『 hi da ma ri - ra se n 』


「 シンプルに生き死にしたかった 」


2003年01月31日(金) ありがとう。

きのう。

病院に行ったら受付時間をすぎてしまってて、電気が消えてドアが閉じてた。
今日は患者さんすくなかったんだねセンセイ。
電車に乗ってジェーンマープルでお洋服をひきとってきました。
ふよふよ、ふわふわ、なんだかおかしなあしもとで
いつもは帰ってくる時間に反対方向のがらがらにすいてる電車にのって
くらあい外を見ている。
みんな、みんな、おうちへかえる。

この冬最後のおまもりは
担当さんじゃないひとから手わたされた、
やさしい布。
ちがう店員さんにも、顔をおぼえてもらえたのがうれしかった。
いつもすまし顔しか見たことのなかったひとだったけど
にっこり向けられた笑顔はひとなつこくてやさしかった。

お店の中はもう春で
冬物のなんにも残ってなくて
かろやかないろいろの布と色。

お洋服をもってかえる。
こんどは満員の電車、
ただしく世の中に沿っているような
そんな気がした。
まっくらな外。

道すがら、どこからもぱちんと切り離されたわたしがずうっとがらすの向こうをみていた。

きょう。

今日は眠りのなかにある。
塗りつぶされた予定、
いちども外の空気を吸わなかった。
行かないですませたアルバイト。
気がついたら夕闇、
気がついたら、夜ごはん、
気がついたら、もう、
おやすみなさいって
あなたに言わなくちゃならない。

おやすみなさい。


治療、休養のため
しばらくおやすみします。
たくさん、読んでくれて
どうもありがとうございました。


ありがとう

おやすみなさい



まなほ



2003年01月28日(火) いつの日かみんな

いつの日かおとなになる
かなしみをかぞえるたびに
抱きしめるあなたの手が
わたしの手ではないということ

いつの日かみんなひとつになれるまで
鳥は鳥にひとはひとに、それぞれの歌
風は風に星は星に、それぞれの夢

(谷山浩子「鳥は鳥に」)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


朝方の波のなかでまた眠ってしまって
朦朧としながらごはんだけは食べたような記憶があるんだけれど
そのほかはぜんぶ、曖昧なまま
きちんと気がついたらそとは夕方になっていて
玄関にあかりをともしに行った。

ぱちん。

白熱灯がひとつともる。きいろいあかり。
まあるいあかり、それで照らされて浮かぶ
わたしの靴下のあしもと。朝と夕方しか知らない
今日のわたしの靴下のあしもと。

ひえた洗濯物を取り込もうと外に出たら
富士山の輪郭線がきれいに朱色のそらに映えていた。
めずらしく、晴天の西の空。
夕暮れがそこだけに残っているみたいで
わたしの頭のうえのそらはもう夜に近い。

なんでだか急にかなしくなったけど泣くための涙がでなかったから今日は泣かない。
泣くかわりになにをしたらいいだろうかと考えてみて、途方にくれる。
パソコンを立ち上げて、フォトショップのファイルをひとつ呼び出す。
かぼちゃ色の画面。
やりかけたまま早起きするつもりで昨日は寝てしまったから
作るように頼まれたダイレクトメールの画像はすこし欠けてる。
黒い色を選んで、直線を引くツールを選んで、
一本、二本、線を書き足す。
キーボードから手を離したらその腕のやりばがなくて膝をかかえた。
眠りっぱなしのネムリヒメは一体どうして100年も長いあいだ
眠っていられたんだろ。
わたしもそうなりたい、と思いながら
かちかちとマウスの音を立てている。

家人が帰ってくる。
わたしのともした白熱灯のあかりが誰かを呼び寄せる。
それならいい。
無彩色にこごっていたあたりに色がついて、空気がうごきはじめる。
わたしひとりじゃ、そよとも動いてくれなかった、
沈殿した、「欝」って名前のつけられた
うちいっぱいのかたちをした灰色のかたまりが。


涙は一滴もこぼさないでかわりにたくさん笑ってみたよ
そうしたら少しだけ涙が出た
笑いすぎた時に出るなみだは悲しいときに出る涙と成分が違うそうです。
わたしは、わたしがかなしいのかそれともそうでないのかよくわからなかった。
いつだってそうだったような気がする。
そうして、今でもよくわからない。
できあがったダイレクトメールの原稿の印刷をしてみたら線がぶれていて
プリンタのメンテナンスをがたがたと始めた、わたしの腕は、
きわめてすくない「できること」だけを
今日も、ひとつ、ふたつ、動かしただけの腕で
それに生きている重みを加えたら、あっというまに粉々になりそうな気がした。
泣かないで笑った。

きっとだいじょうぶ。

仕上がったはがきの原稿。
印刷所につき返されるかもしれないけれど、
でも、仕上がった原稿。
重荷がひとつ消えたね、と
じぶんをなぜてあげようか。

わたしをなぜるあのひとの手の不在。


………。


泣くかわりに笑いましょう。
あんまりかなしいことがあって
なみだを見失っちゃったから
かわりに大声で、笑いましょう
そらを見上げて
おおきなこえで、うたって。

朝と夕方しかしらないわたしのからだは
朝になるのをこわがります。
今がずっとおわらないといいのに、
そう我儘なことを思いながら
時間にながされながら
ようよう、徘徊する夜の時間を追い出されてまた、まぶしい、
朝のひかりをあびて、それから、
それから。

その先がわからないから
ただまっくらにひろがる
かなしいさみしい闇だから
わたしのからだは朝になるのをこわがります。
緩慢な午前と落下する夕方、そのどちらとも
わたしを不安と恐怖に駆り立てて手離してくれない、それだから

