娘がこの4月から大学生です。私はインドにいるので詳しいことは分からないけれど、大分忙しそうです。入学早々なのに、宿題のためにほぼ徹夜までして・・・。理系の学部(デザイン)はそんなに大変なのかしら。
約30年前の自分を考えてみると、文系でしかも経済学部というなんとも暇そうな学部なのですが、入学早々そんなに大変だった記憶はない。夜遅くまで酒を飲んでいたことはあるけれど。大学の学部そのものが、第一希望の夢破れて、都落ちみたいな雰囲気があったのは事実だし、大学は殆ど学生の面倒など見なくて、自分の学びたい物を探すのに少し時間をかけるような雰囲気でした。
しかし娘の様子を聞いているといきなり「大学の専門教育まっしぐら」みたい。教養で、哲学だ、文学だ、倫理学だ、歴史だと学んでも、どれくらい役立つかは分からないのは確かだけど、幅広い土台なしに、高い建物は建てることは不可能だと思うし、最低読んでおいたほうが良い本はかなりあるでしょう。最近の大学教育は昔と比べて大分変っているらしい。(妻の情報)
まあ妻も長男も娘も現役で入りたい大学に入ったのだから、私とは少し事情が違かなあ。妻の話では工学部は昔でも最初から結構大変だそうですが、私の入学当時のサークル仲間はそうだったか記憶がないのです。
私に関する限り、サークルで得た友人関係は人生の大きな宝物であるし、当時、学生運動のことにも少し首を突っ込んで、しょうもない議論をしたのは良い思いでなのです。まあ、時代が違うのでしょう。
| 2005年04月24日(日) |
「マクダム・アリ・ダルガ」イスラム寺院 |
インドにおいてヒンズー教に次いで大きな信者数を抱える宗教がイスラム教です。第二次世界大戦後、西パキスタン、東パキスタン(現バングラディシュ)分離によってインド亜大陸のイスラム人口は流出しましたが、それでも現在のインド国内には1億人以上のイスラム教徒がいます。
インドのイスラム王朝は北インドのムガール王朝が超有名です。5代皇帝(17世紀前半)シャー・ジャハンが奥さんの墓として作った「タージマハール」はイスラム建築の代表的な文化遺産です。インドのイスラム王朝はヒンズー教の社会構成の構図を残しつつ支配しました。よく言われる「コーランか死か」というようなヒンズー至上主義(言葉の定義は曖昧です)ではありません。
この辺りのことは岩波新書「ヒンズー教とイスラム教」(荒松雄著)が詳しいです。さてムンバイにも多くのイスラム教徒が住んでいます。特に貧しい人が多いと聞きます。ムンバイのヒンズー寺院としては「ハジ・アリ」(海の中に突き出た寺院:観光地)が有名ですが、今回は、もう少しマニアックなマヒムにある「マクダム・アリ・ダルガ」に行ってみました。
実はインドのイスラム教の歴史は大分古く、北インドイスラム王朝支配の随分前から浸透していたのです。しかも、少し変った形で・・・。
「ハジ・アリ」もそうですが、「マクダム・アリ・ダルガ」も実は「イスラム聖人」の墓なのです。通常、イスラム教では偶像崇拝を厳しく禁止していますが、これらのイスラム寺院(正確には墓所)では、「聖人」の墓に信仰対象になっています。多くの人が墓に手を差し伸べ、首をたれている様子を見ることが出来ます。
「マクダム・アリ」には、「マクダム・アリ・マヒム(1372−1431)」の墓があるのです。イスラム教スフィ派が9世紀から10世紀に中央アジアイラン方面からインドにやってきたとのこと。イスラム教が発生してから200年か300年か後の事です。
このスフィ派は「苦行して奇跡を行って人々を教え・救済する」人達であったそうです。この「マクダム」はコーランを懸命に学び、インド人で最初にアラビア語のコーラン注釈を書いたのだそうです。多くの人々が崇拝しているところ見ると社会活動にも熱心で貧しい人達を助けたのだと思います。
この「マクダム・アリ」で面白いのは、明らかにヒンズー教と思われる人達も自由に一生懸命お祈りしていることです。普通、イスラム教社会では女性は肌を隠さなければなりませんが、ここではサリーを着た女性が男性と同等に礼拝しています。イスラム教にしては、非常に「開かれた感じ」です。私にも非常に親切でした。その墓所の横には、大きなモスクがあり人々が西に向かってお祈りをする光景が見られます。
