KENの日記
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2007年02月23日(金) 大手町将門首塚

 

大手町を少し歩く機会がありビルの谷間に「将門の首塚」を見つけました。場所は三井物産ビルの隣、三菱UFJ銀行の向かいです。小さな公園のようになっています。大手町では日比谷通りより西側にしか用事がないので東側には行かないのですが、今日は国際協力銀行に用があったので初めて大手町から内堀通り方面に歩いていき偶然見つけたのでした。


何故こんな所にこんな「塚」があるのか疑問に思ったので寄ってみました。平将門は関東の出身ですが確か茨城県あたりで活躍していたはずなので、皇居の大手門に程近い場所になぜ「首塚」があるのか全く理由が分かりません。看板の解説は以下の通りでした。(将門塚保存会の解説)


今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱(940年)という。
 将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ち、この場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治二年(1302年)時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てゝ日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。


京都の獄門に晒された「将門の首」が東の飛び去り、現在の東京大手町のこの地に落ちた。その後将門の怨霊の祟りがあった。これを鎮めるために将門を神田明神に供養した。嘗て神田明神はここにあったとのこと。面白い話ですね。江戸城が築かれたのは「将門首塚」が作られたのより約150年後です。有名な「太田道灌」が室町時代の1457年に完成させました。その頃は今の東京駅、日比谷あたりまで海が迫っていたと思われますが、太田道灌は「将門首塚」を意識して城を築いたのだと思います。「将門首塚」は城の守り神であったのではないでしょうか。


更に興味を引く看板がありました。この「将門の首塚」がある場所は嘗て江戸幕府初期の重鎮の酒井忠清の屋敷の中庭であったとのことです。酒井忠清は第四代将軍徳川家綱の時代に大老となり、家綱が幼かったことから幕府の実権を握っていたのでした。酒井家の屋敷は江戸城大手門の「下馬札」付近にあったことから酒井忠清は「下馬将軍」とも呼ばれたのでした。


さてこの酒井雅楽頭の屋敷で有名なのは「寛文事件」です。伊達騒動のメインイベントの「原田甲斐」が「伊達安芸等」を殺害した刃傷事件です。これが1671年(寛文11年)の3月27日。この日、大老酒井雅楽頭が伊達騒動の裁きを行うということで関係者が大手町の酒井家の屋敷に呼び出されたのでした。そして屋敷の縁側で「原田甲斐」が通りかかった「伊達安芸」にいきなり切り付けたことになっています。そしてその光景を「将門の首塚の石卒塔婆」が庭から見つめていたことになるのです。「原田甲斐」の狂気の行動はひょっとして将門の怨霊の仕業かもしれませんね。


西暦の940年、1302年、1671年。360年程度の間隔を置いて「イベント」があるようですね。この次は2030年頃でしょうか。その場所は今は日本のビジネスの中心地大手町です。今度何か起こったら大変なことになるでしょうね。




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