泣かないで
笑いましょう


………。


泣きなさい、笑いなさい
いつの日か、いつの日にか、
花を咲かそう、よ



まなほ



2003年01月27日(月) 緩慢に死んでゆく

いろいろなことを放り出して
眠っていられるのは、
夢ばかりみているのは
こんなおやすみの日に放置されたものの特権です
が、
それがしあわせというわけではなくて
何をしていいのかわからないから、ただ
眠る、という逃げ場所の中にじぶんを囲い込んでいるだけなので
目がさめたときの自己嫌悪と諦めに似た後悔は途方もなくて
あっさりと、じぶんがこわれるのを感じる。

ただふつうに起き上がって
コップ一杯の水を飲む
と、
叫びだしたいようなめちゃくちゃな嵐が一瞬でおとずれて
いつだってそれとなくぽっかりと空いている空洞に
片足を吸い込まれてしまった、そこからは逃げられない
頭の中でわたしがめちゃめちゃに両腕を振り上げて叫びだす
けど、ほんとうのところは
こえを出す、という力がなくて
床のうえにぺたりと座って
見えるものぜんぶに不審のまなざしをむけてなにより自分を嫌っている。

そとには雨が降っている
弱くなり、つよくなり、
勢いもなく落下する水滴
重さだけでおちてくる水滴
なのに、
肌にあたるとかすかに痛むくらいの
その自由落下の速度

ポストから郵便がぜんぶおちて
水たまりのなかにあった

ぽた、ぽた、ぽた、

濡れてしまった紙はもうもとにもどらない。


ほんのすこし
あと
ほんの少しだけこのからだを自在に操っていける気概というものが
どこからかうまれてきてくれたなら
わたしは
なにかに頼らないで
目の前に山積みになったこのたくさんの課題をひとつ、ひとつ、
自分の手で、取り除けていくことができると思うんだけれど
けれど、、、、、、


雨の日
パン一枚をかじりながら
わたしは自分をきらっていた



まなほ



2003年01月25日(土) 夢水たまり

夢はこころをあらわす鏡です
と、
大学のときについていたある先生は、まじめな顔をして言った。
線のほそい横顔をしていて、いつも黒い服を着ていて
それがよく似合う、美人というのがただしいような先生で
わたしはその先生の、とてもきちんとスクエアな雰囲気を持っているのに
なのに同時にとてもきちんと並外れて「抜けている」ところとか
冗談ともつかない独特の日本語の話し方がとても好きで
二年間つづけて講義を取ってしまったりしてた。
病気病気の毎日だった二年目でも
なんだかふらふらとがんばって、その先生の講義には
朝からよろよろと出かけていったような気がする、思えば、不思議な熱心さで。

その先生ほどゆるぎないように夢を信じるわけじゃないけれども
こんなふうに、真夜中に、
真っ暗闇の中にとつぜん目をさましてしまって
どろどろとしたとても克明な夢の中に
自分をはんぶん置き去りにしてきたみたいな、すっぱりと切りおとされた
半身のような気分で独りぼっちで座っていると
いつもよりも、なおさら
現実、というものの頼りない手触りを信じられなくて
夢、というあっち側の世界に、じわじわと侵食されて
途方にくれたように自分を手放したくなってしまう。

夢。

乗り込まされた列車と
人形みたいな顔をした
ロリータの服に身を包んだありえないくらい完璧な少女の口から
発せられる無理難題と
それに追いまくられて次々とこわれて
「捨てられて」いくたくさんの人たちと。

そのなかのひとりだったわたしと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日のそらはとうめいに青くて
空気がなぜか澄んでいて
それは、きのうに降った雪のせいなのかもしれない。
重たいから、という理由でいつも持ち歩いているカメラを
かばんの中から出したまま電車に乗ったことを何度か悔やみました。
それだけくっきりと鮮明なあおい色と、ひかりと、かたちと、影。
発色のゆたかな色鉛筆をざらざらと並べてながめるときにかすめるみたいな
色を目の前にした時に感じる、なにかに打たれたような感じ。

せかいはこんなにきれいなんだね

ことばにしたらそういう響きになるのかもしれない、あの感じ、
それが何度となく自分のなかをかすめていくのを嗅ぎ取った
すきとおったつめたい、あおいあおい空の一日でした。

よく、読ませてもらっている日記を書いている、あるひとが、
今日の一日を、大切なことを告白する日にするのだと言っていて
そのことを思い出して
そのひとがずっと抱いてきたかも知れない不安やなにかが、
この空みたいにとうめいにきれいに高く高く
澄み切ってのぼっていっていたらいいなんていうことを、思いながら。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


帰り道の途中、
ひとりでいることにすっかり参ってしまった軟弱なこころをやわらげたくて
立ち寄ってみた、ジェーンマープル。
12月も暮れるころに、わたしのような
そう何度も訪れていないお客の名前をきちんとおぼえてくれていて
そうしてセールの案内をもらったけれど
結局、うちのなかで臆病なまんま、とろとろと眠り込んでばかりいたわたしは
何十日ぶりだろう、という感じでそのカウンターと鏡の前に立って
赤葡萄色のしっとりしてやわらかな試着室のカーテンに触れてみたり
たくさんの布の束をを、いちまいいちまい、なぜてみたりしてた。
いろんな手触り。
あなたは、わたしを守ってくれますか。
そんなふうな思いにも似て
そっとそれらの「衣装」に触れる瞬間。
一枚の、やさしく毛羽だったオレンジ色のチェックのジャンパースカートが
わたしにむかってうなずいたから、わたしはそれを着て鏡の前に立ってみる。
ぽってりした靴の先から、ベレー帽をかぶった頭の天辺まで
そのまま抜け出して歩き出していけそうな姿がそこにあったので、
わたしはそれを買いました。
ときに、ひとはお洋服に選ばれます。
少なくとも、あんまりこころぼそくなるわたしには
そういうふうに思えます。

