スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次過去未来


2006年11月30日(木) 人生の合計

今、ここに自分がいるということ。

今、自分が泣いているということ。

今、自分が笑っているということ。

今、自分が幸せだと感じていること。

今、自分が苦しいなあ、嫌だなと思っていること。

皆、それは今まで自分が生きてきた人生の合計だ。

楽しいことが多い人も

悲しいことが多い人も

それは自分自身が歩んで来た人生の道を選んだから。

だから、今の自分が置かれている環境や

境遇をうらんではいけない。

それは

今まで生きてきた自分の人生を否定することになる。

その時、その時に良いと思ってやってきたことを

全て間違いだと認めることになる。

私はそれだけはしたくない。

今までの人生を認めてやらないと。

あまりにも惨め過ぎる。

今の私は過去の私が作ったものだ。

そして、明日の私は今日の私で作られる。

だから、今だけを見て歩いていこう。

今を大切にすることで

明日の私があるのだから。

死ぬときに全ての人生の合計結果が出る。

赤字と出ても黒字と出ても

それはそれで皆納得のことだ。

今の自分が出来ることをしよう。


2006年11月29日(水) 考えるのはやめた

この数日本当に心を苦しめていた。

体調も悪くなっている。

馬鹿らしくなった。

自分自身のことで悩むのならともかく

誰かのことで悩むなんて本当に馬鹿みたいだ。

もう考えるのはやめた。

今、私に出来ることをするしかない。

義父のこと、家のこと、夫のこと、お墓のこと

これら全てを含めてなるようにしかならないと思う。

私一人が立ち向かってもどうしようもない壁もある。

それに、私にはもっと大切にしたいものがある。

だからもう悩まない。


2006年11月28日(火)

