刑法奇行
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2003年07月16日(水) 道程

 齊藤誠二先生の古稀論文集がやっと刊行され、今日、抜き刷りと齊藤先生の小品集『法律を学ぶ1人の歩んだ道』と共に送られてきた。ロクシン、シューネマン、ヤコブス、シュライバーの論稿を含めて、浩瀚な論文集となっている。

 先生の小品集で、お若い頃、いろいろ御苦労されたことを知った。あの研究の虫ともいうべきお姿の原点を知る思いである。

 思えば、今日ほど、研究や勉強への動機づけが乏しいと思われる若者が多いのも珍しいかもしれない。もっとも、「何のために」というフォークルの歌に感動したわれわれの世代には、動機づけがあったかというとどうだろうか。おそらく、時代が変わっているのだから、動機づけの内容が異なるのだろう。したがって、今の若者に、一見、動機づけがないように思えるだけかもしれない。しかし、それにしても、人生論を冷笑しすぎる雰囲気にはついていけないのだが・・・。

 刑法は規範の妥当性を保護するものであり、法益侵害と道徳違反とは明確に区別できないと言ってのけるヤコブスに、何か新鮮さを感じるのは私だけであろうか。新しい倫理の構築を急ぐべきと感じるのは私だけであろうか。優しさと愛に満ちた世の中、みんな笑って暮らせる世の中にしなければと思うのは私だけであろうか。所詮、みんな死んで行くんだから、有限なのだから、生きている間は、とりあえず、楽しくしようではあーりませんか、と思うのは私だけであろうか。

 齊藤先生の「歩んだ道」、そして、その後をトボトボと歩むわれわれ、そして、その後・・・、何か、高村光太郎というよりも、谷村新司の「昴」のようになってきた。これはいけない、M藤君の18番である。もっとも、K斐さんの18番でもあり、この競合をどうやって避けるかが、今後の重要課題だといえよう。

ジャーニー to 銀色の遙かな道

 
 


2003年07月11日(金) 論文ローゾと頑張るジャン

 7月になって、まだ奇行を書いていないことを、魔女大のM藤君から指摘されて、それではそろそろというわけである。書かない習慣ができあがると書かないですんでしまうということは恐ろしい。これが論文となれば問題である。論文(解説的なものも含む)の方は、書く習慣をつけなくてはならない。その意味で、習慣という後天的なものではあるが、一種の生来的なものになればしめたものである。だから、ロンブローゾならぬ、論文ローゾなのである。

 G代K事法の連載が終わっても、すぐに共犯の特集で、久しぶりに共犯の処罰根拠論を論じた。純粋惹起説のリューダーセンが、宮澤先生のFestschriftで、改説しているのには驚いた。「正犯なき共犯」を否定している。そして、リューダーセンもトレクセルも、自分のFestschriftがでていることにも驚くのである。ずいぶん年月が経ったと、感慨に耽ってしまう。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」・・・芭蕉の境地にいよいよ達したのだろう。

 昨日の「現代社会と犯罪」では、少年犯罪の原因と少年法について講義した。事件は重い。触法少年である。少年法改正のむなしさが露呈した。少年法で予防などできないのである。少年たちの日々の生活が大事である。鎖が大事である。人と人とのつながりが大事である。そういってもただ空しいだけかもしれない。これも年かもしれないが、最近は、被害者の親と加害少年の親のことを考えてしまう。それぞれ一生懸命育ててきて、この悲劇である。

それはそうと、早いもので、夏休みも近い。28日から1日まで、例によって、学部と研究室の合宿である。追分セミナーハウスと第一法規寮である。そしてもうすぐ、師走である・・・これは早すぎるかもしれないが。
 しかし、ペナントレースは、終わったも同然である。夢ははかなく消えた。無様な試合をし続けるのはやめにしたらどうか。
 もっとも、無様さが大事なのかもしれない。所詮、人間は無様である。まさに、レ・ミゼラブルなのである。しかし、主人公の名は、頑張るジャンである。徹底的に無様な状態で頑張るしかないのである。無様な状態に対して、拍手喝采を送ろうではないか。

ジャーニー to 流れていく(流星by拓郎)


 


norio

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