KENの日記
 < 過去  INDEX  未来 >

2003年06月08日(日) 日曜日のんびり。

今日はのんびりしました。午前中、アンダウォータサファリのコロンボ事務所に行ったのですがカラブリでした。というのも今年の一月に取得したSCUBAのライセンス証が届かないのでどうしたのか問い合わせに行ったのです。昨日(土曜日)夕方にいったところ、「サンディ9時30分からオープンだ」と守衛が言うので信じていきました。多少「変かな」と思ったのですが、サラリーマン向けに日曜訓練があるのだろうと思ったのです。


ちなみにアンダウオータサファリの代表はかの「アーサーCクラーク」さんなのです。車庫にあった白くて古いベンツは彼の愛車でしょうか。またアンダウォータサファリの隣は「イラク」大使館でした。これも興味深々。


今日言ってみると同じ守衛が「マンディ」だと云うのです。一瞬カッとなりましたが、こんなことで頭にきてはやっていけません。あきらめました。スリランカは曜日の感覚は希薄でなようです。言葉とか責任の感覚は驚くほどの違いがあるのです。


日曜夕方五時からですが、久しぶりに「武蔵」を見ました。昔読んだ「武蔵」は忘れてしまいましたが、今回の大河ドラマは細かい心理を描写しています。その路線が受けるかどうかは問題。巌流島まであまり盛り上がりがないのではと心配です。「武蔵」のあとプールでひと泳ぎです。



2003年06月07日(土) 誕生日

今日6月7日は私の48回目(?)の誕生日です。あまり歓迎されない誕生日なのですが、メードのシータの誕生日がこの6月2日だったので、一緒に誕生日の祝いをすることにしました。


彼女は基本的に「色々な料理を作りたい」というのが本音で、それ自体非常に歓迎なので、彼女の旦那さんも招待して三人でのパーティです。メインはチキンの丸焼き。皮が香ばしくてとても美味しかったです。その他ワインに遭うようにフランスパン、チーズ、サラミ、サラダ、そしてピザをピザハットから注文しました。宿舎から誕生祝のケーキも届いているので、食後は紅茶とケーキです。


体力が落ちているとは思わないですが、アルコールには弱くなったかなと思っています。もっとも前は人一倍強かったので、これくらいが標準かなともおもいます。


日本では定期的(一ヶ月一回)に献血をして、血液の健康度をチェックしていました。いまスリランカに来て献血も健康診断もしていないので、少し不安になっています。もっとも飲む酒の量はずっと減っているはずです。なんと言っても日本に居るときにはサラリーマンのメッカ新橋の勤務だったし、不健康な生活を続けていましたから、こちらの生活はずっと健康的です。



2003年06月06日(金) 料金業務

先月から料金部門が私の管理となったので、連日料金トラブルの処理があります。


前にも書きましたが、電話料金が払えなくなると日本と同じように通話停止になります。通話停止になるとお客様も困るので、なんとかして通話停止を解除してもらおうと考えるお客様がでてきます。


まず「お金がないのでの料金を免除してくれ」というもの。手紙、電話そして直接訪問をしてきます。それも会社の会長の所にです。そうすると会長から何とかならないかという検討依頼が来ます。でもなんともなりません。


既に何人ものお客様と対応しましたが、本当に金がなく且つ非常に善良な人達なのです。善良でお金がなくそして計画性がないのです。スリランカの人達を見ていると本当にそういう人が多いと思います。(言葉は悪いですが)いわゆる「その日暮らし」。しかし、一年中暖かで野外でも暮らせる国なので備えが必要かというとそうでもないのです。


そして、何とか「ツテ」を探します。いわく「通信大臣の友人だ」「会長の知り合いだ」とか、この前は「大臣の妹だ」という電話を受けました。この手の話は本物・偽者がありますが本物が性質がわるいです。


でもスリランカでは「直訴」の習慣は根深いです。政府組織、そして嘗て政府組織だった我社も、本省・本社の権限が強く、時にルールを越えた決定もなされます。また末端組織の非効率そして偶には腐敗もあるのです。