インドにおけるスフィ派イスラム教は、このようにヒンズー教徒にとっても違和感のないものだったようです。インド社会では「聖人」崇拝が盛んです。一種の新興宗教みたいですが人々は非常に尊敬しています。ムンバイでよく見る聖人の像は「サイ・ババ」で、宗教を超えて多くの人々から尊敬されています。「サイ・ババ」といっても現在の南インドのアフロヘアーの「サティヤ・サイ・ババ」ではありません。19世紀後半にマハラシュトラのシルディに現れた聖人です。彼はイスラム教とヒンズー教両方の深い知識があったそうです。
少し怖そうな顔をした「シルディ・サイ・ババ」は、人々の病気を治す奇跡の「灰」を取り出したとのこと。今、南インドのアフロヘアーの「サティア・サイ・ババ」は、彼の生まれ変わりだと主張しているのです。インドには、こうした聖人を崇拝する素地は随分昔からあったのたため、イスラムの聖人を、そしてイスラム教を自然と受け入れたのだと思います。一生懸命にお祈りする人達を見ると、人々の信仰心の深さに驚かされます。
ただ、イスラム寺院には、貧しい人が集まっていて、物乞いの人が直ぐに寄ってきます。「ハジ・アリ」も、寺院までの海岸の道には、非常に多くの物乞いの人が座っています。ヒンズー寺院とは別な「覚悟」をしていかなければなりません。
| 2005年04月23日(土) |
ワイヤレスエアカード |
TATAインディコムの電話機経由のインタネットアクセスが非常に不便ななので、同じTATAの無線カードを試しています。これは高価(Rs14999)なので性能を試してから買うかどうか決めるつもりです。電話機経由では「115kbps」、カードなら「150kbps」だそうで、それほど違いはないのですが、電話機経由のアクセスでは、勝手に切断されてしまうのです。
カードはそれがないということ。高い分優遇されているのでしょう。今、日本の速度計測サイトで、スピードを図ると「50kbps」。切れない分だけ使いやすいですが驚くほど遅いです。今週水曜日にあったTATAのセールスマンは、「常時50kbpsなので非常に便利」といっていましたが、インドでは、インターネット事情からすると仕方がないですね。
ブログのメンテナンスはなんとか出来ます。今メッセンジャーで日本と交信しようとしていますが、音声も画像(動画)もとても無理でしょう。
ついでに昨日の記録。
22日金曜日に事務所の社員3人とその奥さん、旦那さん3人を呼んでアパート引越しパーティをしました。社員の中ひとりは10年前くらいに大阪大学に留学して日本食ファンだし、折角今たっぷり日本食があるので、奮発して日本食を振舞いました。
献立は、
スターター:ピザハットのピザ(ハワイ風&サラミ)・・・出前 スープ:野菜スープ(ジャガイモ、ニンジン、ズッキーニ、トマト、ソーセージのコンソメ味) メイン:冷奴(オカカ&梅味)、ポテトサラダ(ジャガイモ、卵、ポークハム、トマト) ホイコウロウ(牛肉、キャベツ、ピーマン、ベビーコーン、クックドウのレトルト) 五目飯(マルミヤ五目飯の元)、釜飯(マルミヤ釜飯の元) デザート:メロンとマンゴウ。
今日のお客様は全員ノンベジなので安心して作ったのですが、中に今日牛肉を始めてたべたという奥さんがいました。インドでは食べるチャンスがないのでしょうね。お世辞かもしれませんが美味しいといってもらえました。五目飯と釜飯は、3合までしか炊けない炊飯器で二回炊くなら別な物をと思い工夫しました。私の腕というよりは、日本のインスタント食品の味が物を言った出ディナーでした。奮発してしまったので、これから日本食を少し節約していこうと思います。
日本では4月終わりから6月始めにかけて「ゴールデンウィーク」ですが、インドではこの時期学校は夏休みになります。子供が休みなので親も仕事を休んで遠出するという仕組み。私も日本の本社がゴールデンウィークに入るので少しまとめて休もうかと思っています。
今回の私の目論見は「ブッダガヤ」に行こうというもの。スリランカに住んでいた時に果たせなかった計画なのです。スリランカは仏教国なので「コロンボ」と「ガヤ(ブッダガヤ最寄)」間に直行便がありました。因みにバンコクとガヤの間も直行便があります。しかしムンバイからは直行便は飛んでいません。
ヒンズー教徒が大多数を占めるインドではブッダガヤへの巡礼者は多くはないのです。職場のスタッフが「止めてたほうが良い」とアドバイスしてくれます。この時期のインド中部はものすごく暑くてとても観光など出来ないのだそうです。でも、この時期を逃せばいついけるか分からないし。とにかく準備にはいろうと思っています。
