KENの日記
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2004年11月16日(火) アジャンタ・エローラ(まとめて日記)

デワリの3連休を利用してエローラ石窟・アジャンタ石窟に旅行してきました。インド国内の本格的な旅行は去年のタミール・ナド州旅行以来です。エローラ・アジャンタともムンバイから3日あれば十分見学できます。ふたつの石窟観光の基点となるアウランガバードまではムンバイから国内線飛行機が飛んでいます。


今回の旅行の日程 2004年11月12日〜14日(ムンバイから)

12日 ムンバイ(07:15)−アウランガバード(08:15)9w3103便
14日 アウランガバード(19:55)−ムンバイ(20:55)9w3110便

宿泊ホテルアウランガバード市内の「ホテルプレジデントパーク」


観光日程は以下のとおり。
12日 エローラ石窟(第1石窟から第16石窟まで)
13日 終日アジャンタ石窟見学
14日 エローラ石窟(第25石窟〜34石窟)、ダウラターバード砦登頂。


飛行機はムンバイの空港を飛び立つと一旦海上にでますが、直ぐ旋回して、インド内陸部に入っていきます。飛行機が小さくそれほど飛行高度が高くないので、デカン高原の赤い・殺伐として風景が窓から見ることが出来ました。今回、ムンバイ領事館「Iさん」、デリー大使館のお二人、デリー勤務のKさん、ハイデラバードの「Mさん」にお会いしました。他にも数人日本人(らしき人)を見かけました。


エローラ石窟の印象
とにかく規模が大きいことに感動しました。加えて精巧な彫刻技術はまさに「世界遺産」に値します。中央16窟のヒンズー窟「カイラーサ寺院」が特に有名ですが、その他の仏教石窟、ジャイナ石窟も見事です。私は一日半かけましたが、それくらい時間が必要だと思いました。


日本人は仏教石窟・ヒンドゥー石窟・ジャイナ教石窟の様式の違いみたいなことを気にするのですが(私だけかも)、基本的に大きな違いはないようです。ここは宗教の修行の場所、祈りの場所なのです。この巨大な人間の技をみていると、資金金を出す人、安い賃金でも労働力を提供する人、そして出来上がった寺院で修行する人、宗教儀式を総括する人。色々な人達がかかわっていたことが想像できますが、全ての人が「神」に祈っていたことが分かります。実際に岩山を掘り出した人達はどんな人達であったのか興味は尽きません。賃金を得るためだけで、これだけの高度な芸術作品が作れるはずはないと思うからです。


アジャンタ石窟の印象
アジャンタはエローラに比べると一箇所にまとまっていて観光は楽です。とはいっても相当広いですが。スリランカのダンブッラの石窟寺院も同じ仏教石窟ですが規模においてエローラの方が遥かに大きいです。時代でいってもダンブッラ石窟より随分昔に作られた感じです。アジャンタ石窟の仏教壁画は非常に精密です。インドの精密画のひとつの原点であり頂点のような感じもします。ただし、とにかく夥しい量の壁画なので、全部残っていたら「辟易」しそうな絵なのです。こういうのはどう評価すればよいのか・・・。


つまり残っている一部の絵の「菩薩象」が素晴らしいとか、仏陀の出世時の描写が一部残っているとか、それはそれで非常に貴重なのでしょうが、全体象がつかめないのです。インドでは仏教は少数派です。アショーカ王が仏教を背景にしてインド史上最大の統一王国を築いたのですが、その後ヒンズー教、イスラム教がインド社会で主流になっていきます。なぜインドで仏教が少数派に陥ってしまったのか。写真を沢山撮ってきたので、そのうちに旅行記にまとめたいです。



2004年11月11日(木) デワリ

今週はデワリの休日があります。会社会社で区々なのですが私が入居しているビルは「金曜日12日」を休日として3連休になります。今日木曜日から4連休になる会社もあります。朝出勤しようとホテルから出るときに「今日は休みではないのか」という質問を受けました。