嫌な夢を見た。

早く寝すぎて朝かと思ったらまだ11時だった。

眠れなくなった。

夜は考えないことにしている。

いつもは布団の中に入ると

数分の間に寝ている私。

考えるのは楽しいことだけ。

それなのに、昨夜は11時に目が覚めて

頭の中で考えるのは嫌なことばかり。

夫のこと義父のことお墓のこと家のこと・・

堂々巡りばかり。

だからかな・・・

ちょっと寝たと思ったら

夫の兄たちと親戚が集まっている場面が出てきた。

言い争っているわけではない。

でも、何か私一人対兄と親戚の人という形になっていた。

私の身内は姉一人。

その姉も義兄たちの槍玉に上がっていた。

目覚めは良いはずはない。

朝方になってうとうとして4時に起きたとき

見た夢を思い出そうとして

また同じ堂々巡りが始まった。

正夢にならねば良いが・・

心配はしないようにしよう。

もしそんな場面に遭遇したら

毅然とした態度で自分の思っていることを言おう。

そう思ったら少し気持ちが楽になった。


2006年11月27日(月) 鬱々と

この気持ちは何だろう。

何をしても楽しくなく

頭が痛い、胃が悪い、お腹が張る・・

ちょっとしたことで腹が立つ。

いらいらしてつい大きな声を出してしまう。

母と話していても過ぎに喧嘩腰になってしまう。

今朝も、起きて自分の家に帰った途端に

鬱々が激しくなった。

黙々と家事をこなしながら涙が出てくる。

「私と夫の関係って何だろう」

この気持ちを確認しながら続ける家事。

同じ空気を吸いたくない。

顔も見たくない。

ものも言いたくない。

出来たらこの家から

否夫の傍から離れたい。

そんな気持ちでいっぱいになった。

理由は夫の父の入院から発した

色々な家の問題。

夫を愛したことが嘘のように思える。

何であのときにもっと夫を見極めることが出来なかったのだろう。

夫のうわべだけで判断した私が間違っていた。

私のことを何とも思っていない夫と

夫への気持ちを疑問に思う私が

こうして同じ屋根の下で暮らすことが間違っているのだ。

娘が成人して、私の気持ちや夫婦のあり方が理解できるようになったら

私は夫と共に暮らすのをやめよう。

たとえ、離婚はできなくても

同じ屋根の下に暮らすことはやめよう。

私の人生は私のものだ。

私が死ぬ時に後悔しないためにも

後の数十年をもっと自分のために生きたいと思う。

こんなことを思う私は間違っているのかな・・

鬱々としながらこんなことばかりが

頭の中を行ったり来たりしている。


2006年11月26日(日) もう少し早く

何故、気づかなかったのだろう・・・

何故、もっと話をしなかったのだろう・・・

毎日入院している義父の病院へ行き、

義父と話しながらそう思う。

結婚して21年経ってやっと

義父と会話らしい会話をするようになった。

私は正直言って義父が苦手だった。

私を見かけるとさっと家に入ってしまう。

私の車が駐車場に入るを見ると

やはり、同じように家に入る。

私を避けているかのように・・

私が話しかけようとしても逃げるように家に入っていた義父。

私の両親が私の家に来て、

義父に挨拶をしようとしてもさっと逃げる義父。

義父は私のことを嫌っているのだろう。

それじゃ、私も同じような態度に出ようと心に決めてからは

義父が居ても無視し続けていた。

それが、この数ヶ月前

思い切って大きな声で話しかけてみた。

そして、「お父さん、体は大丈夫?」と聞けるようになった。

これは、私の父が亡くなり

私に「お父さん」と呼べる存在が義父だけになったと

思い知らされ、私の今までの態度は間違っていたと気づいたからだ。

それ以来、少しでも話そうとしていた。

一緒にかまぼこ板の絵展も行った。

一緒にお昼の「焼き飯」を「美味しいね」と言って食べることが出来た。

そんな義父とこれからは仲良くできると喜んでいた矢先、

義父が入院、そしてあまり長くはないと知った。

私が馬鹿だった・・

もっと義父と過ごす時間を作れば良かった・・

心からそう思う。

夫と話しているよりも話しやすい、

同じA型で同じ干支だ。

きっと気が合うのだろう。

今までのことを悔やんでいても駄目だ。

これからの義父との時間を少しでもいいものにしたい。

病院へ行き、義父と話しているとほっとしている私が居る。

もし、義父と二人だけになれる時間ができたら

今までのことを謝ろう。

失われた時間を取り戻したいと心から思う。

もう少し早く気づいていれば・・


2006年11月25日(土) ある遺言

先の戦争、大東亜戦争で

特攻として回天に乗り、

死んで行った戦歿学徒の一人「塚本太郎」さんが

遺書代わりに、手帳に書き残した言葉、

「国のためには血を流し

 人のためには涙を流し

 自分のためには汗を流せ」

は、私の胸にどーんと響いてきた。

あの頃の20歳を少し過ぎただけの若者と

今の若者の姿を見比べると

同じ日本人の若者なのに

天と地ほどの違いを感じる。

あの時代を狂気の時代だという人を私は認めない。

自分の命を持って

国のため、郷土のため、そして家族のために

戦ったことがどうして狂気だといえるのだろう。

純粋な心で死んで行った人たちを冒涜するような言葉を吐く人を

私は信じられない。

