KENの日記
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2005年04月20日(水) パルヴァティ神

パルヴァティはヒンズー教の代表的な女性神です。シバ神の妻で、ガネーシャ神、スカンダ神の母親の位置づけです。色々なキャラクターを持っているので話を複雑にしています。人間界の女性が、女性として、また母親、妻としての多面的な顔を持っているのと同様に、多面的な正確をあらわしています。少し強調されてはいますが。


タミール・ナド州、マドライにあるミナクシ寺院は、シバの妻になる、若々しくて、少しはにかんだ感じの「ミナクシ神」を代表していると思います。これが、東のカルカッタにいくと、カーリー(ドルガ)といって「怒り」の象徴となります。おそろしい「怒り」の神は、人間の怒りも吸収してくれます。


他人に言えない「怒り」「苦しみ」を受け止めてくれる「カーリー」は、母親のかぎりないやさしさの一面を象徴しているといえるかもしれません。夫のシバ神が個性が乏しいのの非常に対象的です。没個性的に、シバリンガムの形を変えている場合も多いです。写真は気に入って購入したパルバティ像です。街の土産物屋ではこういう作品はとても手に入りません。作者はタミールナド州の「L.ラタクリシュナンさん」です。顔の表情とか、手の形に、パルバティ神に対する思いが込められていると思います。



2005年04月14日(木) アンベドカールのこと

今日は4月14日は、アンベドカールの誕生日です。ムンバイの多くの企業は(銀行も)休みです。アンベドカールは1891年生まれで、今年は114回目の誕生日ということになります。彼は不可触民生まれで苦学した法律家になった人物です。


インド独立後はインド憲法制定に重要な役割を果たしました。インドというと「カースト制度」という身分差別問題がついて回りますが、アンベドカールは、最下層の不可触民の救済・自立の支援を行いました。ムンバイ郊外にある彼の家は貧乏な人達に安く貸し出されているのだそうです。収められている少ない家賃も育英資金に回っているのだそうです。


日本でも部落開放運動の背景を少し調べたことがありますが、これは問題は非常に難しく深刻な問題だと痛感しています。アンベドカールはインド独立の英雄の「ガンジー」さえ批判しました。ガンジーは不可触民を「ハリジャン」と呼んで救済しようとしましたが、アンベドカールら当事者からみると、それは上位カーストの論理であったのでしょう。


支配層ブラーミンの人達の中にも非常に深い同情心を持つもの、心を痛めていた人はいます。しかしそれらの人達が、差別されている側の人達の心を100%理解できるのか・・・。「こんなに同情しているのに何が問題なの?」という論理に陥りやすい。


アンベドカールはヒンズー教の限界を認識し、集団で仏教に改宗したのでした。マハラシュトラ州(ムンバイの有る州)に仏教徒が多いにはこうした理由です。紀元前に「ブッダ」が試みた宗教改革運動も同じ理由だったと考えられます。ブッダの改革は結局インド亜大陸では結実せず、インドではヒンズー教中心の状態は続いています。


ヒンズー教の教え自体の中には非常に大切な教えがあることも事実ですが、ヒンズー教に身分社会を固定して社会の秩序を保とうとする思想があることも事実です。アーンベドカールの誕生日を迎えるたびに、それぞれのインド人がそれぞれ考えるのです。彼の誕生日を休日にするインドは、まじめに取り組んでいる国であるといえます。それが、現在のインドでも大きな問題であるという証拠でもあるのですが。



2005年04月13日(水) インド外交

今週始めから中国の温家宝(Wen Jiabao)首相がインドを訪問しています。ロシアのプーチン大統領、就任早々のライス国務長官、韓国のノムヒョン大統領等に続く、大物の訪印です。


一方、丁度同じ時期中国国内では反日デモで大騒動でした。国連安全保障理事会常任理事国入りを目指すインドと日本ですが、今回の温家宝首相の訪印は、中・印の連携強化を印象つけた形です。4月末に予定されている「小泉首相」のインド訪問での、「日・印」関係強化がどの程度のものか。非常に注目されるところです。