入居しているビルでは水曜日にデワリのプージャが行われました。私も誘われたので儀式に参列させてもらいました。ムンバイあたりでは「デワリ」では「ラクシュミ神」を祭るようです。他の地域も同じなのかどうかはわかりません。もともと「デワリ」は「火」に感謝するということから始まっているそうです。「火」が「悪魔」を追い払ってくれるのでしょう。ムンバイ市内の西側の海岸に「ラクシュミ神」を祭ったヒンズー寺院があります。それほど古いようには思われませんが敬虔なヒンズー教徒の祈りを見ることが出来ます。


デワリプージャの後に、ビルの従業員・店子が寄り集まって軽食をいただきました。その後「ビンゴ」のようなゲームをやりました。一枚の数字の埋まった紙をRs30で買って読み上げられた番号に印をつけ、早くそろったら「賞金」がもらえるというやつです。なんと、証券会社の従業員が賞金を独占していきました。「金」には強い会社です。明日から3連休です。気分転換に少し遠出してきます。



2004年11月09日(火) アパート探し

土・日を使ってムンバイのアパートを見て回っています。オフィスがある場所はムンバイの南部の「ナリマンポイント」というオフィス街です。ここには多くの日本企業が居を構えています。そして日本人の多くは少し離れた「マーラバヒル」とか「パデルロード」などの、住宅街に住んでいます。その辺りの地域から、ナリマンポイントのオフィスまでは車で30分位で通勤できます。多分、その辺りは、東京で言うと「六本木」「青山」に当たりるのでしょう。多くの外国人が住みそしてムンバイの金持ちが住んでいるのです。


ムンバイでもその辺りのアパートは供給が限られているので値段が非常に高いです。そして殆ど全てが「個人」の所有で、所有者が二つ・三つアパートを持っていて貸し出すのです。不動産業者には二種類あるそうです。ひとつは所有者の代理となって出来るだけ高く貸すことを稼業とする人。もうひとつは借りる人を代表して出来るだけ「安くなるよう交渉する人」です。この二つは利害が相反するのだというのですがどうもはっきりしない部分もあります。さて、物件ですが、インドは家族3代一緒に住む伝統があり、アパートといっても3B(ベッドルーム)、4Bの大きなものが主流です。そして基本的に各部屋にバス・トイレが着いています。広い居間とダイニングがあり、キッチンとメイドの住む部屋が付いている。


単身赴任用の小さな物件は少ないです。そして殆どのアパートの「バス」は、単にシャワーがあるだけというものです。「バスタブ」が付いている物件は殆どありません。「バスタブ」が入るスペースがあれば、あとは交渉してバスタブを入れてもらうか自分で購入するかどちらかになります。やはり「バスタブ」は欠かせないなと思います。日本みたいに銭湯があるわけではなし「温泉の元」を入れてゆっくりできる環境ははずせません。というようなことを言っているとなかなか候補が絞れてこないのです。



2004年11月08日(月) 日本食

日本から持ってきた日本食がそろそろ終わりそうです。日本持って来た「*Pマヨネーズ」はいつもながら重宝しました。小さい頃からずっとたべているので、生野菜サラダはこれがないと辛いです。それにしても「Q*マヨネーズ」は長い間人気を保っています。


インスタントラーメンも無くなってしまいました。仕方がないので、昨日ムンバイの大きなマーケットに行ってインド製の「ヌードル」を買ってきました。これも「ノンベジ」マークが付いています。こちらの「ヌードル」は、基本的には日本の「焼きそば」みたいなもので、お湯で戻した後で「フライパン」で少しいためるのです。この時野菜を入れるとベターなのですが。でも茹でた麺に「こし」が無いので美味しくありません。それとノンベジなのに「だし」が効いていないし。


そもそもこれらは日本の「インスタントラーメン」を真似して作ったものと思われます。日本の「本物」のラーメンを真似しようという気概は全く感じられません。日本の「インスタントラーメン」を目指しはしましたがそれがあまり美味しくないので、自分達なりにアレンジしたものだと思います。日本のインスタントラーメンが本物のラーメンに遠く及ばないのでインドの人達が「本物のラーメン」を想像しようと思っても無理なのでしょう。


しかし日本の本格ラーメンは「豚骨、鰹節」など様々な物が入っているので、てとても「ベジ」だけでは真似はできないでしょう。この辺りが食文化の決定的な違いです。こちらのマサラに代表される「植物」から採った「香辛料」もすごい文化だとは思いますが。買い物に出たついでに、インド産の「赤ワイン」を買って見ました。値段はRs550。フランスの技術支援を受けて、バンガロール近くのワインヤードで作られたようです。



