KENの日記
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2005年04月09日(土) ズビン・メータ演奏会

昨日の金曜日(8日)から、「ズビン・メータ」がムンバイに帰ってきています。彼はインド・ムンバイのゾロアスター教徒の家の出身です。そしてインドを代表する世界的な音楽家です。今回は、チェリストのロストロポーヴィッチと一緒です。


私は昨日新聞で知ってあわててチケットを買いにいったのですが、すでの8日分は売り切れ、9日、10日も残り少ないという状況でした。一番高い席はRs3000とRs4000です。日本の来日演奏家のコンサートとしては安い感じがしますが、インドではかなり高額。メードさんとか掃除を頼む人の一ヶ月分の給料です。


それでも完売に近いということは、少数ですがインドの金持ちが音楽を欲している証拠です。因みに、オケは「マッジオ・ムジカーレ・フィレンツェ」。今日(9日)私の行くプログラムはドボルザークのチェロコンチェルトとバラームスの交響曲1番。ズビン・メータはこれまでそれほど聞いてきませんでした。どちらかというとあまり好きではないタイプでした。その彼が、地元に帰ってきてどのような音楽をやるのか興味があります。

ブラームスの1番は大学時代の所属オケが取り上げた曲なので、実演・CDを何回聞いたか分かりません。私のCDコレクションの中でも、最も多くの演奏を揃えている曲だと思います。「IPOD」には、ケルテス、ミュンシュ、ワルター、バルビローリ、スコロバチェフスキーの5人分が入っています。


ドボルザークはのコンチェルトは、ロストロポーヴィッチが仕掛けたという小沢・N響の復活演奏会(放送)。もちろん録画し何回も見ました。ちょうど阪神・淡路大震災直後の頃。例によって小沢の「G戦場のアリア」が演奏されました。アンコールでロストロポーヴィッチが演奏した無伴奏組曲2番のサラバンドは素晴らしいものでした。残念ながらN響と小沢は仲直りはできなかったようです。無理もないか。


ロストロポーヴィッチについては、奥様のヴィシネフスカヤの「ガリーナ伝記」である程度の知識があります。実は、既に結婚していたガリーナに猛烈にアタックして、結婚してしまったという情熱家なのです。さらに、ソ連当局の人民に対する圧制に、ガリーナとともに真っ向から反対した気骨のある人物です。彼等(奥様も)にとって、当時ソ連で演奏家として自由な表現をすることは命がけだったのです。第二次世界大戦(対独戦)と、その後の共産党政権の圧制という非常に厳しい人生を送ってきたのでした。そのために亡命を余儀なくされたのですが・・・。そのロストロポーヴィッチがこのインドのどのように見ているのか。非常に興味深いです。会場はムンバイのオペラハウス(TATA劇場)です。



2005年04月08日(金) 娘の大学入学式

娘の大学入学式が金曜日あったとのこと。私が不在なこともあって妻がはるばる千葉まで入学式に行ってきました。この時期桜が満開で晴れ晴れした気分になり、新しい環境を迎えるには最高の季節です。


娘は基本的に、非常に「強運」というか、最後には結果を出すタイプのようです。昔から唯一我が家の中で「籤運」の良い人間でした。高校入試もそうでしたが、大学入試も自分の意思で貫き通しました。基本的に親のアドバイスは聞き流すだけ、こっちは非常に心配するのですが、こっちの心配を他所に、本人はしっかり考えての(?)結果のようです。


従って親は心配するだけ損だという気がしてきました。ほっとくと何日でも寝ている感じなのですが、もう大人なので、少し世話の手を抜いてもいいかなと気がしてきました。日常生活の生活能力は別な話かもしれませんが・・・。