この仕事は本当に難しいです。でも日本人に任せたのは、「是々非々」をはっきりさせようという意図だとおもうので、しっかり考えようと思っています。でも、数字や金と付き合うより、お客様と付き合う方がずっと面白いです。



2003年06月03日(火) コンピュータ不調

今週月曜日から会社のコンピュータの調子が悪いのです。確か昨年の今ごろもバイアラスの影響で職場のコンピュータと宿舎のコンピュータが被害を受け、職場のIBM機は修理に出し、宿舎の富士通機は日本の妻の助けを借りてOS入れ直したのでした。


今回は、先ず月曜日の午前中からインターネットが使えなくなりました。会社のLAN技術者の応援も得て修理を試みたのですがだめ。そのうちなんだかんだ触っている中にOSが閉じなくなったり、立ち上がらなくなってしまったのです。


MS−DOSから抜けられなくなった症状は何とか解決したものの、Windowsが立ちあがらなくなってしまたので、変に触って取り返しがつかなくなっては大変なので、前回修理を頼んだIBMコロンボに今日行ってきました。技術者曰く「Windowsが大分痛んでいる」ので入れ直した方がいい。


遅いながらも一応立ち上がるところまでと、LANが繋がる確認をしてもらって今日のところは帰ってきました。LANが繋がれば自作ファイルを別のパソコンに逃がしてOS入れ直しができます。


でもって職場にかえってLANに繋ごうとしたのですが繋がらない。もう一度会社の技術者に調べてもらったところ、私のアドレスはサーバから消されていたとのこと。ひどい。アドレスを変えてもらって即OKでした。しかし、私のコンピュータのOSが傷んでいることは確かなので、なんとかOSを更新しようと今検討中です。



2003年05月30日(金) 緊急追加

今日LTTE(タミール人反政府組織)が正式に「和平交渉中断」と「東京援助国会議欠席」を決定しました。


「和平交渉」はこれまで6回行われました。タイのバンコクなどを会場に行われたのですが、その成果が芳しくなかったのです。また「東京援助国会議」は日本とノルウェーが共同開催する形で9日・10日に東京で開かれることになっていました。一方の当事者が欠席するようでは会議は成功するはずがありません。


これまでも何回もここの書きましたが本当に残念です。それは国民の想像力・思考力の問題だと思います。「他人の痛みがどれだけ実感できるのか」ということです。敬虔な仏教徒の多いこのスリランカでこうなるとは・・・。


(近況)
5月中旬から会社の組織変更があり、私の仕事の範囲が広がりました。これが問題。追加になった業務とは「電話料金の請求・回収」なのです。日本での経験でもこれは大変苦労する業務でした。料金を払わない人(払えない人)に督促したり、通話停止したり、貸し倒れ処理したり・・・。


そうした通常の業務に加えて厄介なことがあるのです。それは、スリランカは「人脈やらコネやら」が幅を利かす国なので、そうした人達を通しての要求が非常に多いのです。


いわく「SLTの幹部職員の友達だが、なんとか通話停止を解除してもらえないか」、「通信大臣の家族なんだがなんとか早く電話をつけてもらえないか」とか日に何通も手紙を貰うし、電話問い合わせの量といったらとんでもないものです。私の秘書には迷惑をかけています。


電話局の方ではそうした要望が来るとつい上部組織に下駄を預けることになります。電話局から要望を受け取った本社はというと、本社権限でルールを曲げて要望を受け入れを決めます。電話局はというとますます、「複雑な案件は本社へ」という無責任体質になっていきます。


私はこの国で選挙権もないので、国会議員や官庁の役人・SLTの幹部職員に媚へつらうこともないので、是々非々で事を進めています。とにかく第一線のサービスを任されている電話局が責任をもって対処することが決めてです。更に本社は電話局の人達の決断の梯子をはずすことにならないようにします。