身を包む布から、力をもらいながら、
世界のはじっこに、しがみついているみたいに。

ほんとうに特別なその布は、たった一枚だけどとても力づよく
わたしを守ってくれる、ただひとつの鎧だから。

そんな一日のおしまいに
落ちていった夢のなか。


鉄錆びのにおいとざらついた手触り、そこらじゅうにあふれた瓦礫の中で
わたしは必死にあがいていて、そうして
容赦なく「捨てられた」ひとたちの残骸がごろごろところがっていた。
ぎろり、とこちらを向いて横たわっていた
かつて誰かだったものの首のなかにみひらいていた、しろい目を
わたしはまたこの体に焼き付けてしまった。

真っ暗な闇の中に目をさまして。
あんまりに鮮明な夢のなかから「目をさまして」。

どっちがほんとうなんですか

そう尋ねても答えは返ってこないし
誰の返事も求められないわたしは
ばっさりと半分に切られたみたいに闇の中に座ったまま
夢にひたひたと浸かったままでいる。
背中の方から手を伸ばしてくる触手みたいなやつらがわたしをひきずりこむのは
怖いことがこわいと感じられない、どうしようもなく平坦で
押しつぶされたみたいな感情のない世界で
そんなところにいたくはないと、わたしはここから今すぐ逃げ出したいのだけど
夜はまだ続いていて
ここにはあなたはいなくて
知らない顔をした誰かだけが
すぐそばでスタンバイしている気配がして

わたしは負けたくない

だけど

いまにも転げ落ちていきそうで
身を縮めてたすけてと呼んでいるのも
ほんとう。




まなほ



2003年01月22日(水) きみのいない風景

たとえば
それがほんとうに大切なのならはじめから手離したりしちゃいけないのだと思う。
小さな文字を
浮かんでくるのをすくったり、風に散らばったのを蹴飛ばしたり
そんなことをしているうちに何ヶ月かがたって
順当に、穏やかなうちに、
あなたはいなくなっていくように見えるけど
でも、たぶん、
春の風のなかにあなたっていう影は棲みついていて
そのときがくればわたしの頬を叩きにあらわれるんだろう、

真夜中の電話線を通ってくる知らない声に知らされてしまった。

あなたのいなくなった風景。

夢にみた黄色い砂浜、
片足の足りない黒い靴、
広げられたおおきなマント。

習字の時間にはね散らかした小さな真っ黒な墨の点々は
いくら擦っても石鹸をあわ立てても、もう
消えなかった。
ブラウスにうっすらと残るゆがんだ灰紫の、にじみ。
もう消えない。

そんなふうに、ある一日に、ふいについてしまった「しみ」のことを
わたしはときどき思い出す。
あるいは、つねに、一生、忘れることはないだろう。
365ぶんの1、の小さな思い出。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


いろいろなひとがわたしに電話をかけてくる。
話したいことをたくさん持って
意気込んだふうにわたしに電話をかけてくる。
わたしはそれにうなずきかえし
電話のむこうの声の主が、満足してみちたりて、サヨナラの合図を出すのを
声をききながら待っている。電話というのはたぶんそういうものなのだろう。
話したいことを沢山もったひとが手をかける物体。
誰かとコンタクトをとりたいと手をかける物体。
その先にいるわたしはたぶん
話したいことをなにも持っていないわたしなのだ。

うなずきかえし
無限にほほえんで
乾いた砂みたいに
だれかの話し声を吸いこんでいく。
そういうわけじゃない。
注がれてくるその水滴を吸い込まれたか弾きかえしたのかはわからない、
それもただどちらでも構わないのだろうと思う。
声の主にとっては
からっぽのわたしがここにいることと
自分が抱えているたくさんのことを
浴びるように吐き出すことが
たぶん
いちばんの問題なのだと思うから。


ただ、喉がとても渇いていることに気がついた。
受話器を置きながら
しん
とした明るい闇の中にひとりで戻っていきながら。


どこまでもかきみだされない夢のなかにわたしがいるような
歪んだ想像でもしてくれる誰かがいるっていうのなら。


電話。
適当に孤独で、適当に満ちたりたひとたちのために
存在しているしろもの。




まなほ



2003年01月21日(火) 芝生

生まれてこの方、病気というものをやってきて
それがあまり病気だと意識せずにいられる時間もあったけど
その存在を無視できなくなって、考えてみたら
もう十年近くたっているんだな、ということに
高校のときのともだちからもらった年賀状で、ぼんやり気がついた。

遅いかもしれない、
けど
時間なんて
気がつかないうちにこうやって
しずかにしずかに
降り積もっていくものなんだね。

我が家のとなりにある母校。
今日も、自転車で登校してくる高校生のにぎやかな声が
この時間帯にはたくさんたくさん聞こえてくる。
明るい声、自転車のブレーキのきしむ音、おはようを告げる挨拶、
いちにちのはじまり。
とてもまぶしい、
朝にふさわしい、
いちにちのはじまり。

わたしはひとり、
薄暗い台所で、お茶を入れて
ゆっくりと飲み干しながら
ささやかに、わたしの今日の日をはじめる。

あのきらきらひかるみたいなあかるさとはとても隔てられた場所に来てしまったけど
そのことを嘆くことはしたくない、と、思う。
あのころ、わたしはやっぱり病気と片手をつなぎながら歩いていたし、
それでも色々なことをやってのけたし、
そうして振り絞ってきた力の在庫がなくなったみたいに急に
十年後になって、ぱたり、と糸の切れた人形みたく倒れていて
自分の思うとおりに体が動かせなくなった、今。

嘆くことはしたくないと思う。
ぼろぼろでも
ともだちに囲まれて笑っていた「じぶん」を
羨ましいなんて勘違いしたくないと思う。
あのころのわたしには今よりパワーがあったかもしれなくて
少なくとも、
大好きなお芝居に集中できる力や、走り回れる手足や、
なにかを欲しいと思う気持ちをきちんと持っていて、自分がここにいると感じていて
醜形恐怖みたいな無残に惨めな気持ちや「欝」なんていうものとは切り離されて
健康にちかい世界で笑っていたかもしれない、
だけど。

