ジョージ北峰の日記
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2004年07月25日(日) 平和ボケ大国“日本”?? 政治家年金について

 最近、政治家の年金問題が政治問題化されようとしています。
 そこまで政治家の皆さんが国民に媚(こび)を売る必要があるのですか?今の日本の現状を打開しようとすることは、そんな瑣末(さまつ)な事を問題にすることですか?いやしくも国民のリーダーとしての自覚を持っている政治家なら笑って“馬鹿馬鹿しい”と一蹴してほしかったように思います。政治家は自分の為に仕事しているのではなく、国民の為にしているのでしょう?だったらそれにふさわしい扱いを国民がするのが当然でしょう。現代の日本の政治家には日本のリーダーとしてのみならず世界のリーダーとしての自覚をもって欲しいのです。その為に報酬が高いからと言って誰が疑問を持つでしょう。報酬が高すぎるから(それを)遠慮すると言うのは、自分のやっていること(やってきたこと)に自信がないからですか?それでは困るじゃないですか。
 年金問題については官僚の浪費“無駄遣い”の方が問題になっているのです。政治家の皆さんはそれを国民から委嘱を受けて監視するのが仕事なんです。しっかりして下さい。その為に政治家の皆様の報酬が少々“高給”だったからと言っても我慢しますよ(ただし公開されていることが原則ですがーースポーツ選手が億の単位で稼ぐのが常識の時代ですから)。年金問題に慌てている政治家を見ていると何だか日本の将来がとても不安に見えてきます。
 最近の日本では、議論の有様がどこか狂ってきているように思えて仕方がありません。社会を活発にするには、職業の報酬に差があって当然のことで、国家は意欲があり高い報酬を望む人が一生懸命努力すれば、それが報われ、夢が実現できる社会であるべきでしょう。その差がなくなれば誰も正当に努力しない社会になりますよ。その恐ろしさは共産主義国家に見てきたわけではないですか。(ただし、公正な競争原理が社会全体に保障されていなければ無意味ですがーー)
 政治家は高給取りであって不思議ではない職業の筆頭に上げてよいと考えています。ただし、政治家はやはりそれなりの知性と見識と能力を持った人が選ばれると言うのが条件ですけれどーー
 平家物語に“驕れるもの久しからず”と言う有名なフレーズがあります。
それは権力を握った平氏が自分達の栄華の為に滅茶苦茶な政治を行った結果、自らが腐敗し、国政が乱れ、反乱が起こり、一族郎党が全滅した事を指して言っているのですが、一方現代の日本のように平和が何気なく続いても、人々には危機感が薄れ、謙虚さが失われ自分の都合の為にのみ周囲を利用しようとする傾向が強くなって、社会全体(世界全体)の仕組みを公正に運用することの重大性を忘れていくように思えて仕方がありません。
 現代の政治にも平家物語と同じような事が起こってはいないですか?政治家と官僚、政治家と国民との間にそのような関係が芽生えてきてはいないですか。それが最悪になると利権政治がまかり通り、社会全体に堕落、無気力が蔓延していくのです。その意味で政治には公正さが絶対に必要と歴史は教えているのではないですか?
 民主国家こそが唯一政治に公正さを保障出来る制度です。
 最近の政治家の選ばれ方を見ていると、どうも利権がらみになりつつあるようで“政治家として”ふさわしくない人が“地元の人”に選ばれているように思えて仕方がありません。だから政治家は年金問題に慌てるのではないですか?
 本当の国民は、何事に対しても公正に、且グローバルに物を見れる人が政治家であって欲しい、お金の出し損と思われるような人が政治家であって欲しくないと、思っているのです。
 年金問題を問題視するくらいなら、衆議院、参議院の議員の数、そのあり方、役割分担の明確化(たとえば参議院議員は政党所属を不可とする)、また国会議員が地元に利益をもたらすことを禁止する制度、その為に地方分権制度の再検討、国政と地方の政治を明確に分離する等等ーーについてもっと真剣な議論をしては如何なのでしょう。
 ところで最近あるアメリカ人から日本人の拉致された人達には確かに同情するが、戦前の日本がやった強制拉致については如何考えているのか、自分達(日本人)だけが被害者なのか?と言われて冷や水をぶっ掛けられたような気分になりました。第三者から国としての日本の有様を見ていると、自国の拉致問題ばかりを騒ぐ(そのように見えるそうです、実際はそうでないかもしれませんが)日本人が少しおかしいように見えるようです。日本の国会議員の皆様はどのようにお考えでしょうか?


