| 2005年05月19日(木) |
もうひとりの「ボース」 |
新宿中村屋のインドカレー生みの親「ラシュ・ビハリ・ボース氏」について少し書きます。詳しくは中村屋のホームページへ。 新宿中村屋http://www.nakamuraya.co.jp/salon/index.html
ビハリ・ボースはチャンドラ・ボースと同じコルカタ(カルカッタ)生まれです。1886年に生まれだそうですから1897年生まれのチャンドラ・ボースより、約一回り上の年齢です。青年時代から独立運動に身を投じ、学業を捨てインド兵になることを目指しますがそれはかないませんでした。
そしてサラリーマンとして勤める傍ら独立運動を続けます。彼の考え方は今流の「テロ活動」ということができるでしょう。1912年にはデリーでイギリス総督のハーディング爆殺計画を決行します。
さらに2年後の1914年のデリーテロ事件で主犯とされイギリス植民地政府の尋ね者になります。そして、日本に渡ることを決意し「詩聖タゴール」の渡日にまぎれて来日。これが1915年です。
東京では当時日本に居た中国の革命家「孫文」ともと交流したようです。当時の日本はイギリスと日英同盟を締結していたので、日本政府はイギリス政府が反英分子として追っている犯罪者としてボースを捜索します。
官憲の尾行がついたボースが逃げ延びた先が当時の「中村屋」でした。中村屋は昔から沢山の文化人が出入りしていたとのこと。中村屋の相馬夫妻が4カ月間ボースを匿いました。その後も日本政府、英国政府の追及が続き、10数回にもわたり逃亡生活が続いたのだそうです。
その逃亡生活に同行したのが相馬夫妻の長女「俊子さん」だそうで、ボースは1918年に「俊子さん」と結婚します。そして第一次世界大戦終結でイギリスによるボース追及が終わると、ボースは中村屋敷地内に新居を立て生活を始めます。ボースは日本を拠点にインド独立運動の活動を続け、チャンドラ・ボースの来日を助けました。この生活の中でボースは中村屋にインド風のカレーの作り方を伝授しました。従って中村屋のカレーはベンガル風なのです。
ビハリ・ボースは、インドの独立を見ることなく1944年に亡くなりました。ボースの死後インド独立運動はチャンドラ・ボースに引き継がれました。ビハリ・ボースの考え方は、ガンジーの無抵抗主義ではなく、チャンドラ・ボースに近かったようです。日露戦争、第一次世界大戦をインドから見ていて、列強に伍して戦った日本に憧れたのだと思います。
彼が4ヶ月間「中村屋」に匿われたいた間に、インドカレーを相馬夫妻に伝授したとのですが、これはビハリ・ボースが日本食に飽き足らずインド式の辛いカレーを自分のために作ったのだろうと想像されます。「チャンドラ・ボース」の映画の中に、同じような光景が描かれています。
北ドイツのキール港からインド洋のマダガスカル島沖までの「Uボート」(潜水艦)の中の生活で、ボース等二人のインド人がドイツ料理が飽き足らず、インド式料理を船員に振舞う様子が描かれています。ドイツ人はインド料理を上手そうに食べます。インド人は、昔も今のインド料理なしでは生きていけないのです。いずれにしろ、ビハリ・ボースのお陰で日本の本格カレーライスの伝統が築かれました。
東インドのベンガルのカレーは北インド料理とは少し違います。北インド料理として有名な銀座のアショカのカレーを食べ比べると違いが判ります。ベンガル地方では米も取れるので、日本のご飯とインド式カレーはそれほど違和感が無かったと思います。インド西海岸、北部には米はそれほど一般的でないようです。
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