娘はこれから4年間さいたま(武蔵浦和)から千葉まで通うことになります。
往復3時間の通学時間がかなりながいです。一日24時間の8分の1は電車の中という勘定です。通学時間も大学生活の一部ですから、有意義に過ごして欲しいです。片道1時間半といっても乗り換えは一回だけだし、猛然と混雑するのは一部の区間だけでしょうから纏まった時間があとれるはず。そして、家のことも少しずつ手伝って欲しいものです。



2005年04月06日(水) 免許が出来ました。

ムンバイの交通局で私の自動車運転免許ができました。イヤに早いなと思ったら、免許証は普通の紙の手帳で最初のページに顔写真を張っただけです。これなら直ぐできるはず。昔はプラスティック製のカードだったそうですが紙製に代わったそうです。何れにしろ、これでインド国内において自動車運転ができるのです。また一つ前進です。


昨日あたりからムンバイはとっても暑いです。夜中も暑くて目を覚まします。朝方が少し涼しいくらいです。予想外のことですが「蚊」は少ないです。乾燥した時期は少ないのかもしれません。運動不足に加え、日本食をバリバリたべているので体重が増えているみたいです。


一念発起して朝に直ぐ近くの公園を歩くことにしました。心拍数120/分位を維持して脂肪を燃焼させようという試みです。ホテルに住んでいる時、ジムのウォーキングマシンで脂肪燃焼プログラムをかなりやりました。歩く速さは、自分の勘を頼りに決めています。この公園には、ウォーキングコースが作られています。結構整備されているのです。毎朝、多くのインド人が黙々と歩いているのです。


昨日日本人の方に声をかけられました。日本から出張にきていて近くのホテルに滞在している「Y」さんという方です。「Y」さんは宝石の買い付けのために定期的にインドに来るそうです。「Yさん」も運動不足を、公園の早足歩行で補っている由。


新しいアパートに引っ越してから、一応3食の食事、毎日の運動と規則正しい生活のリズムが出来上がりつつあります。アルコールの量は減りませんが。



2005年04月04日(月) インドの運転免許申請

本日、運転免許の申請を済ませました。半月前くらいから準備をして漸く申請まで来ました。明日免許がもらえるはず。まず、日本領事館で日本語免許の翻訳証明を受領。(これが以外に高額!!)


そして、日本でいうとJAFのようなところで、免許申請用紙を貰ってきました。準備するもの、パスポートのコピー、住民手帳のコピー、医者の証明書、写真6枚。簡単で感動したのは医者の証明書。ローカル社員の紹介で彼女のホームドクターのところに行ったのですが、何も聞かずにどんどんサインしてくれます。視力とか色盲でないかとか項目があるのですが・・・。


日本の発行された免許を信用しているみたいです。しかも料金は取りませんでした。(感謝です)JAFみたいなところ、正確にはWIAA(West India Atomobile Association)の担当の人は、とても厳しく(官僚的)で「住所を証明するものがない」というのです。私のサインで私の住所証明書を作りました。


運転免許所(政府組織)の担当の人はもっと官僚的でした。領事館の発行の日本免許証明書がコピーのようなので、原本持って来いの一点張り。仕方がないので、携帯で領事館に連絡して助けを求めました。「コピーのように見えるけれど原本である」と領事館の方が説明してくれました。これで一応申請終了。


インドでの運転はできるだけ避けたいですが「いざ」という時のために免許は持っておいたほうがベター。運転免許更新はどこでも面倒です。4月なのに、ムンバイはとても暑くなってきました。



2005年04月03日(日) ジャイナ教寺院

私のアパートから少し離れていますが歩いていける距離のところにジャイナ教寺院があります。「地球の歩き方」にも載っているし、ムンバイの綺麗な湾を見渡せることから、外国人観光客が多く訪れる寺の一つです。


ムンバイのあるマハラシュトラ州には、インドで最も多くのジャイナ教徒がいるのだそうです。そういえば、街中でジャイナ教寺院をよく見かけます。私のアパートに近いジャイナ教寺院は小さいですが、クラフォード市場の北側にあるジャイナ教寺院は大変立派です。大理石に細かい彫刻を施していて、かなり細かな細工が施されています。


