| 2014年01月24日(金) |
アバード・ムローヴァのブラームス |
アッバードの訃報に接して、嘗てテレビで放送された「ムローバ」と競演したブラームスのヴァイオリン協奏曲があることを思い出し、埃をかぶったヴィデオテープを探し出して聴いてみました。またアッバードがベルリンフィル就任直後に演奏したブラームスの交響曲第一番もあるので、冒頭部分を聞いてみました。
ブラームス交響曲第一番 1990年9月5日 フィルハーモニーホール ブラームスヴァイオリン協奏曲 1992年1月25日 サントリーホール
いずれの演奏もアッバードがベルリンフィルのシェフに就任して間もない時期の演奏です。アッバードはウィーンとベルリンの両トップオケのシェフになったことで非常に溌剌として自信に溢れている様子です。ところが良く調べてみるとこの時期、アッバードは東京での演奏会のソリストの「ムローヴァ」と非常に厄介な事になっていたようです。以下はインターネットに掲載されているムローバのインタヴュー記事(真実だと思われます)を、勝手に翻訳してみたものです。
With her boyfriend, the conductor Vakhtang Jordania, she sought asylum after a recital in Finland. She left Jordania three years later in America and moved to London, where she met Claudio Abbado at the LSO, and sparks flew. Abbado, married and 30 years her senior, was smitten. "He was crazy about her," observes an orchestral player, "and wouldn't let her out of his sight." She moved into his penthouse in Vienna, where Abbado was music director of the Staatsoper, but when Mullova got pregnant in 1991 the relationship fell apart. Seven months pregnant, she packed up, flew to London and bought a house. Abbado pays maintenance for their son, Misha, but does not see him. "It is very painful," she says tersely. ( By Norman Lebrecht / February 14, 2001)
(1983年)のフィンランドでのリサイタルの直後、ビクトリア・ムローヴァは彼女のボーイフレンドであり指揮者の「ヴァフタング・ゾルダ−ニャ」とスウェーデンで亡命した。その3年後に彼女はゾルダーニャと別れてアメリカからロンドンに移り、そこでLSO(ロンドン交響楽団)にいた「クラウディ・アッバード」と出会い恋に落ちた。その時アッバードはムローヴァと30歳の年齢の開きがあったがムローヴァに魅了されてしまった。オーケストラの或るメンバーは「アッバードはムローヴァに夢中になってしまって、ひと時も彼女を自分から離そうとはしない程だった」とも観察していた。ムローヴァはウィーン国立歌劇場の音楽監督の職にあるアッバードのウィーンのペントハウスに移った。しかし1991年にムローヴァが妊娠すると二人の関係は終焉を迎えた。ムローヴァは妊娠7か月の時に荷物を纏めてウィーンを離れロンドンに移って家を買った。アッバードは彼の息子「ミーシャ」(1991年生まれ)の養育料を支払ったがミーシャには会おうとはしなかった。「それは非常に辛い事でした」ムローヴァは短く語った。
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She lived with the conductor Claudio Abbado in Vienna for four years. "It was an important relationship. We had a son together - Misha," she says quietly, though earlier, when I mention the great live recording of the Brahms Concerto, that she and Abbado made during a Berlin Philharmonic tour of Japan, she is happy to talk about it. "It was Claudio's idea. It was a live performance on TV. I was petrified but, when I started to play, I gave a good performance." This is an understatement if ever there was one. "Claudio said, 'Why don't we record it', and he managed to get all the exclusivity clauses sorted." (Interview from Friday 2 February 2001 The Guardian)
ビクトリア・ムローヴァは指揮者の「クラウディオ・アッバード」とウィーンで4年間暮らしていたことがある。「それは私にとって特別な時間でした。息子のミーシャが生まれました」ムローヴァは静かに語り始めた。以前に、私がベルリンフィルの日本ツアーでアッバードとムローヴァのブラームスのヴァイオリン協奏曲のライブ録音について聞いた時には彼女は嬉しそうに語ったことがありました。「それ(音盤にすること)はクラウディオのアイデアでした。テレビ番組へのライブ収録が行われるコンサートということで私は緊張していましたが、演奏が始まると良い演奏をすることができました。クラウディオは「今日の演奏は、過去に一度あったかどうかの意味ある演奏だった。これを記録に残すことにしよう」といって関係者の契約上の障害をすべて自分でクリアしたのでした。」
サントリーホールに現われた「ムローヴァ」は痩せていて、とても1才の赤ちゃんを育てているような様子はありません。上記の記事からすると、前年の1991年妊娠7ヶ月で、ムローヴァはアッバードの家を離れています。1992年1月の日本演奏旅行はいつから決まっていたことなのか不明ですが、分かれたアッバードとの協奏曲を演奏するのはムローヴァにとってあまりにも「酷」な話だと思います。二人は殆ど目線を合わせないし、演奏終了後に喝采を浴びる様子は非常に殺風景な感じがします。
アッバードがその日の演奏を「記録」に残そうと提案したのはどういう意味があったのか。実際この日の演奏は後1995年に「アカデミー賞」を受賞します。客観的に聞くと非常に冷徹で、感情に流されない厳しいものがあると思います。この演奏で、アッバードは、ムローヴァは、そして事情を知っているベルリンフィルメンバーは何を考えながら演奏したのか。皆「プロ」ですから、そんな特殊な環境下でも演奏しなければならない。ムローバはそれ以降アッバードとの関係はきっぱり断ち切っているようです。
非常に辛く悲しい裏話です。音楽界において一時代を築いたアッバードの音楽にはどこか違和感を感じてきました。そのひとつの理由としては「暖かさに欠ける」というものであると思われます。(尚、今日現在ミーシャのfacebookではアッバードの訃報に一切触れていません)
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