引っ越しました。荷物もそれどほど多くなかったので、ダンボール箱に書類を詰め込んで、乗用車でピストン輸送しました。新しいオフィスは、少し広くて、少し新しくて、オフィス内に洗面所、トイレ完備。後は、電話とインタネットです。これは少し時間が掛かるため、当面はモバイルと無線アクセス(おそい)で対応します。


日曜日の夜、M銀行のMさんと夕飯を食べたのですが、Mさんから貴重な情報を頂きました。ニューデリーに「日本の米」を売っている店があるとのこと。
これはすごいニュースです。ニューデリーなら出張の際に勝ってくる事が出来ます。新しいオフィスに果物屋さんが出入りしていて、「マンゴウ」の箱(12個入り)を運んでいました。おいしそうだったので一箱買いました。(Rs200)


そしたら今日会社の人から「ゴア土産」として、マンゴウを10個もらってしまいました。冷蔵庫はマンゴウだらけです。でも今まさに季節なので、とても美味しいです。こちらでは果物の王様だと言っています。マンゴウは美味しいのだけれど、食べ方少し面倒なのです。大きな種が真ん中に入っています。美味しい果肉は鳥に種ごと遠くに運んでもらうためのものだと思いますが、こんな大きな種を運べる鳥はそういないです。


それとも、マンゴウの木が狙っているのは「猿」かしら。ひょとして人間?



2005年05月08日(日) 田植えの季節

妻の日記によると、さいたま市の我が家の周りの田んぼに水が入ったとのこと。武蔵浦和から10分程度のマンションの周りに実は田んぼがあるのです。のどかです。


話は飛んで先週行ってきたインド東海岸の「オリッサ州」。タミール・ナド州と並んで稲作が盛んです。水田風景が日本を彷彿とさせます。3月にタミール・ナドのチェンナイに行ったときに教えてもらったのですが、インドは普通「三毛作」なのだそうです。


天気の良い時には、3ヶ月で収穫。これが二回。それと4から5ヶ月で収穫する周期があるのだそうです。東海岸は殆ど一年中天気が良いので、同じ時期に色々な状態の田んぼが見られます。つまり、田植えしたばかり田んぼの横には、刈り取り寸前の稲穂が実っていたりします。あたり一面の田んぼに、一斉に水が張られるといった、日本の春の風景はありません。田んぼがあるというのは、水が豊富な証拠です。インド中央部のデカン高原には田んぼなどありません。インドからすると日本の自然の豊かさは、本当にうらやましい限りです。


話題を変えてインドの旅の宿泊施設の話。
宿泊施設といっても一緒に旅するドライバーの宿泊施設のことです。スリランカ時代、ドライバーの「スニール」とスリランカの色々なところを旅しました。当然遠出の時はホテルに泊まるのです。スリランカの主要なリゾートホテルはドライバー用に宿泊施設が完備されていました。さらにドライバー用に食事まで準備されているのが普通でした。というのも、周囲10Km位には全く家がないようなホテルもありましたから・・・。


「スニール」の話を聞くとドライバー用の施設・食事が良いところと、ひどいところがあるとのこと。私が持参した「防虫スプレー」は通常はスニールが使っていました。


インドの事情ですが、一昨年のタミール・ナド、昨年のアジャンタ・エローラ、今回のオリッサの旅の経験からすると、インドのホテルでは通常はドライバー用の部屋とか食事は用意されないみたいです。ドライバーは宿泊施設、食事を自己解決しなければならないみたいです。車の中で寝るか、どこか適当な場所を探すか・・・。これは少し辛そうです。


今回の旅のドライバーの「セブー」は、3泊4日なのですが荷物は何も持っていません。すごい生活力です。でも、私はこれに驚かない訓練ができているのです。我が屋(アパート)の階段の踊り場では、だれかが寝ていることが多いし(確か彼は管理人のはず)。


更に早朝、夜明けごろ散歩に出かけると、車の狭いボンネットの上で寝ているタクシー運転手を見かけるからです。インドでは、どこで寝る、どんな形で寝るというのは、大して問題ではないみたいです。しかも、公衆トイレ、洗面所がいたるところにあるので、最低の用は足りるみたい。バックパッカーが安い宿に泊まるのは、インドではそれほどひどい話ではないみたいです。



2005年05月06日(金) 連休終了

ゴールデンウィーク終了。日本が休みなので、日本からの電話・メールが少なく、少し平和な週でした。連休に重なって、小泉首相がインドを訪問されたのですが、あまり話題になりませんでした。


こちらの新聞でも、ニューデリーの地下鉄に乗る首相の写真がちらっと掲載されただけ。首相来印で、セミナーやら日印の交流の場があれば、私もニューデリーに行こうかとも考えていたのですが、大した物もないようなので行きませんでした。


首相は、郵政民営化・日中関係で頭がいっぱいであったのでしょうか。インドは、中国みたいに過去を責めないし、民主主義国家なので、親しくしておいて損はないのに。やはりインドは日本から遠かった。


今こちらでは、チャンドラ・ボーズの映画が上映されています。(流行っているかどうかは不明)(5月13日封切りだそうでした。ボースはインド独立の英雄です)街中でボーズの彫像を見ることも出来ます。チャンドラ・ボーズは、東京裁判のバール判事と並んで、昔、日本を理解してくれた数少ない外国人。日本とインドの距離が縮まることを期待します。



2005年05月05日(木) 思い出して (ブバネシュワラ・プリ旅行)

今回の旅の思い出をいくつか記録しておきます。30日に飛行機でブバネシュワラに出発しました。


ムンバイ−ブバネシュワラ間は国営のインディアエアラインしか飛んでいないので、選択肢は他にないのですがこの会社は予想外に良いです。インド民間航空会社では「ジェットエアー」が人気が圧倒的にありますが混雑することに加え座席が狭い。


