KENの日記
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2004年01月14日(水) 職場のLan環境

今日やっと私のパソコンがLanにつながりました。昨日一日回線の不具合でつながらかったのです。我社の社内ホームページは、2年前に比べて驚くほど変わっていました。浦島太郎の状況です。


私がスリランカに赴任する前の状況は、○TTが4社に分割されて、それぞれの会社が独自のLanシステムを構築していた時期でした。通信会社ですから回線設備はたっぷりありました。でも、ホームページ作成のノウハウはそれほど普及していなくて、手探りで情報共有化のツールを作っていたのでした。


この個人ホームページもその頃始めたものです。丁度会社においても同じような状況だったのです。そして、その後スリランカに赴任したのですが、社内ホームページはさすがに通信費が高いので、海外からのアクセスは禁止されていました。この2年あまりの間、一度も社内ホームページにはアクセスできませんでした。


今日Lanが開通して、社内ホームページにアクセスしてみて、非常に洗練されている(?)ことにびっくりしました。殆どの庶務的業務がこれを通してなされますし、情報はホームページを通して配信されます。


住所登録から通勤費の申請。会議開催のお知らせから、資料配布。トップからのメッセージ。前から少しずつこういう方向だったのですが「ここまで来たか」という感じです。でも慣れていない人にはとても冷たいシステムです。システムへの投入の仕方システムのマニュアルを読まなくてはなりません。皆さん忙しくしているので、簡単ななこと聞くのは憚られるし・・・。



2004年01月13日(火) 新しい職場出勤

日本に帰ってきて新しい職場に初出勤しました。朝の埼京線の8時4分の通勤快速は予想より混雑はしていませんでした。前はもう少し混雑していたように思います。赤羽で京浜東北線に乗り換えます。赤羽の駅の乗り換え客は増えている感じです。


昼食は会社の地下食堂でラーメンを食べました。以前ここに勤めていたときにも結構食べたのですが、ここの「とんこつラーメン」は美味いです。しばらくはラーメンをたっぷり食べようと考えています。コロンボからの引越し荷物は多分1月末頃日本に着きます。スーツを始め衣類を殆ど詰めてしまったので、少し不便な生活がしばらく続きます。



2004年01月12日(月) 帰国しました。

今日、正午頃到着のスリランカ航空便で日本に帰ってきました。コロンボまで迎えに来てくれた妻といっしょだったので、それほど退屈しませんでした。ほとんど寝てきたのですが。


この便はコロンボから一旦モルディブのマーレに行き、マーレから成田まで直行するのです。飛行機内のモニターで見ていると、インドのティルチ、マドライ、チェンナイなどの上空を通過するのが分かりました。夜が明けると、もうすでに中国の上海上空でした。朝食を食べる終わった頃、飛行機は九州上空にさしかかりました。晴れていたので、九州、瀬戸内海、近畿、東海の地形が下に良く見えました。


富士山が雲の中から頭を出していましたが、関東地方は雲に覆われていました。成田空港に着く外気温5度。気温27度前後のコロンボの生活に慣れてしまった身体にはとても厳しいです。


成田空港では別送品の引越し荷物の税関手続きを依頼しました。でも別送品が日本に到着するのは、約3週間してからです。多くの衣類が別送品で運ばれるので少し不便です。それと肝心のチェロが無事着くかどうか。これが問題。


今日は「成人の日」であったので、京成線の車内とかプラットフォームでは着物を着た若い女性を見かけることができました。それと成田からはお寺の参拝した方が多く乗ってきました。私の両親も上京した折には良く参拝に来たのでした。


学校が休みで丁度家にいた長男に頼んで武蔵浦和まで車で来てもらいました。最後の引越し荷物が重かったのでとても助かりました。



2004年01月09日(金) 最後のお別れ

今日はコロンボ最後の金曜日。昼食はお世話になった「銀行」の方を招待して「お別れ会」。夕食はスリランカテレコムの有志の方々主催による夕食会でした。そして、その合間をぬってお世話になったエリクソン社にご挨拶にいき、その後チェロの師匠の「ドュッシー先生」の家に挨拶に行ってきました。