今、国のために死ねると断言する人が果たして何人居るだろう。

そして、こういうことを言うことで右翼だと決め付けられるはず。

国を守るため、家族を守るために

自分の命を惜しいと思わず死ねる心は言葉にいえないくらい尊い。

そして、人のために涙を流すことが出来る人は

決して誰かをいじめることはしない。

自分はどんなことも厭わず

汗を流して働くことが出来る人は

ただ、金儲けのために小ざかしいことはしないだろう。

これこそ、本当に人として生きる生き方だと思う。

私も日々の生活の中で

こういう純粋な心で生きていっているだろうか。

これからの人生を

世のため人のために生きることが出来るように

少しでも近づけるように努力したいと思う。


2006年11月24日(金) 許せないこと

最近、ホームレスの人たちが

次々と襲われる事件がおきている。

ついに殺人事件も起きた。

今月で8件にも上るという。

そして、この事件に関与しているのが

若い男性、中学生ではないかと言われている。

昔から「親父狩り」はあった。

弱い立場の人たちを襲うことは許せない。

自分たちの祖父母の年齢だ。

昔なら大家族が同じ屋根の下で寝食を共にしていた。

祖父母から教えられ、

反対に祖父母を尊敬しいたわる。

これが自然なことだった。

核家族になり

年を取ったり醜くなったものへの

いたわりの心は消えていったのだろうか。

ホームレスになった人たちは

決して好きでなったのではない。

不況で失業した人

破産して住む家を失った人たちだ。

もしかしたら、年金ももらえず、

健康保険も使えず、

病気になっても医者にかかれない人たちかもしれない。

今の社会は本当におかしい。

昨日の犬一匹に対して同情の声が起こり、

引き取り手がたくさん名乗りを上げているという。

確かにそれはいいことだが、

もっと大切なことがあるのではないだろうか。

今の子どもたちによるいじめ問題も同じことだ。

自分よりも弱者に対して痛めつけて平気で居られる

神経を疑う。

こういう若者や子どもたちを育ててきた

親たちや社会に責任と問題がある。

昔の武士道精神の根底に流れる

「義、勇、仁、礼」はもう日本人の心にはないのだろうか。

「惻隠の情」は幻になったのだろうか・

弱いものに対してやさしくするという心は

日本人に流れる素晴らしい情だと思っていた。

道徳心、モラルは消えてはないと信じたい。

教育基本法改正が今叫ばれているが

今こそ、武士道に基づく

本来の日本の心を取り戻すような

教育が必要な時だと思う。


2006年11月23日(木) がけっぷち犬

昨日の朝のニュースで知ったがけっぷち犬のこと、

これを知ったときに思ったことが次ぎだ。

テレビのニュースで、徳島の崖崩れ防止現場の崖に、

野良犬が迷い込み、

自分ではその崖を上って脱出することも

出来なくなっている様子を見た。

近所の人からの通報で、

レスキュー態が出動して助けようとしたが、

危険な場所で、犬に近づくと逃げるので、

助けることが出来ず六日目になった。

犬は飲まず食わず状態でやせ細ってきていた。

何とかして、助け出そうとしている隊員と逃げ惑う犬に、

思わず「頑張って」と声をかけた。

この機会を逃したらきっと死んでしまう。

これが犬ではなく人間だとしたら、

事態を重くみて、

もっと真剣になるのではないかと穿った見方をしてしまった。

このことを娘に話したら、

娘は「もしこの野良犬が町の中に居たら、

保険所の人に捕獲されて殺されるのに、何か変だな」と言った。

私はこの言葉にはっとした。

同じ犬でも、こうして助けられる犬も居れば殺される犬も居る。

この犬が無事救出された後、誰かにもらわれて、

飼い犬として生きることが出来たら良いと心から願う。

今朝のニュースで無事救出されたと知った。

良かった・・

でも、人間の身勝手さに腹を立てた娘の気持ちを思うと

何か複雑な思いがする。

娘は犬がここへ迷い込んだのも

それは野良犬として生きるこの犬の定めだ。

これも人の勝手な思いで変えてはならないと言っていた。

これも一理ある。

でも、まあ

私が願ったように

このがけっぷち犬の引き取り手が現れたようで

人騒がせな一件もこれで落着。

良かった。


2006年11月22日(水) いい夫婦の日

十一月二十二日、今年も「いい夫婦の日」がやってきた。

この日が来るたびに、

いい夫婦ってどんな夫婦なのだろう?と考える。

今年六月に亡くなった私の父と、

今も元気で居る母は

結婚して六十年という長い年月を夫婦として過ごしてきた。

結婚生活は山あり谷あり、

泣いたり笑ったりの連続だ。

私が小学生のころ、

二人が大喧嘩をして、母が家を出ると言いだしたことがある。

私は、どうしたらいいか分からなくて、

母の手をぎゅっと握って、

「母ちゃんと一緒に行く」と泣いていたことを覚えている。

また、揃って酉年生まれの両親は、

いつも、小さな口喧嘩を繰り返していた。

そんな両親を見て正直

「あんな夫婦にはなりたくない」」と思ったこともある。

でも、喧嘩しない夫婦は居ない。

父が亡くなってから、

母は、毎日、父と言い争っていた頃がとても懐かしいと言っている。

喧嘩してでも良いから生きていて欲しいとも言っている。

