ジョージ北峰の日記
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2013年02月13日(水) 青いダイヤ

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  これまで、私は戦後間もない子供時代のことを書いてきました。ただ、これは単に思い出話を懐かしむために書いたのでははありません。
  戦後、著しく文明が進んだ一方、悩ましい、混乱した現代社会を築いてきた人間活動の陰に、私達が気付かなかった何らかの問題点ーー特に私の子供時代は第二次世界大戦の敗戦直後で日本の貧しかった時代でしたのでーー両時代を経験した私が、過去と今を比較して、その問題点を少しでも明らかにすることが出来れば、と考えて書き始めたのです。

   最近、虐(いじ)めが、大きな社会問題となっています。これは、現代日本の象徴的な社会現象だと思いますが、その他にも振り込め詐欺、家庭内暴力、親子間の殺人事件など私の子供時代にはとても考えられなかったような事件が頻発しています。
   戦後60年、日本が想像も出来ないほど豊かになった時代に、一体何が起こっているのでしょう?

   何か日本社会を支えてきた箍(たが)が外れてしまったような気がしてなりません。
   深刻な状況は子供の世界に集約されて見られるように思います。
  学校では、子供達が授業中にまるで躾(しつけ)の出来ていない動物のように教室内をぶらぶら歩き回ったり、先生に理由も言わないで突然教室を出て行ったり、自分達の居場所にふさわしい作法を完全に忘れてしまったかのように見えます。
  一方就学前の子供達を見ていると、彼らの無邪気さが、私達の子供時代とそんなに変わっている風には見えません。無邪気な子供達が、現代では小学校、中学校と進むにつれて変質し、そして最悪は虐め(いじめ)を生む風潮をつくりだしているのです。   
   だとすれば、この学童期の子供達を取り巻く環境に、戦後六十年間で、何らかの変化があったに違いありません。
   一体どんな変化があったのでしょう?

   私達の時代と比べれば、今は物質的には格段豊かになりました。欲しい物がほとんど手に入らなかった私達の時代に比べれば、今の子供達は欲しいものは何でも手に入る、羨ましいほど、物質的に恵まれた世界に暮らしています。
   大人達は戦後、日本が国家として何故荒廃しきったか?---それは、権力の及ぼしてきた害悪の部分が“最大の根源”だった、と位置づけ、その反省に立って、不当な権力を社会から一掃、民主主義、自由、平等、平和を国是とする夢の世界を築くために働き始めたのです?

  大勢の人々の命を奪った悲惨な戦争、自由を奪う厳しい思想統制から、戦後初めて解放された人々にとって、働く自由と喜びがあまりに大きかったのか、戦前のような誤った国づくりさえ繰りかえさなければ、そして“戦後の窮乏状態から脱却できれば、その先には夢の世界がある。悪意はなくなり善意に基づく社会が実現できる”“子供達に、自由で明るい社会が保障できる”と信じたのでしょう。
  
   しかし----ふと気付いてみれば、何が間違っていたのか、結果的には大人が想像すらしなかった混沌とした社会を築いてしまったのです。

   豊かな世界を築こう、子供達に自分達のような不幸な思いを2度と味合わせたくない、と大人達が働いてきたのは間違っていたのでしょうか?
   何が問題だったのでしょう?

   一つは、自分が欲しいものを手に入れる前に、何をしなければいけないのか?ーーーその最も基本的なルールを子供達に教えてこなかったのではないでしょうか? 動物世界では、子供達を自立させるために、親が生きる手立てを一生懸命教えているというのに。

 現代の人間社会は、このままでいいのでしょうか?---考えこんでしまいます。

   私の子供の頃は、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、テレビ、自動車がありませんでした。私の家は町外れに在ってガスもなければ水道もありませんでした。当時、生活自体に(現代に比較して)どうすることも出来ない物理的制約がありました。
  冷蔵庫がありませんから、食物の保存が出来ず、夕食の仕度に、誰かが毎日買い物に行かなければなりません。 
  交通手段にも不自由した時代でしたから、遠くでも歩いて魚屋さんや八百屋さん肉屋さんなどの小店が軒を連ねる街までお使いに行かなければなりませんでした。
 洗濯機がありませんから誰かが、時間さえあれば洗濯をし、時にはアイロンをあてなければなりませんでした。洗濯を少しでも楽にする為に服は外出着と家で着る普段着は別けていました。

   その他の家事に関しても、姉達は母親の仕事、洗濯、掃除などを手伝わなければなりませんでした。女の子の場合、このような仕事が学業より優先されていました。特に仕事の負担が重い姉達は母に対して「試験の前日さえ勉強させてもらえず、不公平だ」と怒っていました。
   母は「男と女は違う、女は学業より、もっと大事なことがある。家を切り盛りするのが女の最も大切な役割だ。学業はその次に考えることだ」と言い切っていました。家が家として、自立するためには誰かが犠牲になり、皆が力を一つに合わせる必要があったのです。
   現代のように一人ひとりが、独立して自分の好きなことをできる余裕は全くなかったのです。
   まして自分の欲しい物は自由に買うことは出来ず、欲しい時は両親や兄弟に相談する。すると、その過程で大部分の買い物は却下されてしまうのでした。当時は、子供達も生活の大変さを身をもって学習していたのです。

   日本の悪しき制度といわれた、家族制度が日々の生活に深く根ざさざるをえませんでした。このような制度は、今では決して褒められたものではないかも知れませんが、戦後暫くの間はなくてはならない大切な制度でした。
  しかし今考えて見れば、貧困がすべて“悪”だったわけではありませ
   ん。
  近所の子供達は。一部の裕福な子供を除いて、皆同じ公立学校に通っていました。賢い子やいたずらっ子が同じ教室で勉強していました。
   学校での彼等の役割には、文化活動は賢い子が、スポーツの大会や喧嘩には悪ガキが活躍する分業が自然発生的に確立されていました。

   ある日、私のクラスが上級生のクラスと、喧嘩になった時、それぞれの代表が川原で1対1の対決をしました。数人が見守る中で殴り合いましたが、どちらかがかすり傷を負って血を流したところで皆が対決を止めに入りました。
   やりあった当事者も、その後は仲直りをして「あいつは強い」と互いに尊敬し合うようになりました。そのことが先生に知るところとなり、喧嘩をした当事者が怒られた時、クラス全体が「悪いのはその子だけではない、賢い子も悪ガキもクラス全員が一緒になって責任は自分達にある」と先生に謝ったことがありました。
  そんな時、先生は「そうか」と一言呟くだけでした。先生は陰で笑っていたかも知れません。

   クラスはいろんな子供達から成り立っていて多様性がありました。当時1クラス50人を超えていましたが、現代のような少数クラスより,私は楽しかったように思います(先生は大変だったかも知れませんが)。
   戦後は、国民一人一人が生死の修羅場を潜り抜けた後で、敗戦後の打ちひしがれた貧乏時代だったせいか、どこかお互いにいたわりあう思いやりのような気持ちがあったように思います。
   
  現代では、社会が豊かになるにつれて、勉強の出来る子供やスポーツの出来る子供は有名私立学校へ進学させるようになり、となり近所の子供達が別れ別れになる傾向が強く、学童期の子供社会での多様性は失われ、色々な子供達が無邪気にぶつかりあい、助け合う機会が減少、そればかりか、お互いを競争相手と見なすか、あるいは“自分には関係ないグループ”と無視しあうかの、心が失われた社会風潮づくりの片棒を、“大人”が担いでいるように思えてなりません。  


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