| 2005年04月21日(木) |
ニューデリー出張、オフィス探し |
先週金曜・土曜日の二日日間ニューデリーのオフィス探しにいってきました。現在の我が社の事務所はムンバイにありますが、お客様のロケーションを考えるとニューデリーの方が便利であるのです。そこで、タイミングをみてオフィスを移す予定。
デリーは北側のオールドデリーと南側のニューデリーに分かれます。北側のオールドデリーは昔ながらの雑然とした町並み。(ムンバイよりはましか?)ニューデリーの方は、真っ直ぐな幅広い道が整然と伸びていて広々としています。そして昔からのニューデリーのビジネスの中心はコンノートプレイスといって放射線に伸びる幹線道路のちょうど中心にあたります。
現在地下鉄工事中で市内随一のメインストリートの「バラカンバ通り」は車線が大幅に規制されています。今回は交通渋滞を避けるとともに、ユーザの多い南部のグルガオン、東部のノイダに行くのに便利な環状線が走る(環7、環8みたいなもの)ニューデリー南部を中心に探したのですが、めぼしい物件はありませんでした。
やはりオフィス物件は街の中心街に多いのが分かりました。今回市内中心部にほぼOKの第一候補が見つかったので一安心。これから不動産仲介業者・持ち主との条件折衝に入ります。ニューデリー出張の最後に国内線空港近くの日本食レストラン「田村」で遅い昼飯を食べました。
今回は「とんかつ」を食べました。日本で食べるとんかつと遜色がなく、とても美味しかったです。ニューデリーに移るとこういう食事ができるのです。オフィスの次には、アパートを探さなければなりません。
パルヴァティはヒンズー教の代表的な女性神です。シバ神の妻で、ガネーシャ神、スカンダ神の母親の位置づけです。色々なキャラクターを持っているので話を複雑にしています。人間界の女性が、女性として、また母親、妻としての多面的な顔を持っているのと同様に、多面的な正確をあらわしています。少し強調されてはいますが。
タミール・ナド州、マドライにあるミナクシ寺院は、シバの妻になる、若々しくて、少しはにかんだ感じの「ミナクシ神」を代表していると思います。これが、東のカルカッタにいくと、カーリー(ドルガ)といって「怒り」の象徴となります。おそろしい「怒り」の神は、人間の怒りも吸収してくれます。
他人に言えない「怒り」「苦しみ」を受け止めてくれる「カーリー」は、母親のかぎりないやさしさの一面を象徴しているといえるかもしれません。夫のシバ神が個性が乏しいのの非常に対象的です。没個性的に、シバリンガムの形を変えている場合も多いです。写真は気に入って購入したパルバティ像です。街の土産物屋ではこういう作品はとても手に入りません。作者はタミールナド州の「L.ラタクリシュナンさん」です。顔の表情とか、手の形に、パルバティ神に対する思いが込められていると思います。
| 2005年04月14日(木) |
アンベドカールのこと |
今日は4月14日は、アンベドカールの誕生日です。ムンバイの多くの企業は(銀行も)休みです。アンベドカールは1891年生まれで、今年は114回目の誕生日ということになります。彼は不可触民生まれで苦学した法律家になった人物です。
インド独立後はインド憲法制定に重要な役割を果たしました。インドというと「カースト制度」という身分差別問題がついて回りますが、アンベドカールは、最下層の不可触民の救済・自立の支援を行いました。ムンバイ郊外にある彼の家は貧乏な人達に安く貸し出されているのだそうです。収められている少ない家賃も育英資金に回っているのだそうです。
日本でも部落開放運動の背景を少し調べたことがありますが、これは問題は非常に難しく深刻な問題だと痛感しています。アンベドカールはインド独立の英雄の「ガンジー」さえ批判しました。ガンジーは不可触民を「ハリジャン」と呼んで救済しようとしましたが、アンベドカールら当事者からみると、それは上位カーストの論理であったのでしょう。
支配層ブラーミンの人達の中にも非常に深い同情心を持つもの、心を痛めていた人はいます。しかしそれらの人達が、差別されている側の人達の心を100%理解できるのか・・・。「こんなに同情しているのに何が問題なの?」という論理に陥りやすい。