昼食会については、前から秘書を通じて各銀行関係者にアポを取っていました。会食の場所は宿舎にごく近いインド料理の「ロハンレストラン」。銀行の方には、二年間大変お世話になったので、いい「お別れ会」ができたと思います。最後の最後まで仕事を用意しておいてくれた「SCB」さんともお別れをすることができました。今日のロハンレストランのカレーは、相変わらず容赦ない辛さでした。スリランカ人の銀行員の方には、リーズナブルとのことでしたが日本人の私達夫婦とSLTCEOには少し辛すぎました。

昼食後、ハベロックロードのヌゲゴダにあるエリクソン社へ、お別れの挨拶に行き、その足で「コッテ」にあるの「ドユッシー師匠」の家に向かいました。エリクソン社とは子会社モビテル社のGSMサービスでお世話になりました。2003年春ストックホルムに行ったのも、GSM設備の購入資金借り入れの根回しに行ったのでした。

「ドュッシー先生」のお宅では、8日(昨日)に行われたコンサートの話に花が咲きました。というのもソプラノ独唱会のピアノ伴奏をした「サンダリーさん」の伴奏がとても見事だったからです。いっしょに聞いた妻もびっくりしていました。サンダリーさんはSOS(シンフォニー・オーケストラ・オブ・スリランカ)でセカンドバイオリンの主席をされている方です。華奢な身体付をしているのですが、コンサートの最初から最後まで、緊張の途切れない、心のこもった素晴らしいピアノ伴奏を披露されました。ドュッシー先生の話しでは、二月のSOSのコンサートでグリークのピアノ協奏曲を弾くことになっているのだそうです。グリーグというとリパッティの流れるような素晴らしい演奏が思い出されるのですがサンダリーさんはどのように弾くのか楽しみです。(聞くことは出来ませんが)

この日、ドユッシー師匠からコロンボトリオのCD二枚借りてきて、コピーしてから返すことにしました。この後、一旦宿舎に帰り、ゴールロードのスリランカ料理店に会社最後の送別会に出かけました。皆さんから感謝の言葉を刻した「プラック」を頂いて感激しました。



2004年01月07日(水) メードの世話

今日は2004年始めての満月ポヤデイです。会社が休みなので、メードのシータの荷物を彼女の実家まで運びました。私の帰国後、彼女の就職先が決まっていないことに加えて、私の炊事用品などをあげた関係で、荷物が大分増えてしまったので、私の運転で実家(と友人の家)まで運んだでした。

シータの就職先ですが、コロンボに住んでいる三人の日本人の方から問い合わせが来ているのです。私が帰ってしまうと彼女が失業してしまうので、日本人会の掲示板等で広告したところ、三人の方から照会が来ています。今シータを紹介して条件面などを個別に交渉中なのです。一番条件の良い方にと思っています。

彼女の実家はマトガマという町の郊外のゴムのプランテーションです。9時にコロンボを出発して約2時間かかりました。

シータの実家に行く前に途中の「ワッドア」のシータの友達の家にも寄って荷物を少し降ろしました。この友人は足が悪くて松葉杖が必要なのですが、とても明るくてシータととても中が良いのです。しかし、彼女の家はとても貧しくて、シータはしばしば自分の給料から何かを買ってプレゼントしていたのでした。私の必要なくなった台所用品の一部を置いてきたようです。彼女の家は、羊、鶏、猫が家族同様に暮らしています。家の周り野原には犬・豚が走り回っています。

マトガマへは、コロンボ南部のカルタラという町から、内陸に入っていきます。マトガマ付近はゴムのプランテーションがたくさん残っているようです。シータの実家はそんなゴムのプランテーションの中にあります。プランテーションで働く人達(ゴムの樹液を集めて回る人達)が集団で長屋のような宿舎に住んでいるのです。家賃は非常に安いようですが、山の中なので、勿論電気はきていません。テレビのアンテナのある家が一軒ありましたが、多分バッテリーで見ているはず。とにかく貧しい人達が住んでいます。

私達が行くと近所の人達が集まってきました。日本人がここに来ることは、まずありません。シータはここには、シータのおばあさんとおかあさんが住んでいます。ここでシータの荷物を全部降ろしてコロンボに引き返しました。12時過ぎに引き返したのですが、昼食を食べる場所を見つけることができず、結局コロンボに戻って昼食を取りました。