そんなものかもしれない。

夫婦は、長い時間の中で、

お互いに空気のような存在になり、

居てくれることの有難ささえ忘れてしまう。

「いい夫婦の日」はそれに気づかせてくれる日だ。

今夜は「有難う」の気持ちを込めて

夫の好物でも作ろう。


2006年11月21日(火) 義父が入院

昨日、義父が入院した。

発病して三年、

この間に義父の病魔は徐々に手を広げていた。

気づいたのが一ヶ月前。

胃カメラを最初に超音波、CT検査としていくうちに

相当悪くなってしまっていた。

父のことを思い出した。

何も処置が出来ない、

このまま家で好きなように過ごさせてあげてくださいと

医者に言われてとても辛かった。

義父も同じような道をたどりそうになることが分かり、

私は出来るだけのことをしてあげようと心に決めた。

三年間診てもらっていた医者と縁を切り、

父が診てもらった医者に義父のことを頼んだ。

そして、回り道をしたけれど

やっと入院して父は休めるようになった。

殆ど何も受け付けなかった義父が

昨日入院した夜のご飯は八部目食べられたと

義母の今朝の電話で知った。

義父も安心したのだろうと思う。

それまでがどんな気持ちだったのか・・・

相当不安だったのだろう。

それを思うと本当に昨日の入院が良かったと思える。

私には「お父さん」と呼べる人は義父一人だ。

一日でも長生きして欲しい。

義父の部屋に泊まりこんでいる母にお弁当を作った。

持って行ってあげようと思う。

これから私もまた忙しくなる。

父が亡くなり、ほっとした間もなく今回のことがやってきた。

今は私の試練の時だ。

頑張らないで頑張ろう。

ネットもHPの更新も今までのようには出来なくなる。

このつぶやきもブログも更新できるときにしよう。


2006年11月20日(月) 好き好き

昨日の県大会の結果発表、

娘の高校は選ばれなかった。

後で審査員から

一校ずつ講評をいただいた。

選ばれた二校は

私が見ていても上手いと思ったし

脚本も良かった。

芝居はせりふが会場に聞こえることが一番大切だと言っていた。

昨日演じた高校の中で二校

せりふが聞こえにくくて届きにくい気がした。

折角の芝居が損をする。

また反対にヒステリックに叫びすぎて

またこれも観ている者が理解出来ない場合もある。

娘の高校の劇は

ほかの高校とは違うテーマを取り上げていた。

私はこれが良いと思ったが

審査員の求める「高校生らしい劇」からは

ちょっと方向が外れていたように思う。

でも、それが高校の個性だとも言える。

皆が、ありふれたテーマを演じるのではつまらない。

その点では娘の高校はとても個性的で良かったと思う。

芸術は好き好きだ。

絵でも音楽でも芝居でも、映画も、観る人の好き好きで評価が決まる。

また文学もそうだ。

人が皆同じものが好きならどれもこれも同じようなものになる。

違うものを求めるからこそ

色々なものが出来上がるのである。

昨日は残念だったが

これでよかったと思う。

選ばれた二校には次の大会へ向かって頑張って欲しい。

選ばれなかった高校もこれにめげずに

また来年の大会へ向けて新しい作品を作り上げて欲しい。


2006年11月19日(日) 娘の涙

昨日は娘たち高校生の演劇の県大会があった。

夏には地区大会があり

それに残った10校が出場することになっていて

昨日はその中で4校の舞台があった。

娘は自分で書いた脚本を演じるから

それなりに責任も感じてるのだろうか・・・

毎日、お風呂の中でもせりふや歌を練習していた。

演じた劇は地区大会と同じで

人の心をやわらかくしたし

楽しませることが出来たし

内容的に考えせられるところもあって

なかなか良かったと思った。

でも、さすが地区大会に残った高校だけに

甲乙つけがたく皆それぞれに良い舞台だった。

娘は帰宅して私の顔を見た途端泣き出した。

大きな涙が目からぽろぽろと落ちる。

しゃくりあげて泣いていた。

自分ではもっと上手く出来たはずなのに・・と思っていたみたいだ。

娘の気持ちは分かる。

でも、舞台は緊張もするしその時で出来も変わる。

見ている側では前と同じく上手く出来ていたと思うから

娘だけがそう感じたのかもしれない。

夫が撮っていたビデオを見て笑っていたし

心も少しは軽くなったみたいで安心した。

人生にはもっともっといろんなことが起きる。

挫折の経験のない娘には

酷かもしれないけれど

こういう思いをして涙を流すことも

必要なのではないかと思う。

今日、結果発表がある。

さあ、選ばれて次の大会へ出ることが出来るかな・・

今日も、私はお弁当を持って朝からほかの高校の舞台を

見に行こうと思っている。


2006年11月18日(土) 同じ人生

どんな人生も価値があると言ったのは

確か五木寛之さんだったような気がする。

どんな形でも生きていることに値打ちがあると言う。

その言葉を聞いた時にはなるほどと思ったが

今は少し違って来た。

人を殺したり、人を傷つけてでも

生きる価値はあるのだろうか・・・

人が生きる意味ってただ単に息をして

食べて、排泄して、寝て・・

そんなものだろうか・・・

確かに、植物状態になっていても

肉親には生きていたいと願う。

