スタンドから眺める木漏れ日
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2020年09月23日(水) 上手な付き合い方を学びながら生きる

昨日、入院中の相談者さんから連絡があった。

1泊2日の外泊許可が出たので

自宅に戻っているとのこと。

外泊中はインターネット使用禁止なので

家族とともに料理を作ったり 

友人からプレゼントされたぬりえをしているそうだ。

それだけ聞くと順調に回復していて、

退院後も問題なさそうに感じるが、

事はそう単純なものではなさそうだ。

 

まず、電話で話すテンションが異様に高い。

そして、こちらから問いかけたわけではないに

自ら「ゲームをする気がおきない」と言ったり

月の小遣い3000円の使い道を話したりする。

 

既に何らかの形でお金を使おうとしている。

 

これから相談者さん自身が考えなければならないのは、ゲームとの付き合い方ではなくお金との付き合い方になる。

 

まず、月にお小遣いとして渡される3000円について。

このお金は、あくまで親から貸与されている金銭であり、自身のものとは異なることを認識する必要がある。

 

その上で、このお金は「どこで何につかわれるべき」なのかを明確にしなければならない。『どこで』とは、ゲームやネットに対するものではなく、あくまで現実の世界で実際のレジでやりとりするもの。

 

もちろん、相談者さん自身の考えを聞くのも重要だ。

なぜ今までゲームIDを売買したか、そこに至るまでの課金についてどう考えているか、

 

私が考えるのは

・ゲーム、インターネットは家族がいるときに

目の前で時間を決めて行う。

・お小遣い3000円はお小遣い帳をつける。


(ここまで下書き。以下未完)


2020年09月13日(日) その重さについては未だ整理がついていない

わが街浜松で、国内最高気温に並ぶ41.1℃を記録した日から遡ること4日。

8月13日の夕方、母の御在所から「ダメでした」と電話があった。

88歳になりたてほやほやの伯母のことだった。



おばちゃんは、元気だった。

1年前、結構大きな病気を抱えていることが判明した。

「あたしダメみたいだから、お香典先にちょうだい」

そんなこと言われても、あまりにも元気すぎて

香典詐欺にしか聞こえなくて



おばちゃんは変わらず元気だった。

電話でも、メールでも、変わった様子はまったくなかった。


(ここまで下書き。以下未完)


2020年09月05日(土) 詠み人知らず

季節の変わり目あたりになると、私の中の『筆欲』が目覚めだす。

すなわち、何かを書きたくてたまらない欲求に駆られるのだ。

 

筆欲という言葉は、雑誌『趣味の文具箱』35号で初めて使われたという。

編集長の清水茂樹氏の個人的見解によると【書く】には3つの目的があるのだという。

 

1つ目は「自分に伝えるために書く」。

2つ目は「自分以外の誰かに伝えるために書く」

3つ目は「伝える人なく、目的なく書く」

 

私の場合、普段は3つ目の【書く】―例えば天声人語やSNSのお題を書写することで

己の筆欲を満たしている。

 

ところが、1年のうち何度かは1つ目ないしは2つ目の【書く】で

筆欲を満たしたいと思ってしまう時期があるのだ。

 

そんなとき、ついついやってしまうのが『新たなブログの立ち上げ』だ。

これが原因で星の数ほど…というのはちと言い過ぎではあるが

かなりの数のブログを立ち上げては自然消滅させてきた。

 

8月の中頃、伯母を亡くした後ぐらいから

「これ書きたい、あれ書きたい」という欲求が増してきた。

そもそも、伯母のことは去年の夏に病気が見つかってから1年間、

ほとんど誰にも語らず家族の中だけの話題だったので

めちゃめちゃ笑えるエピソードも含めてすべてがお蔵入りだった。

「今ならもぉ解禁してもいいんじゃね?」

っていうのが、このブログのそもそもの発端だった。

 

とりあえず、自分が書きたいことを書こう。

仕事のこと、仕事から離れたときのこと、

好きなもの、好きなこと、好きな人のこと、

今のこと、昔のこと、これからのこと、すべて。

 

このブログは読者のことはまったく考えていない。

読んでいる人のことなど知ったことかぁ〜〜〜!!!

という意味で『詠み人知らず』というタイトルをつけた。

 

そんなふうに生まれたこのブログは、とりあえず今のところは

筆者本人しか目にすることができない仕組みとなっている。

いずれ、他の誰かの目に触れることになるのだろうか?