2004年11月05日(金) インドのトイレ

さいたまのマンションのシャワー付きトイレが故障してシャワーが出なくて困っていたようです。インドのトイレにはちゃんとバケツが用意してあります。
もちろん(大)の方ですが、水道の蛇口と水を汲んで置く大きなバケツ、そして多分を水を汲むための小さなバケツが大きなバケツに付いています。 場所が場所なので「水洗用」のはずです。インドの便器は普通は水洗式ですから、「おしり」を洗うためのものだと思います。しかし、どのようにして使うのかわかりません。狭い個室トイレの中でどのようにバケツを使うのか、これは非常に大きな「なぞ」なのです。

昨年まで通っていたスリランカでの私の事務室についていたトイレ(もちろん水洗です)には、水道からホースが伸びていてその先端にシャワーが付いていました。これなら使い方はおおよそ想像できます。シンガポールにも同じようなものがあった記憶があります。日本のシャワー付きトイレ、インドのバケツ、ホースシャワー付きトイレは目的は同じでしょう。しかし、アプローチの仕方は全然違います。日本のシャワー付きトイレはセンサーが付いていたり、トイレは便座が暖かくなる仕組みがあったり、もちろん衛生的で文明の象徴みたいです。


これらのトイレについて、全く180度違う評価が可能です。バケツ方式とシャワー方式は、衛星が保たれる保障は全くなく、かえって不衛生を助長する恐れがあって使えない。日本のシャワー式トイレでは、ノズルを使う度に洗浄する方式さえある。これら3つを同列に扱うなど考えられない。(これがひとつの評価)


バケツ方式、ホースシャワー方式、それぞれ大胆ではあるけれど、「おしり」を洗う事には変わりがない。所詮「飲むわけでもないし」、水は最低限の衛星条件が保たれていれば十分。上水道を水洗トイレに使うのはそもそももったいない。また用を足してから「手」を十分洗えばそれでいいではないか。(これが二つ目の評価)


私は、バケツの水を使う要領もわからないので使っていませんが、最近二つ目の考え方に傾きつつあるような気がします。


もひとつのなぞ。
男性用(小)の便器は非常に背が高い。(背というか、いわゆるシンクのところです)これはインド人が「足」の長い証拠なのかしら。こちらはもう少し工夫が必要だと思います。子供だって使うのだし。



2004年11月04日(木) 朝の風景

最近朝はとても涼しく感じられます。こういう爽やかさはスロランカのコロンボにはありませんでした。やはり緯度の違いは大きいと思います。一方、日中、太陽が高くなると気温がぐんぐん上がり30度を越すことにはなります。
朝・夕同じ道を歩いて通勤・帰宅しているのですが、オフィス街のその道は殆ど「屋台」がずっと連なっています。食べ物屋・果物売り・ココナッツ売りなどの飲食関係が多いです。特に朝の時間帯は、朝食の後片付けと昼食の仕込みの様子を見ることが出来ます。といっても歩道で営業しているのでいやでも目に入るのです。皿荒いの横を通り抜けていく感じです。


そうした風景を見ていて気が付いたのは、結構小さい子供が働いていることです。この子供達は学校に行かないのかしら。そう思いつつも、彼等が一生懸命働いているところを見ていると、これが彼等の学校なのかしらと思えてきます。本当に丁寧に皿を洗っているし、玉葱刻みを上手に一生懸命やっています。彼等はそれを強制されているのではなく、自分の仕事として取り組み、いかに上手にこなすか工夫しているように見えます。


こうした風景はインドの不思議な感じです。すごいことだと思うのです。人々はそれぞれの自分の仕事に精一杯取り組んでいてお互いにそれを認めています。それがどういう商売だろうと皆同じ感覚なのかなと思われます。ただし、その商売は非常に細分化されているのです。料理を作る・それをサーブする・そして後片付けとして皿を洗うことが別々な仕事なのです。つまり、皿を洗う人は暇があったら調理方法を習うということはなく、あくまでも皿洗いだけに没頭していると思われるのです。