嘆きたくない。
今の自分のくるしさが
史上最大のものだなんて
そんなふうに勘違いしたくない。
あのころのわたしにはあって、
そうして今のわたしにはない、「くるしさ」。
大事な友達と、生木を裂くみたいに別れるしかなかったこと、
かたくなな自分だったあまりにいろんなひとに突っかかっては傷ついたこと、
ぼろぼろの肌をして同情のまなざしで見つめられていたこと、
受験という厄介なものに立ち向かうことができなかったこと、
家の中でうまく立ち回ることができなくて、針の筵に座っているみたいだったこと、
そういった全部のことを、自分の力ではどうしようもできなかったこと、
そうして
何もかもに本当は自信なんてなくて
自分なんてどうして生きていなくちゃいけないのか
さっぱりわからなかったこと。

そのなかのいくつかはもう記憶の中にしかなくて
今のわたしとは無縁に近いものに変わってくれたし
また別のものは時間をこえて今に続いているし
あたらしく加わったたくさんのリアルなくるしさや
片付けられないこの両手にあまるような
たくさんの厄介な病、うまく廻らなくなった現実。

だけど

となりの芝生はいつも目がさめるくらいに真っ青なんだ

それだから

わたしは、じぶんの病気をうらみたくない。
悩まされるあれやこれやを
病気のせいにしたくなくて
だけど病気のからだからは逃げられなくて

弱音を吐くときもある
泣き言も、いっぱい、言う
眉毛も髪の毛も抜け落ちちゃうのは恐怖だし、いやだし、
痛いのもくるしいのも、炎症を起こして発熱するからだも
つらいし、その症状はきらい。好きなところなんてありもしない、

だけど

わたしはわたしを嘆きたくない
よのなかに点在するたくさんたくさんの「つらさ」のなかで
自分の抱えるものがどれだけ重いとかどれだけ酷いとか
そういうことは何にも考えたくないのです。
ばかみたいかも、しれなくても、
いつだって、青々として見える隣の芝生、
それをうらやむことは、
したくないのです。

わたしのつらさはわたしだけのもので、ほかのひととくらべることはできないと

あなたのつらさはあなただけのもので、わたしとくらべることはできないと


うまく言えないけど
こころのなかに叩き込んで
せめてそれを忘れないように
言い聞かせていたい。

降ってくる痛みや現実にはちっともついていけなくて
逃げ出したくて目眩がしてくる、あっけなく混乱する
それだけど

どこかにかならずくるしさを抱えているあなたのことを
ひきくらべてうらやんで、よけいにおいつめたりすることは
したくないと


ただ、わたしは、かんがえるのです。




まなほ



2003年01月19日(日) 方位磁針

からだのなかに
いつもぐらつかない羅針盤があったらいいのに、
と、思う。
いつだって、ノース・ポールとサウス・ポールをまっすぐに指して
一直線に貫かれている、
ゆらがない方位磁石。
こころがよわくなっても
からだがこわれても
ただ
あなたという一点を指向しつづけることを迷わなくていいように
どっちへ行ったらいいのか、
何をしたらいいのか、
皆目見当がつかない灰色の薄闇みたいななかに紛れ込んでしまっても
(あきれるほどそれはたやすいことだから)
その手ごたえのなさに弱りきってしまわないように。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


花畑のなかにいる夢をみた。
それは、早すぎるいちめんに黄色い菜の花の畑で、
わたしはそのなかに分け入って
黄色の小さな花びらと花粉とにまみれて
まぶしいくらいに黄色いからだになってしまったのだった。
それから鋏を手にして一本一本、左手にたばねていった
ささやかな花束。
細いさみどりいろの茎の先で枝分かれした小さな小さな星屑みたいな白い花、
韮の花。それに青緑のフェンスの向こうで花開いたちいさなやわらかく白い水仙。
手が届かない花、
季節をこえて立ち会ってくれた花。
それをあなたにあげたかった。
ぜんぶあなたにあげたかった。

どこまでも
やさしくてつよくて
まぶしくて
あたたかくて
野生の花

夢の中でわたしはサトくんにあげるための花を左手ににぎりしめて
黄色い菜の花畑の中に立っていた。
そらはあおくて、ぼんやりと晴れていて
だれも寒い思いをしないような春のお日さまが
ざぶざぶとどこにでもあふれかえっていた。

日陰のない夢のなかで。


目をさませばそこは見知ったベッドの中で
白っぽい天井はうすみどりの遮光カーテンをとおしてくるかすかな光で
やんわりと明るくなっていて
わたしは
ぐらついている心のありかにすぐに気づいて
また、夢のなかへ入ってしまいたくなった。

外は雨で
指先はつめたい。



まなほ



2003年01月17日(金) あんまりそれがきれいなのでぼくのからだはこわれてゆく

じぶんを叩きつづける腕を
こわれもののように思う。
ほんとうは、それはさかさまのことなのに。

ここのところ、三日
わたしはうちのなかに閉じこもって
ぼんやりとしている。
空は、白かったり、あおかったり、ぺかぺかとひかったり、
それに薄くれないの色に染まりそうで染まりきらなかったり
いろいろと顔を変えているのだけれども

わたしはなんにも変わらない。

さびしい、という言葉を
くりかえし反芻して
手の中でなでてみる
まあるい
まあるい
なめらかに取っ掛かりのないその気持ちは、ほんとうに
とてもしずかだ。
あんまりにもきれいにそれがそこにあるから
わたしは
このままでいいのではないかと思ってしまう、
けれども


みのらずに終わった恋は重さもかたちもなく
みのらずに終わった恋は思い出の影さえなく
あんまりそれがきれいなのでぼくのからだはこわれてゆく
あんまりそれがきれいなので誰にもことばはつうじない