少しずつでもいいから改善していきたいと思っています。



2003年05月29日(木) 株主総会終了、建築家「バワ氏」死亡

昨日私の会社の株式上場後始めての株主総会が無事終了しました。スリランカ最大の株主数なので、大きな体育館を借りて開催したのですが、期待に反して参加した株主の数はあまり多くはなかったです。


日本の株主総会は会社関係の株主が「賛成」「議事進行」等と発言して運営を主導することが多く、正直言ってつまらないのですが、こちらはそういうことは一切なく議論は聞いていておもしろいです。


といっても1/3英語、2/3はシンハラ語なので、議論は良くわからないのですが。昨年は企業買収をしたので財務に関する質問が多いかとおもって準備していたのですが出番はありませんでした。これで、子会社プロジェクトの資金繰り、取締役会、株主総会が一応済んだので少し気が休まります。


ところで、今日の新聞記事は「スリランカの建築家ジェフリー・バワ氏が亡くなった」ことを報道していました。黒海議事堂を設計したり、スリランカの多くの有名ホテルを設計した人です。83歳だったそうです。



2003年05月26日(月) 東京での援助国会議

スリランカの内戦終結を確実にするための援助国会議が、来月の9日・10日東京で開かれます。これは日本政府とノルウェー政府の共同主催になるようです。

ノルウェーは随分前から停戦の橋渡しをしてきた関係で、日本政府はスリランカへの最大の援助国であることからこの役を買って出たのです。今週ノルウェー首相が日本を訪問し最後の調整をしているはずです。ところが、内戦の一方の当事者「LTTE」はこの会議をボイコットする姿勢を崩していません。そろそろ時間切れのようです。

スリランカの野党勢力(大統領も野党)は政府への批判を強めたり、LTTE批判を始めています。コロンボの雰囲気は決して良好ではないです。「内戦終結、は無理で武力で制圧しない限り解決しない」といる強行意見が目立ち始めました。

LTTE側の要求は、「北部・東部地域の復興のために、一時的に憲法の枠を超えて、自治権を与えて欲しいというものでなのです。」
つまり現スリランカ政府の指導下では復興が進まない、援助国からの援助も機能しない。暫定的にLTTEが財政を握り、自ら統治を行っていくという提案なのです。これは北部・東部の復興の遅れに対するLTTE側の解決さくなのです。

このLTTE側の要求には国内の批判が高まっています。これが永続化すると国家の分割になりかねないからです。この対応をめぐって最後の駆け引きが続きます。



2003年05月25日(日) 月曜日から忙しくなります

相変わらずですが、月曜日から忙しくなりそうです。私の会社(SLT)では火曜日に取締役会・水曜日に株主総会が控えています。

昨年12月に我社の政府保有株を売り出すと同時に、コロンボ証券取引所に上場したのです。今年の入って値がついたのですが、今でも売り出し価格を下回っています。政府から買った人は不満だらけです。実は私も買いました。日本のNTT株と言い、スリランカのSLT株といい、うまくいきません。

週末に日本帰国ができなかったことから、日本往復の飛行機の中で勉強しようと思っていた「SLT財務報告」を会社に行ってやってきました。今回は不満の多い株主から質問が来そうなのでしっかり準備が必要です。

ところで、私のホームページを見た中学校時代の友人からメールを頂きました。彼(Mさん)とは確か、保育園・小学校・中学校が同窓のはずです。中学校の時に同級となったのでした。中学校の先生が厳しかったことから、よく二人で叱られたものでした(叱られ仲間は他にもいますが)。30年近くあっていませんから、お互いどんなに変わっていることやら・・・。私のホームページには数箇所に私の写真を見ることができるのですが、彼はどれが私であるのか判らなかったそうです。




2003年05月24日(土) 二つの葬式

今日私の故郷長野県の須坂近辺で二つの葬式が行われました。

前から書いているように、ひとつは私の妻の弟の奥様の葬儀。まだ41歳だったはず。残された義弟と子供二人のことを考えると胸が傷みます。妻からの話によるとこの葬儀には横浜等遠くから多くの弔問客を迎えたようです。