インド版「二宮金次郎」は「薪集めのプロ」となるよう努力する「人」なのではないかと思われるのです。決して仕事をおろそかにしません。本を読む時間を惜しんで良い薪の集め方を研究するのです。(私の想像ですが)本当の正体はわからないけれど、(どっちが先かわかりませんが)インドのカースト制が存続していることの大きな理由はこういう社会だからだと思われます。それぞれ細かく細分化された仕事に関して「名人」となることが人生の誇りなのではないでしょうか。ヒンズー教の「カースト制度」が数千年間もインドの社会に生き延びてきた「ポジティブ」な面を見る思いがします。



2004年10月30日(土) ムンバイの拝火教徒の歴史

ムンバイのゾロアスター教徒の歴史について少しまとめてみました。(ちょっと長いかな)


ムンバイ市には数万人程度の人口を持つ「パルシー」(ペルシャ人)がいます。彼等の宗教はゾロアスター教(拝火教)。世界全体でも10万人程度の信者の数なのです。その中でインド全国で6万人強の信者がいるそうです。


ムンバイはその半分以上が住んでいて、ムンバイは世界中でゾロアスター教徒が最も多く住む都市なのです。ゾロアスター教徒の伝統では、男性が非ゾロアスター教徒の女性と結婚すると、生まれた子供達はゾロアスター教徒となるのですが、逆の場合はゾロアスター教徒になることは許されないのだそうです。今は移民等で外国に行き他の宗教に変る人もいて、他の宗教の男性と結婚するゾロアスター教徒もいて、ゾロアスター教徒の数はどんどん減っているのだそうです。


そういう関係で、ムンバイ市には近郊地域も含めて47の拝火教寺院があります。それは全世界の40%にあたるそうです。寺院には他の宗教徒は決っして入れません。インド10億人の7割程度を占めるヒンズー教徒もこの中には絶対に入れません。ゾロアスター教徒の宗教儀式は他の宗教の人達には、全く「なぞ」なのです。聖なる「火」を祭るといわれる「ゾロアスター教寺院」に加え、「鳥葬」が行われる「沈黙の塔」がひっそりとですがムンバイには存在しています。一見するとただの丘ですが、ムンバイの「沈黙の塔」は一等地の住宅地の丘の森の中にあります。


「ゾロアスター」という人ですが通説では紀元前6世紀頃に「神の言葉」を伝えた者とされています。ニーチェの「ツァラツストラは斯く語りき」とか、R・シュトラウスの同名の交響詩、さらにモーツアルトの魔笛に出てくる「ザラシュトラ」。「ゾロアスター」はその名前に響きの不思議さも手伝って、ヨーロッパで不思議と取り扱われるのことが多いようです。宗教の考え方はどんなものか・・・・これはこれからもう少し少しずつ勉強しようと思います。


「ゾロアスター教徒がインドに来るまでの歴史」
ゾロアスター(拝火教)は最初はカスピ海東部地域で発生したようですが、歴史に登場するのは、紀元前6世紀に成立した「アケメネス朝ペルシャ」の時代だとのことです。この王朝を築いた「キュロス大王(Cyrus the Great)」は非常に寛大で名君であったとのこと。この王朝の下でゾロアスター教はイランを中心に中東全般に広がっていったようです。


キュロス大王(こちらではサイラスと発音しています)はバビロンを征服しユダヤ人を解放したことに加え、奴隷を解放し、人類最初ともいえる「人権憲章」を作ったのでした。この碑文の書かれた円柱が1879年に発見され、本物は大英博物館に所蔵さ、レプリカがニューヨークの国連本部に置かれているのだそうです。


アケメネス朝ペルシャの支配地域は、エジプト、ギリシャから中東、カスピ海東部、インダス川西部に及ぶ広大な地域でした。政治と宗教の関係が詳しくはわかりませんが、宗教にかんしてはかなり寛大であったとことが想像されます。そんな環境の中ゾロアスター教も多くの宗教の中でひとつであったと思われます。ここでゾロアスター教は「アフラ・マツダ」を唯一の「神」とする「一神教」であるという点は、ユダヤ教が一神教であるという点と共に非常に重要でしょう。(自動車のマツダという名前もここから由来しています)