父が亡くなった時、私もそう思った。

父がものを言わず寝てばかりだとしても

この世に生きていて欲しいと思った。

でも、父にとってそれが最適な生き方であるかどうかは

誰にも決めることは出来ない。

父は早く楽になりたいと思っていたかもしれないのだから・・・

今朝、脳の髄液が減少することによって

体中に痛みが走り普通の日常生活が出来ない人の話をTVで見た。

本当に苦しみだけの毎日だと言っていた。

交通事故の後遺症のようだが

その人はあの事故の時に死んでいればよかったと言っていた。

分かる気がした。

人はどんなことがあっても生きなきゃいけないと言うことは簡単だ。

そして、私が今ブログに書いている誠さんも

不自由な体と痛みと闘いながら生きている。

私には出来ないことかもしれない。

逃げないで生きることは大変なことだ。

自殺する人も皆、今の苦しみから逃避したいと思う。

それもまた人生だ。

同じ人生だ。

私にはなんだか分からなくなってきた。

生きているだけで素晴らしいと

声を大にして叫んでいた自分が

何もわかっていなかったのではないか?と思う。

恥ずかしい気がしている。


2006年11月17日(金) あの時もし・・・

人生には「あの時もしああしておけばよかった・・・」と思うことがある。

私が今まで生きてきた道のりの中でも

何度もそういう思いをしたことがある。

取り返しのつかない失敗をしたこともある。

失敗してもまたやり直せばそれでいいじゃないかと言われるが

後ではどうしようもないこともある。

6月に亡くなった私の父もそうだった。

父は膀胱がんで亡くなった。

三年くらい前に尿に泡が出る、

排尿が難しい・・ということが起きた。

私は父に泌尿器科へ行ってちゃんと診察してもらおうと言ったが

父は恥ずかしいと言ってどうしても行かなかった。

父が膀胱がんだと分かったときは

すでに時遅し、

手術も出来ない状態までがんは進行していた。

あの時に私が嫌がる父を無理にでも引っ張って

病院へ連れて行っていたら・・・

父は手術も出来て今生きているかもしれない。

後悔先に立たずという言葉の通りだ。

今、私はまた同じような立場に立っている。

義父が病に倒れた。

病院にかかっていたにも関わらず

医者は義父の病気の進行を止めることもせず

放置していたのと同じことをしていた。

初めにもっとちゃんとした大きな病院へ

義父を連れて行っていれば・・・

今のような状態にはなっていなかっただろう。

悔しくてたまらない。

父と同じ道をたどってしまった。

今、私が義父にしてあげれることは

病院へ連れて行ってあげることくらいしか出来ない。

私が自分の父のことばかり気遣っていたから

義父のことを思いやることが出来なかった。

私がいけなかったのだ・・

義父にすまない気持ちでいっぱいだ。

あの時もし・・・

ああ〜今では遅い。


2006年11月16日(木) 見舞い

昨日は二人の人のお見舞いに行ってきた。

一人は母方の叔母で

膝に人工関節を入れる手術をするために

入院している人、

後一人は

父の警察官時代の友人で

白内障の手術をした人だった。

父がずっと世話になっていた日赤病院だったので

病院に入ると父のことばかり思い出してしまった。

叔母は片一方の膝はすでに人工関節が入っている。

これで両方の足が人工関節になり歩けるようになると嬉しそうだった。

父の友人は視力が回復してきているとのことで

顔つきも明るくなり

とても元気そうになっていたので安心した。

天風先生の言葉では

たとえ体は病んでいても心まで病む必要はない。

しかし、健康だからこそ心も元気になれるのだと

昨日は思わずにはいられなかった。

人の心は体調に左右されるのだな・・

私の昔はどうだったろう。

生まれた時から体調は優れない日々を過ごしてきた私にとって

体の具合が芳しくないときは

心も不安定になっていらいらもしていた。

だから昨日の二人のように

これからのことを思って元気が出るのがよく理解できた。

どうか膝の人工関節を入れる手術が成功してほしい。

そして、視力がまた悪くならないことを心から祈りたい。

元気になって欲しいと心から思う。


2006年11月15日(水) ハトのその後

ブログ「思うままに」に親子ハトのことを書いた。

あれから数日が過ぎ、

ハトの赤ちゃんはすっかり羽も生えそろった。

餌も食べることが出来るようになり

心配そうに見に来ていた母ハトも姿を見せなくなった。

母ハトは子ハトが自立できるのを自分の眼で確かめて

安心したのだろう。

ハトの子を籠から出してやった。

何処かへ飛んで行くかな?と思っていたが

子ハトは庭に居る。

石の上に餌と水を入れたものを置いてやっていると

この水を飲み餌を食べている。

庭の緑の雑草や虫も餌になっているみたい。

昼間はこの餌のある石の上にちょこんと座り

きょろきょろしているが

夜は姿を見せない。

何処か寝床を見つけたのかもしれない。

昨日は雨が激しく降ったので

この石の上に大きな傘を差しかけてやった。

これで濡れないですむだろうと思っていたら

どうも傘が気になるみたいで寄り付かなくなってしまった。

今日は晴れるから傘もない。

また可愛い姿を見ることが出来るかな?