もうひとつは私の母の弟つまり私の叔父の葬儀です。この叔父には子供が無かったことと、亡くなった私の父がこの叔父の店でずっと働いていたこともあって、小さい頃は随分可愛がってもらいました。この叔父からプレゼントされた古い腕時計は健在です。

この二人には、去年の12月に会ったのが最後でした。妻の父が昨年12月亡くなり、その葬儀のために帰国した時に義妹とは会っています。そのときは義妹は多少疲れているかなという雰囲気でした。弟夫婦は共働きなのでキツいのかな考えていましたが、今考えると脳の腫瘍は随分進んでいたようです。実際彼女が異常を訴えて入院したのは今年の春の連休の時で、そのときには手の施しようが無かったようです。

叔父はいうと心臓パイパスの大手術を受けてから約10年。こんどは胃がんの手術をするということで入院していた叔父のところへ、母と一緒に見舞いにいったのでした。この叔父には随分世話になったのでぜひ見舞いをしておきたかったのです。手術しても大丈夫かどうか心臓の検査をしたあと、3月に胃がん摘出手術が行われました。本人は大きな手術に慣れていて飄々としていましたが、奥様(叔母)は大分心配していました。叔母には知らされていたのかもしれません。方々に転移した「ガン」はとりきれなかったようです。

今日、妻から話を聞いてまた驚いたのですが、二つに葬儀で取り仕切るお寺様が同じだったようです。義妹の葬儀は彼女の実家を喪主として行われたのですが、彼女の実家と私の母の実家のお寺様が一緒だったとのこと。そのため義妹の葬儀が午後一時から、叔父の葬儀が午後4時から行われました。

昨日書いたように、昨日朝の飛行機が飛んでいれば私は両方の葬儀に参加できたのです。非常に残念です。昨日と今日は、近くのガンガラーマヤというお寺にいって二人の冥福を祈ってきました。その後、貴重な日本酒を一人で飲みながら思い出に耽りました。

母は私が帰国できなく残念そうでしたが、弟が小田原から駆けつけてくれたので助かりました。相変わらず妻には苦労を掛けています。



2003年05月23日(金) 今日の出来事

5月23日は私の人生の中でも忘れることのできない日になるでしょう。すこし長いですが忘れないうちに書きます。

義妹(妻の弟の奥様)が昨日亡くなり、残された家族・親戚の方たちのことを考えると、ぜひ帰国して葬儀に参列し、少しでも力になりたいと考えました。通夜が23日・葬儀が24日という連絡を妻から受けたので、22日(木曜日)の夜にスリランカを発つと少なくとも葬儀には参列できるので、帰国を決心し会社で方々の手配を済ませましたた。来週の火曜日はこちらの会社の取締役会・水曜日は年次株主総会が控えているので日曜日の午後に日本を発って月曜日の早朝コロンボに戻るという強行日程です。

スリランカから日本に戻る方法は3つあります。
1.コロンボからシンガポール経由で行く方法(シンガポール航空利用、シンガポール・成田はシンガポール航空利用)
2.コロンボからバンコク経由で行く方法(キャセイパシフィック・日本航空を乗り継ぐ方法)
3.コロンボからモルジブを経由して成田に行く方法。(スリランカ航空・ダイレクトに近い)

ここで、例のSARSの影響からシンガポール航空便はシンガポール・東京間が週二便運休(金曜は運休)。スリランカ航空便は隔日運転で金曜日は運転なし。従って、23日早朝はバンコク経由のキャセイ・日航しか選択枝はありません。これを予約したのでした。

コロンボ出発午前2時45分、バンコク着朝7時10分。乗り継ぎの日本航空は、バンコク朝8時40分発、成田午後16時40分。スカイライナーに飛び乗り、日暮里でJRに乗り換え、上野から長野新幹線で長野まで行き(約1時間半)、長野から長野電鉄線で実家のある須坂まで30分。夜9時前には実家にたどり着けると考えました。

