KENの日記
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2012年11月22日(木) 介護について

母の最期を看取り葬儀を済ませて改めて介護とか最期の看取りについて振り返ってみました。

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我が家の場合、母がまだ十分に活動できることができた当初は自宅で同居介護を開始したのでした。広くないマンションにおいて親を介護するため、北側の母用の部屋を二重窓に変えて寒さ対策を施し、近くにもうひとつ小さなマンションを買って母が同居した後の子供達の住まいも確保しました。母のためにベッド、部屋置きの簡易トイレ、移動用の車椅子も準備しました。これらの装備で暫くの間同居生活が続きました。母は一人で外出をしましたが、通院等の介添えが必要な場合には妻が付添いました。

しばらくしてから、母は外で転倒して大腿骨骨頭骨折し、近くの病院の約一ヶ月入院しました。動かない生活が続いたことによって、以前に較べると格段に運動量が減って寝たきりの状態に近くなってしまいました。この段階で介護度は「順調」に上がっていきました。トイレ対策として尿道管による排尿を開始したのですがこれが大変なこととなりました。母用にボタンを押せば音楽で知らせてくれる装置を母の枕元に置いたのですが、排尿袋に尿が溜まると深夜・朝方でも音楽が鳴ることとなりました。

その度に妻と交代で起きて尿をトイレに流す処理をすることとなりました。要介護の認定を受けていたので週に何回かデイサービスは受けていましたが、朝夕の食事を自宅で食べる度に母親を抱え起こすこととなった妻は腰を痛めてしまいました。この段階で母親は「要介護4」の状態になっていました。次第に老衰が進んで行く母親の世話をこのまま妻に任せて自宅介護を進めることは不可能と判断しました。

世の中には金銭的な事情その他で自宅介護を続けている方が沢山いらっしゃるとは思います。私のところは大変恵まれているのだと考えながらも、老衰した親の介護をどこまで子供達が面倒を見るのか、子供達の間での作業分担はどうあるべきか、また故郷を離れての介護は親にとっては非常に寂しいものであるというように、現実は多くの問題を抱えているのだと感じました。

自宅付近で民間の介護施設を幾つか実際に訪問してみました。さいたま市には既に多くの介護施設ができていることを改めて知ることとなりました。そして満員の施設が多いことも知りました。運良く自宅から歩いて行ける距離にある介護施設「武蔵浦和まどか」にお世話になることができました。そこは家から歩いて行けるし行く途中に大きな生協のスーパーがあるので何かと便利であるように思われました。

介護施設に入居するときには、おぼろげですが「母の最期」の時にはどうなるのか想定していました。その当時は母は病院に入院して最期は病院にお世話になることになるのだろうと漠然と考えていました。というのも何かの病気でなくなることが普通なのだろうと勝手に想像していたのだと思います。

一月に今年88歳となった母の体調は衰えが目立ってきました。実は前年12月に老衰が進んだ症状となっり掛かりつけの病院で薬の量を変更してもらったのでした。その甲斐があって元気を取り戻したのですが、パーキンソン病の症状は次第に強くなって身体の柔軟性は大分失われ、腕や手の振るえは激しくなり、嚥下能力の低下に対応して流動食に切り替えられました。「自分で食べることが出来ない」「流動食を口に入れてもらっても嚥下に時間がかかる」という状況が続いて食欲がなくなってきたのだと思います。また水の嚥下にも苦労することから「脱水症状」が激しくなり、10月末には救急車で病院に入院しました。

介護施設の判断でこの頃には誤飲を避けるために水にも「とろみ」が付けられる状況となっていました。これは介護施設の判断として仕方がないことだと思われました。水を肺に吸い込んでしまって呼吸困難に陥ったり肺炎になってしまっては施設の責任になってしまいます。一人の担当者で多くの老人の世話をする介護施設では入居者の安全を第一に考えて一定の処置をすることとなり、入居者各個人の個別事情への対応は最小限にならざるを得ません。自宅で家族が介護している場合なら、食事、水分の摂取をもう少し丁寧にできたかもしれませんが、この段階になって自宅に引き取ることも現実的ではなくなっていました。