インディアエアラインは比較的空いているし座席も少し余裕があります。会社の人に聞くと「ジェット」の良い点は、マイレージと客室乗務員が若いということらしい。そういえば、インディアンエアラインのフライトアテンダントの平均年齢は高そうでした。


機内食は味は同じようなものです(両方とも美味しくはナイ)。機内誌の占いコーナーを読んでいると、気の利いたことが書いてありました。(私は双子座)曰く「家族の中の一人に非常に多くの幸福が訪れる」とのこと。


日本に居る家族を思い浮かべると、妻は「くじ運」は悪いし、あまり特殊のことをしないでしょうから対象外かな。娘が現役で大学に入学できたこと(試験は3月)を言っているのかしらとも考えられるし、いや長男の就職試験(5月1日)のことかなとも考えました。自分以外の家族の幸福とは何なのでしょう? でも面白い占いです。


今回の旅は「オリッサ建築、美術」に触れることが目的だったのです。その目的に合致するかのように二組の家族に会うことが出来ました。一つの家族は、プリー(Puri)の「チッタラ」絵画の「ベヘラ」さん家族。ホテルで土産物屋を紹介してもらい、その土産物屋のご主人の紹介で、作家の「ベヘラさん」を紹介されました。


ベヘラさんの工房兼ショップにお邪魔して、細密画の製作風景だとか、作品を拝見しました。オリッサの細密画は、非常に細かいことに加えて、どこかに遊び心があって楽しいのです。ベヘラさんの所で「ジャガナート神」のこけし(のようなもの)を購入してきました。


もう一つの家族はブバネシュワラの「サフー」さんです。ホテルの部屋に投げ込まれた5月3日の新聞に彼の工房の記事が載っていたのです。フロントでその工房がどこにあるのか聞いてみると、宿泊していたホテルから目と鼻の先。
早速出向いてみました。サフーさんはオリッサ彫刻の第一人者で、昨年の大統領表彰に輝いた作家だったのです。


工房の入り口付近には大きなジャイナ教の「マハービラ」の石造が置かれていてまだ仕上げられていません。サフーさんによると仏陀像は比較的自由な制作が可能なのだけれど、マハービラ(ジャイナ教)の像は、非常に細かなルールがあるとのこと。


インド国内でも正式なマハービラ像を彫り上げることの出来る作家はたった3人だけだと言っていました。サフーさんとその長男だという方に色々話を伺いました。なんとサフーさんは日本語を上手に話します。


聞いてみると日本山妙法寺の住職さんと親しく、日本に行っていくつかの寺の仏像を彫り上げたとのこと。案内された展示室には日本関係の写真や、日本式の仏壇がおいてありました。日本の仏教彫刻は素晴らしいと言ってらっしゃいました。


サフーさんの工房では10人以上のお弟子さんが、一生懸命彫刻に取り組んでいました。(朝9時過ぎに行ったのですが、インドで9時から働いている風景は稀です)サフーさんの話によると設計図とかデザインを描いた下書きは一切なし。全て師匠から学ぶのであって、作者の頭の中の創造力なのだそうです。コナラクのスーリヤ寺院でもそうですが、壁一面に掘り込まれた彫像には下絵などないのです。全てが作家の頭の中の「絵」が彫る技術によって形となるのです。


難しいのは、崩れ去ってしまった彫刻や、頭部の失われてしまった彫刻の復元なのだそうです。作られた当時の作風だとか、文書による言い伝えなどから、自分で想像しながら復元していくのだそうです。サフーさんは一時省みられることのなかった「オリッサ芸術」の復興に取り組んでいるとの由。展示館にある彫刻は、多くのお弟子さんの作品も含みますが、素晴らしい作品が沢山ありました。


インドの古い伝統は、確実に現在でも受け継がれていることが分かりました。
最後にドライバーの「セブー」さんのこと。彼は地理は詳しくないけれど安全運転で、とても好感の持てる運転手でした。ただ英語が上手くないのです。私の英語の発音が悪いこともありますが、私が後ろの座席から英語で話しかけると、運転中にもかかわらず顔を後ろに向けてじっと聞き入るのです。これは「あぶない」。運転中に話かけるのは控えたし、最小限の単語にしました。「ストップ」「ゴウ」程度。それ以上話すと非常に危険なのです。



2005年04月29日(金) 耳に就いてしまった旋律

2月までホテル住まいだったので、朝食はホテルのレストランでとっていました。そのレストランではクラシックの音楽をバックに流していたのですが、朝の晴れ晴れした雰囲気とは対照的な曲が掛かっていて、耳についてしまいました。それはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」。


朝から物悲しい音楽が流れているので最初は変な感じでしたが、暫くしてから慣れて朝の音楽になってしまいました。アパートに移ってからそのアダージョが無性に聞きたくなって先日CDを買ってきました。演奏は、ジンマン指揮のデトロイトシンフォニーオーケストラ。ムンバイのCD屋で売っていたのはこのCDだけです。他の演奏者はなし。演奏自体はあまり気に入っていません。


耳に就いている旋律というと、古い話ですが中学時代のお昼の放送の音楽:ベートーベンの交響曲8番の冒頭旋律。さっそうとしした音楽が「あまり美味しくない給食」と好対照でした。


それと故郷信州の「信越放送」の夕方にテレビニュースのテーマ音楽:ラフマニノフ交響曲第2番2楽章の冒頭(スケルツオ)なんか暗いニュースを真面目に報道する雰囲気でした。勿論曲名を知ったのは後のことですが、今でもこれらの曲を、当時の雰囲気をおぼろげながら思い出して不思議な気分になります。




Ken [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加