(谷山浩子「冷たい水の中をきみと歩いていく」)


わたしは誰の中にあってもひとりだということを
間違っていても信じてしまった。
届かない手紙はわたしをやすらかにし
鳴らない電話はわたしをひららかに保ちつづける。
わたしだけに通ずる、だれにも通じないことばで話したら
みんなひっそりと、それと気がつかないように
わたしを置いて、外へ外へと歩いていくような気がする。


ひとりぼっちの、朝に、昼に、夜に、
黙々とたべものを齧りながら
自分を傷つけた腕をながめたり
はだしのつめたい指先をながめたりする。

どこまでも
森閑として奥のふかい、
沈黙

それは、わたしのおまもりだ。


落下する夕方
ひとりでふらふらと歩いていたら
大きな病院の前で、植え込みの沈丁花のつぼみがふくらみかけているのをみた。
わたしがようやく、からだのなかの時計を冬に進めようとしている今になって
時間は、たしかに春にカレンダーをめくりかえようとしているらしくて
こうして、わたしは
また、
時間、
というどうしようもなく果てしがなくて大きくてやさしく厳しいものに
乗りおくれてしまうのだろうかと漠然とおもった。


冬の日の夕暮れ。

あまりに晴れすぎた空は夕焼けを知らないままに
薄青くとうめいな夜の色に、その場所を譲り渡していく。




まなほ



2003年01月13日(月) oneself

イチニチノナカデ。

わたしの体の中心には
一本の柱が立っている。
それは、積木でできていて
綿ブロードみたいな布で包まれている
中身の見えない、153センチの
一本の柱。

一日の中の儀式みたいに、その柱をくずし、またたてなおし、またくずし、
そのたびに、不安にからだを切り刻んだり、きっと生きていけると思ったり
世界はあんまりきびしすぎると駄々っ子のように考えたり
じぶんの裸体をまるごと投げ出したりする。

長い髪。
いいえ、
それほど長くない髪。
少しずつ、少しずつ、のびつづけて
背中に腕をまわすと手のひらでしっかり掴むことのできる黒髪のひと束。
それほどまでにはわたしは生きてきました。
サトくんがいなくなってからも、わたしは生きてきました。
あなたの髪の毛はもう伸びない、
あのまっしろで美しいきれいな骨のなかにまぎれて
今も
せめて、冷たい風とは無縁のしずかな場所に居るのだと信じたい。

ちいさな日常の
これといって事件もない
しずかな自分との闘いのじかん。
ルーティーンになってゆく、わたしの日常。
今日のそらは雲ひとつなく
夕方の焼け野原みたいな空にまで
うっすらと銅の色ののこる西の空にまで
雲の片鱗も見えなかった。

そしてルーティーン。
昼間が夜にチェンジする
夜が昼間にチェンジする
曖昧な境界線のなかで
わたしがこわれて、またうまれかわる。
痛みもなしに
ただ、
ただ、
からだの細胞がひとつひとつつながりを解いて散乱してゆくような
そんなやわらかな恐怖と不安につながっている
曖昧な時間帯に。

いちにちのさいご、その一歩手前
それと知らないうちに出来上がった日課。
お風呂あがりにわたしのなかの積木の柱ががらがらと音も立てずに崩れ落ちて
それがあんまり急激で抑えきれないことなので
わたしは守りの姿勢をとる、どうしてもそうせずに居られないからそうします。
裸体のままで床にうずくまって、なめらかで丸い膝をぎゅうぎゅうと抱く。
抱いている腕は傷跡だらけ、自分で付けた切り傷の痕が放置されて
肌の中に白い引きつれ、を
いくつか、いくつも、浮き立たせている。

わたしの腕。
わたしの足。
わたしの体。

ぎゅうぎゅうと抱きしめて卵のかたちに自分をあてはめていく、はめこんでいく。
そうしたら、何かが終わらないですむかもしれない、そう信じているみたいに。

ほんとうは信じられるものなんて
なにひとつないのかも、知れないけど
わたしは今日も
お風呂上りに、緊張を失ってやわらかくしなって
そうしてガラガラと崩れていく自分のなかの積木の柱を
こうして腕と膝と背中で作る、骨ばった球体のなかに納めこんで
コントロールを見失う瞬間をおそれている。
だいじょうぶだいじょうぶとくりかえしながら
わたしは。

浮き出ている骨を指で辿りながら、その数をかぞえる。
ひとつ、ふたつ、ひとつ。
肋骨がむっつ、
背骨がじゅうさん、
皮膚に覆われた上から指先でたどれる突起は
今日はそれだけの数があった。
わたしがわたしとしてここに居ることの
わずかな確認、心の不穏な因子への、ちいさな抵抗。

この脂肪も筋肉もぜんぶを剥ぎ取ったなかみが、まっさらにしろい骸骨であることを、しんじて。

抱きしめた両腕に、つむった両目をひらいたら
目の前に乾きかけた皮膚が、まっすぐに膝を抱いていた。
強く力をこめた関節は白くて、
そうして肌は、水を吐き出して
がさついていく。

ねえ、わたしの腕には、鱗がはえているのよ。


1月、中旬。
わたしは、もういちど踊りたいのかもしれない。
肉体をすみずみまでも統御しているというあの
めちゃくちゃに忘れかけている感覚を、からだに叩き込むために。
自分を傷つけるトゥシューズを、この足につけて
ありえない身体の姿勢をたもちつづけて
不安定に明滅するひかりを、
すこしでもいい、
じぶんの中に打ち立てていくために。

身体の記憶をたどり
からだに刻み込んだ、ドゥミ・プリエをくりかえしながら
おとろえた筋肉は、もう、このずいぶんと痩せたからだも支えはできないのだけど
ただ
これ以上ないくらいに緊張した筋肉と
それが解放されて緩んだ瞬間に伝わってくるにぶい痛みが
筋肉のあげるささやかな悲鳴が
わたしがここにいることを
伝えてくれたような、気がして。