私は、成田空港についてから、空港のスカイライナーまで走り、日暮里でも階段・改札の場所を頭の中でシミュレートし、肝心の上野駅では最短で地下四階の新幹線ホームまでたどり着く構図を頭に描いていました(この長野新幹線が曲者なのです)。

さて、コロンボのバンダラナイケ国際空港ですが、シータの旦那さんに運転を頼んで、余裕で23日の0時30分には到着し、搭乗手続きを始めました。発着案内ボードには、キャセイ航空便バンコク行きに「遅れ」のサインがあり、4:00出発となっていました。手続き窓口で確認したところ、「一時間くらいの遅れなので、8時00分にはバンコクに着く。40分あれば乗り換えは楽勝。心配するな」ということなので、午前1時30分出発のシンガポール便のコロンボ・シンガポール便を見送ってキャセイに予定とおり搭乗手続きをして、出国手続きを終えました。

出国手続きが済んでしまえば、後は飛行機の出発を待つだけです。午前4時まで時間があるので長椅子に横になって少し眠ることにしました。

しかし、午前3時ごろに周囲が騒ぎ出したことで目を覚ますと、何人かの客が航空事務員と結構激しく口論していたのでした。近くに行って様子を聞いていると、キャセイ便の遅れは相当大幅なものになるということなのです。なんと23日の午後3時出発。実に12時間後になるという情報なのです。

私は12時間このままコロンボで無駄に過ごすことはできないので、何とか別の便を使えないかキャセイの職員と交渉しました。でも彼らの説明は要領を得ないものでした。キャセイ便搭乗予定の人が詰め掛けるし、対応は遅いし(夜中なので人がいないのでしょう)、とんでもない混乱した光景でした。

結局なんだかんだあって、最終的に午後3時のキャセイ便でバンコクに行きJALに乗り換える方法が日本に行く最も早い方法だという説明を受けました。それだと24日の朝6時45分に成田のつくのだそうです。朝7時のエミレーツ航空便がクアラルンプール経由でシンガポールに行きますが、それでクアラルンプールとシンガポールに行ったとしても、その後の成田までの乗り継ぎがないのです。成田は朝の6時から着陸開始なので、夜に着く便を逃してしまうと朝まで便はないのです。

こうなったら仕方がない。早朝に成田に着けば、頑張って午前中に長野にたどり着けると算段し、午後からの葬儀に参列すべく覚悟を決めました。

キャセイ航空は、待ち時間が10時間以上あるのでコロンボ市内のヒルトンホテルに宿を取るということになりました。それに従ってひとまず空港を離れることにしました。コロンボヒルトンは私の会社の直ぐ近くなので、前日休暇をとって休んだ秘書と打ち合わせができることも利点なのです。夜明け少し前のコロンボをキャセイ手配のバンでコロンボ市内に戻りました。もちろん入国処理など一切しませんでした。

ヒルトンホテルで早い朝食をとったものの客室の準備ができないというので、ロビーで待たされます。ビジネス街に近く設備の整ったヒルトンは混んでいるので、そう簡単に空きがあるとも思えません。結局9時ごろに部屋が手配されました。私はオフィスの秘書と連絡をとり、一旦オフィスに顔を出しました。昨日の業務の後始末の手配をお願いしたあと、日本の妻と連絡をとりました。

ここでまた一大事。昔から親しくしていた叔父(母の弟)が23日早朝に亡くなったというのです。その叔父は母の弟ですが女系家族の中で唯一の男で本家を継いでいた方です。私も私より年長の「いとこ」がすべて女性であった中で始めて男だったので結構境遇が似ているのです。実際、子供がなかった叔父には随分可愛がってもらったのでした。叔父は心臓バイパス手術した後、今年3月に胃がん摘出を行い、母の話では手術のあとけっこう元気だという情報を得ていたのでした。