明日4月14日は、「Dr.アンベッドカール」の誕生日です。マハラシュトラ州では休日で銀行は休みです。(インドでは州によって休日が違います。宗教の構成も違いますし・・・)私のオフィスは働く事にしています。アンベッドカールは、アンタッチャブル階層出身で、苦学して法律家となり、憲法起草にも参画した人物。アンタッチャブル層の開放、救済のために一生をささげた人物です。ムンバイで育ち、ムンバイの高等学校を卒業したため、ムンバイとのつながりは深いのです。彼がヒンズー教の差別に反対し、仲間とともに仏教に改宗したのでマハラシュトラ州では仏教徒が多いのです。


4月はブッダの誕生日とアンベッドカールの誕生日が続くので、仏教徒にとっては祭りの多い月なのです。



2005年04月12日(火) マンゴーの季節

日本でO型、A型の血液が不足していて深刻な事態の様子。日本にいたら、直ぐにも血液センターにいって献血するのに。ムンバイは4月に入って、本格的にマンゴーの季節になりました。市場も、フルーツショップも黄色の美味しそうなマンゴウでいっぱいです。


こちらでは大ぶりの「キングアルフォンソマンゴー」が代表的なようです。マンゴージュース、マンゴウアイスクリームなどの食べ方もあります。楽しみが一つ増えました。新聞の記事を掲載。




2005年04月10日(日) メータ、ロストロポーヴィッチ演奏会

金曜日から日曜日まで、ムンバイ市南端の海に面したオペラ劇場は別世界です。そこはヨーロッパ、それもイタリアです。


ズビン・メータは手兵のフィレンツェ市立歌劇場オーケストラをそのままムンバイに持ってきました。余り使うことのないハープ。ブラームス1番で活躍するコントラファゴット。出番の少ない楽器でも手を抜かずにイタリアから持ってきました。


TATA財閥がムンバイ市民にプレゼントしたオペラ劇場の音響効果は素晴らしいものでした。偶然隣に座っていたミュンヘンから来たという外科医は、始めて聞くTATA劇の音響はニューヨークのリンカーンセンタに似ているといっていました。S席でコンサートを聞く機会は日本でも殆ど無いですが、このホールの音響は素晴らしいです。


関係者全員連れてきたようなフィレンツェ歌劇場のオケは、非常に暖かくバランスの良い音でした。オペラ伴奏で重要な木管楽器は名手ぞろいです。オペラ上演の可能な広い舞台ぎっしりのオケの分厚い音は、日本でもなかなか聞けない迫力でした。



TATA財閥はムンバイのパルシー(ゾロアスター教徒)の象徴のような存在です。代々の財閥首脳はインドの近代化文化の振興に腐心しました。初代ジャムセドジーはインド産業振興必要な鉄鋼業を作りました。インド西部の鉄鋼都市のジャムセドプールは彼の名前から来ています。そして航空産業を興しました。これは後に国有化され「インディアンエアー」となっています。そして、ムンバイのインド門に近い「タージマハルホテル」は超豪華ホテルとして有名です。


ムンバイの南端にはTATA文化センターがあり、小ホール、大ホール、オペラ劇場があります。そのオペラ劇場にパルシー出身のズビンメータを招き、イタリアの歌劇場オーケストラ一式を持ってきた格好です。今回チェロのソリストは「ロストロポーヴィッチ」!!!


入場券は非常に高額ですが、昨日と今日の二日間聞きにきて明日も来るという人が何人もいました。ホールは着飾った紳士淑女で埋まっていました。ロビーでたまたま話した観客のひとりは「昨日は8割、今日は9割がパルシーでしょう」といっていました。「おらがズビンの公演」を聞きに着たというよりは、「普通なら、ヨーロッパ、アメリカに行って聞くのだが、今日はここムンバイで味わえる」という感じです。


パルシーは基本的に古くはイラン系であるので色白で西洋人と変りません。今日は殆どの聴衆が「身内」なので、め一杯着飾ってきたと言う感じ。(普段は比較的地味に暮らしている・・・。基本的にムンバイの地域社会に十分配慮しているのです)


一流オケが全力を出して、音響の良いホールで演奏し、聴衆は好きな音楽を楽しんでいる。これは全く別世界です。一歩オペラ劇場を出ると、そこには「物乞い」が多く待ち構えていますが。


前置きはこれくらいにして、音楽について書きます。曲目はヴェルディ「シチリアの夕べ序曲」ドボルザーク「チェロ協奏曲」独奏:ロストロポーヴィッチ
ブラームス「交響曲第一番」。