この日の夕食は、Dr.シーバラトナムの家に呼ばれました。というのも日本帰国前に必ず妻を連れてくるように言われていたのでした。今日が唯一のチャンスだったのです。この日はドクターの家に他のお客様も来ていました。もちろん「IMAI」さんもいました。昨日の「シンガポール航空まぐろ」、「のり」、「わさび」が残っていたので、これをもっていって再び「巻き寿司」を食べました。でもスリランカの人達はやはり辛いカレーの方に手が延びていました。

ドクターとスーパにしっかりお別れをしてきました。



2004年01月06日(火) 最後の仕事整理、自宅でお別れ会

今日は妻を連れて会社に行って職場の人達にお別れをしました。でも会社に行くとサインをすべき書類が溜まっていたり、相談事が持ち込まれたり。それをこなして、職場の人達一人づつに小さなケーキをプレゼントしました。全部で350個程度。これを離れた職場の人達にももって行ってもらいました。


これと並行して、昨年12月にマドライに行った際に買って来たパンジャビ用の生地を妻用のパンジャビに仕立てるために妻に採寸に行ってもらいました。今回は赤い生地を買ったのですが果たして、妻に喜んでもらえるかどうか。メードのシータにも安い生地を買って来たのでした。夜はご近所を招いてのお別れ会をしました。


呼んだ方々は、S航空のレオンさん夫妻と長男(丁度ロンドンの大学から帰ってきてたところでした)、C航空のラムさん夫妻とお子様(1歳)、E社のマークさん夫妻(モビテル社のGSMでお世話になりました)、それとC社のホーさん(SLTの料金システムでお世話になっています)。この方達は同じ宿舎に住んでいるので良く顔を合わせるのです。


今日のメインは手巻き寿司にしようと、妻に日本から「紫蘇の葉」を大量に持ってきてもらったのでした。「のり」は我が家に大量の蓄えがあったのです。しかし、何軒か回ったのですが「まぐろ」を手に入れることができなかったのです。仕方がないので違う料理にしようかと思っていたのです。メードのシータは得意のタンドーリチキンを大量に焼いて準備していました。


しかし、何と言う奇遇。レオンさんが、S航空のツテで新鮮な「まぐろ」を持ってきてくれたのでした。妻は早速「酢飯」をこしらえ、たっぷりの「わさび」と「のり」と「紫蘇の葉」で頂きました。これはとても美味しかったです。日本の味を喜んでもらえました。


レオンさんはマレーシア、ラムさんは香港、マークさんは台湾→オーストラリア、ホーさんはシンガポールから来ているのですが、奥様達も含めて中国語で話ができるのです。私達夫婦がいると英語で話してくれますが、彼等だけだととてつもなく早い中国語で話始めます。こうした中国系の方の底力は凄いものがあります。


コロンボでの単身赴任は、少し寂しい面もあったのですが、この隣人達とのお付き合いで、潤いを得る事ができたのでした。とても感謝しています。ありがとうございました。



2004年01月05日(月) 最後の一週間

今日の夜のスリランカ航空便で妻がコロンボに到着しました。妻は二回目。前回は2002年の8月の夏休みを利用してスリランカを案内したのでした。長男と長女の二人は結局スリランカに来ませんでした。この二人は生来の出不精なのです。上げ膳・据え膳で旅をセットしてやらないと、重い腰が上がらないのです。従って面倒くさいので呼ばなかったのです。もっとも大学生・高校生の時は私も友人やらクラブで忙しかったのは確かですが。


妻をコロンボに呼んだのは、もっとも丁寧な「お別れ」をするためです。日本ではいざ知らず、コロンボでは家族ぐるみでの付き合いは最上のお付き合いです。妻ともどもお別れをするのは、お世話になったこの国の人への感謝のしるし。明日から殆ど毎日、コロンボを連れ歩いて、お別れの挨拶回りをします。


