超雑務係まんの日記
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2004年02月29日(日) 飛散

向田邦子という作家は、すでに過去の人だろうか。

「時間ですよ」などの脚本を執筆してる事から、
イメージ的には人気テレビ作家という人物像が強いかも知れない。


作家論はあまり好きじゃないけど、
僕の大好きな向田邦子について少し書きたいのです。

邦子には新人のシナリオライターだった頃、恋心を抱いていた彼がいた。
仕事を終え、毎日のように彼のもとへ通う邦子。

しかし、彼には妻子がいたのだった。
幸いにも別居中だった彼。
職業はカメラマン。

ここで一つ重要で不幸な事実があった。
彼は脳硬塞で下半身が不自由だった。

邦子は毎日、彼のために仕事を終えてから料理に腕を奮った。
日々、彼のために、自慢の献立を、そう毎日毎日。

刺身、豆腐の味噌汁、胡瓜の酢のものなど、
素朴なメニューだが彼はとても喜んでくれた。


そして

とうとう、彼の離婚が成立した。


邦子は言った。
「これから一緒にごはんを食べようね。何千回も何万回も。」



そうこうするうちに、邦子の作品が市場の脚光を浴びてくる。
多忙のあまり、帰宅が深夜になる邦子。
足の痛みが日々ひどくなってくる彼。


必死の思いでやっと締切りの原稿を下ろし、気づいたらもう夜はかなり更けていた。
バタバタと急いで彼のもとに向かう邦子。

玄関を開けてみると、
彼は充満したガスの部屋で、独り息を絶えていた。




邦子についてはさまざな議論があるが、
僕は向田邦子という作家は幸せだったような気がする。

恋愛という視点からの生涯はとても有意義だったのではないか。

偉そうな事を言わせてもらえば、
愛や恋は、ちょっとした覚悟のような気がする。

けれど、
どちらかに覚悟が欠けていた場合、恋愛は、やはりゲームになってしまう。
テレビゲームのように勝ち負けか、もしくは引き分けが成立し、
気分によっては再チャレンジが何回も可能。

そしてゲームであったが故に振り返れば、
当時を後悔し、反省し、また思い出し笑いなどもしてしまう。

覚悟がないからこそ、自然に消滅するコミニュケーションが存在するのだと思う。
悲しいことにゲームはいつでも、自分の都合でリセットができるからだ。





話しを邦子に戻す。

世の中に作品が評価され、作家という地位を確立し、
名誉ある直木賞までとってしまった邦子。

だがその翌年、飛行機事故であっけなく他界してしまう。

邦子の生涯とはいったい何だったのか。


邦子が売れないシナリオライターだった頃の彼との食卓風景が、
僕は見たこともないのにナゼか幸せそうな気がしてたまらない。

きっと言葉では表現出来ないその風景。
決して気分では左右出来ないその光景、決してリセットなんか出来やしない。

もしかすると邦子の脚本の多くには、
いきいきとした食卓シーンが多用されてるのは偶然じゃないかもしれない。


さぁ、幸せとか不幸とかって、誰がどう決めたのだろうか。


2004年02月23日(月) 届かない

世の中で怖いのものは?
聞かれたら、僕は2つ

1コは二日酔い


もひとつは
別れの朝


前日に逢った人でも、朝にはたいていお別れしてしまう

考えてみたら
10年前に出逢った人でも、いつかは必ず別れが来てしまう


親兄弟に見離され
友達も居なくなってしまい
まったく知らない土地で
誰ひとり自分の言葉を聞いてくれる人がいない

ガレージに車をいれた瞬間
そんな不安にかられて泣きそうになった

電話をしてみる
勇気を出して聞いてみた

俺にひとりも味方が居なくなってしまっても
一緒に歩いてくれるのかな。。。

その時の返事は未だにハッキリと覚えてる




別れは朝が似合ってるような気がする
夜の別れは、何だか本当の別れのような気がしない

居なくなってしまったベッドに枕が二つ寄り添っていた
朝のこの光景は、とてつもなく苦しい


生きていればイイ事あるさ、って
無責任に言う人もいるけれど、本当なのでしょうか?

ダレか教えてくれませんか


劇的に突然何かが変化するなんて、なかなか難しい

じゃぁ、どうして
毎日をうなだれながら過ごしてるんだ

オマエ達の声が聞こえてこない限り
オレの言葉なんて、ずっと届かないんだ




__________

 悲しみの果てに
 何があるかなんて
 俺は知らない
 見たこともない
 ただ あなたの顔が
 浮かんで消えるだろう

 (『悲しみの果て』エレファントカシマシ 詩曲:宮本浩次)


2004年02月09日(月) 空中分解

以前お付き合いしていた人たちへ。

すごく仲がよかった時代もありました。
毎日のようにメールしていた時もありました。

中には
お電話であれこれと会話したり、
お逢いしてまでも、直接お話しした方もいました。

でも、
何かの拍子にプツンと途切れてしまってから、
突然死んでしまったかのように、
気持のヨイくらい無関係になる間柄へ進展。


自分が自分である為にと、気負いをあらわにしてしまったら
きっと自身である「私」を優先させてしまった場合において、
他者との関係に歪みが生じてしまう機会が多く存在しませんか。


気を使うとか、
意見を出すとか、
みんな仲良くとか、
楽しければいいんだとか、
人との関係にあたりさわりなくとか、

そんな事よりも。


もっともっと、
伝えなくてはならない「何か」が人には存在する。


言葉で言えなくとも、態度で示せなくとも、
すべての時間を使って表現しなくてはならない義務が
思考するあらゆる絶対に流れているモノ、そしてコト。

僕はそう信じて信用してしまって、
疑う事をまったく知らないで生きている。。。

いつもいつも、何もかも空中分解。


2004年02月07日(土) 過渡期

そこに誰かがいるだけで、
「未来」。

淡い時代の存在は人生のベースになるか、
生涯とらわれる過去の栄光に成り下がるか。



時には鋭利を突き刺し、
血液にまみれても、歯を悔いしばり、
頭が不毛にグルグルりん。

止まらない鼻水を垂らし
ワケノワカラン薬を大量に飲み続け、
治さなくてはならない
何か。



眠れなくて、浴びるほどの酒と一緒に睡眠薬をたらふく食せ。
深い夜との闘いに、いつになったら勝てるのか。


我慢、オトナ、忍耐、そんな言葉で表現出来るもんか。
自分の為、誰かの為、そんな悠長な状況なもんか。

ビリビリと生きてる苦悩を1秒毎に感じながら、
薬漬けで上手く言葉が話せなくなるまでに、
瞳から汗がしたたり、全身から涙がこぼれ落ちてきて
足元に崩れ落ちながら、毎日毎日惨く暮らすのだ。



死ぬまでだらしない姿をさらして生きろ。



治す為の死ぬ想い、
窒息してしまうくらいの閉息状況。

それでも、アナタを抱き締めてくれる人がいたならば、
やっぱり居なくなってはイケナイ。

自分の為とか、人の為とか、言ってるうちは
まだまだ道徳に沿っているマトモな人格だ。
迷惑というより、社会の模範かもしれない。


でもオレにとっては、
はなはだ迷惑なダケの存在、オマエはフラフラなモンスター。



 過渡期に固有な矛盾と混乱は、
 それ自身が過渡期であることについての
 反省を欠いているところから生まれる
 (梅本克己)


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