ジョージ北峰の日記
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2017年06月07日(水) 憲法改正と歴史の進む方向

 最近、世界情勢は極めて不均衡で不安定な状況にある。中東問題、IS問題、北朝鮮問題等々。

ことにN国は核開発、大陸間弾道弾の開発に、国連の反対を押し切って積極的に進めようとている。

周辺国はN国を攻めようとする意図はなく、むしろ平和に暮らしてくれることを願うばかりなのに。

日本国民にとっては拉致問題の早期解決を願っているが、それも武力ではなく、話し合いで解決が出来ればそれ以上のことは望んではいない。

 同国の国営放送では日米韓が結束してN国を攻める企があるとの報道を繰り返しているが、N国が平和国家なら、日米韓いずれの国も、そんな意図は全くないと断言できる。
  
 

 特に米国に対してN国は挑発的とも言える言動を繰り返している(あたかも米国こそがN国と対等にある国と言わんばかりに)。

核弾頭を搭載したミサイルで米国に報復する。その基地を抱えている日本・K国はまず、最初のターゲットになるだろう、などと・・・・。

この紛争が拗(こじ)れて戦争になったとして何処の国にどんな利益があるのだろう?

もし本当にN国と米国が戦うことになれば日本もK国は確かに多大な被害を蒙ることになるだろう。 が、それでN国は戦勝国(になった)として、世界に存在感をアピールすることが出来るだろうか?

 恐らく、世界の国々から袋叩きの攻撃を受け、N国という国家自体がなくなることになるのではないだろうか。
そんなことは、N国の指導部も当然分かり切っているだろう・・・・けれど・・・・。

N国の報道は自国の体制維持の為に、外からの危機を国内向けに煽る意図があるのではないか?と疑いたくなる。


  あり得ないことと思いたいが、もう少し仮定の話を進めてみよう。
 今、あるリーダーが理性を失い誤った判断で核戦争を勃発させたとしたら、地球は間違いなく壊滅するだろう。

少なくとも現生の生物の大半は絶滅してしまうだろう。
 現代の科学の進歩は地球を破滅させるところまで進んでいる。

大規模な核戦争を起こせば、理由は如何であれ、その指導者の判断が正当化されることは絶対にないだろう。

核戦争はすべてを無に帰するからだ。

 オバマ大統領の沖縄での演説が人々の心に響いたのは、誰もがその事実を十分認識しているからだ。
 
もし地球が滅んだとしても、かまわないと考える人間がいるとしたら、それは気がくるった人か、それとも、それに近いエゴイスティックなリーダーが自分の地位にしがみついているからか、だけだろう。




歴史上多くの国が滅びてきたが、滅びた国すべて悪だったかと問われると、難しい問題だが、もし、過去の戦争の結果が逆になっていたら、現在はどんな世界になっていただろう。

例えば、日独伊の3国同盟が連合軍に勝っていたら個人の人権を大切にする世界になっていただろうか?

権力者の論理が跋扈し弱者の人権が蹂躙される社会になっていた可能性が高いのではないだろうか。
振り返ってどう検証してみても、人類にとって良い結果が得られていたとは考えられない。


歴史はこれまで正しい方向に進んできた、つまり歴史のベクトルは正義の方向に向かってきたと考えられるのだ。



N国は歴史の方向をどのように判断しているのだろう?
自分たちの進む方向が正義と考えているのだろうか?
国際社会では宗教や政治体制が異なり、それぞれの国にとって「正義」観が異なり、ある国から見ての「正義」は他の国にとって悪のこともある。

江戸時代の日本のように鎖国国家であれば、国家は国民の自由意思に任せておいてもよいのだろうが、現代のように情報化が加速されグローバリズムが急速に進んでいる国際状況では、一国だけが鎖国状態であることは不可能だろう。

N国の人々は、今の体制に満足なのだろうか?自分たちの正義は守られていると感じているのだろうか?指導部に対する不満はないのだろうか?


正義とは一体なんだろう?
 「人がふみ行うべき正しい道」、あるいは社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること云々・・・・などと辞書に書かれている。

  つまり正義は個人の幸福と社会の全体の幸福を同時に実現することを前提とする概念なのだ。

  古代、プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義としたそうである。この説明だと封建社会でも奴隷社会でも正義は存在することになる。
  
   現代では、正義はもう少し精密に定義され、社会の成員の全員の自由と平等が正義の観念の中心となって、(その手段として)自由主義的民主主主義社会が各人の法的な平等を実現する、となる。

   N国は、このような自由主義的民主主義が確立されている国なのだろうか?
  「社会の成員の自由と平等」というフレーズはN国でも保障されていると主張するだろう。が、本当にそうだろうか?


 

   翻って、日本の民主主義にも死角は絶対ないと言えるのだろうか?
今日本が進もうとしている道は、歴史に正義をもたらす道だろうか?
今、日本の社会では、むしろ個人の監視が厳しくなっていると聞く。報道にもかなり偏りがあると聞く。  

   今、日本では個人の自由と平等が完全に保障されている社会だろうか。
日本の自由主義的民主主義は正しく機能していて狂いはないのだろうか?


   日本では、憲法改正の動き今があわただしくなってきている。
この動きは歴史の進む方向を正しく見据え、新しい方向を見定めた上での動きだろうか?

   世界は正しい方向に、今向かっていると判断しているのだろうか?
世界情勢の狂いが憲法改正に悪い影響を与えないだろうか?

    今の憲法改正は、未来に向かって若い人たちの理想と夢が本当の実現される道を探ろうとしているのだろうか?

    歴史が進むベクトル「究極の方向」は、
    1) 世界のグローバル化の実現,
    2) 地球環境の回復と保護,そして その上で
    3) 個人の自由と平等を可能にする民主主義の世界的実現にあるだろ      う.

  この方向は絶対に変てはいけないという認識のうえに立って,指導層は改憲を進めようとしているのか?

 
   少し立ち止まって、日本の国会の議論を聞いてみると、指導層の歴史認識は少し昔への回顧趣味があるように思える。


   例えば、ついこの間、いまだ政治の「せ」の字もわかっていない幼児が
   日本の総理大臣を讃える言葉「A総理大臣頑張ってー!」などと運動会で声を張り上げている光景を見たが、あれを見てA総理は異常に思わなかったのだろうか?

 あれこそ、現代の独裁国家N国によく見かける光景ではないのか?

 そのA総理が今直ちに憲法改正をすべきと叫んでいる。
 本当に正しい改憲をしようと考えているのか疑いたくなる。

  今こそ、我が国が正しい歴史の方向を目指そうとして改憲しようとしてい  るのか?
  冷静、真剣、かつ気合を込めて、事態の推移を見守る必要がある。






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