| 2005年06月04日(土) |
50周年特別企画第一回 |
50周年企画として過去を振り返って勝手に記録しておきたいと思います。この次は100年か75周年かいつになるかわかりません。
私の故郷は長野県須坂市です。北信濃の小都市でずっと人口5万人くらいです。昔は製糸産業が非常に盛だったので桑畑に影響があるからと信越線の通過に反対した結果、信越線は千曲川の東側の長野市方面を通過しているとか。
県庁があり善光寺のある長野市までは、長野電鉄という私鉄が走っていました。この長野電鉄の須坂から北は、小布施・湯田中へと続いています。当時の長野市には「丸光」というデパートがあって、善光寺参拝とともに、たまに連れて行ってもらう長野市は大きな都会だと感じられました。私の実家は須坂高校という高校のすぐ西側にありました。本籍は確かここかな。今の実家は移転して須坂市の北部にあります。
小さい頃から須坂高校のグランドは子供達の遊び場でした。(因み3人姉弟の真ん中)小さい頃の記憶は結構鮮明で、須坂高校の陸上部や体操部の生徒の練習風景を思い出します。高校生は「随分おっさんだ」と見ていたことを思い出します。このグランドの周りの草原には、「ばった」とか「蟷螂」がいて良く捕まえました。
小学校は家から歩いて15分くらいの小山小学校。当時は木造の古い校舎で、人学年3クラス。クラス名は「東」「中」「西」でした。学校の直ぐ側に有名な「臥竜公園」がありました。池と小山と動物園。桜の名所です。小学校の冬の体育の時間はそこにスキーやスケートに出かけました。山の名前は「臥竜山」といって、夏は昆虫鳥、秋は「きのこ取り」、冬は「スキー」と子供達にとっては非常に愛着のある山でした。
この山には昔城があったという話です。山の至る所に墓があって、「古い墓探し」なんていうのも遊びの一つでした。その頃から「お寺好き」が始まったのかと思います。勉強の記憶はありませんが、親が「習字の塾」へ通わせてくれたことは今でもありがたいと思っています。
今でこそ年賀状はパソコンで作りますが、そうなる前には住所だけは筆で書いていました。小学校高学年に「新聞配達」をしたのは本当に随分昔のことだと思い出されます。北信濃の冬は非常に寒いのです。冬の朝の新聞配達、梅雨時期の配達は大変だったのです。
当時いつごろか正確には覚えていませんが実家でメス猫を飼っていました。三毛の雉猫でした。顔が縦より、横幅の方が広い、円満な顔をしていました。これは非常に賢い猫で子供達と随分楽しく遊んでくれました。寒い冬の就寝時には、よく暖かい猫の「奪いあい」になりました。猫も体温の高い子供達は歓迎だったのだと思います。
弟の布団から逃げてきて私の枕元で「ニャー」(入れてくれ)と鳴くことがあったことを覚えています。掛け布団を持ち上げで、猫の入り込む空間を作り、丸くなった猫と一緒に寝るのでした。この猫の面影は、田舎の実家の白黒写真に残っています。
中学校は常盤中学校という小学校に比べると随分遠い中学校に行きました。私の実家が通学区のはずれだったまでのことですが。忘れ物をしてと取りに走って帰ると非常に疲れるのです。この学校、今では殆どない「肩掛けカバン」だったのです。柔らかい材質のカバンなので、教科書の角が擦り切れたり、ノートは丸くなってしまう。やはり、少し高くともしっかりしたカバンを指定すべきでした。教科書・ノート等の学用品は大切に扱うべきだと思います。
この学校に入って入部したのが吹奏楽クラブ。始めて近くで見る「トランペット」、「クラリネット」、「チューバ」などが非常に眩しかったのです。それまでは、楽器といえば、縦笛、ハーモニカ、アコーディオン程度しか知らない子供でした。最初に宛がわれた楽器が「クラリネット」。何も知らずに選んだのですが、消耗品の「リード」を購入しなくてはならなくて、結構お金が掛かることには閉口しました。
当時の顧問の「A先生」はとても意欲的な方で、クラブとしてコンクール出場を目指しました。当時弦楽クラブと合同で「俄フルオーケストラ」を作って、コンクールに参加し、東京の「虎ノ門ホール」で演奏したのは懐かしい思い出です。その時に泊まった九段会館(旧館)は今も健在です。私は1年生でしたが、3年生の先輩は皆さん楽器演奏が上手く、しかも下級生を上手に統率していたことを思い出します。
コンクール直前の「朝練」に遅れると班長からお説教されるのでした。当時、親にねだって、ステレオを買ってもらい、なけなしの金でレコードを数枚買いました。持っていたのは、交響曲が主で、運命、新世界、悲愴、幻想、モーツアルト40番位かな。幻想をミュンシュで聞いていたのは、少し変った少年の証拠でしょうか。当時演奏会などというものは殆どなく、記憶に残っているのは、友人を誘ってはるばる長野市までバレエの公演(たぶんボリショイかなにか)を見に行ったくらいです。
当時の常盤中学校の教育には今でも疑問が多いです。非常に躾に厳しく体罰も結構ありました。今考えても「こういう言い方は子供を傷つけるな」という反省材料に事欠きません。少し違うかもしれませんが、「ビター・スィート」の感覚かな。後に、信州は教育県だという噂を各地で聞きますが、どこが教育県なのか未だにわかりません。
私の感覚でいうと、田舎なので非常に同質的な人達が住んでいたのだと思います。小さな共同体なので共同体の輪は非常に大事です。それが行き過ぎて、異質な者には嫌う、一定の距離を置く。共同体とうまくやろうとすると、自然と異質であることを恥じる・・・。人と接する尺度は自分達の共同体のルールで定める。その中に上手く入り込めて、上手に立ち回ることができれば快適なのでしょう。それができない人間にとっては、とても辛い。
この頃深夜放送が始まって友達の影響で「オールナイトニッポン」を聞き始めました。ニッポン放送の亀淵社長が新米アナウンサーで入ってきた頃です。セイヤングの「野沢なち・白石冬美」コンビも有名でした。近所の家からもらった古いラジオで、東京の電波を必死に探して、大きくなったり、小さくなったりする不安定な電波で聞いていました。その後深夜放送は高校・大学時代まで、少しずつ聞いていました。
受験勉強をそこそこして無事中学を卒業し長野市の高校に通うことになります。須坂駅まで15分。須坂駅から本郷駅まで電車で20分位かな。そこから坂道を歩いて10分位で高校に行き着けます。本当は電車通学するなんて全く考えていませんでした。実は実家の目の前の高校に進学すれば、朝チャイムがなってから走っていってもOKだったのです。それでも、少し無理をして電車通学しようと考えたのは、私の身体の中で、少しづつ異質な物への憧れが膨らんできたからだと思います。
故郷の須坂市には私の実家と妻の実家があります。でも誰も住んでいません。妻の父母は既に亡くなり、私の母は小田原の弟の所にいます。昔は、新幹線もなし。高速道路もなしの僻地でしたが、長野オリンピックのお陰で、新幹線・高速道路が開通し須坂も近くなりました。これは「堤さん」のお陰です。誰も住んでいない二軒の家の管理と、方々にある親戚縁者の墓参りが大きな課題です。
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