KENの日記
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2003年10月30日(木) SOS最後の追い込み

SOS(オーケストラ)は、1日(土曜日)の演奏会に向けて、最後の追い込みに入っています。水曜日・木曜日・金曜日と連続で夜6時から9時30分頃まで練習しています。気合が入ってきました。


私はというと、練習すれば良くなりそうなところと、とても手が出ないので消
えるところとをはっきりさせる時期に来ています。例えば「火星」の早い分散和音とか消えます。もっともここは多少音程が悪くても、カシャカシャやっていたほうが良いのかもしれません。


今回の演奏会では、チケットを20枚ほど買って会社とかの関係者に配りました。日本のアマチュアの演奏会だとチケットを捌くのは大変で「協賛」とか言って出演者が「お金」を出し合うのが常です。それと似たようなもの。私としては、細々やっているクラシック音楽をできるだけ多くの人に聞いて欲しいというのが本音です。フルオーケストラの演奏を「生」で聞く機会などコロンボではほとんど考えられないからです。


前に聞いた「チャイコフスキー」の「白鳥の湖」もそうでしたが、コロンボの暑い気候の下で、演奏者も聴衆も汗だくになって「寒い国」の音楽を聴くことに少し違和感を覚えました。演奏者は必死になっているのでわからないですが、さてコロンボの聴衆に受けるかどうか。


今回の演奏会にはもうひとり日本人が参加する予定です。JICA(多分青年協力隊)の人でキャンディでトロンボーンを教えているという「MUSHIAKAE」さんです。キャンディから金曜日に駆けつけて金曜・土曜の2回の練習で本番に臨みます。彼はほとんどプロ並なので強力な助っ人なのです。「火星」でも「チャイコフスキーの交響曲5番」でもトロンボーンが大活躍するので楽しみです。



2003年10月29日(水) ラマダン

この10月27日からイスラム教信者のラマダンの月が始まりました。この日はイスラム暦の新月にあたり、ラマダンは次の新月まで続きます。ラマダン月の断食はモハメッドがイスラム教信者の求めた五つの行いの一つです。


1、コーランの教えに従うこと。
2、一日に五回祈ること。
3、精神的な修行、罪を償うためにラマダン月「断食」すること
4、貧しい人、病人のためにお金をだすこと。
5、聖なるメッカに巡礼すること。


ラマダンはイスラム宗教上イスラム教徒が、肉体的な苦痛を自らに課すことによって、宗教に没頭しあるいは罪を償う期間なのです。従ってイスラムの精神が高揚・純化する時期でもあるのです。


ラマダンの一箇月の間は「日の出」から「日の入り」までの間「断食」をするのです。それこそ水も飲んではいけないのです。食事は日の出前と夜間に取ることになります。モハメッドの教えは次のようになっています。


「ラマダンの間、信者は特に朝早く起きてアラーに祈りを捧げなくてはなりません。そして信者に幸福が来るようにこの間「Sehri」を食べるようにしなさい。」夜明けの食事を「Sehri」、夜の食事は「Ifthari」といいます。


幸い、この時期は北半球では秋・冬にあたり、昼の長さが短くなるので「断食」時間は短くて住みます。コロンボは夜は6時ごろ暗くなり、朝は6時30分ごろ明るくなります。6月ごろの日の長い時期にラマダンがあったら大変です。


(職場のイスラム教徒のファーティマさんに聞いたところ、朝4時56分から夜6時30分までの間、一切の食べのもの。飲み物を取らないのとのこと。)


宿舎の近くにイスラム信徒の方が多く住んでいる地区があり、モスクも二つあるのです。この時期、夜明け前に「祈り」をガンガン流しています。すこし迷惑です。



2003年10月25日(土) ラクレット

二週間前に「ジャフナ旅行」に一緒にいったDr.シーバラトナムさんに誘われて夕食を食べに氏の家に行ってきました。ひとしきりジャフナの思い出話をしたたあと、「IMAI」さんと私が撮影したデジカメ画像を氏のマックで見ようとしましたがマックの操作がわからず断念。Drの娘さんがマックユーザなので昔からマックとの由。でも最新機器の操作はまだ慣れていない。私は7・8年前にマックを使ったことがあるのですが完全に忘れていました。


夕食はスイス料理の「ラクレット」。Drは長くスイスで住んでいたので本格的なスイス料理です。さらにバンコク出身の秘書のスーパさんがチーズに味付けするのでさらに美味しくなっている由。


ラクレットは料理の名前であると同時にチーズの名前でもあります。今日のチーズはスイス製ではなくフランス製の由。どうやってコロンボで手に入れたのか不明。


ラクレットは茹でた「ジャガイモ」に熱で溶かした「ラクレットチーズ」をかけて食べる料理です。チーズをかけるのは他の物でも可能。今晩は海老、スリランカ風春巻き、ウィンナーソーセージなどにチーズをかけて食べました。