2004年07月14日(水) 参議院選挙の結果をどう読むか。

 今回ほど日本人が政治に対して冷静に、かつ正確に何を望んでいるかをはっきり示した選挙は少なかったのではあるまいか。投票率が低かったとは言え、特筆に価する選挙だったと考えるべきである。勿論政府の年金問題、イラク派遣に対する姿勢について批判があったのは事実だろうが、かといって民主党のマニフェストが支持されたと考えるのも早計だろう。むしろ国民は日本の政治、経済、文化、教育のドラスチックな変化を望んでいると主張したいのである。もし政府が(過去そうであったように)国民に対して期待を裏切るような政策しか、今後実行できなければ、国民は政府に対して“No"と言う決意を示したと、考えるべきだろう。その意味で政権与党は安閑としていられなくなったと、知るべきだろう。日本にも2大政党制が根付き始めた言っても過言ではないのではないか。ある意味で、今の政権の隠れた功績である。
 ところで選挙中日本の政治が“アメリカに追従”でけしからんと言った議論をしばしば耳にすることがあった。その代表的な議論は“アメリカのイラク戦争は誤りだったから、日本の自衛隊はイラクから撤退するべきだ”とする意見である。それこそ主体性のない議論ではないのか??−−日本がイラクに自衛隊を派遣したことはイラクの復興を助けるのが目的ではなかったのか?アメリカのイラク戦争を助ける事が直接目的なのではなく、あくまでイラク復興のシナリオを日本独自で考えるのが建前であり、且本音でなかったのか?日本はアメリカの戦争が間違っているのならそれを指摘するために自衛隊を派遣しているのではないのか?日本の自衛隊はアメリカとは全く異なった観点からイラクを見るべきではなかったのか?日本はアメリカと同盟国といっても、アメリカと同じ考え方でイラクに関わるのではなく、全く別の視点、イラク戦争の平和的解決に貢献するために、日本の独自の観点から関わってきた、のではなっかたのか?それがイラクの人々に認められつつあるのではないのか?日本はアメリカと別行動でイラクに関わったからと言って感謝されることはあっても、決して非難されることはないだろう。むしろ何もしないことのほうが経済大国、日本の゛国家”としての信頼を(アメリカだけではなく)世界中から失うことになるだろう。日本が自衛隊をイラクに派遣したのは゛アメリカのイラク戦争の是非”とは関係なく、まず日本はイラクを支援することが第一義的な目的だったとするべきだろう。アメリカの戦争が間違っていたのなら、自衛隊撤退を先に考えるのではなく、アメリカに対して戦争の終結を働きかけるのが同盟国、日本の最も大事な役割ではないのか。
 それにしても日本の政治家の中にはアメリカについての認識が恐ろしく甘い(遅れている)人が多いのではないだろうか?世界の国々の中でアメリカほど宗教も含めて多様な考え方が市民権を持っている国はないのである。ある意味で、政治的にも、経済的にも、科学的にも、アメリカほど進化した人々が住んでいる国はないとさえ断言できるだろう。それは最近話題になっている映画゛華氏911”の扱いを見ても一目瞭然だろう。又日本が本当に困った時助けてくれる国は世界中を見回してもアメリカしかない事も忘れないで欲しい。
 議論の本質をはずしてしまったかもしれない、しかしこれからの政治家は本当の意味で゛心を引き締めて”政治に取り組んで欲しい。今ほど、政治家としてやりがいのある時代は日本にはそう多くはなかったとさえ断言できるからである。
  追伸 現在イラクで活躍中の自衛隊の方々に本当に心から゛安全ありますように”と祈願しております。