アンコール:フィガロの結婚序曲(どこかの国の結婚祝いとか)、スラブ舞曲第5番。一曲目のヴェルディ序曲から会場は既にイタリアの雰囲気です。序曲が次に始まるオペラへの興味をそそるような響きなのです。とくに管楽器と打楽器(シンバル・バスドラ)の軽快さ、趣味の良さ、弦楽器の暖かい響きは格別です。


こういうオケで、イタリアオペラが聴けたら最高だろうなという始まりなのです。「運命の力」でも「椿姫」でも筋は悲しい話なのだけど、こういう音で聞くと、何か客観視できるというか、悲しい話を「オペラで楽しむのですよ」と教えられる感じかな。


次のドボルザークは今日の「メイン」です。メータもオケもこの「巨匠」の伴奏に大変気を使っていた感じ。新聞報道によると、大分リハーサルを積んだとのこと。そして例によってロストロポーヴィッチはホテルに帰って部屋で長時間に練習を行ったとのこと。ロストロポーヴィッチは78歳。さすがに10年前の小沢N響の時に比べるとパワーが落ちていました。しかし、重音の音程や、細かいパッセージは見事なもので観客の大喝采を浴びていました。


ロストロポーヴィッチの構え方は独特で他人にはまねが出来ませんが、彼の左手の指の長いこと。そして右手の腕が長いこと。(そう見えるのです)そして、次のパッセージの準備が早いこと。ソロが終わって暫く間休止があっても、左手はすぐ次のポジション準備に入っています。


個人的には2楽章の雰囲気がとても楽しめました。オケもソロの音に注目し、オケの各パートのバランスに細心の注意を払っていた感じ。最後のブラームスは、オケは良く鳴っていました。各セクションの聞かせ所、たとえば二楽章のホルン、オーボエ、バイオリンのソロ。終楽章のピチカート。終楽章のホルン、フルートのソロ。トロンボーンの和音。トランペットの協奏。


それぞれパーツは素晴らしいのですが、じゃ「全体通して」どういうブラームスなの?という感じ。カラヤンとか、アバド初期の超豪華なブラームスという方向でもなし、かといって、北部ドイツの音、あるいは厳しさを感じさせるほどでもない。隋所に弦楽器の分厚い音が聞かれましたが、それはドイツ的というよりはイタリア的に聞こえました。


「この渋い交響曲もイタリア的に演奏するとこうなりますよ」という感じでしょうか。常任のメータが演奏慣れしている「ブラ1」を、ほんの少しの部分パッセージを確認して本番に載せたという感じです。これが彼等のブラームスなのでしょう。


最後にメータの指揮ですがオペラは非常に面白そうです。「3テナー」ズの伴奏の時も気持ちの良い伴奏をしていました。一方、ブラームス、ブルックナーなどでは良くわからない感じです。昨年買ったグレートも私の趣味とは違いました。でも日本でもてはやされるブラームス、ベートーベン、ブルックナーは特殊かもしれない。


こういうオケで、オペラを安い値段で身近に気軽に聞けるというのが、歴史の長いイタリア文化でしょう。演奏会終了後に撮影したメータとロストロポーヴィッチの写真を添付します。



2005年04月09日(土) ズビン・メータ演奏会

昨日の金曜日(8日)から、「ズビン・メータ」がムンバイに帰ってきています。彼はインド・ムンバイのゾロアスター教徒の家の出身です。そしてインドを代表する世界的な音楽家です。今回は、チェリストのロストロポーヴィッチと一緒です。


私は昨日新聞で知ってあわててチケットを買いにいったのですが、すでの8日分は売り切れ、9日、10日も残り少ないという状況でした。一番高い席はRs3000とRs4000です。日本の来日演奏家のコンサートとしては安い感じがしますが、インドではかなり高額。メードさんとか掃除を頼む人の一ヶ月分の給料です。


それでも完売に近いということは、少数ですがインドの金持ちが音楽を欲している証拠です。因みに、オケは「マッジオ・ムジカーレ・フィレンツェ」。今日(9日)私の行くプログラムはドボルザークのチェロコンチェルトとバラームスの交響曲1番。ズビン・メータはこれまでそれほど聞いてきませんでした。どちらかというとあまり好きではないタイプでした。その彼が、地元に帰ってきてどのような音楽をやるのか興味があります。

ブラームスの1番は大学時代の所属オケが取り上げた曲なので、実演・CDを何回聞いたか分かりません。私のCDコレクションの中でも、最も多くの演奏を揃えている曲だと思います。「IPOD」には、ケルテス、ミュンシュ、ワルター、バルビローリ、スコロバチェフスキーの5人分が入っています。