氏の家にはラクレット専用の鉄板とチーズを溶かす料理器具がありました。とても便利そうです。そういえばこの春「チューリッヒ空港」に乗り換えで寄ったときに、免税店で「チーズフォンドゥ」の機械を沢山売っていたことを思い出しました。スイス料理は料理器具が面白いですね。


「スーパ」さんは、ラクレットチーズに「たまねぎ」を刻んで溶かすこと、さらに溶けたチーズに、コロンボの赤唐辛子の漬物を混ぜることを考えだし、さらに美味しく頂けるのです。これでチーズはさらに味の複雑さを増します。とても美味しいスイス料理でした。チーズフォンドゥでもそうですが、最後の方でチーズに飽きてしまうことがあるのですが、香辛料を使うことでそうならないのです。



2003年10月23日(木) マグロの夕食

今日の夕食は、隣に住んでいるのレオンさん(シンガポール航空)に誘われて彼の部屋でマグロを頂きました。最近同じフロアに香港から越してきた「ラム」さん一家も一緒に招待されていました。


まずレオンさんの紹介。レオンさんはシンガポール航空の仕事で、これまで日本(確か九州の博多)に住んだことがあります。コロンボの前はパキスタンのカラチ勤務でした。出身はマレーシア(中国系)です。奥さんと長男との3人暮らしだったのですが、長男はこの9月にコロンボのインターナショナルスクールを卒業してイギリスの大学に行ってしまいました。すこし寂しくなっています。


ラムさんは香港からつい最近越してきました。奥さんと1歳半になる長女そして引越しの手伝いに来たラムさんのお母さんの4人暮らし。お母さんは間も無く香港に戻る予定です。レオン夫婦とラムさん家族達はいきなり広東語で会話し始めます。香港とマレーシアでも共通の言葉を持っているのは凄いですね。


今日のメインはマグロの「手巻き寿司」です。レオンさんはシンガポール航空の貨物の仕事もしているので、日本に輸出されるインド洋マグロを安く手に入れることができるのです。美味しいマグロを久しぶりに食べさせてもらいました。前回誘われたときに「海苔」を持っていって「まぐろ」の美味しい食べ方を披露したのでした。


今手元に日本から取り寄せた「タマノイのすしのこ」(黄色いパックのやつ)があったのですが忘れていました。これを御飯と混ぜて、「まぐろと海苔」を「わさび」で頂くと結構いけそうです。「紫蘇の葉」がないのはどうしようもないのです。



2003年10月21日(火) 和平会議再開近し、スリランカ市民権

LTTE(スリランカの政府組織)が和平会議再開に前向きである報道がなされました。


スリランカの政府・LTTEの和平会議は、今年の4月中旬にLTTEが会議から離脱したままになっていました。日本が威信をかけて開催した「東京援助国」にもLTTEは参加しませんでした。


その後スリランカ政府は「暫定統治案」をLTTEに提示して和平会議再開を促してきていたのです。この政府の「案」は暫定的にタミール人に一定の行政機能を与えるものなのです。この案に対してLTTEは10月31日に対案を提示することになっています。この案はタミール人の「自治権」をさらに拡大する案になっていることは間違いありません。


LTTE政治グループメンバーは先週まで2週間にわたってヨーロッパを訪問して、スカンジナビアの国々の統治システムを勉強してきたのでした。アイルランドの憲法専門化と議論し、パリで対案のレビューをしたり、デンマーク・ノルウェーを訪れたのでした。ノルウェーでは紛争解決特別大使の「エリック・ソルヘイム」氏と会って今後の進め方を協議したのでした。


この12月で停戦から2年経ちます。一刻も早く和平会議再開されることを願っています。


少し前の新聞報道で追記(2003年10月8日)
スリランカ「公民権法の修正法」が国会全会一致で可決されました。これはスリランカ南部に住む「インドから渡ってきたタミール人」に公民権を与えるというもの。この人達はこれまで国籍がなかったのです。当然選挙権もなし。スリランカの内戦の一つの原因であったのです。


この歴史を少し調べてみました。


イギリス植民地時代の1830年を中心にイギリス統治府の命令で約100万人のタミール人労働者がインドらスリランカ(当時セイロン)に連れてこられました。彼等はスリランカ南部にある茶・ゴムのプランテーションで働くことになったのです。当時はインドもセイロンも同じイギリス統治下にあったのです。従って、タミール人もシンハラ人も被支配民族として基本的には平等だったのです。


しかし、1948年イギリスから独立したセイロン政府は、セイロン国民の定義からこのインドから来たタミール入植者を除外したのでした。それまではイギリス統治下で同じ扱いを受けてきたタミール人入植者はここで国籍を失ってしまったのです。


