| 2005年11月27日(日) |
ソニア・ガンジーについて |
何の脈絡も無く、ソニア・ガンジー(インド国民会議党のリーダ)について調べたので記録しておきます。
ソニアはイタリアのトリノ郊外の寒村の中流家庭に1946年生まれました。 経験なカトリックの家で平凡に育った彼女は、18歳の時に英語を勉強するためイギリスのケンブリジに遊学しました。そして1965年にケンブリッジの街のレストランで偶然に出会ったインド人と恋に落ちました。
このインド人はケンブリッジ大学には在籍していましたが、あまり勉学に励まず、インドの飛行機会社のパイロットになろうと考えていた青年でした。この青年の名前はラジブ・ガンジー。インドの革命の英雄「ネルー」の孫で、当時のインド首相「インディラ・ガンジー」の長男でした。
インディラは「のんびりした性格」の長男のラジブより、活発で覇気のある次男の「サンジャイ」を後継者と考えていました。従ってラジブはケンブリッジを出た後は「パイロット」になり、平凡な家庭を持つこと考えていたはずです。ソニアもインド随一の名門家に嫁ぐことは覚悟していたものの、結婚してパイロットの奥さんになるのだと考えていたでしょう。
1977年の総選挙において国民会議党党首のインディラを弟の「サンジャイ」が助けて国民会議を牽引しましたが国民会議は敗れました。これは与党政治汚職スキャンダルに対するインディラ・ガンジーの煮え切らない姿勢がマイナスになったのです。国民会議はインディラとサンジャイを中心にして盛り返し、次の1980年の選挙で勝利して政権を取り返しました。
選挙には勝ったものインディラの政権は安定せず彼女の支えは次男のサンジャイだったのです。ところが1980年6月、ソニアの義理の弟「サンジャイ」が飛行機事故で急逝してしまいます。「サンジャイ」の妻の「モネカ」はサンジャイ同様に政治向きな活発な女性であったのでサンジャイの死後、インディラの後継者としての地位を望んだようです。
しかし、インディラが選んだのは、当時、飛行機会社のパイロットであった長男のラジブでした。ラジブは国民会議の政治活動を始めますが、当初はインディラ、サンジャイには遠く及ばない存在でした。ソニアは息子のラウル、娘のプリヤンカの子育てに専念していました。
1980年前半シーク教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなりインディラは強硬姿勢をとりました。そうした中1984年10月、インディラはシーク教徒の自らの護衛官によって暗殺されます。その直後長男のラジブは、インディラの後を継いでインド首相の地位に着きます。ソニアはいつの間にか、インドのファーストレディになってしまいました。
実際彼女は政治活動が嫌いでこの突然の事態は彼女を当惑させたことでしょう。国民会議与党の政治汚職事件でラジブは野に下り総選挙に復活を期していました。彼は与党時代にスリランカ内戦終結に向け努力し、スリランカに平和維持部隊を送りました。スリランカの反政府勢力はこれを嫌い、総選挙運動中のラジブをチェンナイ郊外で爆殺します。これが1991年5月。
国民会議はラジブの突然の死を受けて、その後継に妻のソニアを選びました。ソニアを頂いた国民会議は2004年の総選挙で勝利しました。ソニアは首相候補に推されましたが「外国人では如何なものか」という批判を受け、さっさと身を引き腹心の「マンモハン・シン」氏を首相に据えました。現在のインドでは、ソニアの存在は非常に大きいです。彼女がこれから内政、国際舞台でどのように活躍するか、期待が高まります。
と同時に不安もあります。彼女の味わった悲劇は再び起こって欲しくないということ。義理の弟の事故死、義理の母の暗殺、夫の暗殺。彼女の苦悩は想像を絶します。これら苦悩を克服してきたソニアが21世紀初頭インドのリーダなのです。
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