今回、妻はスリランカ航空のモルジブ経由の便で来ました。冬のシンガポール経由便はSARSが心配だったし、こっちの方が安いのです。モルジブで日本人客を多く降ろして、1時間あまり休んでから、コロンボに来ました。13時間の飛行機の旅で少し疲れています。でも真冬の日本から、暑いコロンボに来たので、身体には楽なようでした。



2004年01月04日(日) 最後の仕事など

昨日、引越しを済ませたのですが、部屋のビデオ機器からテープが出てきました。これは日本にもって帰らなければ。テープは「ウゴルスキの展覧会の絵」を収録したもの。私のお気に入りの一本です。


でも、この録音はあまりにも凄いので、コロンボの知り合いのピアニストにプレゼントしようかとも考えていたものでした。偶然引越しパックから漏れてしまったのも何かの縁。あす早速ダビングして、お礼のプレゼントにしようかと考えています。


それと、今日は「翻訳」の日本語草稿の読み返しをしました。スリランカ生活の最後の仕上げとして、個人的にある小説の「翻訳」に取り組んでいます。一人では心もとないので、海外生活の長い「IMAI」さんを引っ張り込んで、今翻訳中。海外に住んでいると、日本語の語彙が貧弱になるような気がします。もっとも元々それほど日本が得意かどうか、程度が知れていますが。帰国が決まったのですが、日本に帰ってからも、じっくり取り組もうと思っています。



2004年01月03日(土) 引越しの荷造り

日本への帰国のために今日三日、引越しの荷造りをしました。


予定では、今日9割方荷造りを終えて、8日にパスポートを業者に渡すと同時に追加の一箱(あればの話ですが)を出す。というのも、これから思いがけないプレゼントがもらうと困ってしまうからです。国内の引越しだと、最後の荷物忘れていて箪笥の隅から出てきたものなどは、車に積んでいけば良いのですが、飛行機で帰る場合にはそうはいきません。積み忘れた荷物で大きいものは、持って帰ることを諦めなければ成りません。


正月の引越しは20年ぶりです。それは、静岡県の清水市から名古屋市に引っ越した物でした。丁度その前年に長男が生まれて、妻の体調が戻らないまま正月を暖かい清水で過ごして、寒い名古屋に行ったのでした。もっとも妻は学生時代の4年間名古屋で過ごしいたので、名古屋に行く事にはそれほど違和感はなかったはず。


さて、今回は5日から最後の仕事の整理をして、銀行関係のお世話になった人などにも「お別れ」をして、11日夜の飛行機で日本に帰ります。日本では早速新しい仕事が待っているのでしょうが、まず2年間に及ぶスリランカ生活と日本の会社生活のギャップを埋めなくてはなりません。それと、日本は真冬ですから体調を崩さないようにしないとなりません。



2004年01月02日(金) 電話帳事業

今日会社のSLTの電話帳事業部の懇親パーティがあり、ついでの私の送別会もしてくれるというので、会社のバンガロー(コロンボの宿泊施設)に行って来ました。電話帳事業部も会社のバンガローも私がスリランカ着任早々から関わってきたので、とても感慨深いものがありました。


特に電話帳事業については、日本で私が電話帳事業に携わっていたこともあって、財務業務の傍ら日本の印刷会社と連絡を取り合い、SLT自前の発行にこぎ付けたのでした。印刷専門用語の飛び交う業界ですが、この仲を取り持つこと、つまり日本語の英語への翻訳、英語の日本語への翻訳業務は、今から考えると結構大変だったと思います。でも、そのお陰で日本に二回出張することができました。非常に忙しく気疲れする出張でしたが。今から思うと楽しい出来事でした。


日本の電話帳事業もそうなのですが、この商売は非常に興味深いものです。つまり、販売、販売促進、生産、配達といった一通りの商売の機能が揃っていることばかりでなく、メディア産業(電話番号という貴重な情報を出版することにより価値の創出)なのです。


これらの機能を適切に管理するノウハウは大変難しく、世界でも一握りの会社に独占されているのが現状なのです。かつて、そんな商売に首を突っ込んでいたので、そんなことは意にも介さないスリランカの人達の仕事の進め方には、非常に戸惑いを覚えました。戸惑っていても仕方がないので私としては最善を尽くしたつもりです。




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