ジョージ北峰の日記
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2011年12月12日(月) 青いダイヤ

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 長兄が突然医学部へ学部を鞍替えすると言い出した真意を、私ははかりかねていました。兄が話す哲学とは少し矛盾しているように思えたからです。しかし、母が喜んでいる姿を見ると何となく「それでよかった」と、子供ながら私も納得するのでした。
  当時父母の年齢を考えると、私の家族が数年後に経済的逼迫状態に陥るのは目に見えていました。兄弟の誰かが父母に代わって家族を支えなければ、末っ子の私は大学にも進学できない状況だったのです。

  長兄は母が病で倒れた時は、母親代わりとして家族を支えていました。
父が「プライドを傷つけられたから」と職をたたき辞めて(父がそのような表現を使っていました)帰ってきた時も、陰では「無責任だ」と母と話していましたが「父は侍だから、仕方がない。男には意地を張らなければいけない時もある」と父をかばうように次兄が話しますと、長兄はただ苦笑して聞いていました。
  今から考えてみれば、この頃既に、長兄は心の底で自分が父親に代わって家族を支えようと決心していたに違いありません。
  ただ長兄は、照れ屋なのか口下手なのか、こういう事については自分の考えをはっきりと話すことはありませんでした。

  あるとき長兄から「お前は、自分だけなら大学にもいけない」とからかわれたことがありました。即座に「兄さん達は、親から大学へ行かせてもらったのだから、兄弟が僕を助けるのは当然だと思う」と即座に答えますと「ふん!---」と---、私も少し無理な論理かな? と、兄の顔を覗きこみますと、兄は頷きながら笑うだけでした。
  ところで、兄が「哲学」から「医学」へ鞍替えしたのはそれだけでの理由ではなかったと思います。
  長兄は「人間存在の意味」について、いろいろ考えていたように思うのです。
  彼は戦前の教育に影響を受けた人なので(と私は思うのですが---)「国の存亡に関わる非常事態に自分自身の命をかける」ことは、「道徳的人間として当然のこと」と考えていました。「特攻だってありうる」と言うのです。人の「生命」の価値は、「自分の生命」と引き換えにどれ程多くの「生命」を救えるか、で決まる----と。
  「それは天地創造した神でも許す範囲の人間の行為だ」と兄。
  「しかし敵兵の生命は?」と質(ただ)しますと、「相手も、自分達の国・思想・信条を守る為に生命をかけて戦っているのだ」
「“生命”と“生命”の正当性をかけた戦い?」と私。
「そうだ」と兄。
「じゃあ、戦争の正当性は誰が判断するの」と私。
「いや戦争にどちらが正当かを聞いては駄目だ。それぞれの立場で正当性は違う。その戦争のどちらが正当なのかは神のみぞ知る、だ」----。
「もし神が本当に存在するなら、どちらが正しいか判断するかも知れない---が、 ただ人間の歴史観からすれば、戦争の結果が、人々に平和や幸福をもたらすなら、その戦争の勝者の論理が正しかったと認めざるをえないだろう。しかし結果が逆の場合は、その戦争は不当だったと言われるだろうが---」兄は少し考えてから突然話題を変えたのです。

 「ライオンがシマウマを殺して食べたり、蜘蛛が蝶を捕まえたりすれば不当だろうか?」と兄。
  私は「可哀そうだが、自然の法則だから」と言いかけますと兄は「だろう!強いものが弱いものの犠牲の上に生きる。その最たる存在が人間だ。では、人間はありとあらゆる動物や植物を殺して食することが出来る。これは仕方がないことだろうか?
  どんな生き物も、元をただせばたった一個の細胞から成長してくるのだ。細胞同士なら対等だ、しかしあとの成長過程で、食べる生物、食べられる生物の違いが出てくる。それを優劣とするなら、人間は生物界で最も優れた存在だ。いや強欲な存在と言えるかもしれないが---。だが、勿論人間だけでは生きて行けない。人間は自らの生命を守る為には、やはり他の生命体の存在も守らなければいけない。強大な力を握った人間だけが勝手に「やりたい放題」することは、最早出来なくなっている。人間がバランスをとって生物界を守っていく必要がある。しかし他の生物にとって、人間のする“他の生物を守る”バランス行為がはたして正当といえるだろうか?
強い者の勝手な論理ではないだろうか?
  恐らく、ある生物からとってみれば人間の行為は極めて不当だと考えるだろう。  
  人間同士の戦争、争いだって同じだ。つまり世界は強者の論理で展開している。しかし弱者が消滅してもよいということにはならないが---」と、少し間をおいて
「  例えば生物界全体がどんなシステムで動いていれば、すべての“生命体”にとって、そのシステムが正当と言えるのだろうか?やはりそれは生命の創造主、神様に聞いてみなければ分からない。
  これまで人間は歴史を正しい方向に導いてきたと信じている。
人類が開発してきた科学技術の進歩もしかりだ。
  しかし、“生命”全体から考えてみれば、それが正しかったかどうか本当のことは分からない。とんでもないパンドラの箱を開けてきたのかも知れない」と兄。少し考えてから
  「お前には難しいかも知れないが、其処に創造主“神と人間”、“神と生物”の係わり合い、つまり人間の宗教的、いや道徳的行為の問題が関わってくるのだ」と兄は話すのでした。


私には兄の話すことは、漠然とではありますが分かるような気がしました。
ただ兄は哲学をやめ医学を選択したのは、現実的な経済的理由だけではなく、当面“人の生命”を救うことに、何か哲学的意義を見出そうとしていたのかもしれないと思うのです。



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