このアケメネス朝ペルシャでは、ダレイオス一世の時代に最も隆盛します。この王は有名なペルセポリスの都を建設したことで知られています。そしてダリウス3世の時代(紀元前4世紀)に新興国マケドニアの英雄アレキサンダー大王に破れ(イッソスの戦いBC333)、衰退の道を歩むことになります。


その後アレキサンダーはエジプトをも征服し「アレキサンドリア」を建設しペルシャの都を破壊しました。しかしアレキサンダーの死後、この地域は混乱することになります。一方、ヨーロッパはペルシャから多くの有形・無形の宝をヨーロッパに持ち込み、先進地域のペルシャに追いついていきます。そしてペルシャが混乱している間に、ローマ帝国がその帝国範囲を急拡大していくのです。


アレキサンダー大王死後の中東地域は数百年間混乱します。バビロンから開放された「ユダヤ教」、そしてゾロアスター教が広まりますが中小国の成立・破壊の世の中で宗教もまた混乱していたことが想像できます。そして「イエス」の誕生を迎えるのです。キリスト教誕生に、ユダヤ教と並んで、ゾロアスター教が大きな影響を及ぼしていたことが想像されます。


その後中東地域全体を統一したのはササン朝ペルシャ(3世紀)でした。キリスト教が西のローマ帝国に拡大していったこととは対象的に、このササン朝ペルシャで支配的な勢力となったのがゾロアスター教でした。ササン朝ペルシャでは支配的な宗教と扱われたようです。一方拡大したローマ帝国はビザンチンに拠点を置く東ローマ帝国がキリスト教を国教として成立していきます(4世紀)。


ササン朝ペルシャとビザンチン帝国の対立が続いていた時代に、7世紀、アラビア半島に「マハメッド」が現れてイスラム教が創始されます。イスラム教はモハメッドの近親者を子孫を通じて急激に中東全体に広まっていきました。それらの国ではイスラム教の伝道者(カリフ)が王となるわけですが、そうしたカリフの中から有力な王が出現しました。そんな中でも「アッバース朝」は有力で現在のバグダットの地に都を建設しました。


このアッバース朝衰退の後に中東地域、イラン地域を支配したのがセルジュクトルコ朝でした。ササン朝ペルシャの衰退以降、中東イラン地域は次第にイスラム教の影響が強くなっていきます。そうした状況の中でゾロアスター教徒たちは次第にイスラム教の飲み込まれていったものと思われます。11世紀のイランの詩人「オマール・ハイヤーム」の有名な詩にもゾロアスター教のことが出てきます。彼はイスラムの詩人とされますが、彼を隠れたゾロアスター教徒だとする説もあります。


そしてイスラム支配に耐えかねた少数のゾロアスター教徒がイランを出てインドに向かいました(11世紀)。この「イラン脱出」のことはゾロアスター教徒の中では非常に重要な叙事詩となっているとのことです。ここで注目すべきは、ゾロアスター教とヒンドゥー教が非常に似ていたということです。二つの宗教はともに紀元前3000年頃、カスピ海東部地域に発生し、ゾロアスター教はイラン方面に、ヒンドゥー教はインド方面に広まっていったもので、元は共通するものがあったようです。


困難な旅路を乗り越えて、イランを逃れたゾロアスター教徒はインドのグジャラート地方の定住しました。この時のインドの王との出会いは有名なものとして語り継がれています。


インドの王様は漸くインドにたどり着いたゾロアスター教徒に、コップに注いだミルクを差し出して、「インドは貴方にミルクを提供して迎えるが、貴方はインドに何をしてくれるのか」と問いただしたのだそうです。ゾロアスター教徒はそのミルクを飲まずに、そこに砂糖を加えて混ぜ合わせ、王様にそのまま差し出したのだそうです。


この話はインド10億人の社会で生き残っているゾロアスター教徒の生き方を端的に現しているようです。そして時代は17世紀イギリスのインド経営の時代になります。グジャラート地方に居たゾロアスター教徒たちは、イギリスが建設し始めた「ボンベイ」に移り住み、支配者イギリス人と良好な関係を築いていきます。その中からインドを代表する財閥の「TATA」家などが出てくるのです。