アンベドカールはヒンズー教の限界を認識し、集団で仏教に改宗したのでした。マハラシュトラ州(ムンバイの有る州)に仏教徒が多いにはこうした理由です。紀元前に「ブッダ」が試みた宗教改革運動も同じ理由だったと考えられます。ブッダの改革は結局インド亜大陸では結実せず、インドではヒンズー教中心の状態は続いています。
ヒンズー教の教え自体の中には非常に大切な教えがあることも事実ですが、ヒンズー教に身分社会を固定して社会の秩序を保とうとする思想があることも事実です。アーンベドカールの誕生日を迎えるたびに、それぞれのインド人がそれぞれ考えるのです。彼の誕生日を休日にするインドは、まじめに取り組んでいる国であるといえます。それが、現在のインドでも大きな問題であるという証拠でもあるのですが。
今週始めから中国の温家宝(Wen Jiabao)首相がインドを訪問しています。ロシアのプーチン大統領、就任早々のライス国務長官、韓国のノムヒョン大統領等に続く、大物の訪印です。
一方、丁度同じ時期中国国内では反日デモで大騒動でした。国連安全保障理事会常任理事国入りを目指すインドと日本ですが、今回の温家宝首相の訪印は、中・印の連携強化を印象つけた形です。4月末に予定されている「小泉首相」のインド訪問での、「日・印」関係強化がどの程度のものか。非常に注目されるところです。
明日4月14日は、「Dr.アンベッドカール」の誕生日です。マハラシュトラ州では休日で銀行は休みです。(インドでは州によって休日が違います。宗教の構成も違いますし・・・)私のオフィスは働く事にしています。アンベッドカールは、アンタッチャブル階層出身で、苦学して法律家となり、憲法起草にも参画した人物。アンタッチャブル層の開放、救済のために一生をささげた人物です。ムンバイで育ち、ムンバイの高等学校を卒業したため、ムンバイとのつながりは深いのです。彼がヒンズー教の差別に反対し、仲間とともに仏教に改宗したのでマハラシュトラ州では仏教徒が多いのです。
4月はブッダの誕生日とアンベッドカールの誕生日が続くので、仏教徒にとっては祭りの多い月なのです。
日本でO型、A型の血液が不足していて深刻な事態の様子。日本にいたら、直ぐにも血液センターにいって献血するのに。ムンバイは4月に入って、本格的にマンゴーの季節になりました。市場も、フルーツショップも黄色の美味しそうなマンゴウでいっぱいです。
こちらでは大ぶりの「キングアルフォンソマンゴー」が代表的なようです。マンゴージュース、マンゴウアイスクリームなどの食べ方もあります。楽しみが一つ増えました。新聞の記事を掲載。

| 2005年04月10日(日) |
メータ、ロストロポーヴィッチ演奏会 |
金曜日から日曜日まで、ムンバイ市南端の海に面したオペラ劇場は別世界です。そこはヨーロッパ、それもイタリアです。
ズビン・メータは手兵のフィレンツェ市立歌劇場オーケストラをそのままムンバイに持ってきました。余り使うことのないハープ。ブラームス1番で活躍するコントラファゴット。出番の少ない楽器でも手を抜かずにイタリアから持ってきました。
TATA財閥がムンバイ市民にプレゼントしたオペラ劇場の音響効果は素晴らしいものでした。偶然隣に座っていたミュンヘンから来たという外科医は、始めて聞くTATA劇の音響はニューヨークのリンカーンセンタに似ているといっていました。S席でコンサートを聞く機会は日本でも殆ど無いですが、このホールの音響は素晴らしいです。
関係者全員連れてきたようなフィレンツェ歌劇場のオケは、非常に暖かくバランスの良い音でした。オペラ伴奏で重要な木管楽器は名手ぞろいです。オペラ上演の可能な広い舞台ぎっしりのオケの分厚い音は、日本でもなかなか聞けない迫力でした。
TATA財閥はムンバイのパルシー(ゾロアスター教徒)の象徴のような存在です。代々の財閥首脳はインドの近代化文化の振興に腐心しました。初代ジャムセドジーはインド産業振興必要な鉄鋼業を作りました。インド西部の鉄鋼都市のジャムセドプールは彼の名前から来ています。そして航空産業を興しました。これは後に国有化され「インディアンエアー」となっています。そして、ムンバイのインド門に近い「タージマハルホテル」は超豪華ホテルとして有名です。
ムンバイの南端にはTATA文化センターがあり、小ホール、大ホール、オペラ劇場があります。そのオペラ劇場にパルシー出身のズビンメータを招き、イタリアの歌劇場オーケストラ一式を持ってきた格好です。今回チェロのソリストは「ロストロポーヴィッチ」!!!