2004年07月08日(木) 伝家の宝刀

 ご存知の塚原卜伝は、刀を抜かないで相手を制する“無手勝流”や“鍋蓋”試合等の逸話で日本随一の剣豪としてよく知られた人物だった。昔から本当に強い剣豪は滅多に刀を使わなかったと言われている。刀を抜いたときは、相手を完全に倒す時だけだったそうである。
 否、むしろそのような人物を見ただけで懸命な人は戦うことを断念すると言ったほうが正かったのかもしれない。
 本当の強さ、怖さはそのようなものなんだろう。通常は、静かで大人しそうに見えるが故に、一旦怒らせるとその怖さは言葉で表せない程の恐怖を相手に与える、と言うのだ。その逆は“小さな犬ほど良く吠える”と言うことなのだろうか。
 今日の話は、そのことではなくて今回のイラク戦争におけるアメリカの軍事力の使い方についてである。前回の湾岸戦争の時、私達はアメリカの進化した軍事力に“驚嘆”したのである。アメリカに匹敵する軍事力を持つ国は、おそらく世界中何処にも存在しないと確信したようにさえ思う。アメリカはその意味で世界に対して“伝家の宝刀”を持った国になった、と言えるのではあるまいか。しかし今回の戦争では“伝家の宝刀”の使い方が極めてお粗末なのである。如何なる宝刀も使い方を間違えればただの“なまくら”になるだけである。
 “伝家の宝刀”は何処ででも、何時でも使うべきものではなく、ここぞと言う相手を見極めて、もっとも有効な時期を見定め使うものだろう。一撃で相手を倒すべきものである。アメリカの軍事力ならそれも可能なのではと考えてきた。だからこそ、人々はアメリカが(宝刀を抜くことを)少なからず支持してきたのではあるまいか。
 しかし今回のアメリカの戦争を見ていると、少し様子が違うのである。相手を正確に見極められず攻撃対象として一般人まで巻き添えにしてしまっている。これではアメリカの軍事力が驚嘆される対象でなくなってしまうではないか。何か大きな欠陥、例えば“情報収集能力に欠如”があるのではと疑ってしまうではないか。
 前回とは違って誤爆続きで、下手くそな子供の戦争テレビゲームを見ているような観さえある。
 イスラエルとパレスチナの戦争を見いて、戦争が日常化すれば“死”をもなんとも思わない感情が人々の心の内側に芽生えてくると言ったジャーナリストがあった。こうなるともう戦争は止まらなくなってしまうと言うのである。 
 “軍事の抑止力”それははそれが有効に使われた時のみ、人々に”重要な教訓”を与えるのだと言うことをアメリカ政府は忘れないでほしい。
 こんな評論家的、第三者的発言は、現在進行中の戦争で苦しんでいる人々に対して不謹慎かも知れない。
 しかし、本音はこんな戦争は“早く終わらすべき”との心からの発言であると、分かって欲しい。


2004年07月01日(木) 参議院選挙に向けてー理想的な政治家とは?

 過去何年間かの選挙投票率は下がる一方である。一つの理由は、共産主義国家の崩壊と哲学やイデオロギーの崩壊によって人々の心が空洞化してしまった結果によるとと考えるべきだろう。誰が政治をしても結果は同じになる、と見えるからではないだろうか。それが、大きな誤りだと早く気づかなければ歴史は大きく後戻りする可能性さえあることを忘れないでおこう。
 昔、選挙権は一握りの特権階級のみにあったことを忘れてほしくはない。すべての人々に選挙権が保証されるようになるまで、どれほど長い月日と、どれほど多くの人々の犠牲があったのかを今一度記憶を新たにしておく必要があるだろう。必要なら自分達で新しい候補者を立てる事もためらわない自由こそ民主主義の基本なのではなかったか。
 ところで今日話したいのは、そんなことではなくて、どんな政治家が人々のリーダーとしてふさわしいのか考えてみたいと思う。
 政治家として最も大事な資質は直観力に優れていると言うことではないだろうか。(勿論高いインテリジェンスの必要なことは言うまでもない)過去天下を取った信長、秀吉、家康はそれぞれ個性は違っているが、彼らの共通点は直観力のすごさであったように思う。機を見るに敏であったからこそ天下を動かし天下を収めることが出来たのだろうと思う。彼らの歴史を紐解くと、三人とも戦場で並外れた直観力で兵を動かし敵を征服していったエピソードであふれている。
 しかし国のリーダーとしては直観力が優れているだけでは不十分だっただろう。天下を取れなかった信長と天下をとった秀吉の違いは、やはり部下に対する思いやりの差、つまりどこまで部下を心服させられ得たのか?の差にあったように思う。彼には力だけでなく人を心服させる“何か”があったのだろう。それは生得の才ではなく、修行時代に人との交わる仲で努力してつかんだ能力だったのであるまいか。
 一方、天下をとったがすぐ倒された秀吉と、300年の太平の基礎を築いた家康との違いはなんだったのだろうか。それは、やはり先を見通した誤りない、後継者、部下の選択と、周到な計画性の違いだっただろう。秀吉は家康に比べると人間臭さにあふれ、だからこそ人に愛されはしたが、しかしちょっぴり自己本位、自分の事が一番かわいかったのではと考える。自分の魅力で人を支配することは出来ても、自分の死後のことについてまで見通す余裕がなかったのではないだろうか。秀吉のお気に入りの家来石田三成はたいへん有能な人物だったとされているが、秀吉あっての三成で官僚としては有能であったかもしれないが、人の心をつかみ、動かし、機を見て敏なる直観力に欠けていたのではと思える。戦国の世に見る四人の武将から学ぶこと、それは理想的な政治家とは機を見るに敏な直感力に優れ、人の心をつかむ能力(カリスマ性)に優れ、先を冷静に読む洞察力ある人と言うことになるだろう。さらに現代社会では、あふれる正義感に満ちた人と言うことを付け加えておきたい。 単に優秀で、まじめな人間であれば良いということだけではないだろう。それに少しは欠点を見せるのも人に愛されるコツであることを忘れないで欲しい。


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