 

ま、とりあえず書きたいことを書き続けられる場所は確保したので。

あとは、これからこれから、ということで。

 


2020年09月04日(金) カウンセラーの資質が問われている

今朝は、相談者さんのご家族と対面で話をした。

相談者さんご本人は現在入院中。

ネット・ゲーム依存による課金が問題であったのだが、

突然希死念慮が強くなって入院設備のある病院に保護してもらった形だ。

 

「今朝、本人に会ってきました」

と報告があった。今は落ち着いていて、表情も明るかったという。

友人からお見舞いでもらった塗り絵を完成させていたと見せてもらった。

…上手い。私よりよっぽどセンスのある塗り方をしているぞ。

 

塗り絵の裏にはご家族に宛てて手紙が書かれていた。

 

実は先日、このコロナ禍で病院に面会もままならないと聞いて

ご家族には手紙を書いて渡すことを勧めていた。

入院中に会えない、話せないと入院患者さんの不安や孤独はどんどん増していく。

「自分は家族や周りの人間から見捨てられたのではないか」

そんなふうな思考に陥っても不思議ではない。

 

「決してあなたのことを見捨てていないよ」

「あなたのことを思っているよ」

そんなメッセージを手紙に託して伝えれば、入院患者さんの孤独感は薄らぐ。

会話と違って手紙は形として残るから、読み返すことで

あらためて家族と自身の結びつきを考える機会にもなる。

 

ご家族から渡された手紙を読み返し、相談者さんは3回ほど泣いたという。

そして、自身の手紙を通じてご家族への感謝と謝罪、

これから外泊を経て退院に至ることへの希望が綴られていた。

 

しかし、まだまだ課題は山積みだ。

入院中は強制的にネットやゲームから隔絶した生活を送っているが、

退院すればそれらを相談者さんの周りからすべて排除するというわけにもいかない。

 

例えば、ご家族の方が仕事やプライベートでスマホやPCを使っているときに

相談者さんがゲームをする自身の姿を重ねて情緒が不安定になる

…というような状況も想定される。

 

『ネットやゲームと上手につきあう』には、

まずリアル社会(実生活)がある程度充実していることが前提となる。

ネット・ゲームの世界はあくまでも『仮想現実』(バーチャル)だ。

いってみれば、実生活の“おまけ”くらいの立ち位置にある。

決してバーチャルが主でリアルがおまけであってはならない。

 

バーチャルな世界にリアルな金銭を過剰に投じることは、

バーチャルとリアルとの境界線が歪めることなる。

ただ、金銭を投じるといっても実際の操作はワンクリックだったり

数字の羅列を入力することで決済が完了してしまう。

『多額の金銭を支払っている』という事実とはかけ離れた、

あまりにも簡単な操作で金銭の授受が成立してしまうのだ。

 

このコロナ禍で、ネット・ゲーム依存に陥るケースは増えている。

それは、ステイホーム期間中にゲームにはまって…というよりも

それ以前からゲームに費やす時間や金銭が増えつつあって様子見してたのが

このタイミングで一気に爆発した、というパターンがよく見られる。

 

さて、この問題に心理カウンセラーはどう関わっていくべきだろうか。

 

大切なのは、相談者さん本人が今どのような思いでいるかということ。

どんなときにもその人なりの理由があり、それに沿って行為がなされる。

もちろん、それが良いか悪いかは別として。

しかし、相談者さん側にどんな主張があるかは

実際に聞いてみなければわからない。

 

それを聞いたうえで、次に考えるのは

『何がいけない(いけなかった)のか』『今後どうすればよいか』

『周りの人間ができること、考えられることは何か』

ということではないだろうか。

 

相談者さんご本人だけではなく、ご家族をはじめ

周りの人々のメンタルケアも重要となってくる。

今までは『ゲームと上手につきあう生活』を念頭にあったが、

あくまでカウンセラーは【リアル】側の立場であって

【ゲームの世界】への介入はひとまず置いておく。

 

【リアルな世界】には相談者さん本人を長く支え、見守る人たちが存在する。

その人たちと相談者さんが今後どう向き合っていくか、ということについて

カウンセラーは説いていくべきではないだろうか。

 

コロナウイルスの感染拡大によって、心身の不調を訴える人が増えている。

1つ1つのケースにどう向き合い、寄り添っていくのか

カウンセラーとしての資質が今まさに問われている。

 

ちなみに、無課金主義の私はゲーム上のコインはべらぼうに溜まるが

リアル財産は一向に溜まったことがない。

何とか同期できないものだろうか…(T0T)

 

 

 


Shiratama Akkey |MAILHomePage

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