その後1964年に当時のバンダラナイケ大統領をこの問題を解決しようとインド政府と話し合い、600,000人のタミール人をインドに帰還させることにしたのでした。この人達はインド国籍を得たのですが、インド市民権を得ずにスリランカに残りたいと考える人は多かったようです。スリランカ政府は375,000万人をスリランカに受け入れることにし市民権を与えました。しかし約150,000人のタミール人は取り残されたままの状態でした。


この取り残された150,000人とインドに戻れるのに戻らず、スリランカに留まった人達、そしてその子孫の人達が無国籍状態になったのでした。今回の法律はこの方達約300,000人にスリランカ国籍を与えることにしたのでした。


スリランカ南部「茶」畑にいくと、貧しそうな茶摘の人達を見ることが出来ますが、彼等の中には国籍さえ持っていない人達が含まれていたのです。つい最近まで。



2003年10月19日(日) 火星

今回のSOSコンサートではホルスト作曲組曲惑星から「火星」を演奏します。今年は火星大接近の年なのでそれに因んだのでしょう。大接近の日は過ぎても「火星」の明るさは大変なものです。「火星」は戦いのシンボルなので勇ましい曲です。


高校時代にブラスバンドで泣かされた曲でもあります。金管楽器の人にはカッコいい曲なのでしょうが、木管楽器担当者には「苦痛」の曲なのです。しょうもない五拍子の伴奏を延々とやったかと思うと、とんでもなく難しい16分音符のパッセージが来るのです。実は妻の高校時代にこの曲で「コンクール」に挑んだのでした。すごく苦しんだと想像できます。


今回はチェロで挑戦です。最初の五拍子の伴奏は「コンレーニョ」で弓の木の部分で弦を叩きます。クラリネットで吹くより疲れませんが、三拍子を上手く刻めません。ここは練習が必要。そしてやはり同じ16分音符のパッセージ。こんなのできるわけがないと殆どあきらめムードです。


大接近に因んだとは言え、金管楽器が大活躍する曲で、金管楽器の方の殆ど(ホルンを除いて)エキストラなので、なんでこういう選曲になるのか少し疑問です。



2003年10月18日(土) スリランカ音楽事情

私が参加させてもらっているSOS(シンフォニーオーケストラスリランカ)はスリランカ唯一の常設オーケストラです。大学にも高校にもブラスバンドはありますがオーケストラはありません。


SOSでも弦楽器・木管(オーボエを除く)はSOSのメンバーですが、金管楽器・オーボエなどは陸軍軍楽隊から応援で成り立っているのです。ですからこのエキストラ代を支払って演奏会をするのは結構大変なのだそうです。


弦楽器パートについていうとほとんど師弟関係者で占められています。小さい頃からレッスンに通えること。ある程度の楽器を買える事は、実は相当裕福な人達で構成されていることが想像できます。西洋音楽を実際に楽しむ環境はそう簡単には広がりません。私の宿舎の近くにヤマハ音楽教室があってピアノを教えていますが。


今回のSOSの演奏会はチャイコフスキー五番の交響曲がメインです。有名な曲で覚えやすいメロディで聞き栄えがするので、外の地域、例えばキャンディとかゴールでも演奏会を開けばいいのにと思いました。しかし「お金が無くてとてもそんなことできない」といわれました。エキストラ代と旅費が工面できないのです。


少し滞在したことのあるベトナムのハノイ市には、立派なオーケストラがありました。CDも録音しています。ハノイ市にはオペラハウスがあり、音楽学校があって、西洋音楽とベトナム民族音楽両方のプロ奏者を養成しています。


ベトナムのハノイ交響楽団の来日演奏会を聞いたことがあります。曲目は同じ「チャイコフスキー交響曲第五番」でした。ニ楽章のホルンソロが大変上手だったことを覚えています。SOSが体制を整えてスリランカの多くの人に音楽聞いてもらえるような時代が早く来るよう願っています。



2003年10月15日(水) ジャフナのこと

先週ジャフナに旅行したのですが、あまりにも多くの事を考えたので整理するのに時間がかかります。忘れない中に少し記録しておくことにします。

今回はタミールの方にジャフナ半島を案内していただいてきました。改めて感じたことは、「ジャフナはスリランカのタミール文化の中心地である」ということです。ジャフナの街には、ヒンズー教寺院・キリスト教教会がそれこそ日本で見かける「コンビニ」ぐらいあります。非常に敬虔な風土を感じました。
ヒンズー教寺院は威厳があって色彩豊かで非常に興味深いものでした。

それと、住んでいる人達(ほとんどがタミール人です)がジャフナを愛していて、大事にしていて、誇りを持っているということ。そのことが人々を支えています。コロンボから400Km離れてても、国際空港がなくても「ジャフナはジャフナ」なのです。ここはほとんどタミールの人達の「首都」なのです。
広々とした平原とパルメイラ椰子の取り合わせは本当に美しいのです。