2006年11月14日(火) 父への思い

昨日は父の五回目の月命日だった。

父の好物の辛いおかきとしきびを持って

母とお墓参りに行って来た。

姉と時間を相談して待ち合わせ

お墓の石を磨き

周りの草を抜き掃除をしてしきびを立てた。

墓石を磨きながら

「父ちゃん、顔を洗って綺麗になろうね」と話しかけた。

でも、墓石は何も答えてくれない。

死とはこういうものなのだと改めて思った。

生きているときには

父への思慕はあまりなかった私が

こうして父のお墓に行くと父のことばかり考えてしまう。

普段の暮らしの中で忘れてしまいそうになる

ちょっとした父の癖を思い出したりして・・・

父は几帳面で綺麗好きだったから

お墓が汚れているのはたまらないだろう。

近ければ毎日でも行って綺麗に掃除をするのに

ひと月に一回しかいけないのが申し訳ない。

母と姉と三人で手を合わせ父へ報告。

帰りに三人でお昼を食べて父のことを話した。

来月の6日は「みんま」だ。

「みんま」とは亡くなった人のお正月で

私の住む地域独特の風習だ。

12月の初めの巳午の日に

お墓に餅や柿、みかんを備えその前で餅を焼いて笑って食べる。

父の居ないお正月はきっと淋しいものになるだろう。

でも、母が元気で居てくれるから

それだけでも私にはとても有難いと思う。


2006年11月13日(月) カラス

朝、外でカラスの鳴き声が大きく響き渡っていた。

何事かと思って外へ出てみると

数十羽のカラスが「カアカア」と啼きながら

大空を舞っていた。

カラスが群れになってこんなに啼くのは見たことがない。

不吉な予感がした。

カラスは賢い鳥だという。

いじめられたら仕返しに来るとも聞いた。

もし、仲間が人間にいじめられて

その仕返しにやってきたのだとしたら

これは大変なことになると思った。

電線にもたくさんのカラスが止まっていた。

ほんとうに不気味な光景だった。

我が家のハトを狙っているのかな?と思ったが

そうではないみたいで一安心。

夫が言うには

カラスがたくさん群れになって啼くときは

自分たちよりも強い存在

たとえば鷲や鷹などが居たときに

それを挑発するためだそうだ。

餌を狙われたら群れになって鷲や鷹を

やっつけてしまうと言う。

カラスの力って凄い。

集団の力って怖い。

人間もいじめられたら

仕返しをするくらいの強さがあれば

子どもも自殺しないのに・・・

なんて思ってしまった。

幸い30分んほどでカラスは居なくなった。

なんともお騒がせな朝だった。


2006年11月12日(日) 母との時間

毎晩、寝ようと母のベッドの横に来ると

私の胸に去来する思いがある。

それは母と後どのくらいこうして一緒に居られるのか?という思いだ。

そして、今日一日の母との時間を思い起こす。

たまに母にきつい言葉を言ってしまうことがある。

私の体調が悪い時や忙しくしていて

都合の悪い時などに

母に頼まれごとをされると

きつい言葉で出来ないなんて言ってしまう。

必ず後悔する。

何であんなことを言ったのだろう・・

もう少しやさしくしてがたら良かった・・

明日からは絶対に後悔しないようにしよう・・

母の寝顔を見ながらいつもそう思う。

今日は母のセーターを買ってあげようと思う。

気に入らないかもしれないから

母と一緒に行けば一番良い。

でも、買ってあげるといったら断ると思う。

まあ下見でもしてこよう。

明日は父の月命日だ。

母とお墓参りに行こうと思っている。

父にも安心してもらうためにも

母にもっともっとやさしくしてあげないと・・


2006年11月11日(土) 参った

今朝から、私のPCが接続しない。

一時間に数回立ち上げなおしたが

結局つながらなかった。

このつぶやきは夫のPCで書いている。

だからトップは変えることができない。

夫のPCは使い慣れてないし勝手が違うから打ち間違いをする。

やはり私のPCが一番良い。

どうなるかな・・・

直るかな・・・

昨日、パンやの誠さんから詩集第13集が届いた。

ブログに載せようと思って写真を撮った。

今日からひとつずつ載せようと思っていたのに

私のPCに画像を入れてしまったからつながるまで難しい・・

ああ〜疲れた。

参ったな・・・

やっとつながった。

なんと立ち上げてから4時間。

その間に数回電源を切りまたオンして再起動の繰り返し。

ブロバイダに電話してもルーターかパソコンに問題があると言われ、

諦めかけたが、

最後にもう一度挑戦してみてやっとつながった。

これはセキュリティソフトの害のような気がする。

パソコンは故障はしていない。

夫のPCには同じ線でつながる。

ルーターの問題ではない。

なんだかわけが分からない。

本当に疲れたよ・・・

心配してくれたメル友から携帯メールをもらった。

まだ返事もしていないが本当に有難い。

ごめん。

ありがとう。

さあ、今からメールを見て返事を書いて

ブログの更新をしてこよう。

もうこんな思いは二度としたくないな・・


2006年11月10日(金) 浅野さんのレポート

今朝、5時45分からNHKの第一ラジオで

城川町のギャラリー城川の館長

浅野さんのラジオレポートを聞いた。

愛媛県の西予市に昔届いたグランドピアノの話だった。

この町はシーボルトの奥さんいねさんや

高野長英が立ち寄ったところとして有名なところだ。

ここに開明学校がある。

開明学校は木造で洋風、国の重要文化財

その中にグランドピアノがある。

80年前に来たこのピアノには

本物の音楽を子どもたちにという気持ちで

保護者たちがお金を出し合って買ったピアノだ。

昔は豊かな町だったみたい。

でも、そのうちにこのピアノは皆から忘れられていた。