こうして外観してみると、非常に興味深い宗教であり、人々であることが分かります。



2004年10月25日(月) ムンバイの拝火教寺院

ムンバイには近郊地域も含めて、47の拝火教寺院(ゾロアスター教寺院)があるそうです。この数は全世界の拝火教寺院の40%にあたるのだそうです。ムンバイのゾロアスター教徒は、約1000年前にイラン方面から逃れてきた人達の子孫なのです。拝火教がキチンと社会に残っているは、ひょっとしてムンバイだけなのかもしれません。


今日(24日日曜日)はムンバイの町を散歩しながら拝火教寺院を眺めてみました。眺めてみましたというのも、拝火教寺院は、他の宗教の人間は一切入ることが許されないのです。一箇所の寺院は敷地には入れてもらえたものの、建物は厳重に管理されていて入館は決して許されませんでした。もう一箇所も同じでした。一箇所の拝火教寺院の外に「火」のモニュメントがあり、内側の「火」はこうなっているのかなと想像しました。



2004年10月23日(土) The Hunter Hunted

20日の新聞は「凶悪な密猟者が銃撃戦の末に射殺された」旨を報道しました。彼の名前は「ウイーラパン(VEERAPPAN)」。この密猟者は、象牙目当ての象の密猟、サンダルウッド(白檀)の木の伐採、取り締まりにあたった警察や役人の殺害、仲間中での殺人等、かなり悪いことを積み重ねてきたそうです。


彼の活動エリヤはインド南部のタミールナド、カルナタカ、ケララにまたがる山間部でした。これまでかなりの数の象が密猟されてきたようです。なんでも1970年から1985年の10年間だけでも300頭の象が射殺されたとのこと。さらに44人の警察官の殺害に関与してタミールナド州では107の事件で逮捕状がでているとのこと。彼には55百万ルピー(1億35百万円)の懸賞金がかけられていました。インドの象達は少しは安心して眠れることになるでしょう。



2004年10月22日(金) 飛行機内での食事

一昨日出張で首都デリーまで行ってきました。行きは朝9時20分ムンバイ発、帰りは夜7時40分のデリー発。ビジネスマンに人気のジェットエアーという国内線の飛行機を使いました。飛行時間は1時間50分余り。前回も同じ飛行機会社でした。帰りのにはニューデリーのラッシュアワーに巻き込まれ、飛行場についたのが7時過ぎでした。


チェックインが遅かったので指定された席は3席並びの真中の席しか残っていませんでした。エコノミークラスは1列が3席+3席座席で非常に狭いです。横に大きな人が来たらイヤだなと思いつつ乗りました。幸運にも両側の人がそれほど大きくなくてラッキーでした。帰りの便の私の通路側の横に座った人は、エリクソンインディアの人で、彼はエリクソンスリランカのCEOやスリランカテレコムのCEOを知っているというのです。これは全く偶然なのですが同じ知り合いを持つ方と出会えて非常に幸運でした。


ジェットエアーでは飛行機が水平飛行に入ると早速ジュースが配られます。そして次に食事が出され、その次にアイスクリームが出され最後にお茶がだされます。勿論食事の注文はいちいち「ベジ・ノンベジ」を聞いて回ります。この食事にかまけていると1時間50分はあっという間に過ぎてしまいます。


ふと思ったのはこれはまさしく「機内エンタテインメント」だということです。機内には映画もゲームもありませんしコンピュータを広げるスペースもないのです。しかし退屈しないのです。順番に飲み物、食べ物がサーブされるのをわくわくしながら待つのです。小学校の給食の時間みたいです。人間にとって食事の楽しみは非常に大きいのだと再認識しました。特にインドの人は食事を大切にしますから。


食事の事に気分を集中していると多少座席が狭くても苦にならないのです。隣はベジかノンベジかとかいう興味もあります。ジェットエアーは食事を提供することによって座席を狭くして大勢の客を載せることに成功したのです。更に飛行機の設備も非常に簡略化されています。余分な装備は一切なし。その代わり、食事・飲み物に十分気を使っているのです。良く考えた戦略だと思いました。日本の国内線では随分前から食事サービスは無くなっているはずです。




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