この状態にスリランカ政府の多くの人達は我慢ができないのでしょう。スリランカの中心はコロンボであり、シンハラ世界であり、コロンボは求心力が必要なのです。

スリランカの内戦の始まりはジャフナからでした。教育における差別・就職における差別、つまりタミール人がシンハラ人より不利な扱いを受けたことが発端でした。それもジャフナ大学の入学者の構成比率の問題だったとのです。

ささいな「諍い」が次第に「不信」「憎しみ」「敵対」に変わるにはそれほど時間がかかりませんでした。政府の差別政策、そして大きな警察・軍事力に対してに対して、タミールの人達はゲリラ戦法で対抗したのでした。ジャフナの街では行政に対するゲリラ活動が活発になってしまったのです。

まさに、これはアメリカ支配下のイラクを見るようです。彼等に残された道はテロしかなかったのです。最初消し忘れた炎はとてつもない大火になってしまったのです。タミール人のテロ活動はシンハラの人達にとって、「卑怯」「愚劣」な物と映り、「タミール人は信用できない」という評価になってしまうのです。

そうした抗争を通して「ジャフナ」は一旦LTTEの支配下に入ります。その後政府軍は膨大な軍事力を投入し奪回したのでした。その戦いの中で政府軍はジャフナ市街をほとんど焼き尽くしたのでした。イスラエル・ロシアに頼んで空爆も行われたのです。ジャフナのいたるところで破壊されてそのままになっている家屋を見ることが出来ます。

この抗争の最中に多くのタミール人はこの国を逃れて海外に逃げ出しました。紛争前のジャフナ半島には100万人住んでいたそうですが、今は60万人位しか住んでいないそうです。破壊されたままの空家が沢山あるのです。

私は一部を世界遺産に登録して保存すればいいのにと思います。「広島」みたいに。

スリランカ政府はジャフナの中心地に「仏教寺院」を建てました。2万人以上駐留していると言われる政府軍兵士のためでもあります。それ以前ジャフナ市内には仏教寺院はひとつもなかったのです。

ジャフナは政府がLTTE軍から開放したのか、政府軍が占領しているのか、答えは明らかなのです。



2003年10月14日(火) 武蔵浦和ラーメンアカデミー

私のオフィスに大分遅れて回覧される日本の新聞(日経・サンケイ)で、我が家の最寄り駅「武蔵浦和」に「ラーメンアカデミー」ができることを知りました。

なんでも6軒のラーメン屋さんが一つ屋根の下に開店して、一年間の売り上げ競争の結果、下位の二店は入れ替えされるとのこと。新横浜のラーメン博物館(いったことはないけど)に似ているのかな。帰ったときの楽しみが増えました。でも6軒全部食べるのは時間がかかりそう。

武蔵浦和には駅ビル二階に「ふくちゃん」という博多ラーメンの店があって、安くて美味いのでよく食べました。関西風に「かえ玉」サービスがあるのです。メンマ・わかめなどの薬味が取り放題なのも魅力でした。過当競争にならなければいいのですが。ついでに宣伝。私の故郷の長野県須坂市の「セッコウ亭」のラーメンは本当においしいです。

武蔵浦和の乗り換え客を取り込めればいいのですが。武蔵浦和は付近が田舎の割には駅は凄く混むのです。埼京線の快速・普通乗り換え客、武蔵野線から埼京線への乗り換え客が多いからです。頑張って武蔵浦和名物にしてほしいです。

恋しいものは「ラーメン」「牛丼」「回転ずし」「長崎ちゃんぽん」。手軽なものばかりですが。



2003年10月11日(土) 妻の誕生日(兼)結婚記念日

10月11日は妻の誕生日(兼)結婚記念日なのです。妻の誕生日ポイント「1」、結婚記念日ポイントが「1」とすると、妻は「1.5」、私は「0.5」相当でお祝いされるのです。この計算に従って、妻は私の3倍お祝いされなければなりません。「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」。

妻は4X歳。本人の許可なしでの情報開示は控えます。昔は体育の日が10月10日で固定されていたので11日と連休になることが多かったのです。1980年もそうだったのです。別に意図して妻の誕生日と合わせたのではなく、仕事の関係と当時の妻の状況から、この日しかなかったというのが真相です。

妻は、ダブルのお祝いでは、自分の「誕生日」のお祝いの価値が軽くなってしまうので最近すこし不満みたいです。実際、妻は私の3倍は酒を飲めません。日本に居れば美味しい食事でもできるのですが、スリランカしかもジャフナにいてはどうすることもできません。おいしいワインでもほどほどに飲んでください。




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