もういちど
もういちど


わたしは踊りたいのかもしれない。
スポットライトをあびるためじゃなく
毎夜毎夜
お風呂からあがるたびに崩れ落ちていくじぶんのなかの自分という名前の
おろかに崩れ易いアンバランスな積木の柱を
ただ、ひとすじの
細く(だけどたしかにきれることのない)
一本の糸で、そらから
まっすぐにそらから吊られて

わたしを、とりもどすために。



まなほ



2003年01月10日(金) 留守番、月とキャベツ

昼間に眠っていたら電話がかかってきて、わたしはいないかと聞かれた。
寝ぼけた頭のまま、寝込んでいます、とこたえたので電話が切れた。
冬。
世界から消えるのはすこしだけかんたんだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


向き合わないといけない現実が降ってきました。
季節を忘れたみたいなわたしにはなにもかもが
降ってわいた事件のように思えて
それが、自分がいつか決断したことだったとしても
その予定をどうして決めたのか
どうしてそこに行くとわたしは自分が決めたのか
思い出すことが出来ません。

桜が咲いたら
東京のかたすみで
小さな展示会
することになっています

そのための現実をわたしは生きているはずだけど
だけど同時に夢ばかりみていて進まないわたしのなかの時計。
今じゃない季節ばかりをいつも刻むので
つい、夏の映画ばかりを借りてきて見てしまったり
この寒いのに袖なしのお洋服に憧れてみたり
おかしな具合のことの多い、わたしのなかみ。

電話の向こう側にはあなたがいないので、わたしはあなたに電話をしません。
あなたはとても忙しいので、わたしに手紙を書きません。
届かないものを待っています。
なぜか、よくわからないけど。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


映画、「月とキャベツ」をもう一度みました。
ひとりで。

まるくなっていく月は何も考えていないけど
この間わたしは細い細い三日月のあかりに照らされた
まあるい月の陰をみたので、それは黒い満月。
映画の真似をしてお鍋の中でまるごと煮てしまったキャベツを四つに切って
その場にそぐわない陽気さを反芻しながらかじりつきました。
向かい合って切り分けられていった
むしゃむしゃと咀嚼されていった楽しげな夏の昼ごはん。
わたしの目の前には、だれも、
座ってなんていなかったけど。

映画、という空気を真向かいに座らせてわたしはキャベツをかじります。
やわらかく煮えたキャベツはほんのりあまくて歯ごたえなくて
するすると胃袋のなかに、つぎつぎ消えていきました。

それがまた、明日のわたしにつながるように。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


真夜中すぎて、
消し忘れられた洗面所のあかりに気がついて
その鏡に近寄ると
そこには
少女、とも、女、とも、人間、とも
どれともカテゴリーできない病身を顔にのせた「わたし」が
写っていました。

鱗みたいな皮膚は、おかしな角度に輪郭線をゆがめさせて
ふくれあがった頬とか、角張ってしまった額とか
閉じられも開かれもできないまぶたが、分厚く視界をさえぎっていて
うれしくもかなしくもつらくもないのに
なみだばかりが出ます。

醜い顔なら捨ててしまいたいと思うときもありましたが
これがわたしの顔であるのでわたしはわたしを捨てられない。
お幸せですね、と、夕刻、伯母がわたしに書き送ってきました。
それはたぶん、誰かが、わたしをすきなひとがいると言ったからです。
すきなものは色々あります
猫とか、ちいさなガラスとか、歌声とか、長い髪の毛とか。
だけど、誰かひとをすき、なんて大それたことは、
わたしにはとても出来そうにありません。

でも、そのひとはわたしをすきと言うし
わたしはそのひとなしでは生きていけそうにないので
たぶん、こうして生きていくのです。

真っ暗な窓のむこうを見ながら考えました。
ひとりぼっちの
職のない
病気はあり
ついでにこころも病んでみた
25歳の「子ども」とは
世間様からみれば、おしあわせ、なのかどうか、を。

答えは、よくわかりません。

ただ、
ふしあわせでないことだけは
たしかか、と。


向かい合ってキャベツを噛み砕くふたりの姿をテレビ画面のなかにみながら。

山崎まさよし、という歌い手のことについてわたしは何も知らないけれど
オレンジ色のシャツでキャベツ畑に水をまく、どこまでも野暮ったい姿は
悪くない、と思いました。




まなほ



2003年01月07日(火) sing a song

小さく泣いた
大きな空が泣いていた
芽吹いたゴーヤ、遠い潮に祈りながら海を知らない雨
食べた

天までのびてたくさんの実をつけたなら
島に届くね
だけどここは寒いと言って夢を見ながらほんのすこしだけ
泣いた


(こっこ 小さな雨の日のクワームィ)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日も、世界はとても綺麗です。
そうして、夕刻にさしかかり、
ふいに
いろんなものが空から落ちてきてわたしを塗りつぶそうとするみたいな気がして
苦しくなる
こわくなる
投げ出せない不安を抱えて走り出したくなる
わめきだしそうな自分を必死に抑える
痛いわけじゃない、どこも痛くない
ただ
今にも爆発するか、それともはてしなく収縮してつぶれてしまいそうな自分があって
それからごちゃまぜの過去となんにもない未来がある。
まっしろすぎる暗闇に目眩がした。

歩道橋のうえで日が暮れていくのをずっと見ていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


あなたはとんでもなく安らぎのひとだった
ひとりで歩くこともままならない細い足
大きなひとみをふちどる長いまつげ

ひこうきぐもを追いかけるわたしとそれを見守るあなたがいた冬は
so far away, so far, far away

きれいなお人形も欲しかったおもちゃもあなたは持ってたのに
包み紙そのままで

もうすぐその手を飛び立つこと知ってた?

