みちる草紙

2003年11月02日(日) 人体の不思議展

現在、有楽町にある東京国際フォーラムで“人体の不思議展”を開催中である。

切り刻んで樹脂で固めたホンモノのご遺体が晒しものになっている、あれ。
電車の中で時々広告を見かけていたので、そのうち行こうとは思っていた。
しかしどうせなら、上野でやっているレンブラント派展(割引券をタクシーの中で
もぎり取ってきた)にも、終わってしまわないうちに行っちゃいたいのよねぇ。
ただ、難点は、いずれも会場が家から遠いことなのである。
そしてまた、休日とは仕事で酷使された身体を労わるためにあるものとばかり
日がなゴロゴロ寝転んで引きこもりを決め込むのが常のアタシに
こたつという名の誘惑を振り切って身支度を整え、エイと出かけるまでの決意が
できるかどうかなのだった。
(観に行くことを切望しながら、それでお流れになった催しが幾つあったことか)

結局今回は、昨日省吾ぱぱのライヴで行ってきたばかりの国際フォーラムを取った。
あわよくば、買いそびれた省吾グッズをついでに買い付けてこようという魂胆もあり(~_~;)
会場は会社から5分ほどの場所にある。通勤定期がそのまま使えて非常に有難い。
国際フォーラムに着き、入場券を買おうとしてヒョイと出口から中を覗くと
結構混んでいる様子。あらら、みんな意外と平気なのね、こういうの。
6年ほど前になるが、はるばる横浜まで、やはりこれを観に行ったことがある。
『本物の臓器が手に取って見られる』とか、新聞に紹介文が載っていたので
あの時もわくわくしながら、悪趣味な友人と連れ立って出かけたのであった。

さて順路を進んで行くと、いるいる、じゃない、あるある。
矢をつがえた男や幅跳びする女。皆、赤剥けどころか全身真っ赤な筋肉丸出し。
昔、理科の教科書に載っていた、帯状の赤い筋肉に覆われた人体図そのものである。
かと思えば、縦にまっぷたつに割られ、断面を下にして置かれた老人の頭部の左半分。
五等分くらいに厚くスライスされた中年女性の頭部。これら顔の表面は皮膚が剥がれず
そのままなので、産毛や睫毛、開いた毛穴、無数のしみや小皺など、どんなに精巧でも
作り物では先ずこうはいかないという特徴、そのいちいちがいかにも生々しい。
以前横浜で観たのは西洋人の人体標本だったが、今回はどう見ても東洋人ばかり。
馴染み深い扁平な容貌の数々、それがまた異様にリアル… って本物だってば。
胎児の標本が、3ヶ月から10ヶ月までの月齢ごとに陳列されているケースには
女性客がびっしり取りつき、神妙な面持ちで赤子の遺体を凝視していた。
「3ヶ月でもうこんなに手足が出来てるんだね…」
「5ヶ月で堕ろしたら、確かにこれはもう立派な殺人だよね」
見ている誰もが、同じことを考えていたに違いない。

各様のポーズをとって林立する、肋骨の間から内蔵をそっくり露出させた全身標本。
手首・足などの部位、あらゆる臓器器官、神経、網目のような血管も、高度な技術で
カチカチに固められ抜き取られて、見事にその形を保ち展示されているのである。
“見えないから見たくなる”…そりゃそうだが、本当にいいのかこんなことして。
特に、頭や胸部がかち割れて脳や蔵腑を飛び出させ、切断された筋や肉を房のように
垂れ下がらせながら、ランランと義眼をはめ込み実に生き生きした表情を持つ死者の顔。
それらをつくづくと眺め、ずっと思い続けていたこと…
『この無惨にえぐられまくった遺体は、かつてはちゃんと生きて生活していたのだ。
姓名も持ち、友人も、伴侶も、子や孫もいたろうし、観光名所なんかも訪れたろうし、
泣いたり笑い合ったり、それぞれの長い人生の営みがあった筈なのだ。
だけどその締めくくりが、死んでのちとは言え、あまりに変わり果てたこの姿なのか…』

遺体は全て、生前からの意志による献体であるという。
皆、こんな風にされちゃうこともあり得るって、予め覚悟はしていた。…んだろう。
いつだったかアタシの父が、死んだら献体したいと呟いていたことがあったから
一度これを見せてやって、思いとどまらせなければな(-_-;)
鉄郎だって、母さんが剥製になってるの見て大泣きしてたわよ。
カタログには、バイオサイエンス界の権威が序文を寄せており、うちの会社の
株主の某先生もしっかり寄稿していた。医学の発展に尽力するこの偉い方々は
ご自分が死んだら、やっぱり崇高なる御遺志により献体なさるんだろうか。

出口のところで、Tシャツやステイショナリー等の人体グッズが販売されていたが
さすがに購買欲をそそるものではなかった。大腿骨や心臓がモチーフじゃなぁ。
省吾グッズはまんまと買い損ねたので、後日通販で入手しようと思う。


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