ドボルザークはのコンチェルトは、ロストロポーヴィッチが仕掛けたという小沢・N響の復活演奏会(放送)。もちろん録画し何回も見ました。ちょうど阪神・淡路大震災直後の頃。例によって小沢の「G戦場のアリア」が演奏されました。アンコールでロストロポーヴィッチが演奏した無伴奏組曲2番のサラバンドは素晴らしいものでした。残念ながらN響と小沢は仲直りはできなかったようです。無理もないか。


ロストロポーヴィッチについては、奥様のヴィシネフスカヤの「ガリーナ伝記」である程度の知識があります。実は、既に結婚していたガリーナに猛烈にアタックして、結婚してしまったという情熱家なのです。さらに、ソ連当局の人民に対する圧制に、ガリーナとともに真っ向から反対した気骨のある人物です。彼等(奥様も)にとって、当時ソ連で演奏家として自由な表現をすることは命がけだったのです。第二次世界大戦(対独戦)と、その後の共産党政権の圧制という非常に厳しい人生を送ってきたのでした。そのために亡命を余儀なくされたのですが・・・。そのロストロポーヴィッチがこのインドのどのように見ているのか。非常に興味深いです。会場はムンバイのオペラハウス(TATA劇場)です。



2005年04月08日(金) 娘の大学入学式

娘の大学入学式が金曜日あったとのこと。私が不在なこともあって妻がはるばる千葉まで入学式に行ってきました。この時期桜が満開で晴れ晴れした気分になり、新しい環境を迎えるには最高の季節です。


娘は基本的に、非常に「強運」というか、最後には結果を出すタイプのようです。昔から唯一我が家の中で「籤運」の良い人間でした。高校入試もそうでしたが、大学入試も自分の意思で貫き通しました。基本的に親のアドバイスは聞き流すだけ、こっちは非常に心配するのですが、こっちの心配を他所に、本人はしっかり考えての(?)結果のようです。


従って親は心配するだけ損だという気がしてきました。ほっとくと何日でも寝ている感じなのですが、もう大人なので、少し世話の手を抜いてもいいかなと気がしてきました。日常生活の生活能力は別な話かもしれませんが・・・。


娘はこれから4年間さいたま(武蔵浦和)から千葉まで通うことになります。
往復3時間の通学時間がかなりながいです。一日24時間の8分の1は電車の中という勘定です。通学時間も大学生活の一部ですから、有意義に過ごして欲しいです。片道1時間半といっても乗り換えは一回だけだし、猛然と混雑するのは一部の区間だけでしょうから纏まった時間があとれるはず。そして、家のことも少しずつ手伝って欲しいものです。



2005年04月06日(水) 免許が出来ました。

ムンバイの交通局で私の自動車運転免許ができました。イヤに早いなと思ったら、免許証は普通の紙の手帳で最初のページに顔写真を張っただけです。これなら直ぐできるはず。昔はプラスティック製のカードだったそうですが紙製に代わったそうです。何れにしろ、これでインド国内において自動車運転ができるのです。また一つ前進です。


昨日あたりからムンバイはとっても暑いです。夜中も暑くて目を覚まします。朝方が少し涼しいくらいです。予想外のことですが「蚊」は少ないです。乾燥した時期は少ないのかもしれません。運動不足に加え、日本食をバリバリたべているので体重が増えているみたいです。


一念発起して朝に直ぐ近くの公園を歩くことにしました。心拍数120/分位を維持して脂肪を燃焼させようという試みです。ホテルに住んでいる時、ジムのウォーキングマシンで脂肪燃焼プログラムをかなりやりました。歩く速さは、自分の勘を頼りに決めています。この公園には、ウォーキングコースが作られています。結構整備されているのです。毎朝、多くのインド人が黙々と歩いているのです。


昨日日本人の方に声をかけられました。日本から出張にきていて近くのホテルに滞在している「Y」さんという方です。「Y」さんは宝石の買い付けのために定期的にインドに来るそうです。「Yさん」も運動不足を、公園の早足歩行で補っている由。


新しいアパートに引っ越してから、一応3食の食事、毎日の運動と規則正しい生活のリズムが出来上がりつつあります。アルコールの量は減りませんが。



2005年04月04日(月) インドの運転免許申請

本日、運転免許の申請を済ませました。半月前くらいから準備をして漸く申請まで来ました。明日免許がもらえるはず。まず、日本領事館で日本語免許の翻訳証明を受領。(これが以外に高額!!)