ひこうきぐもを追い越してあなたは
誰より高く飛んでゆけるはずよ
so far away, so far, far away......


(こっこ ひこうきぐも)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


だんだん暗くなっていく空は、薄くとうめいに青くて
風はつめたくて、
ひとつひとつ、点いていく国道のオレンジ色の明かりも明るいけど
ちっとも頼りなくて、わたしの拠り所にはなるわけじゃなくて
頭の上の空を西に向かってつぎつぎ飛んでいくからすの風切り羽が
くっきりと空に映えてきれいだった。
黒い影でまっすぐに飛んでいったたくさんの鳥の陰。
その下にわたしがいて
なんにもできなくて
不安で不安で不安で不安で
道行く人がみんなエイリアンに見える。
ことばがつうじない、
わたしだけつうじない、わたしがエイリアン。
おかしいのがわたしなんだ。
だんだん、そんなめちゃくちゃの思考の迷路ができあがって
そこから抜け出せなくなっていく。

わたし。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ブーゲンビリア、蔦を絡ませ
折り重ねては時を敷き詰め
刺さる刺に気づくと
木陰からこぼれるあの太陽が見えない腕で明日をせかした

歩くためになくしたものを拾いあつめて手首に刻み込んでも

明るくなってゆく空をふたりは憎んでいたけど
いつの日か幼い愛は抜け殻を残して飛び立つことを知っていた

窓叩く季節をもう何度かぞえたのだろう
手をのばせば届きそうなほど残酷に赤く

置き去りにして来た記憶も、張れあがる傷痕たちも
やわらかなあなたの温度を狂おしく愛していたから

明るくなってく空を独りで憎んでみたけど
いつの日か幼い愛は抜け殻を残して飛び立つときを
待っていた


(こっこ やわらかな傷痕)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


歩道橋は風が吹くたびに頼りなくふらふらとゆれます
誰かが歩いていくだけで上下に弾むみたいに
足元からふわりふわりと、ぐらぐらと、足元の丈夫な灰色のコンクリートが揺れます
その上にわたしが立っていて、いつまでも立っていて
不審顔で通り過ぎるひとたちのところから、わたしはふっと遠ざかって
気がついたら頭の中にうたがありました。
それだから口をついで出るままにうたいました。
押しつぶされてしまわないように
どんどん、行き詰まっては煮詰まっていく
自分を生きているんだけど生きていないみたいな中途半端な死と
それから容赦なく落ちてくるたくさんの恐怖と怯えと、不安の切片を
走っていく思考を食い止めるために
気がついたら、頭に浮かぶまんまに、次から次へと
小さい声だったけど
でも
わたしは歌っていました。

歌える声がわたしにもまだあるんだよ。

東京都の、高輪台という住宅地のすみっこで
アスファルトにじかに座り込んで
ココアの缶のあたたかさを両手で包み込みながら
わたしはひとりで
うたっていました。

 からす、なぜなくの?
 からすは山に
 かわいい七つの子があるからよ
 かわいい かわいいとからすはなくの
 かわいい かわいいとなくんだね
 山の古巣へ見に行ってごらん
 かわいい目をした
 いい子だよ


音楽がなければこの世は闇夜とうたったモーツァルトという
うらぶれて死んでいった昔のさびしい独りの人には及ばないだろうけど
だけど、今日の日に、最後の最後でわたしを助けてくれたのは
無心で歌われるいくつものいくつもの歌だったと
はっきりとわたしは、言い切ることができます。


......No Music, No Life.



まなほ



2003年01月06日(月) おやすみのおわり

去年、一枚か二枚しか書かないうちに力尽きたせいで
(そう思うと一年前からわたしはけっこう「欝」に足をつっこんでいたのかも知れない)
今年の年賀状はずいぶん数少なくなったけれども、それでも
幾枚かが毎日ぱらぱらと届く。
返事を書かずにサトくんの喪中にしてしまった
わたしはかなりずるいやつだと思う。
せめて寒中見舞いでいいから自分で作ったポストカードを使って
だれかに手紙を書く、ということを
キーボード以外できちんとしてみたいと思った。

病気と向き合うことをはじめた去年の365日はなんだかヘンテコだった。
はじめて自分を病人と認めたわけだけど、そうしたら今ではほんとうに病人です。
ずばりと正直なところを突けばわたしはもう体じゃなくて心がびょうき。
傷つけた痕が湿疹になりかわっていくのを見ながらそう思う。
アトピー体質というこの自分を利用して病人に傾いていたんじゃないかと。

いつまでも日がないちんち眠りながら夢ばかりみていて
この日記をどうやって書いていたのかとかいうことがだんだんわからなくなってきた。

どうしてわたしは今ここにこうしてこうしているのだろう。



まなほ



2003年01月04日(土) 花火花

近づいてきた夏のおしまいを

ぼくがしらないわけではなかった

いつまでも続かないなつやすみ、きみがわらうしずかに

やわらかな靴のあしあと


流れていった水の底から

這い登ってきたいくつものあぶく

そのひとつになりかわってきみが息を吹き込んだ

ぼく という名前のうつろいやすさ


白い裾をひるがえして

去ってゆくように 近づいてくるように

そのどちらもが青い空のなかに吸い込まれて消える

たおやかな腕に囲まれて

まるい月をみていた、塀の上のちいさなバランス


ハナビ ヒバナ ハナビ ヒバナ


ぼくの育てたきゃべつの翼が

鳥のはばたきをその耳に移したなら

いつかきみがその腕で空を飛ぶことも

きっと叶う


ハナビ ヒバナ ハナビ ヒバナ




映画「月とキャベツ」より

まなほ



2003年01月02日(木) 「ターン」

見たかった映画をビデオテープで再生するときのしずかなきもち。
「ターン」、
牧瀬里穂主演の映画、
とてもとても髪の短い主人公の女の子、27歳。
ある夏の日、交通事故にあった瞬間、前日の同じ時間に目をさます。
そして同じ一日の同じ時間を何度もはてしなく繰りかえしていく
お伽話のような夢のような
終わらない夏の毎日の物語。