介護施設は入居者が元気な期間は問題ないのでしょうが、入居者の老衰が進む段階においては、医療行為はできませんから、どうしても安全サイドな介護(無理をさせない・寝ているのであれば敢えて起こして食事をあたえることにはならない)にならざるを得ない状況にあります。またこの段階で自宅介護を始めることによって、本人にどの程度回復させることが出来るかも不明です。この頃良く考えたのは、生まれたばかりの赤ちゃんが、毎日どんどん成長し、動きも活発化して食べられる物もどんどん増えて行くことの、全く正反対で、老衰が進行しつつある人間は、次第に食べられる物の範囲が狭くなり、水も飲めなくなって、身体活動も徐々に減り、身体の機能が次第に衰えて最期に心臓さえ動けなくなるのだろうということ。そして老人は身体は大きいし、時には文句を言う大人であるということ。

母の症状は「パーキンソン病」という病気なのか「老衰」の症状なのかは非常に難しいところでした。医学も非常に悩むところだと思います。医学は人間の命を救うことが目的であって、何もしないで「死」を受け入れることは医学の敗北に近いと考えることは想像できます。老衰の状況を何らかの病気症状と認識して治療によって延命させることが医学の役割であると言う考え方です。しかし赤ちゃんを育てることに較べると介護は家族にとって負担が格段に大きいし、医療費から介護の費用は無尽蔵ではありません。むしろ社会保障の会計はどんどん悪化しているのは明らかです。

市民病院の先生は非常に丁寧に話してくまれました。食事・水分の補給方法として、「胃ロウ経由」「経鼻管経由」「静脈管経由」の方法があり、そうした補給によって延命可能ではあるということ。一方でそのような処置を継続実施する場合の家族・施設の負担の増加、そのような処置に関連して肺炎、栄養の偏りなどの患者への負担・危険の増加について説明してくださり、最期は患者の覚醒状況とか今後の覚悟を含めた家族の判断でということで私達の判断を求めました。

母の反応は既にかなり乏しくなってきていて、こちらが話しかけても話し返すことが稀になっていました。この段階で私達が考えたのは、母に対して痛み・苦しみのないような最期を迎えられるようにすることでした。また介護する側にとっても過度な負担とならないようにということでした(過度かどうかは難しい問題ではあります)。私達の考えを聞いた先生のアドバイスは、この段階でこれ以上の人為的な栄養補給を停止して、家族が暖かく見守ることとしたらどうかというものでした。私達は先生のアドバイスに従うこととしました。先生はその期間は2週間程度だとおっしゃいました。

幸い介護施設が私達家族とともに母の面倒を見てくれることとなり、母は病院を退院して元の介護施設に戻りました。介護施設の方達は経験があるとは言え、毎日緊張の日々が続いたことともいます。私達家族は毎日最低一回は顔を見に行き段々反応が弱くなっていく母親を見守りました。母は嚥下能力が衰えたといっても、水を口に含ませると「ゴクッ」と飲み込みます。ほんの少しの水が「ひどく貴重で、美味しいもの」であるように飲み込みます。妻が目は見えなくとも耳は聞こえているいるはずだというので、生の音楽を聞かせることもしました。2週間しかない「命」は、儚いようでいて力強いものだとも思えました。

母は退院してから11日目に息を引き取りました。その朝はなんとなく予感はあったのですが、案の定通勤で会社の門までたどり着いたときに妻から電話が入りました。急いで自宅にとって返して施設についたのは午前も終わりに近い頃でした。母は酸素吸入装置をつけて息をするのも苦しそうでした。それから最期の見取りが始まりました。口に水を含ませると忘れた頃に飲み込みました。飲み込む度に「飲んだ〜」といってこえを出して喜びました。

命が消えていく様子は、私を生んで育ててくれた57年間、最期の10日間、そして本当の最期の数分間、なんともいえない時間の長さだと思いました。母が息をしなくなった後の時間もそれまで生きていた時間の延長のように思えます。死は生の延長のように思えてきました。妻と二人で母を看取ってから暫くして施設嘱託の先生がいらっしゃって正式に死亡を確認してくれました。




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