そして、日本でいうとJAFのようなところで、免許申請用紙を貰ってきました。準備するもの、パスポートのコピー、住民手帳のコピー、医者の証明書、写真6枚。簡単で感動したのは医者の証明書。ローカル社員の紹介で彼女のホームドクターのところに行ったのですが、何も聞かずにどんどんサインしてくれます。視力とか色盲でないかとか項目があるのですが・・・。


日本の発行された免許を信用しているみたいです。しかも料金は取りませんでした。(感謝です)JAFみたいなところ、正確にはWIAA(West India Atomobile Association)の担当の人は、とても厳しく(官僚的)で「住所を証明するものがない」というのです。私のサインで私の住所証明書を作りました。


運転免許所(政府組織)の担当の人はもっと官僚的でした。領事館の発行の日本免許証明書がコピーのようなので、原本持って来いの一点張り。仕方がないので、携帯で領事館に連絡して助けを求めました。「コピーのように見えるけれど原本である」と領事館の方が説明してくれました。これで一応申請終了。


インドでの運転はできるだけ避けたいですが「いざ」という時のために免許は持っておいたほうがベター。運転免許更新はどこでも面倒です。4月なのに、ムンバイはとても暑くなってきました。



2005年04月03日(日) ジャイナ教寺院

私のアパートから少し離れていますが歩いていける距離のところにジャイナ教寺院があります。「地球の歩き方」にも載っているし、ムンバイの綺麗な湾を見渡せることから、外国人観光客が多く訪れる寺の一つです。


ムンバイのあるマハラシュトラ州には、インドで最も多くのジャイナ教徒がいるのだそうです。そういえば、街中でジャイナ教寺院をよく見かけます。私のアパートに近いジャイナ教寺院は小さいですが、クラフォード市場の北側にあるジャイナ教寺院は大変立派です。大理石に細かい彫刻を施していて、かなり細かな細工が施されています。


ジャイナ教に関する書物は少ないのですが、最近入手した本をちびちび読んでいます。その本では、古代インド(つまりインダス文明)の宗教がジャイナ教であったのではないかと言っています。


巷間、ジャイナ教は仏教と同時期つまり紀元前6世紀頃に、マハービラによって始められたとされますが、マハービラはブッダのように自ら悟って教えを広めたということではなく、以前から信仰されていた宗教の拡大に努めた人らしいのです。ジャイナ教寺院には、マハービラの像(ブッダ像に似ている)がありますが、仏教とは生い立ちが全然違うのかもしれません。


古代インダス文明の遺跡(ハラッパとかモヘンジョダロ)からは、ジャイナ教と類似するような宗教遺物がでているのだそうです。インダス文明の宗教がヒンズー教であったとする説は否定されていて、ヒンズー教は北からの侵入者のアーアリア人がもちこんだ宗教であったようです。


ヒンズー教(バラモン教)の菜食主義と、ジャイナ教の完璧な菜食主義がどこで繋がるのだろうと不思議に思っていたのですが、北からの進入した「アーリア人」が、土着のインダス文明の完璧な菜食主義を取り入れたのかもしれません。とにかくジャイナ教では、命を大切にし、自分をコントロールすることが最も重要とされているのです。


マハラシュトラは、アーベンドカールの影響で仏教徒が多い州でもあります。さらに、ムンバイはイランから渡ってきた人々の末裔のゾロアスター教徒の中心地でもあります。さらに、イスラム支配の影響が少なかったとはいえ、多くのイスラム教徒が住んでいます。


インドのイスラム教はヒンズー教と共存していますが、それはイスラムシーフィズムによるものらしいです。ムンバイの観光名所(遠くから見るのがベター)の「ハジアリ」はイスラムの聖人の墓なのです。偶像崇拝を禁ずるイスラムで聖人の墓を崇拝するインドのイスラムは非常に興味深いのです。とにかく興味が尽きない街です。


因みにムンバイの地図の凡例ではヒンズー寺院、仏教寺院、ジャイナ教寺院、シーク教寺院、ユダヤ教(シナゴーク)、拝火教寺院、キリスト教教会のマークが別々に示されていて、これらのマークが町中至るところにあるのです。




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