そのピアノに声をかけた人が居た。

東京から来た旅人、

「このピアノはすばらしいですよ」という言葉と共に、

そっと出された一万円、

それをきっかけにピアノをもう一度という運動が始まった。

そして8年前にピアノの修繕が行われコンサートが開かれた。

90歳の教師が弾くピアノに合わせて昔の学校の校歌が歌われた。

そしてそれから毎年コンサートが行われているらしい。

誰でもいつでも行けばピアノを弾くことが出来るという。

司馬遼太郎さんが歴史がある町だと言ったこの町へ

一度行ってみたい。

そしてピアノをポロンと弾いてみたい。


2006年11月09日(木) 季節外れのスイカ

私が果物の中でスイカが大好きだと知っている義兄が

もらったのを私に食べてと言って姉が持ってきてくれた。

朝晩が寒くなりスイカの季節は過ぎたけれど

義兄の気持ちはとても有難く嬉かった。

スイカのつるが少し茶色になりしなびていたが

切って見ると真っ黒な種と

綺麗な赤い中身が見えた。

父が亡くなる前に

スイカの果汁が飲みたいと言っていたが

確かに、食欲のない時でもスイカは食べられる。

一昨日からの胃の悪さで

食事もろくにとれてなかった私にとって

スイカは今の私に最適の食べ物に思えた。

父の仏壇に二切れ備えて

その後、夕食はスイカを四分の一食べて済ませた。

少しシャリ感がなくなっていたが

味は甘くて上々だった。

今朝もヨーグルトの中に入れて食べた。

これで少し胃も良くなるかな?

義兄の気持ちとスイカの果汁の甘さが

私の疲れた心身に染み渡っていった気がする。

有難い。


2006年11月08日(水) 義父のこと

昨日は義父、つまり夫の父を

胃カメラに連れて行って来た。

このひと月足らずの間に7キロも痩せたと聞いて心配していた。

胃カメラの結果は胃炎はあるが

ほかに悪い所はなくひとまず安心した。

来週の火曜日には県病院で肝臓のCT検査をすることになった。

これで異常なかったら

痩せていてもあまり心配はないかもしれない。

元々持病があるのでその方が悪化したのでは?と

義母は心配していた。

義父とは最近は話もするようになったが

以前は色々なことがあった。

決してうまくいっていたわけではない。

でも、もう忘れようと思う。

私の父が亡くなり

父さんと呼べるのは義父しか居ない。

義父も80歳になる。

年を取って病気になれば誰でも気も弱くなる。

これからはまた看護の日々が来るだろう。

私が出来るだけのことをしよう。

心からそう思う。


2006年11月07日(火) やはり変・・

足立区の公立小中学校では、

学力テストの結果を元に、

特別予算を配分するという。

一位から四位まで四区分をして配分される金額の差は三百万円にもなる。

教育長は頑張っている学校とそうでな学校を

横並びにしたくないから行うのだと話していた。

教育機会均等法もあるように、

義務教育において、

テストの結果で差別されるということは変だと思う。

確かに、上のランクの学校は、

ますます勉強に励むだろう。

しかし、下のランクの学校の生徒たちは、

かえって勉強意欲をなくしてしまうのではないだろうか。

また、生徒たちが出来る学校へ集まってしまうおそれもある。

私が小学生の頃、全国学力テストがあると、

先生は出来る子どもには休むなと言い、

出来ない子には休むように言っていた。

学校としては、

少しでもテストの平均点を上げたいという気持ちだったのだろう。

学力だけが全てではない。

学力偏重主義が未履修問題やいじめにつながると言っても過言ではない。

教育問題は根本から見直されるべきではないだろうか。


2006年11月06日(月) 昭和天皇

皇室について、

また天皇について考えることは

時に右がかっていると思われることがある。

最近では国旗を掲げる家々も少なくなっている。

私がたまたま皇室について、

昭和天皇について考えるきっかけになった本が

木下道雄著「天皇と國民」という本である。

この中で昭和天皇の人柄をあらわす事柄に触れることが出来た。

私を捨て、民のことのみを思う天皇の人柄、

先の大東亜戦争の責任を

天皇が一人で負うと決め

マッカーサーと秘密裏に会談したこと、

民衆と一体になることが

天皇の思いであったことなど

今まで知らなかったことを知ったとき、

私は涙を流していた。

大和言葉に「うしはく」と「しらす」という言葉がある。

「うしはく」とはある地方の土地、人民を我が物として

即ち私有物として領有支配をすること

「しらす」とは、人が外物と接する場合、

即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、

知るも、みな、自分以外にある他の物を

わが身に受け入れて

他のものと我とが一つになること、

即ち、自他の区別がなくなって

ひとつに溶けこんでしまうことを言う。

今では「うしはく」という言葉は死語になってしまったが

「しらす」は「しろしめす」という言葉のように残っている。

この天皇の心は今のこの現代に必要不可欠の心のように思う。

昭和天皇は戦争という時代を生き抜き

ほかの天皇に比べてとても難しい時代を生き抜かれたように思う。

でも、昭和天皇が居たからこそ

今の平和な日本が存在すると思っても

決して過言ではないように思う。

終戦の時に詠われた天皇の歌。

「身はいかになるともいくさとどめけり ただふれゆく民をおもいて」


2006年11月03日(金) 文化の日

今日は「文化の日」だ。

昔は「明治節」と呼ばれていた明治天皇の誕生日だそうだ。

「自由と平等を愛し、文化をすすめる日」

文化勲章が授与される日でもある。

そもそも文化とは何だろう?