まっしろなテープだった。

終わらない夏の日。

この映像がわたしの抱いているイメージときちんとだぶるのは
終わらない、ということ。くりかえされる、ということ。
小さいころから不思議でした
夏の暑いあつい盛りに真っ青な空を見上げて、井戸水をはね散らかして
あおあおとした庭を見て、
寒さ、というものがどこにもないことを体中でかんじて
冬というものの存在を疑っていました。
冬の、凛とした冷たさ、寒いという感覚、
それがどんなものだったのか、夏が来るたびにわたしはきれいに忘れていて
夏だけを生きていたから。

冬は冬で、また、あたたかさというものの存在を不思議に思いました。
お日様が照っているのがあたたかくてきもちがいい、そうして冷たい日陰、
吹いてくる風は冷たいものであって、涼しさを運んでくるわけじゃないこと。
太陽に照らされてじりじりと焦げ付くように思ったり
汗で髪の毛を肌にはりつけながら歩かなきゃいけないこと
そういうことをすっかり忘れ去って、冬だけのなかに呼吸していて
日溜りが暑いなんて信じられなかった。
風が冷たいなんて、信じられなかった。

理想的な毎日でした。
終わらない
年をとらない
明日がこない
くりかえす毎日の中には
今の臆病なわたしが欲しがっている「無茶な言い分」がぜんぶ揃っていて
だけれど
そこには
自分以外の他の誰もいなかった。

誰も通らない道
ひらかれたままのノート、小学校の校庭
食べかけの料理の乗ったお皿の並んだ、レストラン
読みかけの本が散乱しているだたっぴろい図書館

「ターン」

映画の中で。
孤独な主人公のもとに到来したのは一本の電話線という命綱、文字通りの
ぎりぎりに磨り減った神経をかろうじて繋ぎとめてくれる
電話線だったけど。

孤独で
そんなふうに
ほんとうの意味でひとりぼっちであったら
わたしはまず最初に何を求めるのだろう


その世界はつくりごとのお伽話でわたしはそこには行けない。
ただ


終わらない夏、終わらない冬、ひたすら続いていく「今日の日」

たぶん、それが、
弱音ばかり吐いているわたしの
逃げたくてしかたないわたしの
明日がおそろしくて仕方ないという、不安で臆病なきもちを
すべらかに変えて安心を運んできてくれる
残酷だけど、とても甘い、
欠けるところのない完璧な
夢でした。


たとえそのさびしさに血を吐くような叫びをあげることになったとしても。


わたしの夢は
終わらない夏の日
続いていく今日と
やってこない明日

それを望んでいる自分がいることをわたしは知っているつもりです。



まなほ



2003年01月01日(水) memorial

いちねん。

それはとてもとても長い時間で
だけど瞬きするあいだに過ぎてしまったような気もする
おかしな時間のひとつのかたまりでした。

365日前のきのう、
わたしには
この日記がなくて
ことばがなくて
ホームページがなくて
大好きなお洋服なんて持っていなくて
色鉛筆を持っていて
サトくんがいた。

サトくんがいた。

365日前のきのう、
わたしは、たいせつなものをなくしていなかった。
たいせつなものをみつけていなかった。
人を、憎んでいなかった。
自分を、傷つけることをやめていなかった。
病院に通う勇気が出せなくて
南の島の、やわらかくて軽い風のことを、しらなかった。

どちらがしあわせだったのかどうか
いまが昨日よりしんどいのか、あしたが明るいほうに向かっているのか
わたしにはわからない。なんにもわからない。
ただ息を吸って吐いて、食べものを噛み砕いて眠りに落ちては目覚めるだけ。
それら一連のささやかな事柄をしつづけることがどれだけ大切でむずかしいのか
たぶんわたしはあまりよく知らなかったし、今だって
きちんと知っているとは言いがたいと思う。

立ち止まって考える。

先へ進むのがこわい、あとへ戻ることはできない、
この体から逃げることはできない、サトくんが行ってしまっても
わたしは、生きていけなくちゃいけない、それだけが指針だった
そんなときも幾らかあって

たぶん

新しい365日を迎えるとしてもわたしは取り立てて新しいものにはならず
降ってくるらしい雪を窓辺で待ち続けるちいさな子どもみたいであるだろう
25歳なんて途方もない年齢になってしまった自分に困り果てていて
もっと小さくなりたいと、ばかばかしい望みを痛切に心のどこかに埋め込んでいるだろう。

たぶん。

きょうのひは
とくべつな一日ではなく
ありふれた365分の1の貴い時間のなかのひとつだろう。
今日でもなくて明日でもない、今年と去年の境目があるとしたら、わたしは
その中で息をひそめていたかった。午前0時の前にある真夜中の13時あたりで。
わたしは、そんなわたしを捨てられない。
なにもかも一新することはできなくて
臆病さをかかえたまんま、おそるおそる
あしたに向かって時間に背中を押されてあるいていく。
そっちが明るいのかどうか、わたしにはわからない。
病気と手を繋いで年を越えることはしたくなかったけど
でも、わたしは、病気と手を繋いで歩いていく。

この日記を書くのもこれで最後かしれない、
年の終わりであって、年のはじめである今日の一日
時間を超えて生きのびていく
わたし
というひとつの個。
登録する日付を迷いながら、いちねんのはじめを
ひっそりとはじめようとしている、わたし。
それがわたし。
そう言い聞かせながら次のひとあしを
進め
なければならない。

さあ

ほら


次にやってくる365日が
あなたにとって、しあわせな時間でありますように


おめでとう

おめでとう




まなほ


 < キノウ  もくじ  あさって >


真火 [MAIL]

My追加