今、スリランカで故障修理に出しているスイス製の時計はこの叔父からのプレゼントでした。最近調子が悪かったので修理をお願いしていたのです。Vesak休暇もあって修理がはかどらず、今回時計なし日本に帰るつもりでした。なんだか叔父の病気とダブります。

この叔父の通夜・葬儀が、なんと義妹の通夜・葬儀と全く同じ日程になったのです。23日通夜・24日葬儀。場所はまだ特定できませんが、実家の須坂市近辺で行われるのか確かです。こうなってはなんとしても午後3時の飛行機に乗って日本に帰らなければと思いました。ついでに、コロンボで時間ができたので、叔父から頂いた時計の修理が終わったかどうか問い合わせ、直っていたらぜひ日本にもって帰ろうと思いました。修理屋さんの開店には時間がるので床屋にいって頭をすっきりさせ葬儀出席の準備をすることにしました。床屋さんで秘書から時計修理が終わっているとの連絡を受けたので、コロンボのペタにある修理屋に直行し時計を受け取りました。時計は元気に動いています。飄々とした叔父の顔が心に浮かびました。

コロンボでやり残したことをすべて済ませたので、ヒルトンホテルに戻り、シャワーを浴びてさっぱりしました。実際この日はほとんど眠っていないのです。12時には空港に戻るバスがくるというので昼食をすませることにしました。キャセイ便の遅れで困っている日本人四人でテーブルを囲んで昼食を取り、チェックアウトを済ませ(もちろんタダ)バスを待つことにしました。

ロビーで待っていると大型バスが玄関の外にやってきました。キャセイの関係者らしい人の話では「1時45分にバンコクからのキャセイ便がコロンボに到着する。これがバンコクに折り返すので3時には出発する」というもの。安心して12時30分ごろバスに乗り込みました。

ところがバスは一向に出発しないのです。私は睡眠不足・昼食満足・シャワーでさっぱりという状態なのでバスの中で「うとうと」しました。しかし一時間経ってもバスは出発しません。そしてやはりキャセイの人がバスの中に入ってきて「もう一度ホテルに戻ってくれ」との発言。

私は、キャセイがはっきりしないので、チケットを手配してくれた旅行代理店に状況を知らせてくれるように連絡しました。その結果「キャセイ便は欠航」ということでした。その後この欠航ニュースはホテルロビーで待つ他の乗客にも伝わり、あちこちでキャセイ担当者に詰め寄る場面がみられました。実際キャセイ航空便に何があったのか今は全くわかりません。キャセイ担当者からは一切の説明がありませんでした。

旅行代理店によると24日の早朝にはタイ航空(キャセイと共同運航)便とスリランカ航空便があり、スリランカ航空便を使うと24日の一時ごろに成田に着くことができるようなのです。しかし、これを使っても二つの葬儀参列には厳しく、実質日本滞在24時間ではコストパフォーマンスが悪すぎると判断し日本帰国を断念しました。最初からこの案を考えていれば実行したかもしれませんが、すでに23日の一日間でかなりのエネルギーを費やしてしまったので自分でも体力に自身が持てなかったのです。他の方達はそのままヒルトンホテルで待機が続きますが、私は宿舎に戻りました。入国手続きをしていないのですが、キャセイの人がレジデンスビザを持っていれば手続き不要というので、何もしないで宿舎に帰ってきました。(ほんとうに大丈夫かしら)

いろいろありましたが、全く偶然に重なった二つの身近な人の葬儀でしたが残念ながら出席できません。もしキャセイ便が予定通り飛んでいたら、この運命的な出来事も違う展開になっていたでしょう。明日、土曜日こちらコロンボでお二人の冥福を祈るとともに、ご家族の方たちがこの悲しみを乗り越えていけるように祈りたいとおもいます。

最後に、妻には力になれず非常に申し訳なく思っています。私の分も含めて日本で立ち回ってもらうことになるので、くれぐれも身体に気をつけて、気持ちをしっかり持っていてほしいと思っています。




Ken [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加