入場券は非常に高額ですが、昨日と今日の二日間聞きにきて明日も来るという人が何人もいました。ホールは着飾った紳士淑女で埋まっていました。ロビーでたまたま話した観客のひとりは「昨日は8割、今日は9割がパルシーでしょう」といっていました。「おらがズビンの公演」を聞きに着たというよりは、「普通なら、ヨーロッパ、アメリカに行って聞くのだが、今日はここムンバイで味わえる」という感じです。
パルシーは基本的に古くはイラン系であるので色白で西洋人と変りません。今日は殆どの聴衆が「身内」なので、め一杯着飾ってきたと言う感じ。(普段は比較的地味に暮らしている・・・。基本的にムンバイの地域社会に十分配慮しているのです)
一流オケが全力を出して、音響の良いホールで演奏し、聴衆は好きな音楽を楽しんでいる。これは全く別世界です。一歩オペラ劇場を出ると、そこには「物乞い」が多く待ち構えていますが。
前置きはこれくらいにして、音楽について書きます。曲目はヴェルディ「シチリアの夕べ序曲」ドボルザーク「チェロ協奏曲」独奏:ロストロポーヴィッチ ブラームス「交響曲第一番」。
アンコール:フィガロの結婚序曲(どこかの国の結婚祝いとか)、スラブ舞曲第5番。一曲目のヴェルディ序曲から会場は既にイタリアの雰囲気です。序曲が次に始まるオペラへの興味をそそるような響きなのです。とくに管楽器と打楽器(シンバル・バスドラ)の軽快さ、趣味の良さ、弦楽器の暖かい響きは格別です。
こういうオケで、イタリアオペラが聴けたら最高だろうなという始まりなのです。「運命の力」でも「椿姫」でも筋は悲しい話なのだけど、こういう音で聞くと、何か客観視できるというか、悲しい話を「オペラで楽しむのですよ」と教えられる感じかな。
次のドボルザークは今日の「メイン」です。メータもオケもこの「巨匠」の伴奏に大変気を使っていた感じ。新聞報道によると、大分リハーサルを積んだとのこと。そして例によってロストロポーヴィッチはホテルに帰って部屋で長時間に練習を行ったとのこと。ロストロポーヴィッチは78歳。さすがに10年前の小沢N響の時に比べるとパワーが落ちていました。しかし、重音の音程や、細かいパッセージは見事なもので観客の大喝采を浴びていました。
ロストロポーヴィッチの構え方は独特で他人にはまねが出来ませんが、彼の左手の指の長いこと。そして右手の腕が長いこと。(そう見えるのです)そして、次のパッセージの準備が早いこと。ソロが終わって暫く間休止があっても、左手はすぐ次のポジション準備に入っています。
個人的には2楽章の雰囲気がとても楽しめました。オケもソロの音に注目し、オケの各パートのバランスに細心の注意を払っていた感じ。最後のブラームスは、オケは良く鳴っていました。各セクションの聞かせ所、たとえば二楽章のホルン、オーボエ、バイオリンのソロ。終楽章のピチカート。終楽章のホルン、フルートのソロ。トロンボーンの和音。トランペットの協奏。
それぞれパーツは素晴らしいのですが、じゃ「全体通して」どういうブラームスなの?という感じ。カラヤンとか、アバド初期の超豪華なブラームスという方向でもなし、かといって、北部ドイツの音、あるいは厳しさを感じさせるほどでもない。隋所に弦楽器の分厚い音が聞かれましたが、それはドイツ的というよりはイタリア的に聞こえました。
「この渋い交響曲もイタリア的に演奏するとこうなりますよ」という感じでしょうか。常任のメータが演奏慣れしている「ブラ1」を、ほんの少しの部分パッセージを確認して本番に載せたという感じです。これが彼等のブラームスなのでしょう。
最後にメータの指揮ですがオペラは非常に面白そうです。「3テナー」ズの伴奏の時も気持ちの良い伴奏をしていました。一方、ブラームス、ブルックナーなどでは良くわからない感じです。昨年買ったグレートも私の趣味とは違いました。でも日本でもてはやされるブラームス、ベートーベン、ブルックナーは特殊かもしれない。
こういうオケで、オペラを安い値段で身近に気軽に聞けるというのが、歴史の長いイタリア文化でしょう。演奏会終了後に撮影したメータとロストロポーヴィッチの写真を添付します。
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