ジャイナ教に関する書物は少ないのですが、最近入手した本をちびちび読んでいます。その本では、古代インド(つまりインダス文明)の宗教がジャイナ教であったのではないかと言っています。


巷間、ジャイナ教は仏教と同時期つまり紀元前6世紀頃に、マハービラによって始められたとされますが、マハービラはブッダのように自ら悟って教えを広めたということではなく、以前から信仰されていた宗教の拡大に努めた人らしいのです。ジャイナ教寺院には、マハービラの像(ブッダ像に似ている)がありますが、仏教とは生い立ちが全然違うのかもしれません。


古代インダス文明の遺跡(ハラッパとかモヘンジョダロ)からは、ジャイナ教と類似するような宗教遺物がでているのだそうです。インダス文明の宗教がヒンズー教であったとする説は否定されていて、ヒンズー教は北からの侵入者のアーアリア人がもちこんだ宗教であったようです。


ヒンズー教(バラモン教)の菜食主義と、ジャイナ教の完璧な菜食主義がどこで繋がるのだろうと不思議に思っていたのですが、北からの進入した「アーリア人」が、土着のインダス文明の完璧な菜食主義を取り入れたのかもしれません。とにかくジャイナ教では、命を大切にし、自分をコントロールすることが最も重要とされているのです。


マハラシュトラは、アーベンドカールの影響で仏教徒が多い州でもあります。さらに、ムンバイはイランから渡ってきた人々の末裔のゾロアスター教徒の中心地でもあります。さらに、イスラム支配の影響が少なかったとはいえ、多くのイスラム教徒が住んでいます。


インドのイスラム教はヒンズー教と共存していますが、それはイスラムシーフィズムによるものらしいです。ムンバイの観光名所(遠くから見るのがベター)の「ハジアリ」はイスラムの聖人の墓なのです。偶像崇拝を禁ずるイスラムで聖人の墓を崇拝するインドのイスラムは非常に興味深いのです。とにかく興味が尽きない街です。


因みにムンバイの地図の凡例ではヒンズー寺院、仏教寺院、ジャイナ教寺院、シーク教寺院、ユダヤ教(シナゴーク)、拝火教寺院、キリスト教教会のマークが別々に示されていて、これらのマークが町中至るところにあるのです。



2005年04月02日(土) インターネット事情

ムンバイの自宅で使っているISPは「TATA」で一応ムンバイでは一番評判が良いのですが(一部で)、スピードが遅いのは、元々覚悟していたとはいえ、夜などでトラヒックが集中すると「切れる」「繋がらない」という現象が起こります。ホームページをじっくり見ていて、しばらく更新しないといつの間にか「切れて」いるのです。深夜とかトラヒックの少ない時間帯だと、更新すれば「繋がる」のですが、混んでいる時間帯だと「切れたまま」になります。パソコンは繋がっていると判断しているらしく「固まって」しまいます。


私にの想像ですが、ダイヤルアップなので貴重な回線を一人に独占させないために、更新が無いときはモデムが自動的に切断するみたい。そこまでは許すとして、混み合っているときに切断されたら次にしばらく繋がらないのです。パソコンには無断できるみたいなのです。対抗策として、頻繁に更新ボタンを押すといいのでしょうが、それも面倒くさい。本当に厄介です。


インドの主要都市ではDSL回線が出はじめているのですが、500kbpsで、月額Rs3000だそうです。日本円で7500円。これにダウンロードの量によって追加料金がかかるそうです。まだまだ高級品です。


