刑法奇行
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2004年08月18日(水) オリンピックの顔と顔

体操には感動した。最後の逆転劇は、まるでドラマを見ているようであった。感動することがあまりなくなってきたので、選手達に感謝である。

 そういえば、感動の東京オリンピックは中1の時であった。裸足のアベベ、体操のチャフラフスカ、遠藤、小野、山下、重量挙げの三宅、水泳の木原美知子などなど、そして、何といっても、バレーボールの東洋の魔女達である。「黙って俺についてこい」とは、大松監督の名セリフである。時代は、高度成長期のはじまりである。今や、「黙って俺についてこい」と言ったら、文句をたらたら言って、誰もついてこないという状況となろう。

 生徒全員で、市川昆監督の「東京オリンピック」という映画の鑑賞に行き、感想文の提出義務があった。「記録か芸術か」で論争のあった映画である。ドキュメンタリーの記録映画じゃないんだから、芸術でいいんじゃないと思ったし、市川監督に依頼した段階で確実に予見可能であったと思うのだが・・・。ともかく、無理やり感想文を書かせるのは、小学校時代から苦痛であった。だから、子どもが夏の宿題の読書感想文で苦労しているのを見ると、旧態依然の教育にため息がでる。「嫌々読んだので、苦痛以外の何ものでもありませんでした。」という感想を書いた生徒に花◎をあげたいのだが・・・。

 オリンピックの審査結果は、まさに微妙である。体操の時、解説者の見解と採点結果とが異なる場合が結構あったように思う。札幌オリンピックの時、しりもちをついたジャネット・リンに満点を付けた審査委員がいた。形式主義と実質主義、主観主義と客観主義などなど、評価というものは実に難しいものだ。

 表題は、三波春夫の「東京五輪音頭」の歌詞である。「4年たったらまた会いましょと」というが、誰と誰が会うのか主体が不明である。もう2度と会わない人もたくさんいるのである。それでは、国と国とが会うとすれば、国際社会の急激な変化を予測していなかった愚かさが露呈している。

 まあ、ともかく、オリンピックは参加することに意義があるとはいっても、それはメダルがあまり獲れなかった場合の、事後的な慰めかもしれない。しかし、競争だけを目的とすると、国の威信を誇示する結果にもなり、ヒトラーのベルリン大会を彷彿とさせる。やはり、「原点を個人に」という視点を忘れないように、オリンピックを楽しむことが肝要だろう。

ジャーニー to 東京オリンピックの行進曲


2004年08月06日(金) 自由への逃走

 暑い日が続いているが、気持ちがさわやかなのは、今月で2年間の狂務ともおさらばするからかもしれない。下旬に研究室へ完全移転する。しかし、来年の3月にまた、新8号館に引っ越しするから、いくつかの段ボールはそのままにしておこう。緊急性のあるものとそうでないものとを分ける必要があるが、これが難しい。われわれは、無駄こそ価値がある世界にいるからである。

 基本的に行政は向いていないのだと痛感した。おそらく、教育も向いていないのかもしれない。しかし、これは当然の予測された事態であろう。なぜなら、一度も政治家を目指したこともないし、教育者を目指したこともないからである。ただ、大学院に入って、刑法学を勉強していただけなのだから・・・。

 平野先生が御著書『東大の内と外』の中で、大学の使命は第1に研究であり、その次に教育がある、といわれた通りである。ロースクールが、この順序を狂わせるとしたら問題であろう。これを機会に、平野先生の著作を再読しようと思う。来年の刑法学会でも企画したし、法時でも企画することになっている。

 やはり、研究中心の法研は素晴らしい。マニアックな連中と学界の水準を議論できる同志がそこにいる。法研存亡の危機をいかに克服するかが問題である。これに対して、法科「大学院」って、本当に「大学院」なのであろうか。ロースクールをもっと研究中心とすべきであるように思うのだが・・・。

 今日は、久しぶりに、S仙人と夕飯を食べた。学会以来である。この暑さで、閉じこもっているということだ。現代社会の閉塞状況を身を以て感じ取っているようである。クロロホルム殺人事件について、大いに議論した。彼は、判例も読んでおらず、こちらの説明を聞いて、いろいろ反論するのである。マニアックな世界にどっぷり浸かっている人間であることが確認された。こういう人間はおそらく今後出てこないだろう。残念!。

ジャーニー to 鴨川セミナーハウスは結構いい鴨


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