国によって文化ほど違うものはない。

宗教の違いと同じくらい

文化の違いで理解を得られずお互いに悲惨な戦争を起こすこともある。

日本では昭和21年のこの日に

戦争放棄、主権在民、基本的人権を宣言した新憲法が公布された。

今、その憲法の見直しがされている。

新憲法は聞こえは良いが

日本国が制定したものではない。

敗戦後にアメリカによって作られた

アメリカに都合の良い憲法だ。

主権のある国である日本が

このアメリカが作った憲法を固守しているのも変だ。

勿論戦争放棄は大切だし9条も意味がある。

でも、世界情勢は変わってきた。

北挑戦が核実験をするようにもなった。

中国も核を保有している。

いつ日本に核弾頭が飛んでこないとも限らない。

自分の国を守ることを考えることは

決して右翼的ではない。

日本がのほほんとしている間に

日本を取り巻く国々は武器武装をしているのだ。

日本の昔からある文化と伝統を守るためにも

自分たちの国を守りたいものだ。

文化の日にもう一度考えてみることも必要なのではないだろうか。


2006年11月02日(木) 自殺の連鎖

毎日のように自殺した子どものニュースを目にする。

北海道、福岡、岐阜、兵庫・・・・

そして未履修問題で茨城の校長が自殺した。

まるで連鎖反応のように

次から次と、命を絶つ人たちが後を絶たない。

いじめ問題が主な原因だ。

担任がいじめの口火を切ったところもある。

部活の同級生のいじめで首をつった女生徒。

親の気持ちになったらたまらないものがあるだろう。

自殺をしたら楽になると考えるのは分かる。

私もそうだったから。

あの苦しい状況の中で

死ぬことしか逃れる方法がないと思っていた。

死ねば苦しみから解放される、

そう信じていた。

でも、それは違う気がする。

自殺は逃避に過ぎない。

校長が自殺するなんて最低だ。

被害者は校長ではなく卒業までに

70時間の補修を受けねばならない子どもたちである。

校長はどんなに苦しくても

どんなことをしてでも良い解決方法を見出すべきだった。

担任のいじめを発端にクラスからのいじめを受けて自殺した生徒、

彼は親にも誰にも言ってなかった。

誰でも良いから自分の苦しみを訴えることが出来ていたら

きっと死以外の方法が見つかっていただろう。

結果論ではあるが親、教師、周りの友人たちが

もう少し気をつけていたら防ぐことが出来たかもしれない。

部活でいじめられたことは誰にでもあることだ。

私の娘も中一で剣道部に入った途端

先輩と同級生の男子から

わざと強い打ち込みをされ小指の骨を折った。

娘は私に訴えたし部活をやめることで

いじめから逃れることが出来た。

いじめの原因は大したことではない。

死ぬよりは小さなことのはず。

でも、死ぬことを選ぶ子どもたちにとっては

今のこの苦しみ以上の苦しみはないと思い込むのだと思う。

誰かに訴えて欲しい。

そして、周りの人は気づいて欲しい。

誰かにきっと助けを求めているはずだから。

自殺の連鎖をこの辺で止めねば。


2006年11月01日(水) 世界の秘境

日本から外へ出たことのない私にとって

新聞の折込で見た

世界の秘境の数々に感動した。

そそり立つ断崖絶壁、

深い霧に囲まれた密林、

珍しい動物たちが暮らす孤島、

普通では絶対に見られない景色ばかりだった。

まさに驚異の世界が広がっていた。

私の親友ならきっとこんな秘境へ行ってみたいと思うに違いない。

飛行機が嫌いな私でさえ、

生きているうちに一度くらい

秘境を自分の目で見てみたいと思うのだから。

その中でアメリカの西にある

大地、モニュメントバレーに目が釘付けになった。

一面岩と真っ赤な土で出来た大地、

グレーの空に浮かぶ白い雲、

そこに立つモニュメントのような岩の山々、

まるで火星?と思う光景だった。

先日から描いているかまぼこ板の絵、

板にこげ茶の色を塗り、

ビーズ入りの下地を塗ったのがあったので

このモニュメントバレーを描こうと思い描いてみた。

油絵風に出来上がったが

夫や娘にいいねと言われた。

この秘境の世界を描くことで

私の絵も今までとは違って世界が広がった気がする。

秘境の世界への憧れは

私にずっと生き続けるに違いない。



スカーレット