ところで、今日チェロのD線を換えました。A、G、C線に比較して、格段に響きが悪かったのです。D線だけ特別に痛むのは初心者の証拠かもしれません。記録を調べると、今の弦は2003年の7月11日に日本で購入してきたものです。スリランカから一時帰国していたときに、4本揃えて買って、すでて交換したのでした。1年8ヶ月経過していることになります。換えた弦は、スリランカで購入しておいた弦です。いままでと同じ「Jargar」(MEDIUM)です。弦を変えると格段に響きが豊かになりました。貴重な予備弦は、A線だけになりました。



2005年03月31日(木) 2004年度決算

今日は2004年会計年度の最終日です。我がインド事務所においても日本に決算報告するために半年間の決算を締め切ることになります。といっても小さな所帯ですから複雑なことはありませんが。全ての支出は小切手決裁なので、仕訳を投入し、小切手が決裁されたかどうかは銀行預金残高(明日もらうのですが)と照合するだけなのです。そして明日からは「新年度」開始です。


日本の娘は大学生活を始めます。妻と私は実家が信州だったので、大学時代はずっと下宿生活でした。親に「仕送り」で面倒になりましたが自分で炊事・洗濯をしていました。娘は少し遠いですが埼玉から千葉まで通うことになるようです。これから4年間、長男の時と同様に妻が面倒を見ることになります。
私がいない分だけ妻の負担は少ないのですが。


自分の学生時代のことを思い出すと自宅通学生は非常に恵まれていると思います。一人で下宿すると、買い物・食事の準備・掃除洗濯を自分でしなくてはなりません。自宅から通学するからには少しは家のことを手伝って欲しいところですが息子の4年間を見る限りそれは不可能でしょう。



2005年03月29日(火) 連休

先週の金・土・日、インドでは3連休のところが多かったようです。25日の金曜日は「聖金曜日」(キリストが十字架にかけられた日)でした。土曜日は「HOLI」といってヒンズー教徒の春を迎えるお祭りでした。


実は、この貴重な3連休、MC銀行のMさんからアグラ・ジャイプールの旅に誘われたのですが、直前まで決めかねていたところ飛行機とホテルが既に満杯になってしまい断念したのでした。その週の月・火まで出張が続いたので、3連休はゆっくりとすごすことにしました。


「HOLI]は冬の終了を祝い、春を向かえ収穫を祈願する祭りですが、この日は、カラフルな顔料や、それを溶かした色の付いた水を掛け合う慣わしがあります。町中に顔や身体に色を付けられた人があふれていました。子供達は大喜びです。水鉄砲も売れます。野良犬をカラフルになっています。この日ばかりは、汚された服と、色とりどりの顔が誇らしげに街を練り歩くのです。


3日間ずっとアパートで暮らすのもあまりにも味気ないので、前から行ってみたかった「ガンジーの住んでいた家」と「ビクトリア動物園」を散策してみました。ガンジーの家はムンバイでは少し高級な住宅街にありました。4階建ての立派な家です。中にはガンジーの写真がいっぱい飾ってあり、


3階では人形劇風にガンジーの生い立ちがミニチュア人形で場面が紹介されています。この人形がよく出来ていて、ガンジーの生い立ちを魅力的に表現しています。数あるガンジーの写真で、眼を惹いたのは、ガンジーの奥様の「凛」とした美しさでした。


ムンバイ動物園は、動物の檻が狭く動物虐待状態に近いと言われていて、昨年は動物園回収基金(フャッションショー)にお金を寄付したのですが、行ってみると結構立派なものでした。私の故郷の長野県須坂動物園の動物たちよりずっと良い環境です。シンガポール動物園に比べて、動物は狭い檻に入れられていると言ったって、シンガポールの動物園が立派なのです。(実際に良く考えられていますが)


インド自慢のトラとライオンは動物園のメインコーナですが、暑くてぐったりしていました。インドライオンはアフリカのライオンと違うのかなと思っていましたが、見た目には姿形は同じです。オス立派な鬣がありました。昔からインド象とアフリカ象の違いが先入観としてあったためなのでしょうが、ライオンでは違いはないようです。


熱帯の「鳥」はこの動物園の自慢ですが暗くてあまり良く見えないのです。連休ということで家族連れが多く見に来ていました。人間の子供達が喜んでいる姿を見ているほうが面白かったです。



2005年03月25日(金) ラジブ・ガンジー慰霊地訪問

チェンナイから約120kmのところにあるラニペットとい町に行ってきました。チェンナイから国道4号線がインド北西部に伸びていてラニペットはその沿線にあります。国道4号線はずっと行けばバンガロール、そしてプネを通ってボンベイに至る長大な国道です。


さて、この国道をテェンナイから40から50kmいったところに「スリペルンブドール」という村があり、その村の沿道に「ラジブ・ガンジーの慰霊地」があります。遠くからも大きなインド国旗がはためいているのが見えます。


1991年5月21日に落選中のラジブ・ガンジーは、国会議員選挙に向けた遊説中にこの村を訪れ、首にかける歓迎の花輪に仕掛けられた爆弾で爆殺されたのでした。犯人はスリランカ国籍をもつタミール人女性だったとのこと。ラジブ・ガンジーはその時は落選中でしたが首相時代にスリランカ内戦終結を目指して、積極的に和平に向けた活動を進めました。


しかし、インド平和維持軍をスリランカのジャフナ半島に派遣し、スリランカ政府を救援する行動に出たことにより、政府に敵対するタミール人の反感を買ったのでした。


ネルーの一人娘の前首相のインディラ・ガンジー(やはりテロの遭遇して死亡)の長男のラジブ・ガンジーは、ネルー家の直系の男子ということでインドの国民期待の星だったのです。彼は政治家としては未熟なところがあり、失敗もあって首相の座を失ったのですが、インドを愛しインドの発展に尽力し、科学・産業の発展を推進した点においては、現在のインドの急激な発展の礎を築いた人物でした。


昨年の総選挙において、彼の未亡人「ソニア・ガンジー」率いる国民会議党が政権を奪い返し、「ソニア」が一躍注目を浴びていますが、インド人が「ソニア」を見る目はどこかに「ラジブ」を慕う気持ちを含んでいるのです。



2005年03月24日(木) インドで不動産登記申請

アパート契約の最後の仕上げとして、今日ムンバイ市の登記所に不動産賃貸借の登記に行きました。日本においてもマンションの抵当権を消滅させるために浦和登記所に行きました。書類作成から印鑑登録から、日本でも大変なので、インドではさぞや凄いだろうと覚悟はしていました。


中央銀行の近くにある登記所はその日朝から混雑していました。待合室で多くの人々が順番を待っていました。不動産会社の人は、「この外国人(私のこと)が帰国の飛行機の時間が迫っているので順番を繰り上げてくれ」と「嘘」をついて順番が少しだけ繰り上がりました。

登記官の人は書類を「ちらっと」チェックしOKを出して、隣に座っているコンピュータ担当者に書類を渡しました。そのコンピュータ(デスクトップ)のモニターの上にはカメラがついてます。そして、コンピュータデスクには、指紋採取用のスキャナがついています。


このコンピュータの役割は、契約当事者の「肖像」と「指紋」を取り込んで、
それを紙(白黒)に出力し、本人確認の証拠とするようです。出力された顔写真と指紋の横に本人がサインして登記業務は終了。インドは、書類の書式云々よりも、本人確認が最も重要なようです。写真と指紋を取るのですから、代理人では申請できないのです。


そして基本的な書類はすべて紙ベースです。保存やら、探し出すのにさぞや多くの労働力がかかるだろうなと想像されます。そういうところで雇用が生まれるのでしょう。仕事を減らさずに作りつづけなければならないところに、ITの普及の障害の一つがあります。


もっとも、ムンバイの街を見ていると、ITの普及による利便性の向上よりは、仕事を確保する事のほうが、少なくとも政治においては重要な気がします。




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